3.舞台の準備
新しい生活が始まった。
始まったとはいえフォシエには居心地が悪い。
大切な物、自分の名前を思い出せないながらも、この生活はおかしいと感じる。自分がしてきた生活ではないという感触だ。
ジューニが提供した家は質素であるが家具の一つ一つは高品質高価なものであると推測した。あくまで彼自身の記憶の中からのあやふやな情報である。
屋敷、ジューニの持ち物の離れというべき家らしいが、フォシエにしてみれば十分屋敷であり、未知の生活。
生活に必要なものはジューニに言えば用意してくれるという。お金に関しての心配はいらないのは助かる。助かるのだが、本当にそれでいいのかとフォシエは考えてしまう。
夢のような生活、と楽しむにはフォシエはまじめすぎた。
いや、それは記憶があり、何か理由があって送るなら幸せなのかもしれない。
今のフォシエにしてみれば助かるけれどもつらいことだった。
フォシエは何も持っていなかったわけではない。
ポケットにお金やハンカチなどの小物は入っている。帽子は無くなっていたが、衣類はそのまま来ているというのがあきらかだった。
お金に関して、彼が持っているものは使えない。この国では出回っていない貨幣であり、これを見たジューニは非常に重い表情をしていた。どういうことなのだろうかと問いただすタイミングを逃していた。
ますますどうやって連れてこられたのかフォシエには分からなくなる。
だからこそ、本当の名を明かしたくないから「フルク」ととっさに口にしたのは正しかったのだと安心する。
ジューニは親切だし、兵士たちも丁重に扱ってくれたため、ひょっとしたら事実かもしれないことを偽ったのは心苦しいのも本音だ。
何から身を守るのかわからないため正しいと納得はしている。
ジューニはフォシエのために服もあつらえてくれた。普段着、外出着など用途に合わせて。
できた服に手を通し、フォシエは自分が生まれ変わったような気にもなった。上等で自分のための衣類。胸の奥にぽっかりと穴は開いたままだが、やはり新しい服というのは嬉しかった。
生地の手触り。
生地の匂い。
これらはここが現実だと告げる。
フォシエが合わせたのを見た屋敷にいるメイドたちも「お似合いです」「庶民ではなくやんごとなきお方なのでは?」と言われるほど似合っていた。
フォシエとしても似合うほうが嬉しい。自然と心は明るくなる。
しかし、気持ちが明るくなればなるほど、胸の奥は重くなる。
自分はフォシエ・ローエンだと思っているが、外面的にはフルクという名で落ち着いている。
誰もが完全な偽名だと疑わない。記憶が所どころない気の毒な人と同情されつつ。
ここが警戒する理由は貴族であるジューニなら知っていそうなラテン語を知らないから。教養としてラテン語は貴族なら学んでいるはずだから。
このように楽しいこともあるがこの生活がいつまで続くのかわからない不安にさいなまれていく。
記憶が途切れているところに、自分の悪事があった場合はどうなるのだろうか? 知らないうちに重い罪を背負っているかもしれないのだ。
大切な家族はどうしているのだろうか。思い出したくないと思うほどのつらいことがあったのかもしれない。
記憶があるほうがいいのか、忘れているほうがいいのか。
何にせよ、フォシエは不安の塊になっていた。
屋敷の中には書籍を置く部屋もある。新聞も配られる。言葉が通じ、読むこともできる為、フォシエは状況を知るためにも時間があるときは目を通していた。
屋敷の主たるジューニは二日に一回くらいは顔を見せる。貴族であって、まじめに己の役割を持っている彼は暇なわけではないはずだ。
恐縮するとともに、ジューニが来るとほっとする。
ジューニはフォシエが普通にしているのを見るとほっとするようだった。複雑な心境を理解しようとして、その上で、いたわってくれる。
新しい服が来て、それに身を包んでいるフォシエを見てジューニは微笑む。
「もっと明るい顔だったら、社交界でご婦人方が放っておかないだろうな」
それが無理だとジューニも知っている。少しでも心を軽くてあげたいという気持ちだけは伝わる。
毎回お茶を飲むと立ち去るジューニは、今回はだらだらと世間話をしてフォシエといた。
立ち去らないという言い方もおかしい。この屋敷は彼のものだから、いたいだけいればいいのだから。
空気が重い。
視線が泳ぐタイミングがあるため、何か言いたいことがあると察せられた。
「何か問題がありましたか? 実は私はこれまで記憶がないだけで何かひどいことをしていたとか?」
フォシエとしては嫌なことでも聞きたい、このまま放置はできないと思い話を切り出すように勧める。
ジューニはフォシエの顔を見つめ、数秒黙った。目をそらして、唇を湿らせるように舌を動かしている。
本当に言い出しづらいことだと感じる。
「まず、お茶淹れ直しますね?」
フォシエは立ち上がるとカップを下げ、新しいカップとソーサーを出した。
その手元をジューニはじっと見ている。まるで心を落ち着かせ、決心を固めるように。
フォシエはカップに注いだ茶をジューニに手渡した。
「ありがとう……本当、君はなんでもできる。見た目、貴族でもな」
「庶民だと思ですよ、きっと。……だから本当はこんな砕けた口調であなたと話すことはできないですよ」
フォシエは苦笑する。
「それはそれだ。私は君に記憶がないとはいえ、知識という記憶は手放さなかったことを幸運だと思っている」
フォシエは首肯する。知識すら消えてなくなっていたら、ここで茶など飲めないし、ジューニと話すこともできなかった。
まずは世界を知り、言葉を知るところから始まらないといけないのだから。
今でも世界は記憶にある地名がない。遠くに知らない間連れてこられたのかさっぱりわからない。新聞を見て徐々に変だということは認識している。
確信がない、記憶があやふやであるから。
ジューニはテーブルにカップを置いた。
両手を組み、大きく息を一つつく。
「フォシエ……この国……いや、この世界というべきかな……時々、君のような人物が現れるという伝承があるんだ」
フォシエは首をかしげる。
「私のような? 世界?」
「時折、こちらの世界から、忽然と消える人間や物もある。まあ、誘拐されたり盗まれたというのも大半だろうけどね……」
ジューニが言わんとしていることが分からず、「え?」とフォシエは声が漏れる。
「つまり、君は自分のいたところと違う世界にいる……君の話からすると似たような地域性は持ち合わせているようだが、明らかに違う世界だ」
フォシエは目を激しく瞬く。質問をしたいと言葉を出したいが、なかなかでない。お茶を飲み干してカップをテーブルに置いた。
「……ここは死後の世界とか?」
「違う、私は生きているし、神の住まう世界は別にある」
「……?」
フォシエはジューニの前にあるソファに座った。ジューニが言っている意味が理解できないでいる。
理解しようと思考を動かすが、非現実的なことはないと思考は停止に追い込まれる。
いや、すでに認識し始めていたが、確定させたくないという無意識が働いているのだろうか。
「いや、だって……世界は複数ある、というのか? 人間が住む……」
「複数かわからないが、別の世界があるという伝承があるんだ」
ジューニは語る、別の世界があって、そこにも同じように暮らす人間がいると。そこの世界の人間は時々、違う知識を持ってやってきて素晴らしい助言をくれることもある、と。
すべての符号はあっている。言葉のこと、世界の情勢のこと、歴史のことなど本や新聞で見たことはジューニが言うことが正しいと告げている。
感情は認めたくないと告げる。
「……そ、そんな……なら……なら、私は!」
なぜ、違う世界に連れてこられたのか?
誰が、何のために?
ジューニの表情は極めて硬い。言いたくない事実を口にしている様子だ。
信じていいはずの相手が口にした言葉。
「戻ることはほぼ不可能だ」
「……っ!?」
フォシエの目は見開かれる。
ジューニは自分のことのように泣き出しそうで、グッとこらえた表情になる。無表情にだんだん変わる。
「だから、君は、ここの世界で生きる道を見つけないといけない」
ジューニは頭を垂れる。謝罪するように、何かに代わって。
「そんなっ! そんなっ! なら、地震でおびえているはずの……おびえているはずの息子は! 息子の様子を確認できずにっ!」
フォシエは叫んだ。外面もはばからず泣き、叫ぶ。ジューニに迷惑だろうが、使用人が来ようが関係ない。
現実は残酷なことを見せつけた。
混乱は悲鳴を生む。抑えることはできない。
「うわああああ。そんな、う、嘘に決まっている。ジューニ……あなたは私を担ぐために……誰かが……」
ジューニは無言で首を横に振る。
「嘘だって言ってくれ! ゼネシスには私しかもういないんだ! 劇場主が情のある人だとは言え、何もできない子供も守ってくれるとは思えない! お金もないのにっ! 病気も持っているのだ、あの子は」
フォシエはジューニの胸倉をつかみゆすぶる。
「どうしてっ! なぜ、私がそんな目に」
ジューニは黙ってなすがままにされていた。
フォシエはジューニの顔を見て泣き崩れた。彼の胸を借りて嗚咽を洩らす。
「そんな……あの子は……あの子を……」
ジューニは黙ってフォシエを抱きしめる。優しく、受け止めるように。
(もし、私が彼と同じ立場ったら? 記憶は衝撃で戻ったようだが……私の場合は息子には母もいる。一人ではないし、よほど政変とかかない限り、生きていくことは可能だ……フルクの場合は……その子は病死するか……運よく孤児を面倒見てくれる人のところに行くかだ。しかし、我々の世界でも突然消えた人を死したと考えるには時間がかかる。つまり……フルクの息子はずっと同じところで待とうとするのではないか?)
ジューニはいたたまれない気持ちでいっぱいだった。
(神よ――この場合はフルクの世界の神なのだろうか? 彼に、なぜこのようなことを?)
神というのは優しくはない。試練を課すこともある。
(フルク……)
ジューニはフォシエが落ち着くまでそのままいた。