幕間ー暗転ー
「リュシアン様、いざとなったら躊躇わないでください、いいですね」
ゾラは、すでにこの場を逃げる算段を始めたようだ。これは、いざとなれば使えるものは何でも使えということだ。周りを巻き込むことになっても、相手を害することになっても、という文言が含まれている。
ゾラがここまで言い切るのは珍しい。なぜなら、いざとなったら僕になんと罵られようと、誰を犠牲にしようとも、無理やりにでも僕をふん縛って逃げる覚悟を持っているからだ。
何がそこまで彼を慎重にさせるのか? 僕の視線に気が付いたのか、ゾラが重い口を開く。
「……どうやら上位精霊が近くにいます。精霊使いか、それに準ずる者が潜んでいるようです」
「精霊使い? えっと、ゾラみたいな?」
「私は精霊使いではありません。精霊と契約はしていますが、こちらが優位という関係ではないのです」
少し苦い顔をしてゾラは続けた。
「……上位精霊がいるせいで、微精霊がそちらに引き寄せられています。今の私は、力の半分も出せません」
詳しい話を聞いている暇はないが、今のゾラの状態は、僕たちの感覚で言えば魔力枯渇状態とでもいうところかな……正確には違うかもだけど。ともかく、体術でも十分戦力になるゾラではあるが、相手の能力がわからない状態では確かに心許ない。
なんとか穏便に済ませることができるのが一番なんだけど……。
「ついてこいとおっしゃいますが、これでは誘拐と変わりません。正式な招待であれば、僕もむげにお断りなど致しません。どうか学校側に……」
「今はとにかくご一緒していただく存じます。私たちは、教会の……いえ、神のご意思にて動いております」
うわ、ダメだ話が通じない。表情は優しげなのに、目がちっとも笑ってない。
「き、教会? というと、教皇様ですか?」
「……ええ、……教会の総意でございます」
なんだ? 変な間があったよね。嫌な予感しかしないし。
「ねえ、リュシアン。とりあえず、戻って相談したほうが……」
カトリーヌがそう言った瞬間だった、まるで時間が止まったようにピタッと動きを止めて、クタクタとその場に倒れてしまったのだ。
「なっ!? カトリーヌ!」
僕が慌てて駆け寄ろうとしたが、今度はその足が地面にくっついたように動かなかった。気が付くと、黒装束の男が何やらぶつぶつと唱えており、その横には気の弱そうな細身の女性が立っていた。
どうやらカトリーヌに何らかの仕掛けをしたのはその男で、僕とゾラをその場にくぎ付けにしているのは、女性の仕業らしいことだけはわかった。
僕たちを縛る何らかの力に、リンから感じた気配に似たものを感じたからだ。ゾラが言っていた精霊使いは、おそらくあの女性だ。
ただ動けないだけじゃない、頭を、身体を、針金か何かで締め上げられているかのような圧迫感がある。いつの間にか僕の体は地面に横たわっていた。
急速に思考がバラけて行くような、自分が遠ざかるような感覚。
「……いけません、彼のレジストが……強す……、え、そん……できま……」
「あとで……だいじょ……やれ……はやく」
「ですが……」
「さもなくば、……だけだ。どちらでも……かまわ……」
耳鳴りのような雑音の向こうで、白装束と女性が話している。動かない体を何とか転がして、僕は彼らの会話を理解しようと試みた。
情けないことに、精霊の強力な干渉で、僕もゾラも芋虫のように地面に這いずるしかなかったのだ。唯一、あまり影響を受けなかったチョビが、僕の頭から降りてきて心配そうに見上げてくる。
ゾラの言葉が蘇る。
いざとなったら躊躇わないでください。
つまり、こういうことが起こると、ゾラは精霊の存在を察知したとき覚悟したのだろう。
チョビの力なら、相手を一瞬で消し炭にすることも可能だ。確かに、躊躇うべきではないのかもしれない。けれど、ほんの数秒の迷いが、その決断を決定的に鈍らせるものの存在を、見つける結果となった。
泣いている小さな少女。
精霊を使役していると思しき女性の、スカートの裾からちょこんと顔を出した、僕よりもずっと小さな女の子。いきなり倒れた僕たちを心配して駆け寄ろうとしたのを母親に止められ、泣きべそをかいている女の子だ。
そして黒装束の男によって、その少女は母親から引き離された。
母親と思われる女性と、なにやら揉めているようだったが、やがて決意と悲痛に歪んだ顔をこちらに向けて、その女性は何やらささやいた。
途端に、僕の意識は急速に混濁し始めた。
これ、やばい……完全に落ちる。
もし彼らが初めからこちらを害する姿勢で襲ってきたなら、僕は躊躇わなかっただろう。だが、中途半端な彼らの態度が、僕の決断を鈍らせてしまった。どちらにしても、僕の甘さが生んだ失態なのだ。
「チョ、チョビ。お願い……何としても二人を連れて……逃げ」
僕の予想では彼らの狙いは僕だけだが、それでもこの連れ去りを、今は公にしたくないという雰囲気があった。そうなると、ゾラとカトリーヌも捕らわれるか、もしくは最悪な事態をも起こりうる。
ここで無理に僕も逃げようとすれば、彼らは更なる強硬な手段を講じてくるかもしれないが、少なくとも最優先の目的を果たせば、危険を冒してまで深追いしないだろうと考えた。
とはいえ、僕が意識を保てたのはここまでだった。
チョビが僕の言うことを聞いて、ゾラたちを連れて逃げてくれたのか、思惑通り襲撃者たちがあきらめてくれたのか……歪む意識の中で暗闇に落ちていった僕には、既に確かめようもないことだった。
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