夏:殺したがりの手、さわれなかった手
――――ピピピピピ
「……ん」
朝の静寂を裂くように、目覚まし時計のアラームが響き渡る。
一日に朝という区切りを作るその音を、雪町宗介は嫌ってはいなかった。しかし、いつまでも聞いていたいかと言われれば、首を横に振らざるを得ない。
纏わりついている眠気を払うように体を起こし、アラームのスイッチを切った。
「……今日は、登校日か」
静かになった時計をしばらく眺めた後、ぽつりと呟く。
昨日までは、ゴールデンウィークとも称される大型連休だった。合間に一日だけ登校日を挟んだものの、それでも一週間近い休日を心身は堪能した。結果として平日の朝を迎えてもなお生活リズムは戻らず、体は二度寝を要求している。
四月から再構築された新しい環境に慣れるか慣れないかといった時期に、一週間前後の休みを挿入するというのはなかなかの暴挙ではないかと。五月を迎えるたび脳裏によぎる考えを片隅に追いやりつつ、ベッドから体を起こした。
二度寝の魅力は強かったが、生憎と両親は揃って出張中だ。
起こしてくれる人間がいないので、誘惑に抗うより他にない。
着替えて、顔を洗い、洗濯機を回し、朝食の準備を整える。共働きの両親が家を空けるのは昔からで、そのため朝の作業は手慣れたものだ。流れるようにやるべきことをこなし、登校までの時間を無駄なく過ごしていく。
そうやって、休日にしがみついている生活リズムを平日のタイムスケジュールに戻す。家を出る準備を終えるころには、わずかな眠気も残っていなかった。
家を出る直前、食器棚から銀のフォークを取り出し、ポケットに忍ばせる。
強く力をこめれば皮膚を破りそうな先端を一撫でしてから、かばんを持って外に出た。
雪町の家はマンションの一室であるため、玄関を出ればまず高所からの景色が広がる。百八十センチと、高校三年生の平均よりも高い背丈なので、より景色は一望しやすい。とはいえ付き合いの長い景色に今さら感動があるわけもなく、あっさりと背を向けて扉を施錠した。
「あら。宗介くん、おはよう」
鍵をポケットにしまったところで、声がかけられる。
横を見やれば、隣の部屋に住む主婦が立っていた。ちょうど彼女も家から出てきたところらしく、背後でばたんと扉が閉まるのが見えた。
景色と同じくらい長い付き合いがある主婦に、小さく頭を下げる。
「おはようございます」
「今日から学校だったかしら? 連休明けは大変よねえ」
「ええ。ちょっと憂鬱ですね」
「うふふ、息子たちもおんなじようなこと言ってたわ。あの子たちはちょっとどころか、めちゃくちゃ憂鬱だって昨日からぶーぶー文句たれてたけど」
そう喋る主婦は呆れた口調ではあるものの、顔は笑っている。
実子への愛情が、その笑みからは滲み出ていた。
雪町の家はどちらかといえば淡白な親子関係であるため、親子仲が良さそうな隣人の話は、何度聞いても新鮮さと一抹の羨望があった。一回りも二回りも年上である女性相手に微笑ましさすら感じながら、口元に笑みを浮かべて、いつも大変ですね、と返す。
「宗介くんはほんと礼儀正しいわねえ。それに引き換えうちの子ときたら……っと、引き留めちゃ駄目ね、ごめんなさい。いってらっしゃい、宗介くん。気を付けてね」
「はい、ありがとうございます」
現在の時刻を思い出したのか、言葉をまくしたてかけた主婦は慌てて話を中断した。
見送りの言葉を口にして微笑む主婦に、もう一度軽く頭を下げてから歩き出す。
――――その脇を通り過ぎた直後、油断しきっていた主婦の首根っこを掴んだ。
「えっ?」
怪訝そうな声が上がると同時に、景色を臨める塀へと近づく。
子供がよじ登れない高さではあるが、大人ならばその限りではない。そんな塀に主婦の体を押し付けると、無理やり両足を浮かせ、後ろへと押し倒した。
一度重心が傾けば、あとは力などいらない。
何が起きているのかわかっていない顔は、そのまま塀の反対側――地面へと墜落を始めた。
数十秒後、ぐしゃりと巨大な水袋を叩きつけたような音が響く。
塀の向こう側を覗き込めば、潰れた死体が――――
エレベーターに乗り込み、閉のボタンを押す。閉まる扉の隙間から手を振ってくる主婦に三度目の礼を返したところで、エレベーターは密室になった。
「……ふぅ」
ゆっくりと下降していく箱の内側に背を預けながら、小さく息をつく。
一階に着くまでのわずかな時間。頭の中では、地面に咲いた紅い花を見下ろし続けていた。
雪町宗介の一日は、頭の中で誰かを殺すところから始まる。
それは隣人の主婦であったり、同じマンションに住む学生であったり、マンションの管理人であったり、たまたま道で行きあった誰かであったりと、日によって様々だ。知人も赤の他人も問わない。その日初めて会った人間をまず殺して、そこでようやくその日が始まるのだ。
手段も問わない。その時思いついた中で、一番殺しやすそうなものを取捨選択する。
人を殺す。
その事実だけが大事であるために。
どうしてそうしなければいけないかはわからない。
ただ、物心ついた時から、雪町宗介という人間はそうだった。
人を見ると殺したくなる。
そんな殺人衝動が、呼吸と同レベルの当たり前さで染みついていた。
初めての人殺しは、幼稚園の同級生。
寝ているところを馬乗りになって、首を絞めた。
その時に人が死ぬのは騒ぎになると知り、以来相手を選ぶようになった。
それからずっと、同じ街に住み続けながら人を殺し続けている。
成長して倫理観というものを知ったが、それは雪町の殺人衝動の歯止めになりえなかった。ただ、衝動のままに殺しているとまともに生活を送れなくなることだけは理解し、なるべく想像の殺人で衝動を抑えるようには心がけた。
人殺し自体を止める発想は、生誕から十八年たった今でも得られていない。
なぜなら、雪町宗介はそういう生き物だからだ。
生まれついた時から、そういうものとして存在が定義されている。
だから雪町は、自分のことをこう呼んでいた。
――――殺人鬼。
人を殺すものとして生まれ落ちたひとでなし、と。
そして、そんな存在は自分以外にいないとも思っていた。
つい最近までは。
今の彼は、それが勘違いであったことを知っている。
☨☨☨
昼休み開始から十分後。
それが、図書委員のカウンター当番が始まる時間だ。
昼食をとる時間を考慮したのかもしれないが、移動時間を考えると悠長に昼食を食べている時間などない。他の勤勉な図書委員がそうであるように、雪町もブロックタイプの携帯栄養食で適当に腹を膨らませてから、図書室へと向かった。
「先生。図書委員です」
当番が来るまで待機している年配の司書教諭に声をかければ、彼は眼鏡をかけた顔を雪町の方へと向ける。そして、皺が刻まれた顔を嬉しそうに綻ばせた。
「やあ雪町くん。いつもすまないね」
「いえ。委員会の仕事ですから」
「サボる生徒がいなければ、その台詞にも納得できるんだけどねえ。それじゃあ私は司書室の方にいるから、何かあったら声をかけておくれ」
「はい。……二年の夏目は?」
「夏目くんはまだだね。あの子も真面目だから、もう少ししたら来るんじゃないかな」
「……ひょっとしたら」
来ないかもしれません、と。
そう言いかけた直後、がちゃりと、背後で扉の開く音が聞こえた。
「やあ、夏目くん。こんにちは」
「こんにちは、先生」
雪町を挟んで、そんなやりとりが行われる。
背中に届く少女の声に、意外さを隠しきれない。だが、それはあちらも同じらしい。振り返って姿を視界に入れれば、少女――夏目柚木は複雑そうな色を湛えた目を向けた。
「……こんにちは、雪町先輩」
「……ああ。こんにちは、夏目」
挨拶を交わすが、それもどこかぎこちない。
気まずいとまではいかないものの、微妙な空気が流れる。
「じゃあ揃ったみたいだし、あとはよろしく頼むよ、二人とも」
一方の司書教諭はそれに気づいた様子もなく、奥の司書室へと引っ込んでいった。
残されたのは、三年生男子と二年生女子。二人はしばらく顔を見合わせていたが、利用者が入ってきたので慌ててカウンターへと入った。
高校生受けする蔵書が少ないため、少数の常連を対応し終えれば仕事は終わる。
瞬く間にやることがなくなってしまった二人の間には、再び何とも言えない空気が漂った。
「……」
そっと窺うように、隣に座る少女を見やる。
平均身長より高い雪町に対し、夏目は平均よりやや低い。そのため立っている状態だとほとんど頭部しか見えないのだが、お互い椅子に座っていると横顔も視界に入る。少女らしい輪郭を描くその横顔を、不躾にならない程度に観察した。
そうしながら、頭の中でポケットに忍ばせていたフォークを取り出し、長い髪に隠れた首筋めがけて突き立てようとする。しかし、夏目はまるでそれがわかっていたかのように、近くにあったノートを掴んで盾にした。
想像の中だというのに雪町の制御を離れて動く少女は、同じく近くにあったボールペンを雪町の目玉めがけて振り抜こうとする。だが、今度は雪町がそれを読んでいた。自分の想像の産物だから、ではない。その想像を自ら構築するよりも早く、脳裏には夏目の手から奪い取ったノートでボールペンを防ぐ自分の姿が浮かび上がっていた。
(……やっぱり、殺せないか)
脳内で展開された一瞬の攻防。
それをおくびにも出さず、少女を見つめ続ける。
夏目柚木。
一つ下の後輩の少女。その顔と名前を、雪町は去年から知っている。
去年の四月。学校見学の際に気になったという本を借りに来た少女に、不在だった司書教諭の代わりに貸出手続きを行った。
期待に目を輝かせている少女を可愛らしいと思いながら、いつものように頭の中で殺害しようとしたあの日。想像の中だというのに刺殺も絞殺も撲殺も叶わず、一度も死体にさせることができなかった時の戸惑いは、一年たった今でも忘れることはできない。
以来、夏目の姿を見かけるたびに、想像上の殺害を試みた。
そして、その全てが失敗に終わった。
思いつく限りの殺害方法を試した。しかし、何をやっても脳裏に彼女を殺した瞬間の映像が浮かばない。想像はことごとく殺害の手前で強制終了し、そのたびに殺すことのできなかったもどかしさがフラストレーションとして蓄積された。
何度、本当に殺そうと思ったかわからない。
そのたびに、在籍している高校から人死にが出るデメリットを考えて押し留まった。
ずっとそんな調子であったから、カウンター当番を夏目とやることになった時は、内心途方に暮れていた。二人きりになる可能性が高い夏休みは無論、帰り道に勢い余って殺してしまうのではないかと、そんなことを連休前までは考えていた。
ゆえに連休前夜。少しでも殺人衝動を発散しようと、雪町は夜の街を彷徨っていた。
誰も殺すことはできなかったため、衝動そのものは晴らせなかった。しかし、代わりに有意義なものを得ることができたと思っている。
おぼろ月の下で出会った、凶器を持った少女。
ともすれば、一時の衝動の発散よりも得がたいもの。
「……あの」
数日前の夜に思案を馳せていると、不意に夏目が呼びかけを零す。
見ていたことが気取られただろうかと内心焦るが、続けられた言葉は予想外のものだった。
「……警察に言わないんですか? 私のこと」
「えっ?」
あまりにも想定外だった言葉に、思わず間の抜けた声を出してしまう。
言っていることの意味がわからず首を傾げていると、前を向いたままだった夏目が不承不承といった風に雪町へ視線を向けた。そして、みなまで言わせないでほしいと言いたげに、潜めた声で補足の言葉を口にする。
「先輩、見ましたよね。私が、人を殺したところ」
「ああ、うん」
「……普通は通報とかしません?」
「そういうものかな」
「……いや、常識的に考えたらそうでしょう」
「……」
人を殺した人間に常識を問われて、一瞬反応に悩んだ。
しかし夏目は至極真面目であり、また雪町もそれを指摘できるほど真人間ではなかったので――何せ彼は殺人鬼なのだから――、そこには突っ込まないことにした。
代わりに、返すべき言葉を口にする。
「僕には君を通報する資格はないよ。僕だって、あの女性を殺そうと思っていたからね」
それは事実だった。
殺人衝動を発散するための獲物として見定め、殺す機会を窺っていた。その前に夏目が殺してしまったが、彼女が殺さなければ雪町が殺めていただろう。
「……雪町先輩って」
その返事に、夏目はしばらく考えた後、新たな問いを発する。
「あの女の人に恨みとか愛憎とか、そういうのあったんですか?」
「いいや? 完全に初対面の赤の他人だよ」
「じゃあ、なんで殺そうと思ったんですか?」
「殺したかったから」
「……人を殺すの、好きなんですか?」
続けざまに投げかけられる質問は、雪町が夏目に聞きたいことだった。
知り合いだから殺したのか、殺すのが好きだから殺したのか。
問われることで夏目の答えを知った気になりながら、三つ目の問いにも答えを返す。
「僕にとって殺人は当たり前の衝動で、人殺しは呼吸みたいなものだから」
紡いだ言葉は、本当なら誰にも吐露してはいけないものだった。
理解も共感も得られない、殺人鬼としての在り方。
永遠に自分の胸の内だけに秘めておくべき言葉。
それを高校の図書室という、日常の場で口にした理由はただ一つ。
「……雪町先輩も、〝そう〟なんですね」
確信があったからだ。
隣にいる少女もまた、自分の同類だという確信が。
「君も、衝動を抱えているのかい」
「私の場合は、どちらかといえば三大欲求の方に近いです。お腹が空いたらご飯を食べたくなるように、眠くなったら寝たくなるように。……殺したくなったら、人を殺したくなる」
「さながら、僕のは殺人衝動で、君のは殺人欲求、といった感じかな」
「そんな感じ、ですかね。私は生きるためみたいに人を殺して」
「僕は呼吸のように、人を殺す」
狭いカウンターの中、隣り合わせの椅子に座り、声を潜めて血なまぐさい言葉を交わす。
話せば話すほど、シンパシーのようなものを感じた。
フィクションの殺人鬼を見たことはある。ノンフィクションの殺人鬼も読んだことはある。しかし、様々な媒体を通して触れてきたそれらに、雪町が共感を抱いたことは一度もない。雪町とは異なる行動原理で動いている彼らは、確かにひとでなしではあるのだろうが、自分の同類だとは思えなかった。
だが、隣にいる少女は違う。
鏡合わせのように似通った精神性。
衝動と欲求の違いはあれど、生きているだけで人を殺さずにいられないひとでなし。
生まれて初めて出会った同類だという確信が、どんどん強まっていく。
(……ああ、そうか)
ここにきてようやく、雪町は今まで夏目を頭の中で殺せなかった理由を悟った。
夏目柚木は殺人鬼。
鬼なのだから、人のように殺せるわけがないのだ。
「……あは」
そんな納得を得ていると、ふと、夏目が小さく笑みを零した。
「雪町先輩。私のこと、殺そうと思ったことあります?」
「あるよ。何度も頭の中で殺そうとした」
「私もです。だけど」
「『殺せなかった』。違うかい?」
「ええ。今も殺そうとして、失敗してます。でも、当然ですよね。だって先輩、人じゃなくてひとでなしなんですもの。人みたいに殺せるわけがない」
「そうだね。僕もそう思うよ。君は、人みたいに殺せない」
同じ気づきを彼女も抱いていることに、何とも言えない面映ゆさを感じる。
夏目もそうなのだろう。柔らかな輪郭を描く頬が、照れくさそうに綻ぶのが見えた。
「私たち、醜いですね」
「ああ。醜くて、歪んでいる」
「歪んでいて、狂ってる」
「僕と君は、同じひとでなしだ」
「アハッ。……ああ、私たち」
似た者同士で、気が合いそうですね、と。
そう夏目が零すのと、昼休みの終了を告げる予鈴が鳴るのは、ほぼ同時だった。
数少ない利用者がおもむろに立ち上がり、読んでいた本を借りるためにカウンターへと向かってくる。今はもう、これ以上話ができないだろう。そのことを名残惜しく思っていると、夏目もまたゆっくりとした動作で立ち上がった。
「じゃあ私、椅子の乱れを直して、書棚見てきます」
「ああ。貸出手続きの方はこっちでやっておくよ」
「お願いしますね、先輩」
そういってカウンターから離れていく後輩の背を眺めながら、頭の中では先ほどまで彼女が座っていた椅子を振り上げ、後頭部めがけて振り下ろそうとする。
それもまた、当たり前のように避けられる。
夏目を殺すことに、また失敗する。
けれど、この時ばかりはその事実の方が嬉しいと、雪町は思った。
☨☨☨
同類を見つけた初夏を経て、季節は本格的な夏を迎えた。
六月と七月の当番では、雪町と夏目は取り留めもなく話をした。相変わらず夏目を頭の中ですら殺すことはできなかったが、フラストレーションはさほど蓄積されなかった。代わりに、彼女との語らいは奇妙な心地よさがあった。
だが、鬱憤がたまらないからといって、殺人鬼が人殺しを犯さない理由にはならない。
呼吸のように人を殺すからこそ、雪町宗介は殺人鬼なのだ。
――――だから。
猛暑日が続いていた八月に降ってわいた、過ごしやすい気温の日。
そんな日に、雪町は誰かを殺すことにした。
「、っ、ぎゃ」
くぐもった声と共に、どうっ、と音を立てて、目の前で人が倒れた。
すれ違ったサラリーマンの頸動脈を掻き切ったタクティカルナイフを持ったまま、一歩だけ離れて、地面に倒れ伏した男が死に向かっていくのを見下ろす。急な多量出血で四肢を強張らせた男は、しばらく身悶えるように呻いた後、やがて息を引き取った。
「……ふぅ」
事切れた骸を眺めていると、昂ぶっていた殺人衝動が落ち着いていくのを感じる。
春は一度殺し損ねたこともあり、結局一人も殺めていない。そのため、久しぶりのリアルな人殺しはいっそう深く雪町の中に染み渡った。水から這い出た陸上生物のような、あるいは水に入ることができた水棲生物のような。そんな心地を抱きながら、タクティカルナイフを振るい、血を落とす。
普段なら、この時点で立ち去っている。
しかし今夜はすぐに足を動かさず、死体の傍らで数分の時を過ごした。
予感があったからだ。
そしてその予感は、ほどなくして的中する。
(……やっぱり、来たね)
ざりっ、と。
聞こえてきたのは、アスファルトと靴裏のこすれる音。それに口元を無自覚に緩めつつ、雪町は音がした方にゆるりと顔を向ける。
はたしてそこには、夏目柚木がいた。
「――――」
春の日のように、雪町と同じように、パーカーについたフードを被った姿。
右手には、一本の果物ナイフ。
まだ血を吸っていない凶刃を持って、夏目はうすく唇を綻ばせていた。
「せんぱい」
少女の声が、雪町のことを呼ぶ。同時に、果物ナイフが構えられる。
「夏目」
応じるように、夏目のことを呼ぶ。同時に、タクティカルナイフを構える。
会うだろうという予感はあった。
会ってしまえば、あの日のように凶刃を交えずにはいられないだろう、とも。
雪町はそれを望んでいて、夏目も同じだったのは明白だった。
「――アハッ」
「――ふっ」
春の夜と同じように、二人同時に笑みを零す。
そして、二人同時に駆け出した。
リーチの長い雪町が先んじる。駆けてくる夏目の首を切り裂こうと、ナイフを突き出した。
殺人鬼とはいえ、身体能力は普通の少女。本来ならばそれを回避できる道理はない。だが、あらかじめそうくるとわかっているものを避けることは、容易い。そう言わんばかりに、ナイフが髪をかすめると同時に夏目の体が前傾した。
数本の髪だけ斬って、ナイフはあらぬところを裂く。
右手を前に突き出したことにより、懐が無防備になる。そして少女の殺人鬼は、その無防備さを逃すことなく体を懐に潜り込ませた。
心臓を狙って、もう一つのナイフが閃く。
運動神経は良い方だが、武道の心得も戦士のような戦い方も知らぬ雪町に、がむしゃらな必殺に抗う手段などありはしない。だがそれもやはり、あらかじめそうくるとわかっているならば、いくらでも対処のしようがあるのだ。
夏目がまるで、雪町の動きが手に取るようにわかっているかの如く動けるなら。
雪町とて同様に、夏目の動きは手に取るようにわかるのが節理。
まっすぐ伸ばした右腕の肘を曲げ、そのまま懐に潜り込んできた夏目の頭頂部めがけて振り下ろす。少女の頭蓋にヒビを入れんばかりの勢いで、鋭く放たれるエルボー。そしてそれもわかっているとばかりに、夏目は地面を強く踏みしめると、すかさず後方へと跳んだ。
凶刃は心臓に届かず、迎撃も空を切る。
「アハッ」
夏目が笑う。
「ふっ」
雪町も笑みを零す。
そしてまた、同時に地を蹴った。
再び首を狙って振るったタクティカルナイフが、果物ナイフの腹で受け止められる。弾かれると同時に、今度は果物ナイフが首を狙う。それをタクティカルナイフで受け止め、弾く。
刃で狙い、刃で受け止め、刃で弾く。
無茶な使い方であることなど百も承知。刃こぼれは確実で、研いでも切れ味が元に戻らない可能性の方が高い。それでも、二人して凶刃をぶつけあうことを止められないでいる。
まるで、手に手をとって踊るように。
凶刃の舞踏が、夜闇の中で繰り広げられる。
「先輩」
「夏目」
「せんぱいっ」
「――なつめ」
互いの名を密やかな声で呼び合いながら、ナイフを振るい続ける。
永遠に続くかのような、そんな錯覚さえ覚えた。
けれどそれは、本当に錯覚でしかなく。
――――ドォンッ!
獣の舞踏に気を取られ、接近に気づかなかった雷鳴が、夜闇を裂くように響いた。
「――」
「――っ、ぅ」
完全に不意打ちで聞こえた音に、雪町はわずかに瞠目する。
だが、夏目は両肩を震わせて、それ以上の反応を示した。
二人の舞踏に横合いが入り、歯車のように噛み合っていた剣戟に乱れが生じる。元より、噛み合うように凶刃を交合できていたことが奇跡に等しい。ゆえに、わずかな乱れで容易く舞踏は見る影もなくなり――――
「、っ」
凶刃を捌き損ねた夏目の頬に、一筋の傷が走った。
「――――」
白い頬に生じた、赤い線のような切り傷。
そこから伝う紅いものを見て、夢から覚めたように雪町は我に返った。
ナイフをできるだけ少女から引き離すよう、足裏に力を込めて思い切り後方に跳ぶ。直後、雷鳴を轟かせる上空から、ぽつりぽつりと雨粒が降り始めた。
雨粒はあっという間に勢いを増し、地面を、死体を、二人の殺人鬼を水浸しにする。
「……」
「……」
雨程度ならば、二人の殺人鬼は踊ることを止めなかっただろう。
雷鳴でもそれは同様だった。驚きこそすれ、止まる理由には本来ならなかった。
だからこそ、少女の殺人鬼は不意に我に返った同類に怪訝そうな目を向ける。少年の殺人鬼もまた、突然我に返ってしまった自分に疑問を抱いていた。
だが、これだけはわかった。
今宵はもう、殺人鬼とは踊れない。
夏目の頬に走った傷は、雪町に殺し合いの酩酊を許さなかった。
「……夏目」
「なんですか、先輩」
「風邪を、引くから。早く家に、帰りなよ」
そう言いながら、彼女の血が流されたタクティカルナイフを畳んでポケットにしまう。
踵を返して背を向ければ、その背に困惑と動揺の視線が突き刺さるのを感じた。それを申し訳なく思いつつも、今は殺人鬼として夏目と対峙する気にはなれなかった。
こうして、殺人鬼の二夜目の邂逅は終わる。
雨は地面に広がる被害者の血を洗い流したが、殺人鬼たちの心は同様にはいかなかった。
☨☨☨
長期休暇中のカウンター当番は、何年図書委員をやっても憂鬱だ。
それでも、これほど行きたくないと思ったのは初めてだと。
強い日差しが照りつける中、そんなことを思いながら雪町は学校に足を運んだ。
長期休業期間でも土日以外は開館しているため、図書委員もそれに合わせてカウンター当番をこなさなくてはならない。さすがに拘束時間は短く、担当するのは放課後に当たる時間のみになる。だが、それに忠実に登校すると一番暑い時間帯を歩かなければならないので、毎年図書委員の半数は早めに行って図書室で涼み、半数はそもそも登校しないことを選ぶ。
雪町は、一昨年と去年は早めに登校して暑い時間を避けた。
だが今年は登校自体を躊躇していたため、覚悟を決めたころには太陽は天高く昇っていた。
「暑い……」
顎を伝わって滴らんばかりに噴き出る汗を拭いながら、熱気のこもった廊下を歩く。
図書室は三階にあるため、階段を上らなくてはいけないのも億劫だ。それでも、ここまで来て今さら引き返すわけにもいかない。重たい足を進めて、図書室の前に辿り着いた。
扉を開ければ、冷やされた空気が汗だくの体を撫でる。
その心地よさに思わず足を止めて一息ついてから、室内へと踏み込んだ。
「おや。こんにちは、雪町くん」
「こんにちは、先生」
そんな雪町に、カウンターに座っていた司書教諭が声をかける。
それに挨拶を返しながら、視線を軽く彷徨わせて相方の姿を探した。
夏休みの只中ということもあり、常連の姿さえない閑散とした図書室の中。一見すると見当たらない後輩の姿に、苦い感情が湧き上がる。それをなんとか表情に出ないよう苦心しつつ、改めて司書教諭の方に顔を向けた。
「先生。夏目は?」
「夏目くんには、コンビニにアイスを買いに行ってもらってるよ。二人とも真面目だからね、ちょっとした奢りさ。あとでこっそり司書室の中で食べるといい」
「ありがとうございます」
炎天下の中を歩いてきた身には、その言葉は相当にありがたい。茶目っ気を浮かべて微笑む司書教諭に、雪町は唇を綻ばせながら軽く礼をした。
そんな雪町を見つつ、それにしても、と司書教諭は口を開く。
「今日は遅かったね、雪町くん。体調でも悪いのかと、夏目くんと心配してたよ」
「……ちょっと、寝坊をしてしまって」
「ああ、夏休みだからねえ。私も休みの日はつい二度寝してしまう」
日頃の行いもあって、一言の言い訳で司書教諭はあっさり納得する。
嘘の言い訳だったこともあって心苦しさを感じたが、まさか本当の理由を言うわけにもいかない。仕方なく苦笑いを返していると、後ろの方で扉の開く音が聞こえてきた。
「はー、涼しい……」
ほぼ同時に、脱力した声が耳に届く。首だけで振り返れば、暑いからだろうか、長い髪をポニーテイルに結った後輩が、汗を拭いながら図書室の中に入ってくるのが視界に入った。
「あ。雪町先輩、こんにちは」
「……こんにちは、夏目」
夏目の方も雪町の姿を視認し、コンビニ袋を提げた手をひらひらと振る。
見慣れた姿で、見慣れた顔。だが今、少女らしい輪郭を描く頬にはテープ絆創膏が貼られ、その下に何らかの傷があることを如実に示していた。
傷をつけた張本人たる雪町は、それを見てまたしても苦い感情が湧き上がるのを感じた。そんな雪町の傍らで、夏目と司書教諭はのんびりとしたやりとりを交わす。
「夏目くん、おかえり」
「ただいま戻りましたー。外ほんと暑いですね……」
「今日も猛暑日だからねえ。雪町くんも来たことだし、まだ当番の時間じゃないから司書室で一緒にそれ食べちゃいなよ」
「はぁい、ありがとうございまーす」
暑さで気が緩んでいるのか、夏目は普段より間延びした声を紡ぐ。そうして一歩踏み出したところで、動く気配のない雪町に怪訝そうな顔を向けた。
「先輩? そういうことですし、アイス食べちゃいましょうよ」
「……ああ、そうだね」
その呼びかけで我に返ると、先を歩く夏目に続いて司書室に入った。
作業台が置けるだけのスペースはあるものの、本棚や作業用パソコン、冷蔵庫といった家具家電があるため、司書室はさほど広さを感じない。
後ろ手に扉を閉めてしまえば、そんな司書室に夏目と二人きりになる。
その状態の気まずさに一拍遅れて気づいたが、ここで出て行くのは明らかに不自然であったし、何より夏目に対して失礼でもある。一呼吸を入れてその気まずさを追い払いながら、先に座った夏目に倣って適当な椅子に腰かけた。
一方の夏目は、雪町の気まずさにも居た堪れなさにも気づいた様子はなく、作業台の上にコンビニの袋を置き、戦利品を取り出す。
バニラ味のアイスクリームと、オレンジ味のシャーベット。
二種類のカップアイスを並べてから、雪町の方を見る。
「先輩の好みわからなかったんで、適当に二つ買いました。どれがいいです?」
「夏目が買いに行ったんだから、先に好きなのを選んでいいよ」
「あいにくとどっちも好きでして。なので先輩がさっと決めて選択肢減らしてください」
「……じゃあ、オレンジの方で」
有無を言わせぬ様子に、選択権の譲渡を諦めて今食べたい方を口にした。
オレンジ色の器と木製のスプーンが、目の前に差し出される。蓋を外して鮮やかなオレンジにスプーンを突き立てれば、夏らしい音が小さく響いた。
掬ったそれを口に入れると、甘酸っぱい柑橘の味と冷たさが広がる。体の中から冷えていく感覚が心地よく、無意識のうちに強張っていた肩から力が抜けた。
しかし、すぐ近くでバニラアイスを食べている後輩を見ると、抜けたばかりの力が戻り、再び肩を固くする。テープ絆創膏を貼った顔がアイスを頬張って年相応に緩んでいる分、余計に蓄積する思いは大きかった。
来たくはなかった。会うのも怖かった。
それでも、会いたかったし会わねばならないとも思った。
言うべきこと、伝えるべきことのために、厭う心身を叱咤して今日は来たのだ。
だが、本人を前にすると、どうしても口が重くなってしまう。結局言い出せたのは、二人ともアイスをほとんど食べ終えたころだった。
「……夏目」
「なんです?」
「……傷は、大丈夫かい?」
「傷? ああ、これのことですか?」
一瞬首を傾げた後、すぐに何のことを言っているか気づいたのか、夏目はスプーンを持っていない方の手でテープ絆創膏をなぞる。
「破傷風とかにはなってないから、大丈夫ですよ。ナイフでざっくりと斬られちゃったんで、傷跡がどうなるかはまだわかんないですけど」
「……すまなかった」
「えっ?」
「君の顔に、傷をつけたのは僕だから。なら、君に謝らなければいけないだろう?」
「はい?」
雪町としては至極真面目に、そして相応に勇気を使って謝罪の言葉を告げた。
それに対し、夏目はまたしても首を傾げた。そして今度はずっと首を傾げたまま、雪町のことをまじまじと見つめる。不躾なその視線から顔を逸らしたいのを堪えていると、心底不可解だと言わんばかりの様子で夏目が口を開いた。
「……えっと先輩? 私たち、確かあの時殺し合いしてましたよね?」
「? うん、そうだね」
「殺そうとしていた相手の顔を傷つけて謝るって、おかしくないです?」
言われると確かにその通りなので、指摘されるとぐうの音も出なくなりそうになる。
殺害という大事を前に、顔の傷など小事もいいところだ。おかしくないかという夏目の言葉はもっともで、雪町とて最初はなぜ罪悪感を抱いてしまったのか疑問に思っていた。
「……そうかもしれない。だけど」
だが、答え自体は見つけてある。
数日間の思考で導き出した言葉を、雪町は声に乗せた。
「女の子の顔に傷をつけるのは、よくないことだと思ったから」
「――――」
「……夏目。そんなあらかさまに「何言ってんだこいつ」って顔をされると傷つくんだけど」
「えっ、いや、だって……」
謝罪と同じく真剣な気持ちで吐露した言葉は、またしても不可解そうに受け止められる。
殺そうとしていた相手に傷害で謝るよりはまだ納得してもらえると思っていただけに、ともすれば謝罪した時以上に怪訝な顔をされたのは地味にショックであった。そんなに変なことを言っただろうかと内心しょげていると、さすがに辛辣すぎたと思ったのか、夏目は若干申し訳なさそうな表情になる。
「えーっと……。いやでもまあ、気にする必要はないと思いますよ? これが可愛い女の子とかなら責任モノですけど、幸い夏目後輩は傷跡一つで変わるほど見目麗しくもないですし」
「……?」
そして告げられた言葉に、今度は雪町が怪訝な顔をする番だった。
「夏目も、可愛いと思うけど」
目が覚めるような美少女では、確かにない。
だが、可愛いか可愛くないかで言えば前者の部類に入るだろう。少なくとも雪町はそう思っているし、だからこそ顔に傷をつけたことを申し訳なく感じたと言ってもいい。
首を傾げていると、目の前にある少女の顔にじわじわと赤みが生じてきた。
「……」
最初はうっすらとしていた朱色は、徐々にその濃さと表面積を増していく。
ほどなくしてその色は夏目の顔全体に広がったが、それを雪町が見届けるより前に、夏目自身の手のひらによって覆い隠されてしまった。
「……夏目?」
「……あの。しれっとそういうこと言われると、反応にすごく困るんですけど」
「そういうこと?」
「天然か!」
「?」
急に顔を隠したかと思えば急に悪態をついた後輩に、ますます首を傾げる。
そんな雪町を手のひらの間から恨みがましそうに見ながら、夏目は小さく溜息をついた。
「……雪町先輩。私、人殺しのひとでなしなんですよ? 知ってるでしょう?」
顔を隠したまま紡がれる言葉は、どこか諭すような、咎めるような響きを帯びていて。
「だからそんな、普通の女の子みたいに扱われるの、困るんですよ」
「……」
ゆえに二の句も反論も口にできず、黙したまま少女を見つめた。
何か言うべきだと、頭のどこかで声が囁く。しかし、弱々しくもはっきりと引かれた一線を踏み越えて何かを言えるほど、雪町は勇猛でも心の機微に疎くもなかった。
「……夏目」
「……そろそろ時間ですよ、先輩」
言葉の代わりに名前を呼ぶも、夏目は話題を打ち切るように立ち上がる。
そう言われてしまうと、言うべき言葉を持たない雪町には反論の余地もない。後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、カップの中に残った溶けかけのシャーベットを口に流し込んだ。
「それじゃあ二人とも、新学期にね」
「はい。さようなら、先生」
「また新学期に」
夕刻。閉館作業を引き受けた司書教諭が、雪町と夏目を見送る言葉を口にする。
その言葉に軽く一礼をしてから、二人は図書室を後にした。
「……」
「……」
司書室でのやりとりもあり、二人きりになると気まずい空気が流れる。
しかし、向かう先は同じ昇降口。露骨に別行動を取るのはさすがにはばかられたので、先行して歩き出した夏目についていくように雪町も歩き始めた。
ひとまとめに結われた髪が、ヘアースタイルの名前さながらに揺れている。
その動きを目で追いそうになり、すぐに不躾だろうかと思い至って目を逸らす。その際、何気なく見た窓の外に暗雲が立ち込めているのに気づき、足を止めた。
「なんだか雲行きが怪しいね。もうすぐ降るんじゃないかな」
「えっ、嘘。天気予報だと一日晴れって言ってたのに」
零した言葉につられて夏目も足を止め、空を見てげんなりした顔になる。
「まじかー。傘持ってきてないんだけどなあ」
「僕もだよ。職員室に行って借りに行くかい?」
「そうしますか。いくら夏でも、びしょ濡れになったら風邪引きそうですし」
「……」
女の子なのに、びしょ濡れになる想定をするのはどうなのかと。
そんな言葉が喉まで出かかり、寸で飲み込む。
意識しないように努めれば努めるほど、夏目の少女としての側面に意識が向いてしまう。
実際に殺人鬼である前に少女なのだから、無理に目を逸らすこともないのだろう。しかし、夏目がそれを嫌がっているのなら話は違ってくる。雪町も人殺しのひとでなしではあったが、進んで人の嫌がることをやろうとは思わなかった。
(それに、彼女には――――)
思考しながら、視線を窓から夏目の方に戻す。
直後。
――――ドォンッ!
暗雲から、雷鳴が落ちてきた。
「っ」
「ひゃぅっ!」
視線を空から外した直後であり、何よりも平時だったので、つい肩が跳ねてしまう。
しかし、目の前の少女はそれ以上のリアクションをとった。
一オクターブ高い声を上げながら、耳を押さえる。動作自体は異なるものの、それは殺人鬼として二度目の邂逅を果たした夜の彼女を連想させた。同時に、顔を傷つけてしまった時の衝撃に覆い隠されてしまっていた、一つの疑問が首をもたげた。
不思議ではあったのだ。
音に驚いただけで、一瞬とはいえあれほど精彩さに欠けてしまうものかと。
「夏目、ひょっとして雷が苦手なのかい?」
「うっ」
図星を突かれたような呻き声と露骨に逸らされた目が、何よりの肯定だった。
なるほどと得心したのもつかの間、先ほどの雷鳴を皮切りにしたように空が轟き始める。黒雲も色濃くなっていき、あっという間に今すぐ一雨きそうな様相へと変わってしまった。
ただの雨なら傘を借りて帰ればいいが、雷雨ではそうもいかない。
どうしたものかと思いつつ、ひとまず夏目の意向を聞いてみようと口を開きかける。
だが、雪町が声を発するよりも早く、大きな雷鳴が響いた。
「ぅ~~~っ!」
二度目の轟音に耐えかねたのか、声にならない悲鳴と共に、夏目が頭を抱えて座り込む。そしてそのまま、華奢な両肩が小刻みにわななき始めた。
今の雷鳴が引き連れてきたかのように、外から雨の音が聞こえ出す。
そうして雷鳴と雨音が響く中、雪町は蹲る少女をジッと見つめていた。
「……」
震えている肩を、無性に抱き寄せたいと思った。
雷に怯えている少女を抱きしめて、安心させたいと思った。
彼女を殺すよりも、彼女に触れたいと腕が疼いた。
しかしそれは、殺人鬼に対してとるべき行動ではない。彼女に困ったような顔をさせてしまう、普通の女の子にするような扱いだ。
触れたいと思う気持ちを抱え込んだ頭で、司書室でのやりとりを思い出す。
諭すようで咎めるようだった、夏目の声を思い出す。
(……また、困らせてしまうだろうか)
顔を隠させてしまうだろうか。
嫌がられてしまうだろうか。
――――嫌われて、しまうだろうか。
(……ああ、それは、嫌だな)
夏目に触れたいという気持ちを、夏目に嫌われたくないという思いが上回る。
疼いていた腕が、緩やかに鎮まっていく。
だが、目の前の少女に何かしてやりたいという気持ちまでは消えなかった。
「夏目」
名前を呼びながら、そっと夏目の前に片膝をつく。
「……せん、ぱい」
近づいてきた雪町に、夏目はおずおずと伏せていた顔を上げた。
今にも涙が零れ落ちそうなほど潤んだ目を見て、また腕が疼きかける。しかし、触れた瞬間に涙が零れるところを想像するだけで、その疼きは瞬く間に萎えてしまう。
代わりに、安心させるように微笑んだ。
「実は、僕も雷が苦手なんだ」
紡ぐのは、あからさまな嘘。
口にした先からばれるような、拙い言い訳。
「だから雷が落ち着くまで、夏目の傍にいてもいいかい?」
せめてこれくらいは許して欲しいと思いながら、傍らにいることを請う。
「……」
その嘘に目を丸くした後、夏目は弱々しい動きで首を縦に下ろす。それきり首は動かなかったが、そこに雪町の言葉を拒絶する意思は感じられなかった。
そして。
「……傍にいてください、せんぱい」
雷鳴と雨音に掻き消されそうなほど小さく、けれどすぐ傍らにいる雪町の耳には届く声が、紡がれる。嘘だと知り、その上で雪町の言葉を許容する言葉が、零された。
「傍にいるよ、夏目」
暑い夏の季節。
過ちが一つ積み重ねられたことを、この時の二人は知るよしもなかった。