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人殺しのみにくい恋  作者: 毒原春生
5/8

冬:さよなら、モラトリアム




「……帰りたいな」


大勢の人でごった返す境内。

その片隅でぼんやりと立ち尽くしながら、雪町宗介は溜息混じりに呟いた。

現在の時刻は夜の十一時。本来ならば人が出歩く時間ではなく、まして都心の歓楽街でもない場所で人ごみができるなどありえない。しかし、今日だけは例外だ。

なぜなら、今日は十二月三十一日。

二年参りを果たそうと、多くの人がこぞって寺社仏閣に集う日なのだから。

冒頭の呟きはそれと相反するが、彼の場合はクラスメートたちに誘われて仕方なく足を運んでいるだけなので致し方なかった。この人ごみで肝心のクラスメートたちとははぐれてしまったので、なおさらである。

こういう時に便利なメールも、皆がこぞって使っているので送受信のタイムラグが著しい。LINEを始めとしたSNSはわずらわしくて使っていないため、せめてすれ違いが発生しないよう、こうして動かず待機するので努めるので精一杯だった。

とはいえ、元より二年参りに興味がない以上、だんだんとそれも面倒になってくる。

はぐれたのを口実に帰ってしまおうか。

そんなことを思いながら人ごみを見渡し、頭の中で赤の他人を殺していく。

足を引っ掛けて転ばせ、その頭を踏み砕く。

手の位置に顔がある子供の眼球に、懐のフォークを突き立てる。

殺人鬼は殺す場所を問わない。

場と状況に相応しい人殺しの方法を思案し、組み立て、それを実行できる。頭の中に留めているのは、実行した時に起きる混乱と天秤にかけただけのこと。代替行為で一時の満足を得ることによって、人に擬態し続けるという波風の立たない道を選んだだけ。

時折摘まむように行う本命(ひとごろし)のために、日々の殺人衝動を制御する。


(殺したいな)


しかし今、少しだけその箍が緩んでいるのを感じていた。

大勢の赤の他人が行き交っているのも理由の一つだろうが、最たる要因はそれではない。

一番の原因は単純明快。

最近、人を殺していないからだ。

秋。雪町が在籍している高校の文化祭で、殺人が起きた。部外者の出入りが多かった日に起きた事件は、犯人が捕まってないこともあり、一気に市民の警戒レベルを引き上げた。

結果として雪町は夜に出歩くことが難しくなり、出歩けたとしてもちょうどいい獲物を見つけることが今日までできずにいた。殺人衝動は想像でしか慰められず、フラストレーションは溜まっていく一方だ。

おそらく通り魔の類いなのだろうと雪町は考えている。

殺人鬼(どうるい)の存在を知ってはいるが、彼女も自分が属するテリトリーで人を殺すデメリットは把握しているはずなので除外していいだろう。何より、被害者は彼女の獲物足りえないはずだ。確信はないが、彼女の取捨選択基準はわかっているつもりである。


「……」


ふと、被害者の少女のことを思い出す。

一学年下の後輩。名前も知らない少女のことを、しかし雪町ははっきりと覚えている。

少女が殺される数時間前に、彼女から告白をされた――からではない。恋も愛もわからないひとでなしにとって、告白されるという事象はあまり印象に残らなかった。

ただ、似ていたのだ。

一つ下の後輩という立ち位置が。

髪の長さが。

アルトの声が。

野花のような控えめな愛らしさが。

類似であって同一のものはなかったけれど、確かに――――


「――――あっ」


喧騒でもはっきりと耳に届いたアルトの声が、雪町の思考を遮った。

聞き慣れたその声に、顔を上げて視線を彷徨わせる。人ごみの中であっても、その姿は簡単に見つけることができた。

学校でも下校の時に羽織っていたダッフルコートを身に纏い、寒さゆえか、あるいは人ごみの熱気ゆえか、わずかに頬が上気している少女。

一つ下の後輩。もう一人の殺人鬼。


「ども。こんばんは、雪町先輩」

「……こんばんは、夏目」


ぺこりと会釈しながら挨拶を述べる夏目柚木に、雪町もまた同じ言葉を口にした。


「えっ、ていうか先輩? なんでここにいるんです?」

「それは僕も聞きたいんだけど」


話しやすいよう距離を詰めてくる後輩は、捉えようによっては失礼な言葉を口にする。それが同類に向ける気安さの表れなのはとうに知っているので、こそばゆさはあっても気にしたりはしない。代わりに、おそらく彼女も抱いているだろう疑問を発した。


「夏目、こういうとこに来るタイプだったっけ?」

「来ないタイプですね。ただ、今年はクラスメートに誘われまして」

「なるほど。僕と同じか」

「あー、ってことはもしや先輩もそのクラスメートとはぐれたりなど?」

「はぐれたりなどしてしまったね」


肩をすくめて言えば、変なとこでも似た者同士ですねと夏目も苦笑する。そして雪町の隣に移動し、隣り合わせの状態で人ごみを見つめ始めた。

さながら図書室のカウンターに座っている時のようだと思いながら、雪町も人ごみに視線を向ける。人を見てしまえば、習い性のように頭の中で殺さずにはいられない。

隣にいる少女もまた、同じように頭の中で適当な誰かを殺しているのだろう。

神聖な境内が、二人のひとでなしによって想像の血と妄想の死で塗りたくられる。

罰当たりだなと一瞬だけ思い、すぐにそれは殺人衝動で掻き消された。


「……そういえば」


そうして、空想の殺戮がしばらく続いた後、夏目が口を開いた。


「先輩はこれからどうします? 合流待ちしますか?」

「うーん。正直に言うと帰ってしまいたいんだよね。夏目は?」

「夏目後輩も右に同じく。もう、はぐれたことを理由にして帰っちゃおうかなーって」

「なら、家まで送るよ」


時刻も時刻なのでそう申し出れば、困ったような顔をされた。

夏目のその顔を見ると、雪町の方も困ってしまうし、弱ってしまう。だが、さすがに今回は同類に対しては相応しくない態度よりも、彼女の先輩という立ち位置が勝った。

何せ、殺人鬼であっても見た目が普通の女の子であることは変わらないのだ。

巡回する警官も歩き回る不審者も、彼女の本性など知らずに近づくだろう。


「夏目。さすがに深夜、後輩を一人で夜道に歩かせるのは先輩として許容できない」

「……はい」

「それに補導されて、夜出歩きにくくなったら困らないかい」

「うっ」


夏目の琴線らしい「普通の女の子扱い」になる言い方は避けて、あくまでも学校の先輩として、そして同類を案じる者として言葉を続ける。特に後半は正論でもあり、それを論じられては意地も張りにくいはずだ。現に傍らの少女は、呻き声を上げながらたちまち萎れた。

うなだれながら、夏目は無意識と思われる仕草で頬を――正確には傷を――撫でている。

皮膚の色に隠れつつあるものの、まだ傷跡と認識できる程度には存在感があるそれは、夏の夜に雪町がつけたものだ。さすがにもう罪悪感は覚えていないものの、代わりに彼女の指が傷跡をなぞるのを見るたび、腹の底がムズムズするような奇妙な感覚があった。

その感覚を他の時と同じように持て余しながら、スマートフォンを取り出す。

送受信にラグがあるとはいえ、帰ると決めたならメールをしておくべきだろう。雪町の所作を見て夏目もそれに思い至ったようで、ポケットから取り出した端末を操作し始めた。

夏目の方がタイピングは早く、ほぼ同時にメールの送信が完了する。


「それじゃあ、まずは神社から離れようか。行くよ、夏目」

「はーい」


声をかけてから歩き出せば、間延びした声とともに少女がついてくるのを背中で感じた。

人ごみに紛れて逃げられることもわずかに懸念したが、すぐ後ろの気配ははぐれないようぴったりとついてきている。一度折れたら素直に従うところは可愛げのある後輩だと、のんきに考えられたのは進行方向から一気に人の波が来るまでだった。

時刻は日付が変わる三十分前。

二年参りに駆け込んできた人の波に、雪町と夏目は揃って飲み込まれる。

進む方向が真逆なため、後ろからやってくる者や人ごみを掻き分ける者に押されてはぐれることない。それでも、一気に増えた人口密度は離ればなれになる可能性を高めていた。


「……」


背後を一瞥し、横を通り抜ける人々をやりすごしている夏目を見る。

夏目が小柄なこともあり、このままでは進むうちにはぐれてしまうのは火を見るより明らかだった。そうなるとはぐれないように対処するしかなく、一番確実かつ手っ取り早いのは手を繋ぐことだろう。

だがそれが、先輩後輩として、同類として、正しい選択なのかがわからない。

送り届けることは許容してくれた彼女を、また困らせたくはない。

体の脇で揺れている両手が疼く。状況的に何の問題もないと冷静な理性が言う一方で、その根っこにある感傷的な箇所が夏の日を思い出していた。

そうして雪町が逡巡している間にも、人ごみは二人を押し流そうとする。

新年を待ちわびる人たちは、その流れに逆らうひとでなしに遠慮などしない。露骨に二人を押しのけて進もうとする者も増える中、とうとう人波に分断されかける。

その直前。


「失礼、しますっ」


伸ばされた夏目の手が、雪町のコートの背中を掴んだ。

引き寄せられてたたらを踏みかけるも、立ち止まることで転倒を防ぐ。そのまま周囲の迷惑そうな目を無視して首だけ振り返れば、転ばせかけたことを申し訳ないと思ったのか、夏目はどこかばつが悪そうな顔をしていた。

少し視線をずらせば、コートを掴む手が目に留まる。

ついそれに見入っていると、夏目がおずおずと口を開いた。


「えーっと、こうすればはぐれないですし」

「……そうだね」

「……急に掴んで悪かったですって。緊急措置ってことでひとつ」

「ああ、怒ってないよ、大丈夫。驚いただけだから」


上の空が悪い捉え方をされていることに気づき、訂正の言葉を口にする。

訝しげな顔をされたものの、嘘偽りがなかったこともあり、すぐにその言葉は受け入れられたらしい。傍らの少女は、ホッと安堵の息をつきながら胸を撫で下ろした。

その直後、周囲の人ごみが向ける非難の目に気づいたらしく、慌てて顔を上げる。


「って、突っ立ってたら邪魔ですね。行きましょう、先輩」

「ああ、行こうか」


夏目に促され、首肯を返しながら歩みを再開する。

思うように動けない人ごみの中ということもあって、慎重に歩調を定めても時折背中が引っ張られるのは防げない。それ自体は少し歩きづらいというだけで不快ではなかったが、引っ張られるたびに、彼女に服を掴まれているという状況を再認識せざるを得なかった。

それとて、嫌というわけではない。ないけれど。

再認識するたび、言葉がつけられない感情が滲むのを感じた。

冬用のコートは厚手で、その下に着こんでいる服もしっかりとした布地だ。だから夏目に掴まれても、彼女の手の感触もぬくもりも、微塵も感じることはない。

その事実が、なぜだかどうしようもなくもどかしく。

その隔たりが、なぜだかどうしようもなく致命的だと思えた。

けれどそれを言葉にすることも、表に出すこともせず。

気づけば人ごみの海を抜け、人通りがすっかり乏しくなった道に辿り着いていた。

はぐれないように掴まれた手は、はぐれる可能性があった場所を離れてしまえばその役目を終えてしまう。厚手の布地は離れた感触すら伝えてくれず、夏目が雪町を追い抜いたことで、彼女の手が離されたことを知った。

追い抜いた夏目が振り返り、道の先を指さす。


「私の家、こっちです。……一人でも大丈夫ですよ?」

「夏目」

「はい。すいません」


折れたかと思ったら往生際の悪い後輩を名前だけで諌めれば、本人もそこまで本気ではなかったようで、素直な謝罪を口にする。まったく、と呆れた声を零しながら、雪町を案内するように歩き出した夏目の後に続いた。

喧騒から離れると、遠くの方から響く除夜の鐘が聞こえる。

煩悩を払う、荘厳な鐘の音。その音を聞きながら、前を歩く少女の背中を見つめた。

本性がひとでなしの殺人鬼だとは思えない、華奢で小さな背中だ。女子供を殺すことで欲求を充足させる殺人者は、こんな背中を見て殺したいと思うのだろうかと。そんなことを考えるのは、夏目に声をかけられたことで中断した思案が再び脳裏をよぎったからだ。

安全なはずだった場所で殺された少女。

名前は知らず、けれどひとでなしの片隅に残る少女は――夏目柚木に似ていた。

だから彼女に告白された時は、内心ひどく動揺した。内心で済んだと思っているのは自分だけで、ひょっとしたら声や顔に出ていたのかもしれない。恋も愛もひとでなしの自分たちにはわからないと、そんな話を夏目としたばかりだったからなおさらだった。

そんな心地であったから、殺されたのがあの少女と知った時もまた、動揺があった。

家まで送るという申し出を貫いたのも、その動揺が起因している。

未だ捕まっていない殺人者は、夏目とよく似た少女を殺した。

ならば夏目も、殺人者の標的となる可能性が高い。

そう思ってしまうと、夏目を一人で帰すことなどできなかった。

雪町たちは殺人鬼だが、だからといって襲ってくる暴漢を返り討ちに殺せるほど暴力の心得があるわけではない。二人は人殺しであって、戦士の類いではないからだ。

夏目柚木が殺人者に殺される可能性は、ゼロではない。

そしてゼロではない以上、学校の後輩でもあり、ただ一人の同類でもある少女が、どこの誰ともわからぬ殺人者の手にかかる可能性など看過できなかった。


(だって――)


なぜなら、と。

そこまで考えたところで、はたと思考が止まった。

まるで、それ以上考えたら何もかもが変わってしまうと、理性が歯止めをかけたように。


「……?」


続かない思考に首を傾げて、思わず足も止まる。

言葉の先を探るように考えを巡らせるも、一度途切れたものを見つけるのは難しい。それでも掴まなくてはいけないような気もして、思考に没頭した。


「……雪町先輩?」


それをまた、夏目の声が遮る。

ハッとなって顔を上げれば、少し離れた場所で夏目が首を傾げていた。


「先輩、どうしたんです?」

「……ああ、いや。何でもないよ」


後で考えよう。そう決めて、ごまかしの言葉を口にする。

似たようなやりとりが先ほどもあったが、今回も訝しそうにしつつも納得はしてくれたらしい。夏目は怪訝そうな表情を引っ込めると、近くの一軒家を指さした。


「あれが私の家です。……えーっと、さすがに親と対面したら説明が大変なんで」

「ああ、ここまでにしておくよ。迷惑をかけるわけにはいかないからね」


言わんとしていることはわかるので、その申し出は聞き入れる。

我が子が異性と並んでいると、色々と考えてしまうのがが一般的な親の在り方だ。いくら互いを高校の先輩後輩だと説明しても、不要な勘繰りは発生してしまうだろう。

可能性としては低いが、時間を理由に翌朝まで引き留められることもありえる。そういう意味でも、夏目に迷惑はかけられなかった。


「それじゃあ、この辺で。わざわざありがとうございました、雪町先輩」

「お礼を言われるほどのことじゃないさ」

「それでも、ですよ。先輩こそ、気をつけて帰ってくださいね」

「ああ」


短い別れの言葉を口にしてから、踵を返す。


「――――あの、せんぱい」


そうして夏目に背中を向けた直後、呼びかけが投げかけられた。


「……いえ。何でもないです」


だが、雪町が振り向くよりも早く、その呼びかけは撤回される。

ゆえに、夏目がどんな顔で呼びかけたのかを、雪町は知ることはなく。振り向いた先には、いつものように笑う後輩の姿があるだけだった。


「そういえば、いつの間にか新年を迎えたなって」


代わりに紡がれる言葉は確かにその通りだが、同時にごまかしの色も滲んでいた。

思わず首を傾げるが、今日は二回、夏目には言及をされないでいる。ならば自分もそれで納得しようと、問いかけの言葉を飲み込んだ。


「年が変わると言っても、僕たちは時計や周囲の変化でそれを知るわけだからね。二人で人気のないところにいたら、日付が変わるのに気づかないのは自然なことだと思うよ」

「確かに。さすが先輩だけあって、言うことに含蓄がある」

「一つ上なだけだから、人生経験なんて夏目とそんなに変わらないけどね」


肩をすくめてそう言えば、そういうもんですかねと笑った後、夏目は片手を上げた。


「引き止めちゃってすいません」

「気にしないでいいよ」

「アハッ、ありがとうございます。それじゃあまた、学校で」

「うん。また、学校で」


ひらひらと振られた片手に応じるように、手を振り返す。

そして、今度こそ二人はその場を後にした。

――――年の終わりと始まりにあった邂逅は、こうして終わった。

水面下ではどうしようもなく手遅れで、この時に自覚ないし伝えることができていても、致命的な変化を避けることはできなかっただろう。それでも、ここでその変化が起きていたのなら、少なくとも最悪を避けることはできたはずだった。

けれど、どちらも一石を投じることはできなくて。

終わりの日は、ある日突然訪れる。



         ☨☨☨



二月。一歩でも教室を出ると、底冷えするような寒さに襲われる季節。

放課後とあっては、零れる息さえ白く滲む。そんな外気に腕をさすりながら、雪町は足早に職員室を目指して歩いていた。

今日はカウンター当番の日なので、本来ならまっすぐ図書室に向かわねばいけない。

しかし、今日は来月に行われる卒業式のことで教務主任に呼び出されていた。なんでも、卒業生代表の祝辞の候補として話がしたいらしい。人選ミスもいいところだと思うので断るつもりではあるが、断るにしても足を運ぶ必要があるのはわずらわしかった。


(卒業、か)


胸中で零す声には、関心の無さが滲む。

あまり実感の湧かない行事であった。

節目ではあるのだろうが、感極まって泣く教師や生徒が出るほどのものとは思えない。たった一度の別れで縁が切れてしまうなら、その程度の仲なのではないかと。ひとでなしらしく、情のないことを考えてしまう。

雪町の考えは、シビアではあるがある種の真理でもあった。

一度の別れで分かつてしまうなら、その縁は最初からその程度の強度でしかない。

あるいは、それ以上の強度を得る努力を怠った結果だ。

――――だからこうして、殺人鬼は報いを受ける。


「……ん?」


職員室を目指す道程で、進行方向に見慣れた少女の背中を見た。

こちらに背を向けている少女――夏目は、教師と何かを話している。

聞き耳を立てるつもりなどなかったが、迂回路がない目的地へのルートにいる以上、距離を詰めてしまうのは避けられない。ほどなくして、二人のやりとりが雪町の耳に届く。


「しかし、夏目も大変だな。こんな時期に親が海外転勤とは」

「ええ。せめて卒業式は出たかったんですけどね」

「二月末に渡航なら仕方ない。仲の良い奴に写真でもなんでも頼んでおくといい」

「そうしときます。それじゃあ先生、書類ありがとうございました」

「秋に言われたのに、作るのが遅くなって悪いな。親御さんによろしく頼む」

「はい」


やりとりを終えた教師と生徒は、互いに背を向けて歩き出す。


「……えっ」

「――――」


そして、立ち尽くしていた雪町と振り返った夏目が、向かい合う形となった。

夏目の顔がこわばる。それが思わぬ人物がいたことへの驚きだけではないのは、手に取るようにわかった。それくらいには、彼女のことをわかっているつもりだった。

だからこそ、動揺に満ちた心が揺さぶられる。

聞かれたくない相手に聞かれてしまったなどと、そんな反応をされてしまっては。


「夏目。今の、話は?」


それでも理性を振り絞り、努めて冷静に問いかけを零す。

予想はしていただろうに、夏目の視線はあからさまに泳いだ。それにますます焦燥感を駆られながらも、彼女の返事をジッと待つ。

やがて観念したように、夏目が口を開いた。


「……父が仕事で、海外転勤になって。一年や二年じゃきかないそうなので、家族ごと向こうに引っ越そうってことになったんです」

「聞いてないよ、そんなこと」

「……言ってませんから。知ってるのも、担任と仲の良い友人くらいです」

「どうして」

「……先輩」

「夏目、どうして教えてくれなかった」


秋という言葉が出てきた。それがいつごろを差すのかまではわからないが、それでも伝えられる機会はいくらでもあったはずだろう。

どうして、黙って去ろうとしていたのか。

それを問い詰めるように見つめれば、夏目は視線を逸らしながら答えた。


「……私たちは、高校の先輩と後輩で。似たような歪みを抱えた、ひとでなしの同類で。でもそれだけじゃないですか。それだけの関係でしか、ないじゃないですか」

「それ、は」

「この世にいないと思っていた同類に会えたのは、奇跡みたいなものですけど。だからこそ奇跡は奇跡らしく、変に腐れる前に終わってしまった方がいいと思ったんです」

「……」


夏目の語る言葉はロジカルではなかったが、ある意味では理に適っていた。

完全に正しいわけではなく、されど間違ってもいない。

少なくとも、それだけの関係でしかないという言葉には、反論の余地もなかった。

話す場所と言えば図書室のカウンターか、当番を終えた帰り道のわずかな時間。互いのスマートフォンの番号もメールアドレスも知らず、SNSの繋がりもない。

この世で雪町宗介を最も理解してくれるのは、夏目柚木で。

夏目柚木の一番の理解者もまた、雪町宗介に他ならない。

けれど二人の関係自体は、それこそ一度きりの別れで分かたれるほどに脆い。

夏目の言葉は、今まで目を逸らしてきた事実を痛いほどに突きつけてきた。


「……夏目、僕は」

「先輩。今日は、カウンター当番なんですから。いつまでも話してたらまずいですよ」


それでも何かを言いたくて、どうにかして言葉を絞り出そうとする。

だが夏目は、無情な一言でそれを断ち切った。


「行きましょう。雪町先輩」


この話はもう終わりだと。言外にそう告げながら。


「……僕は、職員室に用事があるから」


打ちのめされたような思いを抱えて、なんとかそれだけを返す。

夏目はもう目を逸らしていなかったが、今度は雪町が彼女の顔を見ることができなかった。見てしまったら、抑え込んでいる感情が噴出してしまいそうだったから。


「それじゃあ、先に行ってます。先輩、またあとで」

「……うん。また、あとで」


そう言って、夏目は雪町の脇を通り抜けていく。

遠ざかっていく足音の代わりに、今まで聞こえていなかった放課後の喧騒が鼓膜を震わす。けれどそれらの音は、小さくなる足音のように雪町の心を揺らすことはなく。

彼女の足音が、喧騒によって完全に掻き消えてしまうまで。

雪町は一人、立ち尽くし続けていた。




その後のことは、あまり覚えていない。

祝辞について何を話したのか、そもそも教師と話をしたのか、職員室には行ったのか。

一つだけ確かなのは、図書室には行っていないということ。

当番を無断で休んだことになるが、そんなことに意識を払う余裕は今の雪町にはなかった。わずかでも気を緩めたら、目についた人間を全員殺してしまいそうだったから。

誰でもよかった。

溢れ返りそうな殺人衝動を抑えてくれるなら、誰でも。

しかし、本当に殺したいのはただ一人なのもわかっていた。

だからこそ誰にも会わないよう、誰も見ないよう、雪町は人の出入りが少ない公園の木陰に隠れるようにして座り込んでいた。

気づけば辺りは暗く、夜を迎えたことを視覚で感じる。

それでも、そこから動くことができなかった。


「――――なつめ」


膝を抱え込むようにしながら、ぽつりと一人の名前を零す。

その名前を口にするだけで、殺人衝動が膨れ上がる。

夏目柚木を殺したいと、体と心が訴えている。

こんなにも一人の人間を殺したいと思ったことはなく。時折与える飴で折り合いをつけていたはずの殺人衝動がこんなにも荒れ狂うこともまた、初めてのことだった。

けれど、脳裏に浮かぶのは夏目を殺す瞬間ではなく。


「なつめ」


いたずらっ子のように笑う顔で。

呆れたような色を浮かべる顔で。

困ったように眉をひそめている顔で。

目を細めてはにかむように微笑む顔で。

殺人行為とは縁がない、日常の中にいる夏目柚木の姿だった。

だというのに。


「……君を、殺したい」


殺意は、止め処なく湧き上がる。

相反するものが胸を焦がす。


「殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、斬殺したい、抉殺したい、殴殺したい、扼殺したい、蹴殺したい、毒殺したい、虐殺したい、誅殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい――――夏目を、殺したい」


淡々と紡がれる人殺しの言葉。

表情は動かず、普段通りの無表情のまま。

声だけが火傷しそうなほどの熱を孕んでいたが、雪町がそれに気づくことはなかった。


「……夏目、どうすれば」


殺したくてたまらない少女の名前を、繰り返す。

このままではいずれ遠くへ行ってしまう少女の名前を、縋るように呟く。

殺人鬼とは言え、雪町はまだ子供でしかない。大人の世界で決まったことに横槍を入れることはできず、どれだけ否を唱えたくても知恵だけで決定を覆すことはできない。

けれど、夏目がこのまま遠くへ行くのは嫌だった。

あの様子だと、どこへ行くかも夏目は言わないだろう。

決定的な別れを突きつけられる日は近い。その事実が、雪町の胸を焦がす。


「……なつめ」


煩悶する心を抱えながら、何気なく空を仰ぐ。

墨色の空に浮かぶのは、満月になりかけている月。

雲に隠れて薄ぼんやりとしている月が、雪町を静かに見下ろしている。


(……ああ)


初めて『殺人鬼』と出会ったのも、月夜のことだったと。

傷をつけた動揺で無様に終わらせてしまった演舞も、最初は月明かりの下だったと。

今も雪町の心を掴んで離さない、同類を相手取った獣のダンスを思い出す。

一回目は互いにそれどころではなくなって、二回目は雪町が罪悪感に負けて打ち切る形で、結局最後まで踊り切ることはできなかった。

そんな舞踏を回想しながら、ふと、ある考えがじわりと浮かんだ。それは透明な水に落ちた一滴の墨のように、瞬く間に雪町の思考を一色に染め上げていく。


「――――ああ、なんだ。簡単なことじゃないか」


気づいてしまえば、それはあまりにも簡単なこと。

どうして今まで気づけなかったのかと、疑問に思うほどに。

明白ゆえに間違っていることには気づかず――例え気づいたとしても、どうしようもなく道を間違っている今では是正の余地もなかっただろうが――、雪町は結論を呟く。


「彼女を、(ころ)せばいいんだ」


その声はまるで、愛の告白のように甘い熱を帯びていた。

そしてやはり、雪町がそれに気づくことはなかった。

殺人衝動以外の情動に乏しく、恋も愛もわからないと零す殺人鬼にとって。

殺意に隠された初恋は、あまりにも見難いものだった。


(ころ)したいなら、殺せばいい」


言いながら、ゆっくりと立ち上がる。

問題は夏目をその気にさせることだったが、そちらに関しては今までの煩悶が嘘のように容易く思いつく。ゆえに問題は障害にも歯止めにもならず、準備に向かう雪町の足を止めるものは何一つなかった。



         ☨☨☨



「――――」


その日の朝。

触覚を刺すような何かを感じて、夏目は目を覚ました。


「……ぇ、ぁ?」


突然の感覚に、胸を押さえて戸惑いの声を零す。

感じたもの自体は、なじみのあるものだった。夏目柚木というひとでなしが歩んできた道とは、切っても切り離せないものだ。

だからこそ、ひどく戸惑った。

それは、家の中で感じていいものではなかったからだ。


「…っ!」


嫌な予感に、急き立てられるようにベッドから跳ね起きて、寝間着のまま部屋を出る。

鼻につく生臭さ。

平日の朝に相応しくない静寂。

一歩進むごとに感じるそれらが、予感を強めていく。

さながら導かれるように、夏目の足は迷わずリビングへと向かった。


「……」


一枚のドアによって隔てられている、リビングと廊下。

その隔たりの前で一瞬だけ、足が止まる。

それは何もないだろうという一抹の希望で、それを信じたい無駄な足掻きだった。一拍後には無意味さに気づき、あらゆるものを振り払うようにドアの取っ手に手をかける。


はたして、そこには惨状が広がっていた。


ソファーに倒れ込んで動かないのは、夏目の父だった。

床に倒れ伏して動かないのは、夏目の母だった。

そしてどちらの体にも、その周囲にも、赤黒い液体がこびりついていた。

二人とも、ただの死体に成り果てていた。

完膚無きまでの家族の崩壊。

どうしようもなく終わってしまった、日常。


「おはよう。夏目」


その中央に立つ雪町宗介(さつじんき)は、いつもと変わらぬ様子で声をかけてきた。


「……せんぱい」

「朝早くに訪ねてすまないね」

「……ゆきまち、せんぱい」

「どうしても、この時間じゃないとダメだったから」

「……せんぱい、教えてください」

「うん。なんだい、夏目」

「なんで、こんなこと、したんですか」

「不思議なことを聞くね。僕は殺人鬼だよ。人を殺すのは、呼吸のようなものだろう?」

「先輩‼ ちゃんとっ、ちゃんと答えてくださいっ!」


この惨状が、ただの殺人衝動の発露であるものかと。

そんな思いを叩きつけるように声を荒げる。

悲鳴のようなそれを受け、雪町は瞑目しながら口を開いた。


「ご両親を殺せば、夏目は僕のことを無視できないだろう?」

「私、先輩のこと無視なんてっ」

「ああ、誤解しないでほしいんだ。無視されたから、ではないよ」

「じゃあ、どういう」


だって、と。

同類の問いかけに、目を開けながら殺人鬼は続けた。

もう一人の殺人鬼を、まっすぐと見つめて言った。

その眼差しはさながら、愛おしい雌を見つめる雄のそれだった。


「こうすれば、夏目は僕と殺し合いを、せざるを得ないだろう?」


紡いだ声が熱を持っていることに、本人はどれだけ自覚があるだろうか。

表情だけはいつもの無表情で、眼差しと声だけは火傷しそうな熱を孕んだまま。まるで睦み合いにでも誘っているように、殺人鬼は同類に向かって言葉を続ける。


「僕は君を殺したい」

「夏目柚木を殺したくて仕方がない」

「なのに君は、遠くへ行ってしまうという」

「僕との関係を断ち切って、僕が君を殺せない場所に行ってしまおうとしている」

「そんなのは嫌だ」

「だから夏目の両親を殺した。君が、僕を無視できないように」

「僕とすぐにでも殺し合ってくれるように」


言葉は矢継ぎ早に紡がれ、雪町がどれだけ真摯なのかを伝える。


「――――」


その言葉を受けて。

その想いを受けて。

夏目の胸には数多の感情が渦巻き、そしてそれは一つに集約されていった。


「……それでも」


ひとしきり思いをまくしたてた後、雪町は再び目を閉じる。


「これがあまりにも独りよがりなことは、わかっている。今ここで殺し合いを始めても、それは最後まで僕の押しつけで終わってしまうだろう」

「……先輩」

「だから、夏目」


そうしてまた目を開きながら一歩、夏目に向かって踏み出す。

思わず身構えるが、雪町はそのまま脇を通り抜ける。そして通り抜けざまに、言った。


「今夜。図書室で待ってる」


選んでくれと。

応えてくれと。

最後の分岐を夏目に委ねて、雪町は去っていった。


「…………」


それから、どれくらい経ったか。

気づけば夏目はその場に座り込み、呆けたように変わり果てた日常を見ていた。

夏目の日常は、殺人鬼によって殺し尽くされた。

もはや取り返しはつかず、延命はおろか蘇生の手段もなく。

それでもおそらく、別の形でやり直すことはできるのだろう。

だからこそ、雪町は最後の最後で選択を夏目に委ねたのだろう。

殺人鬼に応えて日常を完全に捨て去るか、殺人鬼を捨てて日常を再構築するかを。


「……せんぱい」


答えなど、決まっていた。

なぜなら夏目柚木もまた、殺人鬼で。

胸中にあるのは、雪町と殺し合えることへの喜悦だったがゆえに。


こうして殺人鬼たちのモラトリアムは、一方の手によって強引に断ち切られた。

歪んだ二人はどこまでも過ちしか選択できず。

醜い恋は、見難い恋は、こういう末路にしかならず。

今宵、殺人鬼と殺人鬼は、本気で殺し合う。


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