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ニーナの涙

「大丈夫、落ち着いて」


 エドガーに声を掛けつつ、僕はすぐにニーナにも目配せを送って、大丈夫だと頷いた。思わず足を半歩踏み出していたニーナは、きゅっと唇を引き結んで、小さく頷く。

 よし、僕も落ち着こう! まずは、落ち着こう!

 エドガーのコントのような驚きぶりを見なかったら、僕もポーカーフェイスが崩れていたかもしれない。目の前で取り乱す人がいると、却って冷静になる法則だ。ナイスだ、エドガー。


「原文通りではないけれど、この変化は……、わっ!?」


 王子の様子を見ようと覗き込んだ時、いきなり襟首を掴まれ、持ち上げられた。もう、想像ついた。顔を上げると、案の定、額に青筋を立てたエイブの顔があった。

 なんだろう、なんかすごく懐かしいな、コレ。

 ぶらぶらと完全に宙に浮いた格好は、割と首が締まるから早く離して欲しい。


「なにをへらへらしている!? これはどういうことだ、恐れ多くも王子殿下の御身体からこのように……」

「だから、説明しようとしてたでしょ? 気が短いなあ」

「な、なんだと! ……きさっ」

「いい加減にしろよ、てめぇ、すぐにその手を離しやがれ!」


 僕には強く出る彼も、さすがに他国の王族には遠慮があるらしく、エドガーの激高に驚いたように手を離した。もしかしたら、王族とは思えぬ粗野な恫喝に、ただ単に引いただけかもしれないが。


「……エイブ、次に騒ぎを起こしたら問答無用で退出してもらいます。いいですね」

「ひ、姫様……! い、いえ、申し訳ございません」


 ゴタゴタしたが、ニーナが締めることでようやくその場は落ち着いた。

 エイブを庇うわけではないが、あんな現象が起これば、身内なら取り乱すのは致し方がない。見ようによっては、身体のあちこちから大量に出血したかの大惨事に映ったのだから。


「さっきの続きだけど、この変化は手順通りに進んでいる証だと思う。一部が掠れてて確信がもてなかったけど、邪気を除き水へ変化する、みたいな記述はあったので」


 要は、濁った魔水が再び透明になる、と取れるのだ。僕がそう説明すると、エイブが後ろの方で「それを早く言え、これだから……」とか、ブツブツ文句を言っているが、話しを最後まで聞かなかったのは誰だったのかな。


「……どのくらいかかるのかしら?」

「半分は魔法みたいなものだからね、それほどかからないと思うんだけど」


 これは魔法錬金術と薬学を合体したような処方だ。普通の傷薬でも、調合だけで作った薬と、魔法錬金術を併用した薬とでは雲泥の差がある。

 魔法錬金仕様の傷薬の効き目を初めて見た時は、逆再生のビデオを見ているようで、冗談抜きで気持ち悪かったのを覚えている。


「お……、おい! おい、貴様ッ、水が! だ、大丈夫なのか、これはっ」


 ニーナと少し話しているうちに、魔水に変化が現れたようだ。後ろに下がっていたエイブが、飛ぶように王子の眠るケースにがぶり寄って、体当たりのような勢いでヘリにすがりついていた。

 ちょっ……! 間違っても倒さないでよ。


「エ、エイブさん、離れて。すっかり透明になるまで、水に触れないで……」


 僕がそう言った途端、まるで陽の光を反射したかのように魔水がキラキラと輝き始めた。水面に小さなさざなみが立ち、魔水が自らでブルブルと身震いしているようだった。

 ヘリにしがみついたままのエイブはもちろん、僕もエドガーも、ニーナも、その場にいた全員の時間が止まったかのように、誰一人微動だにすることができなかった。

 ただ、そこにある水だけが、細かくさざなみを作りながら発光していた。

 そして、光が引くのに合わせて赤く濁っていた魔水は、嘘のように瞬く間に透明度を取り戻し、数秒後にはすっかり無色透明のただの水へと変化したのである。

 

「あ、ああ……」


 はじめに溜息のような声を上げたのはニーナだ。そして、感極まったようにもう一度、震えるような感嘆の声を上げた。


「ああ! 本当に……、お兄様!」


 僕が止める間もなかった。ニーナは濡れるのも構わず、アンソニー王子を抱き上げるようにして、その胸に抱き寄せた。小さなその身体は、すっぽりとニーナの腕に収まった。

 そして――。


「本当に、本当に……お兄様、よかった」


 すっかり無色透明になった水にたゆたう、白くすらりとした足。残念ながら時間が止まったままの子供の姿ではあったが、それでも、そこにあったのはアンソニー王子のなに欠けることのない身体であった。

 ニーナの瞳からは止めようのない涙があふれ、僕やエドガーも安堵のあまり腰が抜けそうになった。

 実際、抜けた奴も約一名いるけれど。

 

「濡れたままだと体温を奪われるから、はやく着替えさせてないと……エイブ、いつまでも泣いてないで、みんなに指示してね」

「わ、わかっている! それに、私は泣いてなどいない!」


 ニーナに負けず劣らず、ダバーッと目から大量の汗(本人曰く)をかいたエイブは、ぎこちない動きで立ち上がり、奴隷の少年たちに身体を拭く布や、着替えなどを用意させた。

 見届け役の老医師たちもやって来て、王子の脈や様子などを診察し始めた。


「おお……、お目を……姫様、王子がお目を開けましたぞ」


 アンソニー王子を着替えさせる間、少し離れていたニーナは、その老医師の声にすぐに駆け寄った。

 天蓋ベッドへと寝かされた少年は、確かに目を開けていた。

 髪の色こそニーナとは違うが、その瞳はまったく同じ色、深い青……澄んだ群青色だった。

 ゆっくりと瞬く青い瞳は、とくに感情を乗せることなく、覗き込むニーナの顔をただしばらく見つめていた。そうして、そのままパタリと閉じてしまった。


「お兄様?」

「大丈夫です、姫様。脈も呼吸も落ち着いているので、お眠りになっただけでしょう」


 ニーナは、僕の方にも問いかけるように振り向いたので、老医師に同意するように力強く頷いた。

 完全に意識が戻った訳ではなかったが、その顔色、呼吸など、明らかに治療前より健康的に見える。常に苛んでいた痛みからも解放されたのか、その表情も和らいで穏やかだ。今はただ、疲労した身体を眠ることによって回復しているのだろう。

 これからアンソニー王子に必要になるのは、ひたすら滋養と栄養をつけ、静養した後、徐々に体力をつけることである。

 すでに僕達の存在を忘れたかのようなエイブは、老医師に相談しつつ、張り切ってなにやら薬をゴリゴリと始めている。

 手伝いの少年たちも治療道具の後片付けをテキパキと始め、僕らはいつの間にか部屋の隅へと追いやられていき、にわかにここは彼らのテリトリーに戻っていった。

 そんな彼らを見渡し、僕達はお互い顔を見合わせて、誰ともなく扉へと向かう。ニーナは少し後ろ髪をひかれる様子だったが、このことを国王に知らせる必要もあるのだ。

 部屋から出ていく僕達に気が付くと、老医師二人は姿勢を正して深くお辞儀をし、驚いたことにエイブも立ち上がって胸に手を当て、恭しく正式な礼をした。

 ……まあ、ニーナにしたのかもしれないけれどね。

お読みくださりありがとうございました。

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