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2.不運と絶望はやってくる

 フォシエは新しい舞台の練習も始まり、日々は充実していた。役者などやってみることになるとは思いもよらなかったし、思った以上に大変であった。

 自分で書いた脚本に大まかな演出。そうなってくると自分で演じていると、直したいとか本当はどんな役かと思い悩むことが多くなった。

ずっとここで練習をしたい、と思う病みつきになる力が舞台にはあった。

 誰もが見守ってくれる。必要な助言をくれ、そして、良ければ褒めてくれる。

 今まで以上に舞台を作り上げる一体感を覚えた。

 暗く、寒い冬。帰宅するときには、より一層ぬくもりを欲する。練習場の熱狂から離れて外を歩く、それだけで寂しい。練習場にいたいと思ってしまう。

 そのためか、劇団員も出ていくのが遅い気がする。

 フォシエは後ろ髪をひかれつつも、練習が終わった瞬間に胸の中を占めるのは息子のゼネシスのことだ。

 ゼネシスは独りで暗い外を見ているかもしれない。

 きょうだいも母もなく、ただ一人で父を待つのは心細いだろう。フォシエには「寂しい」とは告げないが、それとなく寂しがっている様子は感じる。

 脚本や演出としているときは帰りやすかったが、役者を初めてからは帰るとき決断が必要だった。

 ともに語りたい、そう願うのだろうか。


 この日は白熱し、練習が思いのほか長引いた。

 石畳の道を急いでフォシエは帰る。

 ゼネシスの体調は最近良かった。だから、そのことは心配していない。まとめて買い物もしてあるため、食べ物にも困っていないはずだ。

 やはり、最愛の息子とともに過ごす時間が少ないことは寂しい。つらい思いをさせていると考えると胸は締め付けられるように痛くなる。

 フォシエは周囲に注意を払いながら、まっすぐ進む。

 夜歩くことはどのような道でもついて回る不安はるが、今日は妙に胸騒ぎが激しかった。

 心配というより、不安が胸の奥からあふれて止まらない。心臓が激しく鳴り、おさまることがない。

 なぜ不安なのかわからない。

 治安が悪い地域ではないが、押し込み強盗や殺人事件もなくはない。きちんと戸締りさえしていれば、さすがにそこまで事件に巻き込まれることはないはずだ。

 自分が何かに遭うのを何かが知らせてくれているのかもしれない。信心は一般的な市民程度であるが、何かあれば神に祈る。

 歩きながら、やはり神に祈る。

 しかし、この日に限って不安ばかりが募る。

 急がないと、急がないと。

 フォシエは少しでも早くつくようにと、いつもより大きく脚を開く。足を前に出すスピードもこれ以上にないほど早い。

 速いが走らない。

 気をつけないと彼自身が危険に巻き込まれるかもしれない。

 小道から出てくるスリ。

 カネを奪われるだけでなく、スリがナイフを持っているかもしれない。

 小道に連れ込まれたら命すらない。

 小柄ではないフォシエであるが、荒事ができるほど鍛えられた肉体ではない。武器は使えないし、あくまで舞台を、劇場を走り回るための筋肉である。

 だから、危険に足を踏み入れないように細心の注意を払う。


 ドンと地面が揺れた。

 フォシエはふわっと体が浮き、地面に叩きつけられるように倒れそうだった。たまたま壁に手が当たり完全な転倒はまぬかれた。揺れる中、壁を手掛かりにしゃがむ。

 悲鳴が上がっている。夜で出歩くものは少ないが、繁華街では男も女もいることはいる。

 家の中から悲鳴も上がっている。

 眠りにつこうとしたところたたき起こされた住民たちが。

 地面が揺れるということはこの町では経験はない。

 何が起こっているのかフォシエは分からない。

 ただ、地震というのが地域によってはあると知ってはいた。知ってはいたが、実際経験するのとは違う。

 窓ガラスが揺れて音を立て、割れる。

 石が崩れるような音もする。

 暗闇と揺れでフォシエは立ち上がるのがやっとであった。

 それでもいつ止むかわからぬ地震への恐怖より、家に一人でいる息子が心配でたまらない。

「急いでいかねば!」

 壁で体を支えて進んだ。

 ドン、とすごい音がした。

 夜の闇の中でもその闇は濃かった。

 重量があるからこそ濃かったのかもしれない。

 住宅の壁が崩れ、フォシエを襲う。

 逃げようとしたが、間に合うことはなかった。

 強い衝撃に襲われる。意識が薄れて行く。

 ここで感じたのは死。

 死んでなるものかとも考える。

 大切な息子を一人にするわけにはいかない。

 無常だった、神は。いや、生かしてはくれたのだ、彼を。しかし、彼への試練なのか、そのために呼び寄せるのか。

 神が、フォシエを。


 次に目を覚ました瞬間、彼は悲鳴を上げた。

 何か、怖いことが迫っていたということだけは記憶している。

 体中が痛い上、埃まみれである。服をはたいて埃をできるだけ落とした。

「何、があったんだ?」

 げほっとせき込む。

 喉はカラカラで埃っぽかった。どうしてなのかがわからない。理由が見えないために余計に恐怖と不安が胸から湧き上がり、全身を駆け巡り緊張に導く。

 周囲を慎重に見る。

 ここは穏やかそうなどこかの風景、である。昼間であるというのもわかる。

 舗装されていない道に周囲は牧草地なのか草地が広がる。牧草地と考えたのは牛のような生き物が草を食んでいるのが見えたからだった。

 牛のような?

 牛なはずだが、どこか違う。彼が知っている牛と何か違う明確な違いは見いだせない。そもそも牛をそこまで詳しくはないと気づいた。

「痛い」

 頭が特に痛い。

 何かが当たったらしく、たんこぶがある。

「一体……何があったんだろう? ここはどこだ? 私は――そうだっ! 大切なっ!」

 私は何か、大切なものは何か、ここにいる必然も、記憶が一部飛んでいる。

 言葉も、名詞も出てくるため記憶がすべて飛んだわけではない。何かがあって、一部が消えているようだった。

「気持ちが悪い。私はっ! 私は」

 この場所がどこかもわからない。

 どうしていいのかもわからない。

 彼はふらふらと歩いて人がいるだろうところへ向かう。道があるということはどこかに続いているはずだから。町がなくとも人がいるところにつくだろうと。

 こういった常識は脳裏に浮かぶ。

 だから、記憶がないのは一時的だ、と自分に対して言い聞かせる。言い聞かせたところで不安が消えるわけではなかった。

 あらゆる物の名より最初に覚えてに違いない自分の名前すら出てこないのだから。

 大切なモノの名前。

 焦燥が胸を焼く。

「あああ!」

 叫んだ。

 怨嗟とも、慟哭ともとれる、低く大きな声だった。

「どうすれば、どうすれば良いんだ!」

 彼はうずくまると、地面を両の拳でたたいた。痛みが伝わる、生きているそして、ここが現実であるということを語っている。

「ああああ!」

 どうしていいのかわからない。

 胸が避けて血があふれるような感覚がある。

 ――ど、し――。

 何か声が聞こえた気がした。

 地面をたたくのをやめた。

「誰かいるのか? いるなら答えてくれええ!」

 周囲を見渡し、天をも見て叫ぶ。

 声は聞こえない。

「私の不安が幻聴を与えただけか? そういったことは覚えている。なのに! なのに、どうして、私は自分がどこの誰か、大切な物が何かも出てこない」

 泣いた。

 いや、涙は出ない。

 吠えたというのに近いかもしれなかった。

 彼が道の真ん中でうめいていても誰も、何も通らなかった。

 彼があきらめたころ、道を進む馬と馬車の音に気付いた。

 徐々に近づいてくる。

 彼はこのままだといけないと道から降りる。轢かれるのはごめんだった。よくわからない現実から逃げるには、死も一つかもしれないとはいえ、大切な物がわからないために死ねない気がした。

 自分のことよりも大切な何か。それのためには命はまだ捨ててはいけない。

 道から降りると、突っ立ってそれを待った。

 馬具や騎乗している者の飾りから貴族かそれに類する力を持つ者だと彼は判断した。

 馬に乗っている警備の者たちは、槍または剣を持っている。


 ぼんやりと見つめる彼に警備の者たちは気づいている。そして、警戒をしているのがはっきりと彼にも感じられた。

 一騎が近づく。

「貴様、何をしている? 旅人か? 身なりは悪くないようだが、ほこりにまみれている。旅人にしては荷物がない……何かあったのか?」

 警戒はしているが、優しい気持ちも彼に伝わる。

「……あ、あああ」

 ホッとしてしまった。

 これで助かるわけではないが、言葉が分かった。

 警備の者の心を感じ、涙があふれた。しゃべるにも言葉がまともに続かない。

「おいっ! 大丈夫か!? 隊長、人手を」

 馬車は進んでいくが、馬上の人は慌てて声をかける。この男より若干年上の警備の者がやってくる。

 最初に声をかけてきたものは馬から降りると、彼に近づく。

「どうしたんだ?」

「わ、笑わないで、げふっ」

 彼はしゃべろうとしたが、咳き込む。警備の男は優し気に彼の背中を撫でる。

「笑わないから……まずはのどが渇いているんだな」

 水筒を手渡され、彼は飲む。慌てて飲み、せき込んだ。

「全部飲んでもいいからな。この近くに井戸もあるから、もらってくることもできる」

 尋常ではない様子に警備の男は優しくなった。

「ありがとうございます」

 彼は礼を述べる。

 その声音は震えるものの、しっかりしていた。

「いや、かまわない。野盗でもいたのなら、我々が取り締まるように言わねばならない」

「……わからないんです」

 彼は首を横に振った。

「え?」

 警備の男は彼の言葉が、野盗が出たという以上に問題だと感じたが、理解が追いつかなかった。

「ここはどこですか? 私はどこから来て、ここにいるんでしょう」

「……冗談……ではないんだな?」

 警備の男は狼狽したが、板って真剣に彼がうなずいたのを見て、表情を引き締める。

「……信用するかはわからないが、ここでは話ができない。町まで同行してもらっていいか?」

 馬上にいる上官らしいものが告げる。

 彼は否応もなかった。

 丁重に扱ってくれるのがわかる。信じて、身を任すことにした。


 町は彼の記憶にあるところではなかった。

 建物や舗装が石やレンガを使っているあたりは同じという認識はできる。ところが、建て方がどこか違う。扉の形や間口の大きさ、角や素材が違うという細かいところが違うようだ。近づいて触ってもみないと詳しいことは言えない。

 兵の詰め所らしいところに連れていかれる。

 捕まるのかと思うと怖いが、逃げたところで何も解決がなされないのは間違いなかった。

 ここがどこかすらわかっていないのだから。

 兵士たちが彼に対して親切なのは確かで、心強く安堵できる。

「別に尋問をするわけではないので座ってください」

 鎧を着ていない、年齢が似たような雰囲気の男が彼を連れて部屋に入る。椅子と机がある簡素な部屋で、窓には鉄格子がある。鉄格子はあるが、窓があることで狭い部屋は明るく感じられた。

 彼は指示されたように椅子に座る。座ると疲労が襲ってくる。

「まあ、尋問はしなくても質問はたくさんあります。私からもあなたからも……ああ、私はこの詰め所に席を置くジューニ・リーデです」

 表情は柔和な男で、信用したいと思えた。だからこそ、ジューニは派遣されたか、ここにいたから挙手をしたのだろう異邦人との対話のために。

「まず、ここはどこです?」

「ロティア王国の王都ミナルバです」

「……はっ? どこにあるんですか? プロシアの東側ですか?」

「プロシア?」

 ジューニも彼もきょとんとなる。

 彼は地名は覚えていることは僥倖だとも思ったが、知らない地名に驚くしかない。その上、自分がどこに住んでいたのかが出てこない。

「いやはや……まさか……まさか」

 ジューニは笑いながら、頭に手をやり、首を振る。何とか状況を理解しようと必死に頭の中を動かし、不要な思考を引き抜こうとしているようだった。

「名前は……」

「全く思い出せません。大切な何かがあったのは間違いないのです。そのため、早く、帰らないと!」

 急に不安が湧く。

「待ってください。あなたの記憶が一部ないということはわかりました。帰すに帰せない状態です」

「……わ、わかってます!」

 焦ってもしかたがないのだが、彼は焦ってしまう。

「……何をなさっていたかわかりますか? 言葉は通じますし……」

 国は分からないとしても彼は思い出せることがあるかもしれない。会話をすれば、それが刺激となって徐々に記憶が芽生えるかもしれないとジューニは願う。

「それは助かった。記憶が消えているのは困るが、とりあえず、あなたと話したり、看板を見るのには困らないということです」

 問題だらけの状況でも解決策は出てくるはずだと彼は思う。

「ふむ。もう一つ、仕事は何をしていたかなど……は?」

「……舞台だ」

 彼の中にひらめくものがあった。きらびやかな衣装、役者や観客の息遣い、訪れる貴族たち。

「舞台? 歌や踊りの?」

 ジューニは丁寧に問う。

「劇を作っていた」

「劇……なるほど……今は何を作っていましたか?」

「復讐劇だった。ただし、恋愛がメーンであり、あまりおどろおどろしくないものだ。所々に笑える要素を入れた」

 彼は話しているとするすると出てくるため自分で驚いていた。

 このまましゃべっていれば自分が誰か、大切なものが何か、出てくるのではないかと期待した。

「私はそれを書いた」

「ほお、それは見てみたいですな。どこでいつ公演する予定です?」

 ジューニは少しずつ前のめりになってきている。彼の記憶の発露に期待をしているようだ。記憶を引き出すように優しく問う。

「それはいつもの劇場だ! そう、いつもの……いつ……う、ううう、駄目だ、劇場主の顔は浮かぶが名前が出てこない。劇場の名前! 名前ええ!」

 彼は目を見開き、机をこぶしでたたく。

「落ち着いてください。焦りすぎました……申し訳ない」

「でも、大切なものを! ああ、どうすれば良いんだ」

 ジューニはためらったが、椅子を立つと彼の肩を抱く。

 人を感じ、彼はすすり泣く。

「申し訳ない……申し訳ない……」

「いや、いい。あなたが悪人だったら困るが、本当に困っているというのは感じる。これで神が惑わしているなら別だが……泣きたいなら泣くといい。神が涙を持って、不安を消し去ってくれる」

「すまない」

「いや、いいのだ」

 ジューニは彼の背をさするようにたたく。

「君の家族は?」

「……家族……思い出せないんだ!」

 自分に関する、近いところが記憶として呼び出せないようだった。

「少しずつ行こう。何が思い出せないかがわかってきたわけだ。まず、私の家においてあげよう」

 ジューニの声は落ち着き、深い響きを有する。彼は聞いていると安堵し、すがってもいい相手だと認識する。

「ありがとう……」

 礼に対してジューニは丁寧に「どういたしまして」と告げる。

「ところでなんて呼ぼうか? 君や『おい』じゃ困るしね」

「……フォシエ……かゼネシス……」

 ふと浮かんだのはその二つだった。

「フォシエ君! ゼネシス君! うーん、ではフォシエ君にしよう」

 ――本当にそれでいいのか?

 不意に彼の中で疑問が生じる。

 見知らぬ世界、見知らぬ人々。自分を知っているのいないのかわからない人々。

 信用していいのか?

 ジューニに関しては信じていいと彼は感じていた。古くからの友人という雰囲気が非常に漂う。

 できることならジューニとは友人でありたい。しかし、信用できそうだとして悪人ではないという保証はない。むしろ、彼自身は自分が何か欠如している上、自分が悪人かもしれないとも考える。

「……違うかもしれない……『フルク』と名乗っていいでしょうか?」

「かまわないよ。君がそれがしっくりこないなら、知り合いの名前かもしれないし、土地の名前かもしれない。本当の名前を思い出したら、君は改名だよ?」

 ジューニは笑う。

 つられて微笑むがフルクと名乗ったフォシエ・ローエンは胸の奥がズキリと痛む。

 ジューニだけは信じたい。でも何かがささやく、本当に信じていいのか、と。

 何を信じていいのかわからないのが信じていいのか、ぐるぐると脳内を迷いが駆け巡る。

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