『私以外の女の子、部屋に入れちゃだめって言ったら先輩困っちゃいますか?』
「この…冷蔵庫にいつからあるのか判らないヴィンテージ目薬を…貴様のキラキラおめめにさしてくれようか…」
先輩はとうとうこの暑さで頭がやられてしまったようだ。
さっきからブツブツと気色の悪い事を呟きながら、 ガチャガチャで当てたフィギュアを握り締めて、片手に持った先輩曰くのヴィンテージ目薬をちらつかせている。
ニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべて━━そもそも爽やかな笑顔を浮かべられる人柄ではない━━真剣にフィギュアに語りかける。いや、もしかしたらこちらに某かをアピールしているのかもしれないけれども、私がスルーしている限りはほんとうに頭が可哀想になってしまっただけの人だ。
「どうだ…怖いだろう…涙が出るだろう…クヒッ、俺なら怖くて失禁するね!」
見付けた時点で捨てれば良いのに。
口には出さずに突っ込む。だって暑いから。先輩の為に動かすエネルギーなんて私にはこれっぽっちもない。だって暑いから。
扇風機の前で項垂れながら、首に巻いた濡れタオルでこめかみを拭う。先輩の元になど来る気はなかったのに、図書館から出た瞬間のあまりの暑さに退避場所を探してしまった。
駅までとても歩けない、しかし図書館の近くにはコーヒーショップはおろかコンビニの一つもない。
かといって図書館にとって返すのも今更嫌で、そういえばサークルの先輩のアパート、この辺だったな。そう思ったのが運の尽きだった。
エアコン? ないよ俺んち、そんなもの。
ピンポンを鳴らしてすぐに、タンクトップとパンツ一丁なんていう見苦しい姿の先輩が出迎えてくれた。そして即座にそんな事を言う。
嘘でしょ先輩。この暑いのに。そう言いながら上がった部屋は外より熱がこもっていて、信じがたいほどの不快指数を叩き出していた。
どうやって生きてるんですか。語りかけた私に先輩は無言で扇風機を向けてきた。カバーにふわふわの埃でたっぷりお化粧されたそれは、強にするのを躊躇ってしまう。掃除してよ。
じっとりとした目で見た私に、先輩は更に冷凍庫から出した何かを差し出してきた。てっきりアイスかと思えばそれはひんやりと冷やされたタオルで、それ以上訊くこともなくそっと首に掛ける。低い声が思わず漏れた。気持ちいい。
「急に来られてももてなせないよ。知ってるでしょ」
「暑かったんですもん。この部屋も暑いけど。何かないんですか、飲み物」
「…凄い。俺、こんなにわがままな後輩初めて」
ぶつぶつと文句を言いながら、それでも冷蔵庫を漁る先輩は優しい。そもそも突然後輩が訪問してきたというだけで迷惑だろうに、部屋に上げてこうして唯一の冷房器具にあたる扇風機の正面という特等席を譲ってくれているのだ。優しくない訳がない。
「…あ」
「何かありました? お茶とかお茶とか、なんなら水でも良いですよ。冷えてれば」
「いや、目薬見付けた。何だこれいつのだろ」
ちらりと覗いた冷蔵庫内は閑散としていて、探すまでもなく飲み物は見当たらない。調味料ばかりが並んでいて、一体先輩は私に何を飲ませようとしてくれていたのだろうか。
「飲む?」
「ふざけてます?」
とりあえず、といった体でそう訊いてきた先輩を即座にぶったぎる。だよね。先輩はそう言いながらも、目薬を持ったまま私の正面に戻ってきた。
歩かれると目線がそのグレーのパンツにいってしまう。布一枚で隠されたそこを見たくもないのについ視線を向けてしまって、出来るだけさりげなくなるように私はタオルで顔をおおった。
どうしてこっちが恥ずかしい思いをしなければならないのだ。私が来たせいか。
「先輩、服着ないんですか」
「暑いから」
「暑いですけど」
小さいローテーブルには何かのプリントと、ポストに入っていたのだろう広告が数枚置かれている。
開け放たれた窓の外、どこかの部屋からカキンと軽快な音と歓声が聞こえてきた。
「何してたんですか、先輩。私が来るまで」
「何も。寝てた」
百八十度、限界まで開かれた座椅子はすっかりへたりこんで、人型に潰れたままになっている。先輩のお尻と背中にさぞかしフィットする事であろう。
「遊びましょ、先輩。暇です」
「俺も暇だよ。何もないよこの部屋」
見るともなしに眺めた広告はピザ屋のものや弁当屋、カレー屋などデリバリーの食べ物屋のものばかりが数枚あった。切り取られたクーポンに、使ったんだ、と思う。一人でピザを食べたのだろうか。似合うような、似合わないような。
「先輩って友達居るんですか?」
「きみ、大概失礼じゃない?」
この家でピザを食べるような友達居るんですか。それが訊きたかったけれど、舌を動かすのが億劫で中途半端に省略してしまった私の言葉は先輩を傷付けたようだった。
ごろりと寝転んだ先輩が何かを掴んで、それを私に見せびらかしてくる。
「ほら、お友達だよ。遊んでな」
「先輩…これはちょっと…」
日曜の朝、女児向けアニメのキャラクターらしいピンクピンクした配色の二頭身のフィギュア。
先輩の手のひらに置かれたそれはにっこりと微笑んでいたけれど、到底同じ笑顔を返せる自信がない。
「こういうの、好きなんですか」
「ちょっと、本気で引くのやめてくれない?」
少しばかり慌てたように先輩が起き上がる。ほら、二年の竹田。あいつがダブったからって寄越してきたんだよ。捲し立てた先輩に、そうですかと私はゆっくり頷いた。
外からは相変わらずどこかのテレビの歓声が聞こえてくる。悲願の全国出場の切符、そんなナレーションが微かに届いてきた。
「私には、分からないので」
「え、っと?」
「先輩、遊んでみてくれますか? そのお友達と」
今度こそにっこり笑った。我ながら百点満点の営業スマイル。
先輩の口の端がひくりと動いたのが見えた。
そうして話は冒頭に戻る。このおぞましくも滑稽な状況は、私の無茶振り一つで始まった哀れな先輩の精一杯の寸劇であるのだ。
「楽しいですか?」
「そう見える?」
死んだ目で振り返った先輩は、私が話し掛けるなり目薬をごみ箱へと放り投げた。それは入ることなく壁との隙間へと消えていく。
フィギュアは定位置なのだろう、棚へとそっと戻された。そこに置かれてあったのか、一部分だけ埃が避けられて本来の棚の色を覗かせている。
「喉渇いたな」
手で扇ぎながら先輩が呟く。汗が一筋タンクトップの中に流れて落ちるのが見えた。私に渡されたタオルもすっかり温くなって気持ちが悪い。
「汗凄いですよ、先輩」
「暑いしね。冷や汗もあるよこれ、多分」
そんなにさっきまでの寸劇が嫌だったのか、ぐったりした顔で先輩は前髪を掻き上げた。内側の濡れた部分がいくつか張り付いていて、じっとりと濡れているのがここからでも見える。
「買いに行きましょうか」
「コンビニ分かる? 結構分かりづらいよ」
「一人で行かせる気ですか?」
立てた膝に顎を乗せて先輩を見つめる。この辺にコンビニがあるなんて知らなかった。ぱたぱたとタンクトップに空気を入れる先輩が、じゃあ一緒に行こうか、と立ち上がった。
「まさかそのまま行かないですよね」
「ちょっと捕まっちゃうよね、俺。着替えるから見ないでね」
「汗だくですよ。シャワー浴びた方が良くないですか」
「…うーん」
先輩がちらりと玄関側、バスルームの方に目をやる。脱衣所もない狭いワンルーム、普段は廊下なりこのリビングなりで脱いで浴室へと向かうのだろう。
ドアは元々ないのか取り外したのか、青い暖簾が掛かっているだけで、覗こうとしなくてもその姿が見えてしまう。私が居るから入りづらいのだろう、気持ち悪くて早く浴びたいだろうに。
「見ないから、遠慮しないで早く浴びてきて下さいよ」
「いや、ちょっと、恥ずかしいよね」
「何がですか。背中、流しましょうか?」
「本当にー? お願いしようかな」
柄じゃない事を言いながらへらりと笑った先輩の前に立ち上がると、紫外線対策に着ていたカーディガンを脱いで、先輩のその濡れたタンクトップに手を掛けた。
とても不快。よく着ていたなと尊敬すらする。
私がカーディガンを脱ぐまでは見守っているだけだった先輩は、私の指が裾を持ち上げるなり慌ててその手首を掴んできた。
「ちょ、ちょっと。それはまずいでしょ」
「何がです?」
焦る先輩を見上げる。こんなに近付いたのは初めてだ。少し持ち上げて露出した肌を指先で撫でると、びくりと先輩の肩が跳ねた。
楽しい。
「…あのね、俺も男だから。困るよ、こういうの」
「嫌ならやめますけど」
「…誰かに何か言われた?」
「言われるような事があったんですか?」
それは罰ゲームの告白であるとか、そういう類いのものだろうか。私がそのようなものに乗るように見えていたのだろうか。
先輩もそういうものの対象にされるようには見えない。可もなく不可もない、それがぴったり当てはまるような人間だ。
「…もっと自分をさ。大事にしなよ」
「してますよ」
「そうは見えないけど」
「私、誰にでもこんな事言うように見えますか」
「…そうは、見えないけど」
かたりと背後で音が鳴った。振り向くと、さっきまで先輩が遊んでいたピンクのフィギュアが床に転げている。風で落ちたのか置き方が悪かったのか。ゆらゆら揺れて、やがて静かに動きを止めた。
手首を拘束していた先輩の力が弱まったのを感じて、するりと引き抜く。 動向を見守るように佇んでいた先輩をバスルームへと追いやった。
「アイス食べたいです、先輩。早くコンビニ行きましょう」
「…あ、うん」
「背中を流すのは、また今度ということで」
がらがらと扉を閉める先輩に、それが聞こえたのかは定かではなかった。
先輩の座椅子を勝手に乗っ取って、そっと腰を下ろしてみる。中の骨組みがお尻に当たって座り心地は全く良くない。
扉の開く音がして、ぱさりぱさりと軽い衣擦れが聞こえた。先輩が脱いだ服を廊下に置いたのだろう。少し経って水の音が聞こえてきて、早く出てこないかなと思いながらフィギュアを拾う。
ピンク色したツインテールは先が丸まっていて、先端を親指に当ててみる。離した後も親指はへこんだままだった。
先輩、タオルとかあるのかな。
ふとそれに気付いてくすくすと笑う。情けない声で、どれでも良いから取って、と言うのが容易に想像出来た。
広告に紛れていたプリントは、よく見ればサークルで配られたものであるようだった。夏休み中いつ集まるか、夏休み後はいつから本格的に再開するか。サークルのグループトークで送信すれば済むだろうそれを、わざわざこうして印刷して配るのは手間ではないのだろうか。
ただの飲みサーに近いサークルのくせに案外先輩たちは面倒見が良い。出席率も高い飲み会は思っていたより居心地が良くて、私も定期的に参加している。
私の部屋にも同じものがあるプリントをひっくり返して、遠慮なくその白紙の裏面にボールペンを走らせた。
「…ごめん。タオル取ってくれる? そこの棚。どれでも良いから」
申し訳なさそうな先輩の声が聞こえて、予想が当たったと私は笑った。暖簾越しに手を伸ばして、覗く気はありませんよという体勢を作る。
受け取った先輩はタオルごと手を引っ込めて、すぐに扉を閉めた。タオル一枚で出てくるのだろうか、と次の行動を予想する。さすがにパンツ取って、とは言わないだろう。
先輩が出てくる前にプリントを伏せて、ボールペンを元の位置に戻す。
先輩は裏に書かれた文字に気付くだろうか。知らず溢れる笑みを手で隠し、何とか先輩が出てくるまでに抑えなければと頬を揉む。
気付いて欲しい。けれど、出来れば一人の時にお願いします。
広告で隠しながら先輩に声を掛けた。遅いですよ。そうっと顔を出した先輩の顔は、見たことがないほど困り果てていた。
「…ちょっと、そっち向いてて」
「コンビニ着いたらダッツで良いですよ」
「分かった。分かったから」
くるりと先輩に背中を向けて、窓の外に耳を澄ませる。もう実況は聞こえてこなくて、代わりにヒグラシが時間の経つのを惜しむように必死に鳴き声を響かせていた。