春:殺人鬼たちの邂逅
二階にある自室を出て階段を下りれば、朝食の良い匂いが鼻をくすぐった。
食欲をそそるベーコンの香りに、空っぽの胃が小さな音を鳴らす。催促してくる腹を宥めすかすように撫でながら、夏目柚木はダイニングキッチンのドアを開けた。
「おはよう」
「おはよう、柚木。もうできちゃうから、飲み物用意しちゃいなさい」
朝の挨拶をすれば、母はコンロと向かい合ったまま、顔を向けずにそう返す。
「はーい」
反論や抵抗を挟む余地など欠片もない。素直な返事をしつつ、昨日の夜に使ったマグカップを食器洗い機の中から回収しようと、フライ返しを操る母の隣に立った。
そして、まな板の上に置かれたままだった包丁を手に取る。
家事手伝いの一環として、夏目が研いでいる包丁。
つい数分前までは、食材を切るのに使われていたそれを掴んで。
――――素早く、母の喉元を掻っ切った。
「、っ、ぁ?」
怪訝そうな声に一拍遅れて、切り口から多量の血が噴き出た。
それはキッチンの壁を、コンロを、フライパンを、ベーコンを、目玉焼きを、赤く紅く朱く汚していく。香ばしい匂いは、生臭い鉄の臭いに上書きされた。
疑問と苦悶の色を湛えた母の目が、夏目を見た。
それに微笑みを返しながら、包丁を振りかざし――――
「切れ味、どう?」
「柚木が手入れしてくれるからばっちりよ。今日のトマトも、楽々スライスできたわ」
「ん、よかった」
「トマトはサラダにするのと、ベーコンと一緒にトーストにのせるの、どっちがいい?」
「んー、じゃあベーコントマトで」
「はいはい。トマトはテーブルの上に置いてあるから、とってちょうだい」
「りょーかい」
そう返事をしながら、手に持った包丁を再びまな板の上に戻した。
皿に盛られたトマトを渡せば、母はフライパンの隙間でそれを焼き始める。ベーコンから出た脂を吸いながら焼けていくそれを見つつ、今度こそマグカップを回収した。
適当な紅茶のパックを一包放り込み、電気ポットのお湯を注ぐ。茶葉の中身がお湯の中に溶けだしていくのを横目に砂糖やらミルクやらを用意していると、テーブルの上に完成した朝食が置かれた。
気が回らなかった箸やバターも、母はしっかりと出してくれた。
いつもどおりのかいがいしさ。それを当たり前のものとして享受しつつ、準備が整った飲み物を脇に添えてから着席する。
「はい、召し上がれ」
「いただきます」
頭の中では母の死体を見下ろしながら、夏目はそっと手を合わせた。
夏目柚木の一日は、母を頭の中で殺すところから始まる。
決して母と不仲なわけではない。テレビのバラエティーやホームドラマに出てくるような、友達感覚で接する親密さとまではいかないものの、いたって関係は良好だ。
しかし、夏目は毎日のように、母を頭の中で殺している。
斬殺、刺殺、絞殺、撲殺、殴殺、溺殺、エトセトラ。
一般家庭でできるあらゆる殺し方を、あらかた脳内で実行した。
全ては、母を殺す瞬間をなるべく先延ばしにするために。
身の内に飼った殺人への欲求を少しでも想像で宥めすかして、その発散を減らすために。
人間の三大欲求である、食欲、睡眠欲、性欲。生存と繁栄に不可欠とされる三つの欲求を抱えるのが人間という生き物だが、夏目はさらに第四の欲求を抱えている。
それが、殺人欲求。人を殺さずにはいられない渇望。
生きるための食事を快く思い、生きるための睡眠に安らぎを覚え、生きるための繁殖行為に悦楽を感じるように、夏目柚木は生きるために殺人を犯し、そうして渇望を充足させる。
渇望を充足させたいから、殺すのではない。
それは快楽殺人者と呼ばれるもので、夏目自身はそれとは違うと認識している。
夏目にとって人殺しとは、もはや呼吸に等しいものだ。
呼吸を止めたまま生きられる生き物がいないように、控えることこそできるものの、止めることはできない。生きる上での、必要不可欠なファクター。その時に得られる充足は、あくまでも附属物に過ぎない。何の快楽もなくても、夏目は人を殺すことを止められないだろう。
初めての人殺しは小学生のころ。
家にあった果物ナイフで、寝ているホームレスの老人を刺し殺した。
それから父の仕事で引っ越しが決まるまで、近辺のホームレスを何人か殺した。
その後は転勤族の父に連れられるまま各地を転々としつつ、目についたホームレスを、夜道ですれ違った見知らぬ他人を、殺した。
得物はずっと、最初に使った果物ナイフを愛用している。
家事の手伝いと称して他の包丁と一緒に――けれどナイフだけは念入りに――研ぎ、人を殺せる切れ味を維持していた。調理器具にこだわった理由は、人殺しが自分にとって食事と大差ない行為だからだろう、と夏目は思っている。
食事と大差がない。
夏目にとってはそれくらい、人殺しは当たり前の行為だ。
母を今殺さないのは、まだ親に庇護されないといけないモラトリアムの最中ゆえ。
発散を減らしているのは、やりすぎてしまうと殺人自体がやりづらくなるがため。
いずれは母も殺すだろうし、殺人という行為を止めようとは思わない。
なぜなら、夏目柚木はそういう生き物だからだ。
生まれついた時から、そういうものとして存在が定義されている。
だから夏目は、自分のことをこう呼んでいた。
――――殺人鬼。
人を殺すものとして生まれ落ちたひとでなし、と。
☨☨☨
(あー、憂鬱だ)
放課後。授業が終わった解放感に浸れるはずの時間だが、夏目の表情は浮かなかった。
彼女が今いるのは、校内にある図書室。
ライトノベルの所蔵は少なく、漫画の所蔵は無いに等しい。つまりよほど本が好きな生徒か静かな場所で自習がしたい真面目な生徒でも無い限り、オリエンテーリングか授業利用以外で来ることが無い場所だ。
しかし今、室内は十数人以上の生徒がいて、それぞれが交わす雑談で騒々しい。
夏目のクラスメートも先ほどまで隣にいたのだが、もっと仲が良い生徒のいるグループに混じって雑談に興じていた。夏目としても、無理に話をしていると殺人欲求の抑えが弱くなりそうなので、そういう対応は願ってもないことではあったが。
男女比率は均等では無いものの、それぞれの学年の生徒が等しい人数で揃っている。図書室だというのに本を読んでいる生徒は少なく、話をしている生徒の方が圧倒的に多い。戸に貼り出されている『私語禁止』の張り紙が哀愁を漂わせていた。
そんな図書室の戸には、今はこんな看板がかけられている。
すなわち、図書委員会使用中、と。
「君たち、いい加減静かにしなさい!」
騒々しい図書室の中で、一際大きな声が響く。自主的に静かになるのを待つのが不毛と気づいた若い女教師は、手を叩く音で生徒たちの意識を無理やり自分の方へと向けさせた。
ようやくそれで、いったんは静かになる。
口を閉じた瞬間に死んでしまうとばかりに、一部の女子は懲りずに小声で雑談を再開する。女教師はそれにこめかみをひくつかせたものの、今度は注意せず、本題を話し始める。
「それでは、今週の図書委員会を始めます。先週通達したように、今日は今年度の図書室カウンター当番の班決めです。一年生から順番にくじを引きに来てください!」
(……はあ)
そうして告げられた言葉に、夏目の憂鬱はさらに高まった。
今年赴任してきたばかりの女教師は、良く言えば理想が高く、悪く言えば周りが見えていないタイプの教師だった。
担当教師の転勤で空席になった図書委員会顧問。その後釜に収まった彼女は、持ち前の志の高さを遺憾なく発揮した。今までクラスごとに担当していた図書室のカウンター当番を、親交を深めるというお題目のもと、くじ引きで決めると言い出したのだ。
無論、先週は大ブーイングだった。
月二回の当番も、人によってはわずらわしい責務だ。
その上それを、ある程度気心が知れたクラスメートとではなく、ろくに言葉を交わしたこともないような先輩や後輩とやれというのだから、嫌がる声が多いのも当然と言えよう。
夏目は当番自体を厭うてはいなかったが、それでも知らない相手と組むのは嫌だった。
あまり面識がない人間には、殺人欲求の歯止めがききにくいのだ。
殺したくないというわけではない。
やれるものなら、今すぐ隠し持っているフォークを誰かの喉に突き立てたいくらいだ。
ただ、自分が所属するコミュニティーの空気を、自分の手で悪くしてしまうのは避けたかった。未成年から被害者が出てしまうと、市内全体の警戒レベルが上がるので、しばらく殺人がやりづらいから困るというのもある。
(夏休みの当番の時に、うっかり殺しちゃったらどうしよう)
物騒なことを、献立に悩むような軽さで考える。
殺人鬼としては正しく、人としては間違っていた。
「あー、やだな」
「面倒くさい……」
「かっこいい人がいいなあ」
「せめて可愛い子……」
一緒に班を組む候補の中に人殺しが混じっているとは露知らず、この班決めを最も嫌がっている一年生たちが順番にくじを引いては、席に戻りながらそれぞれの思いを零している。面識がない相手と組む可能性が一番高い彼らにとっては、それは切実な呟きだろう。
交換が発生しないようにか、女教師は引いた端からくじを開かせ、そこに書いてあるアルファベットを、クラスと氏名とともにホワイトボードに書き込む。神経質そうな文字を眺めてから、自分は果たして誰と組まされるのだろうと、何気なく図書室の中を見渡した。
図書委員会を選択する者の半分は、さらに厳しい業務が待っている委員会よりマシだからという消去法で選んでいる。だがもう半分は、夏目のように本を読むことが大なり小なり好きなため、この委員会を選んでいる者たちだ。
そのため、会話こそしたことはないものの、見知った顔自体はちらほらいる。あくまでも顔を知っている程度で、把握していてもせいぜい学年までだが。
しかし、その中で唯一、名前も知っている者がいた。
窓際の席に座り、周囲の喧騒がないもののように無表情を浮かべている男子生徒。
今年の三学年であることを示す緑色の校章を、ブレザーの胸元につけている。彼は去年も図書委員会に所属しており、図書室自体にもよく通っている生徒の一人だった。
人形めいて見えるほど整った顔立ちをしており、男性にしては長めの髪もあいまって、中性的な美形だ。時折女子生徒が、彼に熱っぽい目を向けている。それに気づいた男子生徒が嫉妬の目を向けるが、女子の眼差しにも男子の視線にも、彼は等しく凪のような態度であった。
(……雪町宗介、先輩)
そんな彼の名前を頭の中で転がしながら、頬杖をつく。
名前を知ったのは、去年のカウンター当番で彼の貸出手続きをした時だ。
かっこいい人の名前はかっこいいのだなと。最初にその名を聞いた時、世俗的な感想を感慨もなく抱いたのを覚えている。つまり、夏目は彼の容姿自体にはさほど関心はなかった。
殺人鬼にとって人間は、今殺すか、いずれ殺すかの二種類だけだ。
老若男女、美醜、人格の善悪、はては血の繋がりも問わない。
実の両親すら、いずれは殺す相手として見ているひとでなし。
そんな彼女が同じ委員会に所属しているだけの先輩の名前を覚え、その存在を記憶に留めている理由。それにもやはり、殺人という事象が関わっていた。
ポケットに忍ばせているフォークを、眼球に突き立てる――そこで終わる。
後ろからそっと忍び寄り、頸動脈に指をかける――そこで終わる。
同じく後ろから忍び寄って、ハードカバーの角を後頭部に振り下ろす――そこで終わる。
窓の傍らに立ったところを、後ろから突き飛ばす――そこで終わる。
頭の中で、思いつくありったけの殺人方法を、雪町に実行しようと試みる。
しかし、そこから先が続かない。この空間にいる他の人間を殺し尽くす想像はできるのに、雪町が死体になっている姿だけは、夏目は欠片も思い浮かべることができなかった。
今まで、誰であろうと頭の中で一回は殺してきた。
それなのに、雪町だけはなぜか殺すことができない。
(殺したくない……ってわけじゃないんだけど)
それどころか、実際に手をかけてしまいたいと殺人欲求が疼いてすらいる。
代替行為の未遂でたまったフラストレーションは、ずっと夏目の中でくすぶっていた。
「――――夏目! 二年四組、夏目柚木!」
不意に甲高い声で呼ばれ、思考に沈んでいた夏目の両肩がびくりと跳ねた。
「っ、はい!」
「貴方の番です、早く前に出てくじを引きなさい!」
反射的に返事をしながら顔を上げれば、肩をいからせた女教師がヒステリック手前の声で告げる。ホワイトボードを見れば、確かに次は夏目が所属する二年四組の番だった。
子供のように叱りつけられた夏目に、心ない小さな笑い声と不躾な視線が向けられる。羞恥で熱くなっていく頬を掻いていると、少し離れた場所でクラスメートが申し訳なさそうに手を合わせているのが目に留まった。
フォローができなかったことを詫びるクラスメートに気にするなと笑いかけてから、席を立ってホワイトボードの方へと向かう。そして、女教師の咎める視線を受けながら、段ボールで作られた箱の中から一枚の紙を抜き出した。
書かれていたアルファベットはF。
まだ誰の名前も宛がわれていないことに内心眉を顰めつつ、席へと戻った。
その際、気取られないよう、もう一度だけ雪町を見やる。
うっすらと突起が浮いた喉に、頭の中でフォークを突き立てようとする。その想像もまた、フィルムが途中で切れた映画のように続かない。思わず溜息が零れた。
(……雪町先輩とだけは、組みたくないな)
彼だけは、うっかりではなく、本当に殺してしまいかねない。
早く誰かの名前が書かれますようにと願いながら、今度は思案に浸らずくじ引きを眺めた。
二年生の番が終わると、残った三年生が順番に席を立ってくじを引き始める。
さすがに三年生の番ともなると空白のアルファベットはなく、穴抜けのパズルを埋めるように班が決まっていく。そのたびに溜息や安堵の声が上がる中、ゆっくりと席を立った雪町は、変わらず我関せずと言った様子でくじを引いた。
彼が差し出した紙を受け取った女教師が、その名前をホワイトボードに書き込んでいく。
――――Fの文字の、下に。
(……フラグ回収、早くない?)
雪町と組みたかったのか、何人かの女子生徒が嫉妬の眼差しを夏目に向ける。
代われるものなら代わってやりたい。痛さすら感じる視線にそう思っていると、ホワイトボードを見ていた雪町が、ゆるりと体の向きを変えた。
周囲に対して無関心そうだった青年も、さすがに自分の名前の隣に書かれているのが先ほど叱責を受けていた後輩なのはわかったらしい。一年間顔を突き合わせることになる相手を見定めるように、冷徹な目を夏目に向けてくる。
その眼差しに居心地の悪さを感じ、同時に殺したいとも思ってしまう。
それでもやはり、頭の中で雪町を殺すことはできなくて。
「……あは」
先行きの不安さを感じながら、半ば自暴自棄の思いで雪町に笑みを向ける。
引き攣ってないことを祈るばかりであった。
☨☨☨
夏目と雪町の担当は、第二週の月曜日になった。
班決めが行われた時点で四月の第二月曜は過ぎていたため、初当番は翌月、五月の第二月曜日になる。夏休みに二回も登校しなければいけない月末組に比べれば遥かにマシだが、初当番がゴールデンウィーク明けというのが問題だった。
ただでさえ連休明けの登校は憂鬱なのに、その憂鬱を割り増ししたくない。
昼と放課後、合わせても二時間ほど、カウンターで肩を並べるだけ。
それだけと言ってしまえばそうなのだが、その間、ずっとフラストレーションをためることになるのは目に見えている。精神衛生上よろしくないし、帰り道に殺しかねない。
――――だから。
連休の前夜、夏目は誰かを殺すことにした。
「ちょっとコンビニ、行ってくるね」
午後十一時。フードがついたパーカーを羽織って玄関に立てば、リビングでドラマを見ていた母が廊下に顔を出した。
「こんな時間に? 危ないわよ」
「平気だって。自転車使うし」
「もう。早く帰ってきなさいよね」
「はーい」
一人娘がこうして夜の散歩に出るのは初めてではないため、母の引き留めもさほど熱が入っていない。簡単なやりとりだけで了承し、顔をリビングに引っ込めた。
ドラマの続きを見始めた一児の母は、露ほども知らない。
キッチンの刃物入れから、果物ナイフがなくなっていることを。
その果物ナイフを、娘が服の下に忍ばせていることを。
実の娘が、今から人を殺しにいくことを。
コンビニに行くという言葉が、方便であることくらいは気づいているだろう。しかし、母が脳裏に浮かべているのはおそらく、思春期の娘というテンプレートに沿ったものだ。その裏にあるのが殺人鬼の行動だと察するには、夏目の母はあまりにも普通の人間すぎた。
「いってきます」
それに一抹の申し訳なさを感じながら、夏目は家を後にした。
通学にも使っている自転車に跨り、夜の街を移動する。
家から近すぎてもいけないが、遠すぎてもいけない。適当に家からの距離を稼いでから、店じまいをしている料理店の前に自転車を停めた。
道端では場所を思い出しづらく、まだ開いている店の前だと人目につく。
その点、駐車場の小さい料理店の前などは良い置き場だった。
獲物を見つけやすい路地が近くにあるのも、都合が良い。
(……さて、と)
自転車を停めてしばらく歩いた後、フードを被る。
マスクにサングラスやヘルメットほど、露骨な目印にはならず。しかし、顔を目立たなくするにはそれらに準ずる効果を発揮してくれる。フードを下ろすだけで印象をがらりと変えることもできるので、夏目はこのパーカーを愛用していた。
それから、ポケットに入れていたハーフフィンガーグローブ。これを右手にはめる。
汗でナイフが滑り、殺し損ねてしまわないよう。そのためだけに、装着する。
最後に袖の下に果物ナイフを隠しておけば、準備は完了だ。
あとは、不幸な犠牲者と出会うだけ。
空気中の水分によって、霞みがかって見えるという、春のおぼろ月。
曖昧で不確かで、どこか不安な気持ちにさせる月明かりを感じながら、人気や電灯が少ない夜道を進む。そうして十分ほど歩いていると、離れたところに人影を見つけた。
薄闇の中でぼんやりと浮かぶシルエットは、おそらく女性。
仕事帰りのOLだろうか。足取りは鈍く、遠目からでも疲れた風情を漂わせているのがわかる。猫背気味になっているその背中を、少し眺めた後。
(あれにしよう)
今夜の獲物として、定めた。
歩幅を大股にし、されど接近しているのを気取られないよう注意を払いつつ、徐々に距離を詰めていく。女性の歩調が遅いのもあって、両者の距離は思いのほか早く縮まった。
「――――」
残り、数メートル。
果物ナイフを持った右手が疼く。
それはさながら、空腹の状態で好物を前にした時のような。
それはさながら、安眠を約束する心地よい寝具に寝転んだ時のような。
それはさながら、好意を寄せた異性の前で子宮が疼く時のような。
肉体の生存を促す。そのために付随された欲求の発露を待ちわびる、疼きであった。
(――アハッ)
心の中で笑みを零す。
同時に、女性の首めがけて刃物を振るった。
日頃丹念に研いでいるナイフは、今夜も殺人鬼の望む切れ味を発揮する。女性の髪ごと、皮膚ごと、肉ごと、頸動脈を切り裂き――赤い花びらを薄闇に散らせた。
「ぇ、ぅ、ぁ?」
血が噴き出す音に混じって、呆けたような声が聞こえる。
肉体の驚愕だけが先走っているのか、女性の体がふらつくように前へと傾ぐ。その後押しをするように、一歩下がって足の腱を斬りつけた。
さらに飛び散る、赤い血の花。
地面に落ちる、痛みを訴えるくぐもった声。
女性の倒れる音が、一際大きく響く。けれどそれも、誰かに異常事態を気づいてもらえるほどの音ではない。悲鳴を上げられれば話は違ってくるだろうが、そうさせないために喉を斬るのが夏目の人殺しの手順だった。
「ぁ、ぁ、ぅ、ぐ…?」
とはいえ、倒れ伏した女性は未だ混乱から抜け出せず、疑念に彩られた目を彷徨わせる。
なぜ、どうして、何が、一体、どういうことなのか。
様々なWhyの言葉が、彼女の中では渦巻いているのだろう。
しかし、その答えに辿り着くには、残された時間はあまりにも少ない。地面に広がっていく赤い血だまりが、それを如実に物語っていた。
人は――血を流しすぎれば、死ぬのだ。
ほどなくして声も上がらなくなり、小刻みにわなないていた体も静止する。
死んだのだと、殺したのだと、殺人鬼は肌でそのことを感じ取った。
「……はぁ」
それを見て、夏目の口から吐息が零れた。
さながら、水中から出た人間が、待ち望んでいた呼吸をした時を思わせるそれ。久方ぶりの人殺しが、夏目にとっては呼吸に等しいことの証左でもあった。
人を殺したという実感と共に、生きているという実感が、殺人鬼の心を充足させる。
もう一度息をつきながら、果物ナイフを軽く振るう。ぴちゃりと、ナイフの刃についた血が飛沫となって、地面に叩きつけられる音が響いた。
残りの血は後で拭おうと、ひとまず自転車を停めた場所に戻るため踵を返す。
「っ」
直後、強めの春風が吹き、とっさにフードを左手で押さえた。
雲が流され、空に浮かぶおぼろ月が隠される。
夜の帳がその厚みを増し、周囲の夜闇が濃くなった。
暗さに慣れた視界でも、見通しが悪くなる。血だまりにも、死体にも、夏目の姿にも、夜の闇のヴェールが覆いかぶさっていく。
――――しかし。
数メートル離れた場所に立つ『誰か』の姿だけは、はっきりと視認することができた。
「……っ⁉」
「――――」
夏目のようにフードを被った、上背の高い人物。
おそらくは男性だろう。様子を伺うように、夏目を見ている。
(見ら、れた……⁉)
まず脳裏によぎったのは、それ。
距離を考えると、ほぼ確実に殺害の現場は目撃されている。夜闇の中とはいえ完璧な暗闇には程遠く、加えて先ほどまでは月も出ていたのだ。ごまかせるとも思えない。
次いで浮かぶのは、口封じをせねばなるまいという考え。
だがそれは、ほどなくして一つの疑問に取って代わられる。
人殺しの瞬間を見られた。それは間違いない。
しかし、そうだとするなら男性の様子は不可解だった。
(……なんで、逃げないの?)
逃げもせず、声を上げることもなく、黙って夏目を見ている。
殺人現場を目撃した者の反応としては、明らかにおかしい。
仮に人殺しの瞬間が見られていなかったとしても、誰かが倒れていることは夜闇の中でもわかるだろう。それに対して無反応なのも不自然だ。
驚愕が強すぎて、体が反応しきれていないのかとも考えた。
けれど、男性の纏う静かな雰囲気がそれを否定する。
「……っ」
得体の知れなさに、思わず息を呑んだ。
音は思いのほか大きく響き――それを合図に、男性が一歩、踏み出した。
その時、体の陰に隠れ、今まで意識が向かなかった右手が露わになる。その手が握っているものを見て、男性の右手は隠れていたのではなく、隠されていたのだと理解した。
彼の手には、ナイフが握られていた。
アウトドアに用いられる、刃渡りの短いタクティカルナイフ。その柄を握る手にはめられているのは、夏目がつけているものに酷似したハーフフィンガーグローブ。持ち運びの利便と、滑り止めだけを追求したことが一目でわかるその姿は、まるで鏡合わせのようだった。
「――」
「――」
驚愕と困惑の後にやってきた戸惑いの感情に、夏目の体が強張る。
そして、相手はそれを見逃さなかった。
二歩目の踏み込み。同時に、男性は夏目に向かって駆け出す。
数メートルの距離は瞬く間に埋まる。気づけば目の前に彼がいて、ナイフを持った右手を、夏目めがけて勢いよく振り抜こうとしていた。
夏目柚木は殺人鬼で、運動神経だって良い方だ。
しかし、あくまでそれだけ。ひとでなしであっても超人ではない少女に、不意打ち気味に放たれた、近距離からの凶行を回避する手段などありはしない。そう、本来ならば。
「――――っ」
けれども、夏目の目にはその腕が、さながらスローモーション映像のように見えた。
特別な身体能力がなくとも、特異な動体視力がなくとも。動作自体がゆっくりと見えるのならば、例え後手に回っていようともいくらでも対処のしようがある――!
一拍遅れて、夏目の右手が動く。握ったままだった、ナイフの柄を強く握りしめ直す。
そして、柔らかな腹を裂かんとしていたナイフを、自身が持つナイフの峰で受け止めた。
金属と金属のぶつかる不快な音が、夜の帳に響き渡る。
夏目は驚かなかった。
男性が息を呑んだのがわかった。
そして、今度は夏目がその一瞬を突く。手首を動かしてタクティカルナイフを軽く弾くと、すかさず自由になった果物ナイフで男性の腕を斬ろうとした。
一拍後には、血が飛び散っていたはずだった。
けれど、ナイフが果実のように腕を斬るよりも早く、男性の体が一歩分飛び退く。
女性の血がこびりついたままのナイフが、虚しく空を切る。回避を間に合わせない速さで振り下ろしたはずなのに、まるで最初からわかっていたかのように、男性は凶刃から逃れた。
再び夏目が瞠目する。
そしてまた、男性がその隙を突くようにもう一度距離を詰めた。
頸動脈を狙ってナイフが振るわれる。止まって見えるそれを弾く。背丈差を利用して足の腱を斬りつけようとする。予想していたかのようにその足が振り上げられる。ナイフを叩き落そうとする足を最小限の動きで交わし、無防備になった懐に潜り込もうとする。懐に潜り込ませた頭めがけてナイフが振り下ろされる。回避するように脇を通り抜ける。背中にナイフを突き立てようとする。素早く踵を返されてナイフの腹で受け止められる。
二振りの凶刃が躍り、そしてどちらも相手には届かない。
予定調和のように、まるでそういう舞踏であるかのように。
それはひどくもどかしく、同時に。
「――アハッ」
「――ふっ」
思わず笑ってしまうくらいには、奇妙で深い昂揚があった。
そして、相手も同じように笑みを零したことに、言い知れぬ心地よさを覚えた。
胸に落ちた心地よさの余韻を味わいたくて、一歩後ろに下がる。男性も同じことを考えたのだろう。彼もまた同時に一歩下がり、二人の間に二歩分の距離が生まれた。
「……」
「……」
夏目は彼を見つめた。
彼も夏目を見つめた。
直後、春の空気を纏う強風が、二人の間を通り過ぎた。
押さえる手はどちらも間に合わず、風が被っていたフードを脱がしてしまう。春風は同時に空からも雲を取り払い、ぼんやりとしたおぼろ月の姿をさらけ出させた。
二人の距離はわずか二歩分しかなく。
顔を隠していたフードも、夜闇のヴェールも、今しがた消えた。
互いの顔が、露わになる。
――――そして。
「…………雪町、先輩?」
「……夏目?」
それが見知った顔であることに、二人して驚嘆の表情を浮かべた。
暦が、春から初夏へと移り変わろうとしていた日の夜。
二人の殺人鬼は、こうして出会った。