4.世界と過去と未来
フォシエは食事をとらなくなった。
記憶が戻ったのは良かったが、大切な息子を一人置いてきてしまっている現実は受け入れがたいことである。悲しみと恐怖、嫌悪と憎悪で二日は完全に眠れないほどだった。あまりにひどいのと、疲労で三日目は自然と床に就いた。しかし、記憶が戻ってからの三日間で顔に張り付いた暗い表情は板についてしまった。
そのあと、図書館に行くことにしたのだ。字を読めるということで調べることもできるという利点を利用した。
結果、突然世界を渡ってしまう人や物があるということだけが分かったに過ぎなかった。いつどういう理由でということはわからない。
突然現れた動物はこの世界にいないもので、一頭だけだったから死んでしまったら終わりだったという。
人間の場合は交わっていくこともあるという。
現れた場所によってはいきなり死もありうるという。
「死んだ方がましだったかもしれない」
フォシエは呟いた。
戻れたらと思うと命は重要だとも思う。
二つの思いでフォシエは引き裂かれそうになる。
死を望む自分と、何が何でも生きたいという自分。
「ゼネシス……」
町を行くと、似たような少年を見かけることがある。いや、似ているは年齢だったり背丈だったりするだけであるが、通り過ぎるたびに「ああっ」と思い出しつらい思いが増す。
「妻が突然消えたのもこれと同じことだったのか?」
ゼネシスには母親は病死だと言ってある。
しかし、忽然と消えたのだった。
好きな人ができて出て行ったと口汚い人はいう。
気立てよく、周囲にも気を配っててきぱきと何でもやれる女性だった妻。結婚するときはフォシエがまだ駆け出しの脚本家で不安定に輪をかけたような収入だったにもかかわらず、一緒になってくれた。
「あなたの作品の第一のファンよ! 覚えていなさい、私が嫌っていう作品は売れないから!」
きっぱりと言ってくれた。寄り添いつつも、駄目なところは駄目だと臆せずに言ってくれる。
彼女が言った通り「気にくわない作品」と言ったものは評判はさっぱりだったのは事実だ。彼女が脚本を書いたほうがいいのではと思うほどだった。
「私が書いたところで、知識が足りないわよ。だけど、見て判断することはできるわ。これは……そうね、ミューズの直感かしら?」
尋ねたらそう返ってきたのを思い出した。
「……別の世界で何とか彼女も生きていると考えると……いいのか?」
複数の世界がこことは限らない。
「それよりもゼネシスだ……どうしたらいいのか?」
――不……その……にして前……めば、良き……があ……ろう。
ふとフォシエの耳に届く声があった。
これは一度聞いたことあると周囲を見る。
しかし、それらしい存在は見えない。
老人の男のようで、小さな子のような声。複数の人がしゃべっているそんな感じだろうか。
フォシエはどこかで舞台の練習をやっているのかとも思った。以前聞いたのは町中ではないが、原っぱのどこかで大声を出していた可能性だってある。
いや、場所が違いすぎて奇妙なのだ。
(世界をまたいだ結果、頭が変になっているのか? いや、もともと頭が変になって、今の世界にいるのか?)
フォシエは苦笑する。
しかし、生きてみようと考え始めた。
「死ぬのはいつでもできる。私は恵まれているのだから……そう、ジューニ様のおかげで……ひょっとしたら何か戻るきっかけもつかめるかもしれない」
運ばれた食事に彼は手を付けた。
食事をとっていない彼のためにかなり煮込んで柔らかい野菜や肉の入ったスープだ。
スプーンですくって口に運ぶ。
甘い。
「こんなにおいしかったんだな、料理は」
思わずつぶやく。
控えていたメイドに向かって礼を述べた。
「……料理長に伝えておきます」
フォシエが食事をとっていることでメイドは明らかに安堵していた。
これからのことを本当に考えないとならない。
こちらの世界から消える人もいると分かっている。
その奇跡にすがるしかない。
「……そして、私はどうやって生きるのか? ジューニに仕事を頼まないとならない。ここで私は貴族のように暮らすわけにはいかない」
フォシエは部屋の中を歩き回る。
外を眺めた。
「ジューニさん……」
「いい、ジューニで」
「……お言葉に甘えて……私はフォシエ・ローエンと言います。でも、その名で生きる必要はないのです」
「……」
「フルク・マックスと名乗ります」
「……フルクと最初に言っていたね。誰か知り合いの名前だったのかな?」
フォシエはジューニの反応から一見同じ言葉であるようで、世界にある言語は違うと明確に知った。図書館や新聞で見る字は彼の知っている物であり、口にしている言葉はこれまで通りだった。
それ以外の言語にはまだ触れていない。周囲の国々、過去にあった言語。
「いいえ、知り合いの名前ではありません。私がいた世界の、古い言葉でフルクは『大波』です。そしてマックスは『道化師』です」
「なぜ? 君は道化師などではないだろう。被害者であり、気の毒と言われるものではないか」
ジューニは笑えないと寂しそうな表情をする。
「ええ、でも、私は道化師のように生きられればと思うのです」
「なぜ」
「強いじゃないですか道化師は」
ジューニは唇をかんだ。フォシエが微笑んでいるが、無理しているのがわかるため、あえてそのような名にしたのはわかる。
強い――か否かは見方は割れよう。それでも、フォシエがいいなら、ジューニに異論はない。
「分かった。君の名前は『フルク・マックス』だな。……新しい人生ということか」
「はい……ありがとうございます」
「いや、かまわないさ。君がここで生きていく、それを助けるのが私の役割」
ジューニは寂し気に笑った後、フォシエにハグをした。
ぬくもりは互いに伝わる。
しかし、フォシエは強張っていた。