表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人殺しのみにくい恋  作者: 毒原春生
4/8

秋:怪物の名前




ぽたりと。カッターナイフの切っ先から、血が滴り落ちた。

地面に描かれた、赤く血なまぐさい斑点。そのすぐ近くには、つい先ほどまで人として生きていた死体が、グロテスクなオブジェのように転がっている。

それを、夏目柚木(さつじんき)は静かに見下ろしていた。


「……殺した。人を、殺したのに」


死体を見つめながら、空虚な声が零れる。

人を殺したという感慨も、人を殺めたという充足もない。常に身の内を巣食っている殺人欲求はわずかたりとも満たされておらず、第四の欲求は飢餓を訴えていた。

あるのはただ、殺したという実感のみ。


(……なんで、殺したんだっけ?)


首を傾げながら、死体を見つめ続ける。

事切れた骸が身に着けるのは、夏目が通う高校の制服。

空気を悪くしたくない、警戒レベルを上げたくない。そんな理由で手を出すことを不文律としていた者を、殺人欲求を満たすためではなく、ただ殺した。悔いだけは欠片だってなかったが、代わりに疑問が夏目の胸の内を渦巻いていた。


(……なんで?)


自分がやったことなのに、自分の行動原理がわからない。

どうして、殺したのだろう。

なぜ、殺さなくてはいけなかったのだろう。

その理由を探るように、夏目は記憶を遡る。

きっかけは、確か――――



         ☨☨☨



夏目が在籍する高校の文化祭は、十月半ばの土日を使って行われる。

二日に渡って開催されるイベントを心待ちにする生徒は多く、一週間前ともなると校内の雰囲気は一様に浮き足立つ。教室の隅や廊下の端には作りかけの看板や飾りつけが置かれるようになり、放課後校内に残る生徒の数も多かった。

とはいえ、自主的に居残る生徒はせいぜい半数だ。残りは夏目のように、開催が間近に迫った学校行事の準備という体で、仕方なく放課後も時間を費やしている。

その日の放課後も、夏目はクラスメートから頼まれた買い出しをしていた。


「……あれ?」


渡されたメモとにらめっこをしながら、学校近くのホームセンター内を散策する。そんな夏目の視界に、見慣れた姿が映った。

思わず立ち止まり、しっかりとその姿を見る。

はたしてそこには、雪町宗介の姿があった。

夏目と同じように店の買い物かごを持ち、夏目と同じようにメモを見ている彼はしかし、夏目とは違って傍らに人を立たせている。クラスメートの女子だろうか。夏目と同じ制服を身に纏う少女は、遠目からであっても明らかに雪町を意識しているのがわかった。

少女が声をかける。

雪町が応じるように顔を向ける。

少女はそれとなく顔を近づける。

雪町はそれをかわすことなく受け入れている。

傍目から見た二人のやりとりは、仲睦まじいものに見えた。少女の容姿と、女性にしては高めの背丈が、端整な顔立ちで上背のある雪町に釣り合っていたのも理由の一つだろう。

似合いのカップルだと。

見る者が見ればそう思うような、光景だった。


「……」


話しかけることはもちろん、なぜか立ち去ることもできず、それを眺める。

無意識のうちに、左の頬を撫でていた。

指先にわずかに引っかかるのは、うっすらと残った傷跡。夏の夜、雪町のナイフによってつけられたものだ。ふとした瞬間に撫でるくせがついてしまったそれの存在を確かめるように、指を滑らせる。


「……あ」


自分が相手を見つけられたということは、相手もまた同じように自分を見つける可能性がある。夏目がそのことに思い至ったのは、雪町と目が合った時だった。

なつめ、と。

唇が自分の名前を紡ぐのがわかる。

そして彼はあっさりと傍らにいる少女に背を向け、夏目の方へと歩いてきた。

なぜだかその瞬間、無性に雪町から逃げたくなった。しかし、ここで逃げ去るのは『後輩』として相応しい反応ではなく、『殺人鬼』としてとるべき行動でもない。そんな思考が夏目の足を縫い止めているうちに、雪町がすぐ傍までやってきた。


「奇遇だね、こんなところで会うなんて」

「ええ。先輩たちも、文化祭の買い出しですか?」


無表情に近かった顔をわずかに綻ばせて口を開く雪町に、なぜか湧き出てくる居心地の悪さを隠しながら普段通りの顔で応じる。先輩たち、という言い方で連れがいることを思い出したように、雪町は背を向けていた少女に視線を向けた。

突然雪町に置いて行かれた少女は、最初は唖然としていたが、夏目の姿に気づくと露骨に敵意ある表情を浮かべていた。そしてそれは雪町が顔を向けると同時に引っ込み、彼の顔が再び夏目の方に向いた途端、露わになる。

器用だなと場違いなことを思う一方で、あからさまな敵意に顔が引き攣りそうになった。

そんな夏目の様子にも少女の百面相にも気づかず、雪町は言葉を続ける。


「も、ってことは夏目もかい?」

「はい。手が空いてるの、私しかいなかったので」

「一人で買い出しか。大変だね」

「細かい作業苦手なんで、こっちの方が楽ですけどね。それよりいいんです? ほっといて」


向けられる視線の圧に耐え切れず、少女の存在に言及した。

夏目への視線は今や、敵意から殺意めいたものに変わっている。本物の殺意を知っている殺人鬼にとっては児戯みたいなものだが、それでも居心地が悪かった。何より、拙いとはいえあまり殺意を当てられ続けると、殺人欲求が疼きそうになる。

指摘を受けたことで、連れを放置していることに思い至ったのだろう。はっとした表情を浮かべた雪町は、さすがに少し慌てた様子でもう一度少女の方を向いた。

途端、少女はにこやかだが手持ち無沙汰さを押し出した雰囲気を放つ。変わり身の早さにいっそ尊敬の念すら抱いていると、雪町が夏目に視線を戻した。


「それじゃあ、僕は戻るね。学校に戻る時は気をつけるんだよ、夏目」

「アハッ。ひとでなしに言うこっちゃないですよ、雪町先輩。そういうことは、あの人みたいな普通の女の子に言ってあげてください」

「……うん。すまなかったね」


普通の女の子という言葉を強調して言えば、申し訳なさそうな表情が浮かんだ。

それを見ていると、なぜか苦い思いが込み上げてくる。しかし、普通の女の子のように扱われても困惑してしまうのだ。

夏目柚木は、ひとでなしの殺人鬼なのだから。


「では先輩、また今度図書室で」

「ああ、夏目。また今度、図書室で」


そんな言葉を口にして、二人の殺人鬼は踵を返した。




「そういえば、雪町先輩のクラスは文化祭で何やるんですか?」


翌週の月曜日、その放課後。

本への書き込みを消しながら話を振れば、同じ作業をしていた雪町が顔を上げた。


「三年生だし、うちのクラスはあまりこの手の行事に積極的ではなくてね。適当に家から持ち寄ったものでバザーを開くことになったよ」

「三年だと多いみたいですね、バザー」

「夏目のクラスは?」

「うちはお菓子を売ることに。調理室の使用権がとれたから、お菓子作り趣味な子が張り切ってまして。おかげで売り子はそっちがやるので仕事は裏方なんですけど」

「僕も裏方に回りたかったんだけど、今年は売り子を押しつけられたから気が重いな」

「あー、それはお気の毒に」


憂鬱そうに呟く横顔を、不躾にならない程度に見る。


(顔良いからなあ、この先輩)


中性寄りに整った凛々しい顔立ちは、立たせておくだけで集客効果が見込めるだろう。バザーという目玉要素がない出店だからこそ、なおさら雪町のクラスメートは彼を売り子に据えたがったに違いない。

しかし、彼にとっては迷惑なことだし、憂鬱なことだろう。

面倒だからというだけではない。それ以上の問題が雪町にはある。


「知らない人がたくさんいる中だと、殺人衝動抑えるのも大変でしょうし」


同じ殺人鬼だからこそわかるそれに、夏目は理解を示す言葉を発した。


「うん、そうなんだ。だから人ごみとかも苦手で」


余人には決して理解されない悩みに共感を示され、雪町は嬉しそうに唇を綻ばせる。

その反応が嬉しくあり、同時になぜか小さな痛みが走った。ちくりと一瞬だけ刺さったそれは正体を探る間もなく消え去って、ささやかな違和感だけが残る。

そしてそれは、何も今に始まったことではなかった。

夏休み、雷雨の夕方。

雷に怯える夏目が落ち着くまで、雪町がずっと傍にいてくれた夏の日。

あの日から、雪町と接していると時折、不可思議な痛みを覚えるようになった。

発生するタイミングはランダムで、法則性があるようには思えない。ただ、ふとした瞬間に胸をつきんと刺すような痛みが生じる。不愉快というほどではなく、かといって無視できるものでもない、そんな痛みだ。

何が原因なのかもわからないため、対処のしようがない。

唯一の対策としてとれるのは、せいぜい雪町と交流しないことだろう。だが、さすがにそこまでするほどの痛みでもなく、不可思議な痛みを持て余したまま二学期を過ごしていた。


「わかりますよ。満員電車とかエレベーターとかなら、逆にまだ平気なんですけど」

「大勢の赤の他人と行き会うのは、落ち着かないんだよね」

「ですよね。すれ違いざまに殺してしまいそうで」


痛みが生まれたことなど欠片も気取らせぬまま、ひとでなしの会話を続ける。他に言える相手がいない話題なだけに、気づけばお互い作業の手が止まっていた。


「……あの」

「!」

「っ」


だからだろう。いつの間にかカウンターの前に立っていた生徒に気づくのが遅れたのは。

現場を直接見られたわけではないので焦燥の度合いはそこまで高くないが、あまりこういう話を人に聞かれるのはまずい。どこまで聞かれていただろうかと視線を向けたところで、夏目は既視感を覚えた。


(……あれ? この人どこかで)


カウンターの前に立っているのは、名前も知らない三年生の女子生徒だ。しかし、どこかで見たような気がして、夏目は首を傾げた。

一方の女子生徒は夏目に目もくれず、雪町の方にだけ顔を向けている。そして、ポケットから取り出したものをおずおずと差し出した。

それは、一通の封筒。

可愛らしいピンク色をしたそれの意図は明白で、思わず目を瞬かせてしまう。


(あっ)


同時に、目の前の女子生徒に感じていた既視感の正体に気づく。


(この人、この前先輩と一緒に買い出ししてた人だ)


ホームセンターで、雪町の隣にいた少女。遠目からでしか見ていなかったのですぐには思い出せなかったが、気づいてしまえば間違いなくあの時一緒にいた彼女だった。

気づいてしまえば、こちらを見ないのも、豪胆な渡し方にも納得がいく。

あからさまな牽制にいっそ清々しさすら覚えていると、雪町は首を傾げながらも差し出された封筒を受け取る。それを見届けた女子生徒は、嬉しそうに顔を綻ばせた。


「雪町くん、それ。あとで読んでほしいな」

「ああ、うん。わかったよ」

「それじゃあ私はこれで。図書委員の当番、がんばってね」

「ありがとう」


そんなやりとりを交わして、女子生徒は去っていく。

最後まで徹底して夏目に視線を向けなかったが、それが却って彼女の敵愾心の強さを示していた。夏目はホームセンターであの女子生徒の存在を認識したが、女子生徒の方は好意を寄せている同級生と同じ委員会の後輩を、以前から知っていたのかもしれない。


(私に敵意向けるのはお門違いな気もするんだけど……)


封筒を片手に首を傾げている隣席を見ると、そんなことを思わずにいられなかった。

異性と交際した経験がない夏目でも、これは明らかに脈なしなのがわかる。少しでも異性としてあの女子生徒を意識したことがあるなら、あからさまなラブレターを受け取って首を傾げるだけなのはないだろう。

雪町の表情は相変わらず無表情だったが、彼の怪訝が「なぜ自分に」ではなく「これは何だろう」寄りなのは、少なくとも夏目の目には明らかだった。


「……?」


その事実を感じ取って、なぜか奇妙な心地よさがあった。

人の恋路が儚く散ろうとするのを喜ぶような、悪趣味な嗜好は持ち合わせていない。ゆえにここで心地よさを感じる理由がわからず、夏目もまた首を傾げた。

気づいてなかっただけで、実は夏目柚木は悪趣味だったのかもしれない。殺人鬼でひとでなし、その上悪趣味。三重苦はさすがに生きているのが申し訳なくなる


「ラブレターをもらうなんて、先輩をモテますね」


そんな可能性を否定したくて、思わず茶化すように言葉を発した。

話しかけられた雪町は、目を瞬かせた後、感心したように口を開く。


「……夏目は凄いな。中を見てないのに、これが何なのかわかったのかい?」

「いや、どう見てもラブレター以外にないでしょ、そのピンク封筒」

「そういうものなのかい? ああでも、確かに今までもらったことのあるやつも、可愛らしい色合いの封筒が多かった気がするな」

(あ、やっぱ初めてじゃないんだな、もらうの……)


イケメンの特権だなと思う一方、ラブレターを受け取った経験があるのに怪訝そうな顔だったのかと思うと、ますます女子生徒の脈のなさを感じる。


「付き合ったりしないんです? さっきの人と」

「うん、しないかな」


さすがに可哀想になってきて、ついそんなことを聞いてしまう。

しかし返る反応は、女子生徒にとってはそっけないものだった。


「それなりに話はするクラスメートだけど、それだけだからね」

「でも、わりと美人だとは思いますけど」

「そうかい? そこらへんはよくわからないけど。とはいえ、相手が可愛かろうと美人だろうと、それだけで付き合おうって気にはならないかな」

「そうなんです? 男の人って、顔が良ければオッケーなイメージありました」

「さりげなく酷いことを言うね、夏目も……」

「あ、雪町先輩がそうって言いたいわけじゃなく、あくまで偏見に基づいた一般論です」

「さすがにそこはわかってるけど、相手を選んで言いなよ?」

「同類である先輩にだからこそ叩ける無礼な軽口ですよ」

「大丈夫ならいいんだけど。まあ、可愛い子の方が良いと思うのは否定しないよ。それでも、そこだけを基準にすることはないかな。少なくとも僕はね」

「先輩は見た目より中身派ですか」

「それもあるけど……」


そこまで言ったところで、雪町はいったん言葉を区切る。

そして、困ったような目を手元の封筒に向けた。


「僕は、人を見ると殺すことしか考えられない。殺人衝動を抱えた僕が他人に向ける感情は、殺意だけだ。だから正直、恋とか愛とか、よくわからない」

「……」

「だから、見た目で付き合おうとは思えないし思わない。応えられる自信がないのに見た目で決めてしまったら、装飾品にするのと同じことだからね」


ひとでなしの殺人鬼でも、人間に対してそれくらいの誠意はあるのだと。

そんなことを話す雪町の横顔を、つい言葉もなく見つめてしまう。


「夏目は? 恋とか愛とか、わかるかい?」

「あっ、えっ、私ですか? うーん……」


急に話を振られて焦りつつ、それでも問いに応えるべく考え込む。


「近所に住んでたお兄さんとか、頼れる先生とかに、恋をしてた時はあった気もしますけど」

「……そうかい」

(ん?)


どこか不服そうな声音に聞こえて、怪訝さを覚える。

首を傾げ、ほどなくしてその正体に思い至った。


「心配しなくても、今さら人間ぶったりしませんよ。恋って言っても小さいころ特有の思い込みの激しさみたいなもんで、今思い返すと初恋にさえなってないですし」


同類を安心させるように笑みを零せば、雪町は一瞬きょとんとした後、なぜか得心がいったような顔を浮かべる。それにまた怪訝さを感じたものの、今度は理由もわからず、すぐに返せる言葉も浮かばなかったので、そちらは気にせず話を続けた。


「あれは恋だったなって今でもはっきり言えるほど、他人に対して殺意以外の強い感情を抱いたことはないですね。私もひとでなしの殺人鬼で、今殺すかいつか殺すかの二通りでしか人間を見ることができないから」

「殺人欲求ゆえに?」

「ええ。だから先輩にあれこれ言えるほど、私も恋とか愛とかわかっちゃいないんでしょう。一応成りは女子なんで、少女漫画みたいなのに憧れなくはないんですけどね」


そういう普通の恋や愛は、ひとでなしには分不相応でしょう。

自嘲も交えてそう言った直後、放課後の終わりを告げるチャイムが響く。つられるように顔を上げたため、その言葉に雪町がどんな顔をしたかを、夏目は見ることがなかった。


「……話に夢中で、作業全然できてないですね」

「……まあ、急務なわけでもないし。先生も気にしないと思うよ」

「ワレワレは先生の好感度も高いですしね」

「言い方が良くないよ、夏目」

「はいはい、気をつけまーす」


軽口を叩きながら、閉館準備のために立ち上がる。

文化祭の準備期間に入っているので利用者自体はいつもにもまして少ないが、それでも人の出入りがある以上は見て回る義務がある。カウンターの後片付けを雪町に任せて、夏目は閲覧室の方へと歩を進めた。


(……恋とか愛とか、か)


書棚のチェックをしながら、ふと、先ほどのやりとりを思い出す。

漫画のような恋や愛に憧れていなくはないが、ひとでなしには分不相応だと。

雪町に言った言葉に嘘はない。

しかし、正しい言い方もしていない自覚はあった。


(分不相応なんてレベルじゃなく。私にはきっと、普通の恋や愛はできない)


なぜなら、夏目柚木というひとでなしは。

殺人欲求という、第四の生存欲求を抱えた少女は。

誰かを好きになったなら――その相手を、殺さずにはいられないだろうから。

恋愛感情は、三大欲求と切っても切り離せない。当然のように殺人欲求も、それと切り離すことなどできはしないだろうから。


(きっと、ケダモノみたいな恋しか、できない)


確信がある予想。だがそれを、同類であっても雪町に告げるには躊躇いがあった。

だからあえて、分不相応という言葉でごまかした。それでも間違いはなかったから。

しかし。

しかしここで、もしも正しく自分の恋というものについて言えていたなら。

雪町にそれを、伝えることができていたなら。

二人の顛末はおそらく、もっと別のものになっていただろう。

――――こうしてまた一つ、過ちは重ねられる。



         ☨☨☨



踊り場ですれ違った誰かを突き落として墜殺する。

紐状の飾りつけの近くにいる誰かを飾りつけで絞殺する。

使われなかった角材を掴んで通りかかった誰かを撲殺する。

そうして頭の中で赤の他人を殺しても、次から次へと見知らぬ誰かが現れる。


(ああ、殺したい)


文化祭二日目。

膨れ上がってきた殺人欲求を持て余しながら、夏目は人でごった返す廊下を歩いていた。

廊下ほどではないものの、教室の方も人の出入りが多い。そちらの方にいても殺人欲求が疼く一方だったので、裏方のノルマを果たした後、残りはクラスメートに任せて人気のないところへ行くことにしたのだった。一日目は勤勉に働いたのと、去年も同じクラスだった者は夏目の人ごみ苦手を知っていたのが幸いし、申し出は快く受諾された。

今は適当に食べられそうなものを買い、図書室へと向かっていた。

一般開放はされていないが、中に司書教諭がいることは知っている。読書好きで勤勉な生徒には甘いので、頼めば入れて休ませてくれるだろう。


(……ついでに先輩にも声かけてみるかな)


ふと、そんなことを考える。

一日目に少し覗いた時は、エプロンをつけて接客に難儀しているようだった。おざなりに浮かべられた笑みはたいそうぎこちないものだったが、それでも客足は他のバザーよりも多かったのは、決して気のせいではないだろう。

二日連続で売り子に駆り出されるとしても、さすがに一日通しではないはずだ。あちらも人の出入りがある教室で休むのは避けたいだろうと、同類に対する気遣いが足を動かした。

三年の教室は、別棟ではあるものの図書室と同じ三階にある。渡り廊下を通れば図書室はすぐになるので、遠まわりにもならない。人ごみの中をしばらく進み、雪町が所属する三年三組の教室に辿り着いた。

客のふりをして中に入り、机の上に陳列された品々に視線を走らせながら、教室の中をぐるりと見渡す。一週目で雪町にラブレターを渡していた女子生徒と目が合いかけたので慌ててそらし、二週目を経て目的の人物がいないことが判明した。

裏方スペースを確保する段ボール紙でできた衝立もどきはあるものの、その向こうにいるような気配もない。視線を三巡させたところで、雪町の不在を確信した。


(もう休憩入って、どっか行っちゃったかな)


それならそれで構わないがと思いながら、再び机の上に目を向ける。

さすがに上級生の店に来て、何も買わずに出て行くのは印象が悪い。何か適当なものはないかと物色していると、一つのものが目に留まった。

それは袋詰めされた、五本入りの青いヘアピンだった。

おそらく、買ったはいいが使う機会がなかったものを持ってきたのだろう。ひゃくえんと可愛らしく書かれた値札がついたそれを手に取って、まじまじと見た。

夏目は髪が長いので、こういったアイテムはよく使う。

だが、今脳裏に浮かべたのは、このヘアピンをつけた自分ではなかった。


(雪町先輩に合いそうだな、この色)


思い出すのは、夏休み前のやりとり。

男性にしては長い髪の理由を聞いた時、人に散髪されるのが苦手だから自分で取り返しがつく範囲で切っているのだと答えられた。

その時は散髪されるのが苦手という言葉に同意しただけだったが、鬱陶しそうに摘み上げていた前髪も、こういったもので留めれば楽ではないだろうか。邪魔と感じていても、性別ゆえにこういったものを自分で買う発想もあまりないだろう。

青みがかったヘアピンは、人形めいた顔立ちにも映えるに違いない。


(人殺しする時、前髪が邪魔で殺し損ねたら笑い話にもならないし)


そう、これは同類への気遣いだ。それ以外に意図なんてないのだと。

まるで言い聞かせるように思いながら、ヘアピンを会計場所へと持って行った。

銀色の硬貨を一枚出して、品物の所有権を買い取る。小さいものなので袋は断り、ポケットに突っ込んで教室を出ようと踵を返した。


「あれっ、そういや雪町は?」

「ああ、あいつなら女子に呼ばれてどっか行ったぞ」


そんな夏目の背中に、男子生徒たちのやりとりが届いた。


「またかよ。ほんとモテるなあいつ……」

「むかつくけどツラが良いのは確かだし、女子はああいう物静かな奴が好きだからなあ」

「んで、どんな子だった?」

「二年の校章つけてて、まあ普通に可愛い子?」

「普通か……よし!」

「美人がフリーだとしてもお前に脈はないんだよなあ」

「こらそこっ、ちゃんと呼び込みする!」


他愛もないやりとりは、売り子と思われる女子の一喝で終わる。男子生徒たちが慌てて持ち場に戻っていく中、夏目もまた、いつの間にか止まっていた足を動かした。

そのまま教室を出て、渡り廊下を歩く。

図書室がある特別棟は催し物が下の階に集中しているので、歩を進めるにつれて喧騒は離れていく。殺人欲求をくすぐる赤の他人の群れもまた、同様に遠ざかった。


「……先輩も大変だな」


道中、ぽつりとそんな言葉が零れる。

恋も愛もわからないのに、見目麗しいというだけで人間の恋や愛に付き合わされる。

大変だ。大変だろう。望まぬものに臨まされる同類に、同情を寄せる。

それだけのはずなのに、夏目の胸中にはなぜか小さなわだかまりがあった。

時折不意に走る痛みと同じ、不快とまではいかないが、無視もしにくいささやかな違和感。理由に思い至ることができない、不可思議な何か。

不意に走る痛みだけでも持て余しているのに、これ以上変なものが増えてはたまらないと。

夏目はそのわだかまりを、意識して排除しようと努める。

しかし、少女の殺人鬼に対して、運命と呼ばれるものは悪意的だった。


「――私、雪町先輩が好きなんです」

「――――」


図書室に向かう道中。

使われていない空き教室から聞こえてきた声に、足も思考も、止まった。


「去年の春、先輩に図書室で本を探すの手伝ってもらって」

(……早く行こうよ)

「その時から先輩のこと、気になっていたんです」

(立ち聞きなんて、趣味が悪いでしょう)

「図書委員にはなれなかったけど、それでも先輩に会いたくて図書室に通ってました」

(ほら、早く、行こう。離れよう)

「先輩のことを見るたびに、どんどん想いが大きくなって」

(足、動けって……!)

「どうしてもこの想いを伝えたくて、先輩にも共有して欲しくて。だから、雪町先輩」


私と付き合ってくれませんか、と。

この場から離れようとしない自分を叱責している間に、告白の言葉は終わった。

沈黙が落ちる。文化祭の喧騒からはそこまで離れていないはずなのに、まるで遥か遠くにあるかのように、ざわめきはほとんど耳に入ってこない。

その代わり、早鐘を打ち始めた鼓動の音が、やけに大きく感じられる。

抑えてないと誰かに、教室にいる二人に聞こえてしまいそうで。思わず前かがみになって胸に手を押し当てた夏目の耳に、今度は雪町の声が聞こえた。

そして。


「……君の気持ちは、嬉しいけど。ごめん」

(――――)


耳に届いた彼の声色に、思考と、今度は鼓動が止まりかけたのを感じた。


(……なん、で)


脳裏によぎるのは、数日前のやりとり。

受け取ったラブレターを見て、雪町は困った様子ではあったものの、そこには一片の惜しみはなかった。あまりにも脈がなかった。そしてそれはきっと、他の誰に対しても同じなのだろうと。夏目は無意識のうちに、そう判断していた。

恋も愛もわからない殺人鬼は、誰の想いも惜しむことはないだろうと。

そう、思っていたのに。


(なんで)


無意識のうちに頬に触れる。

引っ掻くような手つきで、傷跡の存在を確かめる。


(なんで、そんな)


未練があるような声で断るのだ。

本当なら応じていたかもしれないような、断ることを惜しむような声で喋るのだ。


(そんなの、まるで)


まるで、目の前の相手に好意でも寄せていたようではないか。


「……私じゃ、先輩に釣り合わないからですか?」

「君は可愛いとは思うけど……容姿は関係ないよ。僕は君のことをよく知らないし、例え知ったとしても、君が抱く想いを共有できるとは思えない。だから、ごめん」

「そう、ですか。わかりました……」


少女と同じくらい、ともすれば少女以上に打ちのめされた思いで立ち尽くす中、一つの恋があえなく散っていく。玉砕は覚悟だったのだろうか。ふられた少女は悲しげな声ではあったものの、食い下がることはせず雪町の言葉を受け入れていた。

恋の終わりを憐れむ気持ち以上に、なぜか夏目は心から安堵していた。

その安堵の理由はわからず、けれどそれが乱れた心を落ち着かせようとしていた。

されど、世界はひとでなしに容赦がなく。


「……先輩」

「なんだい?」

「最後に……。最後に一回だけ、抱きしめてもらってもいいですか?」


落ち着きかけた心は、再び激しく掻き乱された。

ずっと廊下の方に向いていた顔が、思わずといった風に教室の方を向く。ちゃんと閉めておかなかったのか、引き戸式のドアはわずかに開いていた。

運命の悪意は重なる。

その隙間から見える光景を、夏目の目は捉えてしまった。


「――――」


背丈の低い少女が、一歩踏み出す。

雪町は困ったように頬を掻きながらも、そっと腕を浮かせる。

少女がさらに近づき、雪町の胸に顔を寄せる。

そんな少女の肩を、雪町はぎこちなく抱きしめた。


「――――ぁ」


声が、出た。

それが酷く傷ついたような声だったことには、ついぞ気づくことはなく。

逃げるように、夏目はようやくその場から立ち去った。


「……?」


その直後。

足音に気づいた雪町が顔を上げたが、それは一拍ほど遅かった。

たった一拍。されどそれは、殺人鬼たちには致命的な分岐点だった。




『――下校の時刻になりました。まだ残っている生徒は、速やかに帰宅してください』


校内に響き渡るアナウンス。後片付けはとうに終わらせているものだと決めてかかっているそれを聞きながら、紙ゴミが詰まった袋を持った少女は歩調を少し早めた。

飾りつけに力を入れすぎて、少女のクラスは後片付けに時間がかかってしまった。

ゴミ捨てに着手できたのも、下校時間ギリギリだ。ほんの少し前までは人がごった返していたと思われるゴミ捨て場には誰もおらず、いるのは少女一人きり。夕暮れの薄暗さもあって、無人のゴミ捨て場には不気味な雰囲気が漂っていた。


「……誰かについてきてもらえばよかったかな」


思わず軽く肩を震わせながら、後悔の言葉を零す。

しかし、誘えるようなクラスメートたちには別の用事があり、一人で十分こなせるゴミ捨ての同行を願うのは難しかっただろう。それに、少し一人になりたかったため、自分からゴミ捨てを請け負ったのもある。詮無き後悔だと自分でも思いつつ、ゴミ袋を置いた。

そんな少女の脳裏によぎるのは、数時間前のできごと。

一年の時から好きだった先輩に告白し、見事に玉砕した。


「あーあ、ふられちゃった」


自分の恋は叶わないだろうなと思ってはいた。

平凡な自分には分不相応な相手だったことは百も承知。それでも、何も伝えられずに彼が卒業するのを黙って見ていることはできなかった。文化祭の熱気に後押しされ、半ば勢いのまま想いを伝えたが、そのことを後悔はしていない。


(思い出も、もらったしね)


抱きしめてほしいという後輩の無茶な頼みを、優しい先輩は聞き届けてくれた。

あの腕のぬくもりは、一生忘れられないだろう。

優しすぎて勘違いをしそうになったが、あれは本当にただの優しさであって、自分に好意があったわけではないだろう。そこを履き違えてしまっては、あの優しさに申し訳が立たない。温かい思い出にしなければと、心臓が高鳴りそうになるのを自制した。


(それに、多分先輩は――――)


彼のことを思い出し、そして気づいたことに考えを巡らせようとした直前。

……ざりっ、と。

背後から、足音が聞こえた。


「ん?」


自分たち以外にもゴミ捨てが終わってないクラスがあったのかと。

そんなことを思いながら、一片の警戒心もなく振り返る。

しかし、ここで何の警戒もしなかったからといって、彼女を責めることはできないだろう。

なぜなら、人気がないとはいえ、ここは学校の敷地内であって。

なぜなら、彼女にとって『事件』というものはメディアの中の非日常であって。

何よりも、彼女は知らなかった。


(確かこの子、二年四組の)


振り返った先に立つ人物を見て、少女は相手の正体を思い出そうとする。

それが、彼女がまともにとれた最期の思考となった。




――――そうして、殺人鬼の前には、少女の死体が生まれた。

普段使う得物ではなく、適当なところから持ってきたカッターナイフで、殺した。

手に馴染み、確実性が高い凶器を持ち出す余裕もなく、殺した。

殺人欲求を満たすためではなく。

ただ、殺さなければならないと思ったがために。


「……」


思い出し、振り返り、反芻し、飲み込む。

行動原理を見つけ出すための思考は、やがて一つの解答を導き出した。


「……ああ、そっか、私は」


私は彼女に、嫉妬したんだ。

吐き出すように呟かれた言葉が、血濡れの地面に落ちた。

雪町に想いを告げられる彼女が羨ましかった。

雪町に抱きしめられる彼女が妬ましかった。

雪町に普通の女の子のように優しくされることができる彼女に羨望した。

雪町にその想いを惜しまれる彼女に嫉妬した。

彼女の恋は叶わなかったにも関わらず。

彼が彼女の恋に応えなかったのにも関わらず。

それでも殺さずにいられないくらいには、この少女の存在が許容できなかった。

その殺意はあまりにも身勝手で。

だから――否応なく、夏目は自身の感情に向き合わざるを得なくなった。


「…………せんぱい」


そうして向き合ってしまえば、気づいてしまえば。

胸の内から止め処なく――殺意が湧き上がってくる。


「殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、斬殺したい、刺殺したい、撲殺したい、絞殺したい、格殺したい、薬殺したい、惨殺したい、故殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい――――雪町先輩を、殺したい」


頬を紅潮させながら。

瞳を潤ませながら。

まるで恋する少女のように、殺人鬼は恋慕(さつい)の言葉を紡ぐ。

どうしようもないほどに醜いひとでなしの恋が、産声を上げた。

――――そして。


(……こんなの、言えるわけがない)


醜い獣性の恋慕だからこそ、次第に夏目の頭は冷えていく。

雪町宗介は、殺人欲求の理解者で、殺人鬼の同類だ。

しかし、それだけでしかない。

恋も愛も知らぬ彼に、こんな醜い恋心を理解してもらえるとは到底思えなかった。

何より夏目自身が、この醜さをさらけ出したくないと、強く思ってしまった。


「……」


すぐ傍にあるゴミ捨て場に置き去りにするように、生まれた想いに蓋をする。

そして、ひとでなしの恋の犠牲となった骸に背を向けて、その場から立ち去った。



         ☨☨☨



「……ただいま」


家の中に帰宅を告げる声を投げかけながら、扉を閉めた。


「あ、柚木。おかえりなさい」

「ただいま、お母さん」

「早かったわね。打ち上げとかは出なかったの?」


声に反応して顔を出した母が、時間を確認してそんな言葉をかける。

カッターナイフを捨てるために川辺を経由したものの、文化祭最終日にしては帰宅が早かったかもしれない。母の言葉でクラスメートに何も告げず帰ってきたことを思い出しながら、靴を脱ぎ捨てた。


「ちょっと調子悪くて」

「あら。そろそろ冬が本格的に来るんだから、気をつけなさいよ?」

「わかってるって。そういえば今日、お父さん帰るの早いね」


嘘は言っていないが正しいことも言っていないので、話を逸らすように玄関に目を落とす。

普段は夜の九時ごろに帰ってくる父の靴が、今日は既に揃えて置かれている。話を逸らすのが主目的ではあったが、早い帰宅なのは確かなので疑問ではあった。

しかし、夏目の問いかけに対して、返ってきたのはひそめられた眉だった。

それも話を逸らしたことを咎めるものではなく、言いにくいことに触れられて思わず困ってしまったような、そんな表情。思わず首を傾げていると、母は重々しく口を開いた。


「あのね、柚木。あとでお父さんからちゃんと話があると思うんだけど――――」


そうして、告げられる言葉。


「……えっ?」


思いもよらないそれに、夏目は目を見開いた。


過ちと自覚の秋が終わる。

訣別の冬は、近い。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ