1.貧しくとも平穏を望んだ
フォシエ・ローエンは家を出る際、息子ゼネシスの額に手を当てる。
じんじんと伝わる熱に眉をしかめた。本当はこのまま看病をしていたいが、仕事ができない。
フォシエは唇をきゅっと結ぶ。仕事に出かけるという決心を逃さないように。
熱で顔が真っ赤になっているゼネシスは体を起こそうとしため、フォシエは肩を押しとどめる。
「見送り」
「しなくていい。いつもの劇場で現場を見て、帰ってくるだけだ。今日は打ち合わせはないはずだからな」
「うん」
ゼネシスの頭を優しくなでる。髪の下は汗でびっしょりだ。
「お前は寝ていることが仕事だ」
「ごめんなさい」
「なぜ謝る?」
フォシエはおどけたしぐさで肩をすくめる。
「だって、ぼくが体弱いから、お父さんは」
熱もありゼネシスの目は潤んでいる上に、哀しくなって涙をためている。
フォシエはゼネシスの唇に人差し指を当て、言葉を止める。
「もっと大きな仕事ができないって? そんなことはないぞ? 小さくともあの劇場は毎回満席になる。満席になるから私に原稿料をはずんでくれる。はずんでくれるから私たちはこの生活ができるのだ。劇作家、であるにもかかわらず安定した生活が送れるのは幸せなのだぞ」
「……お父さん、ありがとう」
ゼネシスは布団に半分顔を隠して告げる。
「どういたしました」
フォシエはゼネシスの髪の毛をぐしゃとするように撫でた。そして、ハグをしてベッドから立ち上がる。
「パンは食べられるだけでいいからな」
「うん、頑張って食べる」
「無理はするなよ」
フォシエは病気の息子を置いて仕事に行くために胸を痛める。何度も何度も繰り返されてきたこと。
解決策はあるのだ。
新しい妻をめとればいい。それが無理なら手伝ってくれる人を雇えばいい。
ゼネシスのこともあり、劇場の誰からも時々聞こえていた。
彼に仕事をやめろと言わないのは、彼の脚本・演出家としての実力を買ってくれていることにつながる。脚本家としては大変嬉しいことである。
だからこそ、胸が痛む。劇場にかかわる人に対しても、息子に対しても。
妻をめとるという話に関しては考えなかったこともない。妻が忽然といなくなった後、彼を好きになってくれる女性もいた。
しかし、フォシエ自身は難しいと思った。
妻のように心の底から愛せる女性が現れるような気がしなかった。美しく、気立てもいい、聡明で、良いところがたくさんある女性たちが彼の周りにはいたが。
妻は忽然と消えたとき、彼だけでなく劇場の関係者も探してくれた。情報を求めて探偵すら雇ってくれる人もいた。そこまでしてくれた人に感謝の言葉はあふれて止まらなかった。一方で申し訳なく思う。両極端な思いで彼は胸が引き裂かれそうだった。
しかし、最愛の人は現れなかった。
ゼネシスが昼寝をしている最中に忽然と。
誘拐も疑われたが形跡はなく。他に好きな人ができて失踪も考えられなかった。
原因不明、神隠しのように。
そのような別れのため、彼の中で妻は忽然と戻ってくるという意識が強い。
五年は経っているとしても、フォシエの中に妻の姿は消えない。
そんな中、別の女性を妻としていいのだろうか?
教義としても認められないのではないかと考える。
教会が妻が悪いと決めつけることも避けたいという思いもあった。
忽然と消えたが、彼の中でまだ妻を愛する気持ちが強く維持されていることを物語る話だった。
彼が好きだということを示してくれた女性たち。
外面も内面も素敵な人がいる。下心があったかもしれないが、親切にもゼネシスの面倒を見てくれたこともある。
ゼネシスも来てくれる女性を悪く言うことはない。だからと言って母のように慕うこともない。
だから、必要なら再婚を考えてもよかった。
それは、最愛の人がこの世にいないと明確ならば、という条件が付く。
手伝ってくれてありがたいが、その女性に申し訳ない思いで一杯になっていた。
さて、妻がいようがいまいが、家の中でじっとしてはいられない、仕事に向かう。
町に出ると、息子の心配だけですまない。
もし、自分が事故に遭えば、すべて終わる。ゼネシス独りで生きていくには世界は厳しい。
フォシエは石畳を歩きながら、油断はしない。
走り去っていく馬車、花や小物を売る子供たち。スリや強盗などあらゆるものが町の路上にはいる。子供たちは哀れであり、物を買ってあげたいと常々思う。本当に必要でない場合は、自分が文無しになり子を養えなくなる。バランスが重要だった。
スリや強盗は犯罪であるため巻き込まれれば下手をすると命も落とすかもしれない。馬車に轢かれて怪我でもすれば後遺症が残ってしまえば、息子を養うことは不能となる。
産業革命だ、資源が必要だ、人手も必要だ、新しい世界が広がるなど声も聞こえる中、フォシエは芸術の道にいる。
美しい物、世の中を表現すること。
恋愛ものであれ、空想の出来事であれ、風刺であれ、一時の娯楽に仕立て上げたい。
道を猛スピードで行く馬車も、空を覆う黒い煙も、創作の一助になるはずだと彼は考えて歩く。日々同じ道を歩いても、同じものもあれば違うものもある。
いや、同じものなど一つもないのか、とフォシエは考える。
自分が一日経てば年を取っているはずであるのだから、すべてのものが年を取っている。そうなれば時間が移ろうなら、変化があるのだといえる。
同じような時間に道を歩く自分。
同じような時間に開店準備がある店。
同じでも同じではない。
だから、そこに何かあるかもしれない、と。
フォシエはいろいろ考えながら十分ほど歩くと、雇われている劇場に到着した。
今やっている演目のキャスト選びがほぼ終わり、稽古が始まる寸前。まだそれほど切羽詰っていないため早く帰れるはずだ。
「フォシエ! ちょうど良かった!」
劇場主が現れる。後ろにはこの劇にかかわるものが数人ついてきていた。
何か不都合があったのかとフォシエは硬直する。簡単に直せることならそれはいいが、もし、くびを申し付けられるような事態だった場合はどう対処すべきなのかとあれこれ考えが巡る。
「そんな難しい顔をするな!」
劇場主はフォシエの背中を丸い手でたたく。
「いえ、来たところに呼び止められ、そうそうたるメンバーで出迎えられたので、良いことから悪いことまで想像しているところです」
「我々の表情を見てもそういうのかい?」
「ひどいなぁ」
口々に言う中に筆頭の役者もいるから信用ができるわけない。演技をするのが彼らの仕事。
とはいえ、全員が期待のまなざしであり、悪い話ではないようであった。
「実はな、今回の演目のこの役」
台本を指さす。
役者は決まったとはいえ、これだけはまだ確定していなかった。
狂言回しの役の男の役。
紳士的であり、ひょうひょうとして抜け目なく、そこらへんにいる男のようで違和感のある……いわば力量を試される役だった。
何人か候補になっている役者はいるが、決定はしていなかった。
「お前やらんか?」
「は?」
相手が劇場主だということも忘れるくらい、無礼な声が出る。
「すげ、フォシエさんが驚きまくってる」
「そこまで驚いたか! フォシエは、この面、この雰囲気で、実にどっしりと構え、貴族に扮してもまぎれることができそうであるし!」
「そうそう、フォシエは頭いいし、貴族の隠し子という説が」
「待って、待ってください」
口々に言われ、フォシエは胸の当たりで皆を押しとどめるようなしぐさをする。
「いや、どこから反論すればいいのか」
「反論? 反論などないだろう?」
劇場主はにやにや笑っている。
「だって、お前が頭がいいのは事実、見かけがいいのも事実、言葉遣いも丁寧で、貴族って言い張れば下手な貴族よりらしくみえるぞ?」
「いやいや」
「劇場で、あらゆる貴族様を見ている私が言うのだ、間違いない」
劇場主が太鼓判を押した。周りにいる者たちが同意する意味を込めてはやし立てる。
フォシエ自身自覚はなくはない。背丈は高いし、体型も適度に筋肉のついたすっきりタイプで、何を着ても基本的に似合う。
健康には人一倍気をつかっているからの体型でもある。劇場主のように腹に脂肪をつけている余裕がいろいろないだけだ。
頭がいいのは、生まれつきもあるだろうが、たまたま親が一人っ子だったフォシエの教育を推し進めてくれた結果だ。庶民としてはそれなりの余裕はあった家庭だったの事実。
それらが生かされているのが今である。病弱とはいえ、息子のゼネシスはいろいろ知っている、学校に行くことなく外に出なくても。フォシエが勉強を教え、本を与えるようにしている。
親の目から見て、ゼネシスは賢い子である。
「貴族とは言いすぎですよ……。主さんと同じで、劇場に足を運んでくださる貴族の方々を見ていますから、そのしぐさをまねるようにしていただけです」
「それでも様になるか否かは本人のあれだよ!」
バンバンと裏方の一人がフォシエの背中をたたく。
「な、引き受けてくれよ。お前ほどに合うやついないんだから!」
「いやいや……役者の方でいいじゃないですか」
「候補者がな、うめいていたんだよ。お前さんが指示したときの演技がすごく自然すぎて、太刀打ちできないってな」
確かに面接のときにセリフを言ってとか、こういう感じはどうかなとか提案はしていた。それは素人としての口調であり、演技ではない。
「つまりな、あの狂言回しはお前さん自身ということ」
「だから受けてくれよ」
口々に言われ、フォシエは困惑する。
「担がれているんですかね?」
「いや、真剣に言ってる。確かに、笑いながら言ったが、それは警戒するお前の心を解きほぐすためだ」
全員、真剣になっている。
確かに、笑っていたときも目は違う光を発していたとフォシエは思う。
拝むように劇場主たちは見ている。
フォシエは彼らを見渡す。見渡していると真剣だというのがひしひしと伝わる。
「分かりました」
根負けした。
「やったああああ」
全員が大きな声をあげる。帽子をかぶっていた者はとって振り回し、隣のものとハグをしあってもいる。
「そ、そんなに喜ぶことですか」
「当たり前だよ! フォシエ、知らないだろうが、女性ファン多いんだぜ」
「え?」
「いやー、舞台挨拶の時立つと、メロメロの女が多くて」
初耳のことでフォシエはキョトンとした。
「いや、もう、明日から練習だな!」
「役者分の金額も出すぞ、当たり前だがな」
「どうせ、練習に付き合うお前さん……すごい得なんだぞ」
「ありがとうございます」
フォシエは頭を下げた。
「いいって。利害は一致しているんだ、全員のな」
劇場主は笑う。
「連日満席で、延長もあればどうなるか!」
「全員、より一層稼げるってことだ!」
劇場主と一緒に説得していた彼らは劇場が壊れるのではというほどの歓喜を表したのだった。
夕方、帰宅したフォシエの顔にいかめしさは表に出ず、油断するとにやけるそうだった。彼らの話をどうするか考えるとなんだか他人事で、笑いたくなる。
「お父さん、お帰りなさい」
真っ暗な部屋の中で動く気配がする。フォシエは慌てて明かりをつけた。
テーブルの上の食べ物の状況を見ながら息子のベッドに向かう。
「食べる余裕はなかったみたいたが、水は飲んでいるな?」
「うん」
「顔色がいいみたいだ」
「良かった」
ゼネシスは微笑む。
「さあ、夕食を作ろう。待っていなさい」
「うん」
「シチューにパンを入れてふやかせば食べやすいだろう?」
「それ、大好きだよ」
「そうか」
「だって、たくさん食べられる気がするから」
ゼネシスは笑う。
フォシエはほっとする。ゼネシスの体調がだいぶいいということがわかるからだ。
「少し体を起こすかい?」
「そうしないとまた寝そう」
「寝られる方がいいんだぞ」
「食べないといけないから」
ゼネシスの背中にフォシエの枕を入れる。壁にもたれるようにゼネシスは座る。
「はあ、寝てばっかりもつかれるんだ」
わざとらしいため息とともにゼネシスはいう。
「それはそうだ。体調が悪かったんだ。戦っているんだからな」
フォシエはゼネシスの頭を撫でた。朝感じた熱っぽさは消えている。
ベッドから離れると、台所に行く。薪で火を起こすと鍋に入れる野菜を刻んでおいた。鍋に材料を入れて、水を入れる。蓋をして煮立つのを待つ。
シチューは簡単に作れ、野菜も肉も食べられる素晴らしい料理だとフォシエは考える。
「あ、そういえば、お父さん、楽しそうだったけど?」
ゼネシスは家に帰って来た時の様子から判断したらしく声をかける。
「ああ、面白いことがあってな。今度の舞台、私も立つことになった!」
ちらっと見るとゼネシスは目を見開いている。
「え? お父さんが!」
「ああ、私がだ!」
フォシエはわざとらしく、両手を広げ胸を張る。
ベッドの上でゼネシスが何か言おうと口をパクパクしていた。言葉が見つからないほど驚いたらしいとフォシエは笑う。
「僕も見たい! お父さんが演技するの」
ゼネシスはベッドから飛び跳ねて起きた。これほど元気のよい姿はなかなか見られない。
「チケットを用意はできるだろうから……恥ずかしいが、見においで」
「うん」
ゼネシスは目をキラキラさせ、どんな役なのか、お父さんがきちんと覚えるのか、心配だとか何を着て行けばいいのかなど話す。
先走りもいいところだが、ゼネシスが楽しく、病気に負けない気力がわくなら良かった。
シチューを作りながらフォシエは会話する。
役者をするのを恥ずかしいと言っている場合ではなく、精一杯するしかない。新たなことをするということもあり、彼自身楽しい事件でもある。
周りが推薦してくれたのだから、最後までやり遂げたい。
「帰りは遅いの?」
「それはない。今までだって練習に付き合ってきたんだぞ?」
「良かった」
食事ができたのを見計らって、ゼネシスがベッドから出てくる。
フォシエはハグをして、息子のぬくもりを確かめる。
「お父さんみたいなかっこいい大人になりたいもの。頑張って体強くしないとね!」
ゼネシスは興奮で顔を真っ赤にし、テーブルに着く。
言われたフォシエは驚いていた。そこまで褒めてもらえるような父であるか自信はなかった。それでもその一言は大変嬉しかった。
「そうか、頑張らないとな、私も」
「十分がんばっているよ」
「いやいや、ゼネシスもだ……おや? お互いに頑張っているんだな」
二人は笑った。
楽しい夕食であった。
いつまでも続く、ゼネシスが一人前になって何かの仕事に就くまで――。




