第一話
魔界の辺境も辺境、誰も住んでいない僻地のダンジョンに魔王の訃報が届いたのは、ちょうど彼の死から一か月後のことだった。知らせを持ってきたのは、俺の唯一の部下シアンだった。
彼女は澄んだ湖水のような髪を逆立てて、机に拳を叩きつけた。
「聞いてるのジャック! 魔王が死んだのよ、魔王が! あの魔王が死んだって! 勇者に負けたって!」
死んだのか。殺しても死なないと思っていたけど、当然という気もする。
魔王は武力で魔界を統一した。同じく武力で打倒されたのは、ある意味彼の本望だったかもしれない。
「葬儀はいつやるんだい?」
「無茶言わないの。早く動くわよ、攻め込まれたらどうするの」
「そりゃそうだけど、どうせ誰も魔王の死を悼んでないでしょ? 一応知人の死だからさ、葬式くらいには出席したいし」
「誰もそれどころじゃないって! 第一あんたを左遷した奴なんてどうでもいいでしょうが!」
シアンが苛立ち交じりに机の脚を蹴り飛ばすと、メキッと嫌な音がなった。
「あ」
仕方あるまい。元々このダンジョンに放置されていた何百年ものの木屑だ。正確に言えば、ダンジョン化する前からあったものだ。シアンを責めるつもりはないのだが、彼女はふるふると顔を赤らめ、目を逸らした。
「何よその目は」
可愛いものを見る目だよ。罪悪感もあるだろうに、強がっている。それに彼女は、俺が左遷されてなお付いてきてくれた、どうしようもない部下だ。嫌うとか怒るとか、そういう感情とは無縁である。
彼女はやる気なさげに座り込み、虚空に手を伸ばした。ちらっと目が合うと、俺は彼女の言いたいことを理解した。立ち上がり、彼女の腕を引っ張って立たせてやる。すると猫のように彼女は俺が元座っていた椅子に入り込んだ。してやられたな。
彼女は肘掛けに腕を付き、頬杖をついた。
「で、本当にどうするわけ。わかってると思うけど、魔王のいない魔王政府なんて遅かれ早かれ瓦解するわよ」
「そうだろうけど、統一の夢は叶ってしまった。誰もその夢を振り切れないだろう。誰かがまた統一するだろうから、そしたらそこに従えばいいんじゃないの」
「それまでに私たちが攻め込まれないって、言える?」
ふむ。
ダンジョンとは要するに軍事拠点であり、城である。普通の城との違いは上に伸びるか下に伸びるかだ。つまりどこぞの勢力が拠点にしようと思えば、まず真っ先に狙う場所と言える。それでなくても危険視される可能性は否定できないか。
遥か田舎の北国だからこそ、過ぎたるものを持っていると危険視されかねない。彼女もそれがわかっているから、こうも頻りに尋ねるのだろう。
しかし簡単な解決法があった。
「ダンジョン捨てて逃げよっか。俺の実家は魔界の南の方にあってね、田舎だから多分戦争には巻き込まれない」
「そしたら、私は帰るわよ。帰る当てなんてないけど」
「なんでさ」
「だって、職務放棄でしょ? まあ雇い主が滅んだんだから、厳密に言えば違うかもしれないけど。そうしたら、ジャックは私の上司じゃなくなる。何かおかしい?」
ははあ。俺は思わず舌を巻いてしまった。ここで重要なのは、今まで幾度となく彼女には上司を変える機会があり、そもそも退職する機会も無限にあったことである。帰る当てがないと言っているが、シアンはそういう笑えない冗談はつかない。実家と不仲と聞いた覚えはないから、貧しいのだろう。
つまるところ、選択肢は二つ。彼女をほっぽり出して一人で実家に帰るか、ここに居座るかだ。
目を覆った。
世話の焼ける奴。もっとも本当に世話を焼かれているのは俺かもしれない。壁に寄り掛かって深呼吸をした。
「……わかった、わかったよ。とりあえずそうだなあ、盗賊には負けないくらいのダンジョンにしようか」
シアンは頬杖をつき、興味なさげにこちらをちらちらと見ていたが、俺の言葉を聞くや否や顔をこちらに向けた。
「ほんとっ!?」
「ほんとほんと。ジャック嘘つかない」
「知ってるわよ、それで左遷されたんだから」
軽く毒を吐かれ、俺は少しよろめいた。左遷されたことに怒りはないが、別に傷口をえぐられたくはない。
シアンは白い歯を見せてはにかんだ。少し勝ち気な、それでいて安堵したような不敵な笑顔を浮かべていた。
「それじゃあ、これからもよろしくね。ダンジョンマスターさん」
俺はその言葉を聞いて、頬の辺りを人差し指で掻いた。
しまらない。彼女は気づいていなかった。
「そこ、ダンジョンマスターの席なんだけどな」
「え、あっ」
彼女は狼狽したかと思うと、口元をまごつかせ、飛び上がって部屋から出て行った。
「……ま、これからかな」
彼女がさっきまで座っていた椅子に腰かけ、俺もまた肘掛けに頬杖をついた。目を閉じ、俺はゆっくりと転寝を始めるのだった。なるようになるという言葉が、俺の頭で響いていた。