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恋の病に妙薬ありや

作者:


 どれだけの人々を導いてきた説教師であれ、いかに高名な魔術師であれ、人の心に手を加えて動かせた試しはない。

 恋心こそその最たるものだ。人はいつも情や欲に突き動かされその手のつけようのない感情を支配しようとしては、やがて音を上げて諦める。

 そもそも、愛や恋を人の手で曲げようとするのは賢いやり方ではないのだ。

 何せ放っておいてももつれるのだから。




「恋に効く薬ってないものかしら」

 駆け出しの薬師シーマの仕事場に友人がやってきたのは開店間もない午前のことであった。

 友人フィリスが薬屋に雑談に出向くのはよくあることである。家の使いがてらか、暇を持て余した時か、折に触れてやってきては飽きずに話してゆく。親戚が経営する薬屋はうらぶれてもいないが客足は緩やかで、またその親戚も別に仕事を持っているため実質シーマは雇われ店主に近い立場にある。あまり邪魔の入らないことを心得ている友人は頻繁に訪れた。

 こうして朝から訪ねて来ることも珍しくない。何か目新しい話題を仕入れて来たかと、シーマは友を迎え入れた。

 そして口を開くなり飛び出したのが先の台詞であった。


 扉にはめ込まれたガラスから明るい日が差し込み、焦げ茶の家具の表面をつややかに光らせる。作業台を兼ねたカウンター越しにこちらをじっと見つめる双眸は太陽を背にしながらも瑞々しく輝いている。その見開きようは真剣そのものだ。

 その態度に嘘偽りがないことを知りつつも、シーマは軽口を叩かずにはいられなかった。

「ついに恋敵の女の子たちに一服盛って戦意喪失させようって?」

「やだ、シーマったら! そういうことじゃないのよ」

 じゃあどういうことかと首を傾げて見せる。

 こういう症状に効く薬はないか、という要望を聞き、それに沿った薬を一から調合するのは薬屋ではままあることである。ただしそれは声がかすれるだとか腰を痛めただとか常識的な範囲でのことであり、おとぎ話のような愛の妙薬求めて駆け込んできた者はこのかたいない。

 単なる雑談であれば笑って興じるところだが、残念なことにフィリスの表情は本気だ。

「何か薬に頼りたくなるほどの悩みでもあるの?」

 フィリスは我が意を得たりとばかりに何度も頷いた。

「実はね……デーニスタのことなのよ」

 共通の友人の名を聞いてシーマは得心した。


 デーニスタはフィリスの幼馴染だ。学業に秀でた青年で、繊細でやや頼りないところはあるがそれも優しさによるものである。気の良い友人だ。

 少なくともシーマにとっては。

「あいつってば、まだ付きまとってくるのよ。何度言っても聞きやしない」

 彼らの交流はシーマとのそれよりずっと長い。だからいつ何があってそうなったのかは知らないが、デーニスタはフィリスに恋慕の情を抱いているらしく、姿を見ては言い寄っているのである。日頃の気弱さがなりを潜めるほどに。

「今日だってばったり行き会っちゃって、シーマのところに行くからってやっと振り切って来たのよ。しつこいったら」

「彼も一途よね……」

 第三者として思うに、デーニスタの想いは庇護欲から生じている面もあるのだろう。フィリスは愛らしい娘だから。

 とはいえ彼のことで何かあるたびに聞かされるものだから、彼女の苦労は我が事のように身に染みている。

 一方でこれだけ聞かされると、あの彼にそれだけの気概を起こさせているのだからいっそ応えてやればいいのにと思わなくもない。本人には到底言えないが。

 代わりにシーマは提案する。

「好きな人がいるからってきっぱり言ったらいいんじゃない?」

「言っても諦めない場合どうしたらいいのよ」

 フィリスは口を尖らせる。そうだった。彼女が他の男を素敵な人ときゃあきゃあ慕っているのはシーマやデーニスタに限らず周知の事実であった。伝えたところで大した打撃にもなるまい。


「なるほど。それで『恋の薬』なわけね」

 力強い首肯が返ってきた。

「そう、そうなのよ、だって口で言っても聞かないんだから心に訴えるしかないでしょう? シーマなら専門家だし、物知りだから頼りになると思ったの」

 よりにもよって「心に訴える」の第一案が薬。

「ね、どう?」

 そう言われてもと薬師は唸る。

 彼女が突飛な発想に至った経緯は飲み込めた。しかしこちらは町民に親しまれるしがない薬屋の駆け出し薬師。人知れぬ秘薬の精製を研究しているわけではない。

 ところが。

「一応、心当たりくらいはあるよ」

 恋の薬と効いて、一つだけ思い当たることがあった。

 壁際に備えられた棚へと向き直り、かがんで下部の引き戸を開ける。薬包紙の束や領収書といった備品が占める空間の端に、数冊の帳面が立てかけられている。

 そのうちの一冊を選んで抜き出す。教わった調薬法を書き留めたものだ。該当の頁を探せば、それはすぐに見つかった。

 シーマはカウンターにそれを広げ、指し示した。

「これ。半信半疑な代物だけど」

 それは休憩がてらの雑談の中で師が冗談交じりに教えたものだった。当時のシーマにより、ご丁寧に見出し付きで書き留められていた。

 フィリスは端書きを声に出して読んだ。

「惚れ薬の作り方」

 見出しの下には材料、手順、そして使用法。

 飲んで初めに目にした者を、寝ても覚めても思わずにはいられなくなる秘薬。


 文字を辿るフィリスの目がみるみる輝きを増してゆく。

「これよ! これを使えばいいんだわ! デーニスタに飲ませて誰かに気移りさせればいいのよ!」

 フィリスは帳面を胸に抱きその場でぴょんぴょんと小躍りしだした。

 さらりと他人を巻き込む計画を立案した点は友人として大いに諌めるべき点だろうが、実際シーマにも他の方法は思い浮かばなかったので意見は控えた。

「ただ、店で出せるようなものでもないから一度も作ったことがないの。さっきも言った通り怪しいものよ、効くかどうかは分からない」

「それなら今回試せばいいじゃない、治験と思って」

「正規の薬屋としてそれはどうかと……信用とか……」

 腕組みするシーマに対し、フィリスはカウンター越しにお願い、と拝む。

 ――人の心を薬で操るという行為自体是非の分かれるものだ。ましてその相手が友人となれば心痛まぬはずがない。

 一方。

 ――特別珍しい材料を含んでいるわけではない。ほとんど全て店にある器具と原料で作ることのできる、比較的容易な類の薬だ。組み合わせを知識と照らし合わせてみるに、人体に悪影響が出る物でもないはずだ。いや主目的からして悪いと言えば悪いが、とにかく少量ならば副作用が出るようなものではない。

 そして、この先試す機会はそうそう巡って来ないだろう。

「…………」



 シーマは負けた。己の探求欲に負けて、友人に手を貸すことにした。

 予想した通り大概の材料は一晩せずに調達できる平凡な物だった。秘薬の材料がこれだけ身近な物ばかりとなると疑惑と心配が湧き上がってくるが、実際に作るとなると都合が良い。

 慣れた手際で作業を進める。

 刻んだ薬草を火にかけておくと、鍋につないだ管からぽたりぽたりと滴が落ちる。薬効が非常に強いため、量を誤らぬよう慎重に匙で掬い取った。ここに混ぜるのは花の煎じ汁。愛と家庭を司る女神の祝福深いと言われる花をがくごと乾燥させて煮出した物だ。鎮静作用があり、普段は睡眠薬などに用いる。その他数種の薬草をまとめて擂り、同じように成分を抽出する。木の実から採れる香料を一滴落とすと、草花の甘さと混ざり合い、わずかな刺激を含む香りが立ち上る。最後に蜂蜜酒を加えれば完成だ。


 小瓶に移し替えたものをやって来たフィリスに授けると、彼女は目をきらきらさせて受け取った。

「流石シーマ、あなた町一番の才女ね!」

「段取りは決まってる?」

「ええ」

 フィリスの考えはこうだ。

 デーニスタが学舎にいる時間を狙い、差し入れの栄養剤だと偽って薬瓶を渡す。彼は授業が終わるとしばらく中庭で過ごす習慣だから、飲むとしたらその時だろう。その後通りかかった誰かに心奪われれば、フィリスを追い回すこともなくなるだろうという算段だ。自分が渡した物は疑うことなく飲むという打算を前提とした恐ろしい計画である。


 シーマはふとした思い付きを口にした。

「いっそ、愛しの君の方に飲ませれば流石の彼も身を引くんじゃない」

 そうなれば恋は叶って邪魔は入らなくなっての一挙両得だ。

 しかしフィリスは首を横に振る。

「駄目、余計に諦めが悪くなって周りに迷惑かけだすわ」

「そう?」

「そう!」

 当事者が言うのであればそうなのだろう。

 効果が出たら――出なくとも教えると約束して、フィリスは意気揚々と去って行った。


 店内に常の静寂が戻る。

 シーマは未だ片付けの済んでいない鍋に目をやった。

 帳面に記した作り方に則ると、必要な蜂蜜酒の量は瓶半本。対して一回分の服用量はこぶし大の小瓶一本。

 現在、手鍋いっぱいの秘薬が作業台に残っている。

 計画ではそれほど多くの薬がいるわけではなかったが、失敗すれば一本分では足りなくなるかもと思い、指示通りに材料を揃えた。やはり半量ぐらいで作っても十分足りたのではないかと脳裏をよぎったのは酒瓶を鍋にぶちまけたその瞬間であった。

 初歩的な失敗だったが、やってしまったものは仕方ない。

 問題は作ってしまったこれをどうするかだ。


 いずれも安価な材料ばかりだから流しに捨ててしまっても良いのだが、せっかく作ったと思うとなんとなく忍びない。

 かといって物が物だけに売るわけにもいかない。売り物にならないわけではない。むしろ求める者はこぞって求めるだろう。人の欲に強く結びつく秘薬だ。だからこそ変に広まって世を騒がせることになっては店を預かる立場としてよろしくない。


 考えた末、ひとまず保存しておくことにした。処遇を決めるのはフィリスのことが片付いてからでも遅くはないだろう。

 蜂蜜酒の空瓶に漏斗で鍋の中身を注ぎ込む。透明なガラスの中で薬草の濁りが躍った。

 邪魔にならぬようカウンターの端へと追いやっておく。他にも酒や果物水の瓶が数本並んでおり、そこだけ酒場のようになっている。


 薬の始末が付いたので、後片付けに取り掛かる。商売道具だから使う毎に手入れしておかなければならないのだ。

 薄いガラスの調剤器具を割ってしまわぬよう集中して磨けばそれだけで結構な時間が過ぎた。それらが済み鍋を洗い始めた頃、扉の開く音がしてシーマは視線を挙げた。

「……いらっしゃい」

「ようシーマ」

 自分の家のように踏み込んできた客は、友人のレドルであった。親戚だという商家に住み込み、経営を学びつつ店を手伝っているという点でシーマと似ている。明るく軽妙な性格ゆえ顔の広い男だ。

 そして、ほかならぬフィリスの想い人でもある。


 知らず渋面になるシーマを気に留めることなくレドルはああ疲れたなどと言っている。

「今日は何の用」

「たまには君の顔も見たいと思ってね。その前に何か飲み物を貰えるかい? 配達の後なんだ」

「はいはい、休憩所じゃないんだけどね」

 軽口を叩き合いつつカウンターに並べたグラスを濡れた手で指し示せば、レドルは一つをとって飲料瓶を物色しだす。遠慮はない。

 シーマとしても丁重に接客する必要はない。再び手元に目を落とす。


 彼のやって来たのがフィリスの去った後で良かった。彼も計画次第では渦中の人だった。画策の最中に来られてはややこしくなる。

 それでなくとも彼女はレドルと会えば黄色い声を上げる。

 格調高げで秀麗な顔立ち。明晰かつ冗談の二三も叩いて見せるような気安さを持ち合わせている。それが彼の評判だ。これでは持てはやされぬわけがない。下宿先――問屋の御客の覚えもめでたいようである。フィリスが熱を上げるのも理解できぬ話ではない。

 といっても耳元できゃあきゃあ騒がれるのはやはりいただけないが。面倒事はできれば余所で起こることが望ましい。

 ちなみにシーマはというと、町内で近しい年齢であることや似たような身の上から親近感を抱いてはいるものの、同じ年頃の少女たちのように浮いた感情で見てはいない。情報元が当のフィリスであることは原因の一つであると思っている。友人の想い人という前提があると見方も自然と一歩引いたものになるのだ。

 よってシーマにとっての彼は、店の使いで度々やって来る気の知れた常連くらいの相手である。

 しいていただけない所を上げるとすれば気安すぎるところくらいか。先のシーマへの軽口なんかいい例だ。簡単に人の懐に入り込み過ぎるのはよくもあるが時に悪く働くこともある。特に同じ年頃の夢見がちな娘などを相手にしたら大変だろう。よからぬ計画に巻き込まれかけたって文句も言えない――。

 そこまでぼんやりと考えたところで、シーマははたと思いだした。

「レドル待って手前の瓶には手を付けないで――」

 鋭く注意を飛ばしたが時すでに遅く。

 レドルは琥珀色の液体で満たした杯を呷ったところだった。


 すぐさまカウンターの外へと回り込み、蓋が開きっぱなしの瓶をひったくる。

 本来なかったはずの濁りが翻って、酒液と混ざり合った。

 シーマは恐る恐るレドルを見た。

 青年は台上に空杯を置いた姿勢のまま、顔だけをシーマの方へと向けていた。

 自らの手でかつて書き留めた文言を思い出す。

 口にして最初に目にした者を想わずにはいられなくなる。


「シーマ」

 低くかすれた声が少女を呼ぶ。

「君、なんだか美しくなったんじゃないかい?」

「い、いや別に……」

 無論作業後であるから作業服である。特別めかしこんでもいないし、このところ特別なことは何一つしていない。

 ならば変わったのはシーマの方ではなく。


「ああ参ったな、まるでずっと前から君に恋していたみたいだ」

 直伝の秘薬が覿面であったことを、シーマは想定しない形で知ることになった。


 呆然とする頭の中で逃げろ離れろと警鐘が鳴る。

 レドルは一歩こちらへにじり寄った。いつの間にやら精悍な目元は赤く染まっている。

 シーマは逆に負けを悟った猫よろしく後ずさろうとする。

「どうして逃げようとするんだい」

「あのちょっと所用を思い出して」

「俺がまだいるのに?」

「それはその、いや、むしろあなたが出てって」

 酷いな、とレドルはさらに距離を詰める。

 一歩、また一歩。狭い店内でどう逃げようもなく、単純にカウンターに沿って後ずさる。

 だがそれも気休めだ。歩の長さが違う男にはささやかな抵抗もむなしく、ついに左手首をつかまれた。

「君が俺の心を縫い止めたんだろう」

「そんなわけ、ない、とも、言えないかもしれないけど」

 だんだんと声が小さく口の中にこもる。

 彼の言うことは言いがかりである。シーマの本意ではない。

 ところがどっこい、彼が飲んだ薬は事実シーマ手製であるからして否定もし切れないのである。


 抗弁の勢いを失くしたことを受容と見たか、レドルはその身とカウンターとの間にシーマを挟み込んだ。さらに両手を天板につかれる。逃げ場がない。距離と呼べる距離もない。危機感を覚える近さだ。

 熱っぽい吐息がこめかみを撫でる。冷汗がどっと噴き出た。

「ちょっと待って待って、やめてよ、人の店よ、離れてったら!」

「相変わらず頑なだな、そういうところも君らしい――」

 危うい状況を脱せんと足掻いている時にそれは訪れた。

 店と通りをつなぐ外階段を、足音がすさまじい勢いで駆け上る。

 けたたましい音とともに、甲高い声が飛び込んできた。


「シーマ!? どうなってるのよあの薬――」

 フィリスが目にしたのは、想い人がまさに共犯者たる友人を抱き寄せんとしている光景。

 清らかな肌が青ざめ、ふっくらとした唇がわななくのを見た。


 場の人間が口を開くよりも早く、二人目の来訪者が扉を鳴らした。

「待ってくれよフィリス、お願いだから」

 次に現れた眼鏡の青年はデーニスタ。計画通りであれば今頃フィリスが渡した薬を飲んでいるはずの相手だ。

 シーマは計画が失敗に終わったことを悟った。

 しかしデーニスタ本人を引き連れて来るのはどういう訳だ。失敗しても教えてほしいとは言ったが、失敗例を連れて来るようにと頼んだ覚えはない。

 フィリスは追いすがるデーニスタを睨み据えて叫ぶ。

「あんたはついて来ないでいいのよ! 何でいっつもそんなにしつこいの!?」

「分かってるさ、だけど君が心配なんだよ、愛してるんだ」

「分かってないじゃない! 私はあんたなんか好きじゃないわよ!」

 二人は互いにしか見せない勢いで言葉をぶつけ合っている。これまでにも何度か見たことのあるやり取りだが、狭い店内であることも手伝ってかいつもより激しい。

 薬が失敗だったわけでないのは不本意ながら証明済みだ。デーニスタは薬を飲まなかったのだろうか。


「フィリス、デーニスタ。一体どうしたんだ?」

 レドルは体を起こして闖入者たちに声を掛けた。二人の剣幕に押されて彼がひとまず我に返ったのはありがたい。その調子で三人まとめて表に出てくれるとなお良い。

 一瞬勢いを削がれたフィリスに代わりデーニスタが応えた。

「ああレドル。それに突然悪かったねシーマ……。フィリスが君の所に行くって駆け出したから、慌てて追いかけて来たんだ」

 視線がフィリスへと向く。彼女は口ごもりつつも応じた。

「その、デーニスタが突然私のこと探しに来たのよ。だから私……変だと思って、シーマのところに行かなきゃって」

 流石にシーマ以外の目があっては例の薬のことは口に出しづらかったようで、フィリスは言葉を濁しつつ答えた。

「でもそしたら、何でシーマはレドルとそんな風にして……」

 思いついたようにはっとして、震える声で問い質す。

「まさかあなた……レドルとそんな関係だったの……?」

 一瞬呆気に取られた。

「酷いわ、私に隠して、相談した時も影で笑ってたの!?」

 勘違いもこう飛躍甚だしいと、否定の言葉を忘れるものである。

 フィリスは初めの勢いを取り戻し、猛然とシーマに詰め寄って来た。

 シーマは慌てて否定する。

「違うわよ、これはその……薬酒のせいというか、私のせいというか」

「あれを使ったの? あなたも彼のことが!?」

 火に油である。

 違う違う違うと両手を振って否定を重ねても、もはやフィリスは止まらない。

「それで私にデーニスタを押し付けたのね? あ、あなた、卑怯じゃない!」

 彼女の声はますます強さを増し、割れんばかりの、泣き出しそうな響きを伴った。

 しかしシーマも一方的に責め立てられて少しばかり頭に来た。咄嗟に反論の言葉が噴き出す。

「か、勝手な誤解しないでよ、そんなことするわけないでしょ! そ、そっちのことはやり方がずさんだったんじゃないの!?」

「あなただって否定しなかったでしょ!」

「当人が言う以上のことが私に分かるわけないわよ!」

「何それ、責任転嫁じゃないっ」

「お互い様よ! そういうことじゃなくて、そもそも私、別にレドルのこと好きなわけじゃないから」

「つれないな、可愛い人。俺はこんなに君に惑わされてるのに」

「ほら、ほら、ほら!」

「話をややこしくするんじゃない!」

 シーマはレドルに取られた手を振りほどいた。再びわなわなと震え出したフィリスをその幼馴染がなだめんとする。

「ねえフィリス、ここはシーマの店なのだからそろそろ落ち着かないかい。何の話かは分からないけれど」

「あんたのせいよ!」

 フィリスが甲高く叫べばデーニスタは嘆きの声を上げる。

「ああ、僕の態度が君を苛立たせているのは済まないと思うよ。だけどどうしても内から抑えようのないものがこみ上げてくるんだ。どうか僕に今一度釈明と、このどうしようもない想いを訴える機会をくれないか」

 あまりに慣れた光景だったので理解しきれずにいたが、よくよく聞いているとデーニスタも正常でないことが分かる。いつもよりも饒舌だ。


「な、何度言ったって無駄よ。それに私はレドルが好きなんだから!」

 ここへきての告白に一瞬皆が息を呑んだ。当人でさえ知っている事実であるが。

 それでも真っ向から聞いてしまったデーニスタは色を無くし唇を引き結んでいたが、やがて意を決したようにレドルへと向き直った。

「レドル、友人としてのお願いだ」

 その眼光は普段の温和な彼にはない剣呑さである。

「どうかフィリスをかけて僕と……決闘してくれないか」

 この短時間で至るにはあまりにも物騒な結論だった。誰も彼も飛躍が過ぎる。

 レドルはしかし首を振る。

「気持ちは伝わったけど、俺が想いに応えられるのはもうこの世に一人だけでね」

 送られた熱い眼差しからそっと目をそらし、やっと落ち着いてきたシーマは尋ねた。

「ねえデーニスタ、ここに来る前フィリスを探してたと言ったでしょう。その時のことを教えてちょうだい」

「え……ああ」

 デーニスタは横からの口出しにいくらか冷静になったようで、順を追って答える。

「授業が終わった後、中庭で君の作ったという薬酒を頂いたんだ。それからふとフィリスのことが頭に浮かんできて、いてもたってもいられなくなって――。本当に、どうしてあれほど自分が抑えられなくなったんだろう」

「なるほど」

 シーマは薬酒のことに思い至られる前に問答を打ち切った。

 やはり彼はあの薬を飲み、その結果としてこうなっているのだ。何となく事情が読めてきた。

「そうしたらシーマの所に行くと言うから――何かあるのかい?」

 貴方の恋心を適当な誰かに押し付ける計画だったとは口が裂けても言えない。

 シーマは言葉を濁しつつフィリスを横目に窺った。フィリスは未だに複雑気な面持ちであったが、同じようにシーマに目配せを返した。

 フィリスの腕を取り奥へと促す。そこには店の裏へと続く扉がある。

「今から二人きりにさせて」

 それだけ言い残すと、シーマは男たちの鼻先で扉を閉めた。




 薬屋の店舗部分の奥には細い廊下を挟んで二つの部屋がある。左手は物置へと変貌を遂げつつある空室で、右手は木製の寝台や棚が設えられた簡素な部屋となっている。シーマが普段寝起きする部屋だ。迷いなくこちらを選ぶ。

 扉を閉めてフィリスへと向き直る。彼女は幾分か落ち着いた様子だが、それでも不機嫌な様子をありありと見せている。

「……で、なんでレドルに迫られてたのよ」

 まずそのことに食いつくのが彼女らしい。

 シーマは簡潔に白状する。

「誤飲。普通のお酒の瓶と一緒に置いたのが悪かったわ。止める間もなかった」

「本当に?」

 フィリスはなおも疑った目で問い直す。

 重ねて本当だと訴えれば、フィリスは一応納得したようだ。

「そう……じゃあレドルには効いてデーニスタがあんな調子なのはどうして?」

 レドルの場合は経過を見ていたから明白である。一杯飲み干し、居合わせたシーマは必然的に視界に入り、効果が表れた。

 ではデーニスタはどうか。あいにく薬を渡すまでがフィリスの仕事であったため、誰も彼の身に何があったのかを分かっていない。信用できるのは彼自身の証言だけだ。それも「誰もいない中庭で薬酒を飲んだ」というだけの。

 これを頼りにした場合、導かれる仮説は。

 一つ。飲んだ際誰も見なかったため本来の効果が表れず、ただの興奮剤として作用したら。

 一つ目から派生して二つ。他に目にした相手がおらず、元々心にあった少女に矛先が向いたとしたら。

「つまり、フィリスを想って飲んだことで惚れ直したという」

「あいつそんなに私のこと考えてたの……?」

 フィリスは不満顔もなりを潜め真顔で身を震わせた。本当だったとしたらこの反応も責められない。知らぬうちに薬を盛られた上に影で不快感を呈されるデーニスタには申し訳ないが。

「てことは、薬自体は効いてるのよね? せめて効かなくなればましになるかしら……なんとかできない?」

 分からない、と首を振る。かつて調合法を教わった際、効果を解く方法については触れられなかった。

 そんな、とフィリスは悲壮な声を上げた。

「これじゃあ最初よりも悪化してるじゃない! このままなんていやよ私」

「私もよ」

 シーマはシーマで困ったことになっているのである。それでなくともこの件には責任がある。このままにしておくつもりはない。

「薬の先生に尋ねてみる」

「あの薬を教えた人ね」

「そう」

 その他にもシーマが今持つ知識の全てを授けた人だ。頼りになる知見を持っているかもしれない。

 フィリスは頼むからね、と念を押して帰って行った。



 フィリスが帰った後、シーマは即座に恩師へと手紙を書いた。薬を作るに至った動機、間違いがあって友人の一人に薬を飲ませてしまったこと、元々飲ませる予定だった相手には予期せぬ効果が表れたこと。恥を忍んで洗いざらい書き記しその日のうちに速達で出した。



 当日中に発送されたのであれば今頃配達人に仕分けられているだろう。師がすぐに手紙を開封したとして、早くとも返信には三日はかかると目される。

 三日というのも最短日数であるから実際はそれ以上待つことになるだろう。それも当然だ。こちらは弟子であり、ひどく個人的な事情で助力を乞う立場である。一方的に早急の連絡を催促はできない。

 しかし。

「ああ、会いたかったよシーマ。たった一晩がひどく長かった!」

 こういう状況であるからして、どうか師にはできる限り早い返信を願いたい。


 友人たちを残らず退去させ一夜が明けると店には日々と変わらぬ朝が訪れ、前日の騒動はまるで夢であったかのように思われた。

 今日は心機一転、安心して仕事ができる。

 そう喜んだのもつかの間、最も厄介な男が再襲来した。

 鐘に合わせて開店準備を行っている時やって来たレドルは、扉を押し開けた勢いそのままにシーマの立つカウンターへと歩み寄って来たかと思うとすぐに昨日と同じようにその手を握った。背負う朝日に劣らず爽やかな笑みを浮かべ乗り込んでくる様は正直怖ろしかった。

 邪魔しに来たのなら帰れと凄んだところ、問屋の遣いで薬を頼みに来たのだと至極真っ当な答えが返ってきた。正当な用であれば受け入れるしかない。「君にも会いたかったからね」と付け加えられた一言は無視した。

 棚から注文品を探す間も、背には口説き文句が投げられる。

「ねえ、この後奥に招いてくれないかい?」

「今店開けたばっかりなんだけど?」

「そう言うなよ、俺たちには語ることが沢山あるはずだ」

「ない」

 一睨みしてようやく黙る。レドルはしぶしぶと壁際の長椅子に退去するが、その目は変わらず店主を映し、陶酔を宿している。

 シーマは途方に暮れた。

 弁解するようだが、別に彼のことが嫌いなわけではないのだ。友人づきあいをするには気の良い男で、あまり外出しない薬師にとってはその軽やかな性格に助けられて交流が続いていると言っても過言ではない。なんなら無遠慮さだってその長所の裏返しと評価していいくらいだ。辟易することも三日に一回ほどはあるが、シーマは彼を好ましい友人だと思っている。

 だからといって異性の友人をすぐに心ときめく相手として見られるかというとまた別の話である。

 想像してほしい。気の置けない仲の異性が、それまで何一つ色事の気配など纏っていなかったのに、突然甘い台詞を囁き始めたら。ときめくより先に頭を打ったかと血相を変えるだろう。シーマなら馴染みの医者に担ぎ込むか自分で診る。

 それでも何度も熱心に口説かれ、慣れてくれば、じきに絆されるものかもしれない。

 まして彼は元から人受けしやすい男だ。女性相手ならばなおのこと、あの顔で愛を囁かれて陥落しない娘も少ないだろう。

 ではなぜシーマが正気でいるかというと、他でもない元凶の作り手だからである。

 シーマの作った尋常ならざる薬の作用は、一目見た者に恋をすること。自ら試したわけでないからあくまで推測だが、材料の特性からして催眠と興奮によるものだと踏んでいる。

 だからあれは薬に操られているだけで、彼の本心からの言葉ではないのだ。

 その考えがシーマの理性を律していた。


(それにしてもね)

 長椅子へと視線を送れば、悦びに身を浸したような甘美な微笑みが依然そこにある。

 彼は自身をそうさせているのが愛しい人の手による薬だと知らない。

 シーマは小さく溜息を吐き、カウンターの内側に場所を写した酒瓶に指先を滑らせた。

 こうなっては正気でいる方が申し訳ない気になってくる。いっそ理性を手放してしまった方が楽かもしれない。

 一思いに飲んでしまえばことは簡単だ。初めに見た者に心奪われる。そして今現在ここにいるのは、シーマに心奪われた男が一人。まごうことなく相思相愛、大団円だ。薬に奪われた精神の均衡がもたらした情愛だと知っていても、いずれ細かいことは気にならなくなるだろう。

 しかし正常な思考を奪われるのは嫌だ。実例を目の当たりにしているとより一層、こうなるのかというためらいが押し留めた。

 シーマは自嘲に顔を歪める。

 「こう」したのは他でもない自分だというのに。自分が拒むことを人にさせた挙句、一方的に何か言えた立場だろうか。


 シーマは再びレドルを見つめた。低い長椅子の上に折ったすらりと高い背は、やはり狭い薬屋には場違いだ。

 娘の姿をことある毎に見上げていた求愛者は、すぐに視線が注がれていることに気付いた。

 無言のまま、寸刻視線が重なり合う。

 しばしの後、レドルは口を開いた。

「……やっぱり招いてくれる気になった?」

「出てけ」

 前言撤回。やはりこいつ自身の勝手で招かれた顛末である。

 彼のための苦悩を頭の奥へと捨て去り、シーマは仕事へと戻った。


 結局この日レドルは正午の鐘が鳴るまで薬屋の二階に居座り続けた。今度は使いの品を忘れずに行ったが、用事に見合わず滞在が長すぎる。こんな調子だと今に下宿先から追い出されるのではないか。

 そうならぬためにも、一刻も早く中和薬が欲しいところであった。



 二晩が経った。

 開店前の朝、戸口に差し掛かった郵便配達人に、シーマは跳びかからんばかりの勢いで応対に出た。彼はおろおろしつつも期待を裏切らず一通の封筒を差し出した。

 封筒は生成り色の薄い植物紙。縁には草の葉がすき込まれている。中央の宛先の下には見知った署名。

 その名を目にして、シーマは大慌てで店内へと踵を返した。腰を下ろしもせずカウンターで封を破る。

 中には二枚の便箋が折り重ねて収められていた。逸るあまりかえってもたつく指でどうにか引っ張り出す。

 やっと開いた一枚目には、独特の丸みのある文字が綴られていた。



親愛なる教え子シーマへ

 久しぶりでしたね。先日の手紙を読ませてもらいました。薬の仕事も私生活も順調なようで何よりです。

 身の回りのことについてもまた是非聞かせてほしいところですが、本題は例の秘薬のことでしたね。

 私も実際に試したことはなかったので、今回のような面白い、もとい、大変なことになったと聞いて驚いています。ご友人方に飲ませてしまったのは迂闊だったかもしれませんが、私としても検証不十分のまま面白半分に教えるべきではありませんでした。

 飲んだ後誰とも会わなかったために想い人への愛情をさらに深めたというのは興味深いことです。その時ちょうど思考していたのか、それとも常日頃の意識に左右されたのか……。気になるのでこちらでも一度機会を見つけて調べたく思います。


 さて、問題は薬効の解消法でしたね。

 残念なお知らせですが、この惚れ薬に中和薬は存在しません。

 なぜならこの薬はかつて意中の人の歓心を得んと欲する一部の方々により秘密裏に使われてきたものであり、そもそもその目的を翻そうとすることがなかったためです。



「何ですって……」

 シーマは文面に目を落としたまま呆然と呟いた。

 大それた薬を私的に利用したことについて師が怒っていないのは幸いだった。あからさまに面白がられてはいるが。

 しかし肝心の解毒方法がないとなっては連絡し損ではないか。速達で出したのに。恩師に余計な恥をさらしただけだ。

 いや、それよりも問題は薬を飲んだ当人らだ。

「こんなことならあの時指突っ込んででも吐かせておくんだった……!」

 独り言と共に頭を抱えた時だった。

 外階段を上ってくる足音が聞こえた。時刻は未だ開店前。

 先ほどの配達人が届け忘れでも持ってきたかと思い顔を上げたシーマは、入り口に友人の姿を認めた。


「おはよう、シーマ」

 フィリスは普段よりも幾分か大人しげな様子で挨拶を口にした。

 気重げな様子は、朝早くの訪問に恐縮している、というだけではないらしい。先日のごたごたを気にしているのか。

「おはよう、フィリス。……何かあったの?」

「うん……」

 不自然でない程度に柔らかい声音で窺ってみるが、やはり歯切れが悪い。疑問に思うシーマの耳に、再び足音が届いた。

「朝からすまない、少し時間あるかい……」

「デーニスタまで」

 シーマは驚き、そして少し身構えた。この組み合わせは波乱を起こす。

 だが、想像に反し、場に恐慌が訪れることはなかった。

 双方ともぴくりと反応はしたものの、いつものようにフィリスが噛みつくことも、またデーニスタが取りすがることもなく、お互い語勢弱く目を逸らすばかり。幼馴染同士の挨拶もそこそこに、デーニスタは店主へと向き直った。

「君にも謝っておかないとと思ったんだ。この間店で大騒ぎしてしまったから」

 悪かったねと言い残すと彼は、一人足早に去ってしまった。シーマが、そしてフィリスが引き留めようにも、その暇もなかった。

「…………」

「……何で?」

 覇気の無いフィリスへと振り返り訳を問う。

 フィリスは恥じらうかのように言いよどんだ後、昨晩からだと打ち明けた。

「昨日帰り道で出くわしたんだけど、様子がおかしくて。いえ、薬でああなったのとは別で、むしろいつも通りというか――いつもよりも気が抜けたようで――」

 彼は「急に頭が冷えた、今まで無理に付きまとっていた」と詫び、それきり背を向けて帰って行ってしまったのだという。

「ずっとあんな調子だったのに変よね。ずっと、本当にずっとよ? あんまり急に離れるなんて。 もしかしたら、私が強く言いすぎたからついに傷ついたのかしら、って――」

 彼女はいつもの華やかで溌剌とした話しぶりを忘れてしまったようにたどたどしく言葉を紡ぐ。それすらも最後の方は消え入りそうになる。

 そして次の瞬間、勢いよく顔を上げた。

「ごめんなさいシーマ、私デーニスタを追いかけてくる!」

 そう言い残すとフィリスは薬屋の床を蹴り、出入り口を力強く開いて出て行った。階段を駆ける足音が遠ざかってゆき、やがて店には余韻すらも残さぬ静寂が戻る。

 シーマは便箋をめくった。

 師からの手紙には続きがあった。


 ですが愛弟子よ、そう深刻に考える必要はありません。

 というのは、永劫効力を表す薬というのもそうそうないからです。

 あの妙薬を用いたかつての方々は、効果が定着するまで何度か繰り返し服用させていたといいます。

 そこから推測するに、一度飲んだだけならば効果は自然と鎮静化していくのではないでしょうか。もしかしたら、この手紙が届く頃にはすでに終わっているかもしれませんね。



「……は」

 一人きりの空間に乾いた笑いが漏れ出でる。

 効果切れ。

 言われるまで思いもよらなかったがそうである。大概の薬には持続期間があるものだ。妙薬の特殊性に常識を揺るがされ、薬師の基本たる事柄まで失念していた。

 結局、わざわざ連絡をとらずとも時間が解決してくれていたのだ。

 シーマはひとしきり笑った後、その場に脱力した。


 確かに先ほどのデーニスタは薬の効果も抜け、いつものとおりの知性的な彼に戻ったようだった。いや、フィリスの証言曰く昨夜は自ら離れていったそうだから、むしろ普段よりも正常と言ってよい。もしかすると妙薬の反動かもしれない。

 そして、フィリスは去って行こうとするデーニスタを追って行った。それは振り回したことへの、辛く当たり続けたことへの良心の呵責か。

 あるいは側にあり続けた男が遠ざかって行くことでようやく――。

 頭を振った。外野があれこれ考えるのは止そう。


 シーマが立ち上がると同時に、本日三度目の来訪者が扉を開けた。

「や、おはよう」

 レドルであった。ここ何日からは彼の襲来にも怯えたものだが、一連の事態が収束に向かうと知った今となっては恐れおののくことはない。シーマは幾分晴れやかな気持ちで彼を迎え入れた。

「通りでデーニスタとフィリスを見たけど、もしかしてここに来てたのかい」

「ほんのちょっとね。もう終わったけど」

 彼らはこれから話をするだろうか。丸く収まって、二人は元の幼馴染か、それともまた別の何かになるのだろうか。そう簡単にはいかないかもしれない。だが、わずかでも友人たちが前進すると思うと、歌でも口ずさみたくなるほどに晴れやかな心地がした。

 先のことに思いをはせるシーマの隣に立ち、レドルはそうかと喜色めいた声を発した。

「じゃあ、しばらくは二人きりってわけだ」

 左手を握られた。

「……何で?」

「いいじゃないか、邪魔が入るまでは口説かせてくれよ」

 重ねられた手を払いのけることも忘れて固まった。

 デーニスタが薬を飲んだのは確か三日前の昼。効果が切れたと思われるのは遅くとも昨日。レドルが杯を呷ったのはデーニスタとほぼ同時。

 なぜ元に戻っていない。

 背を汗が伝い、脳裏を疑問が飛び交う。

 シーマはやっとのことで一歩後ずさり、再び師の手紙を開いた。



 とはいえ、これもまた薬の常ですが、人によって薬の効き方には差があります。この秘薬も一定期間服用を続けることが常だったとはいえ、一度きりでよく効き目が出た人もいたようです。

 加えて、人の心というものは薬のように分かりやすくできているものではありません。

 秘薬にもたらされた心象と真の心、それらが混淆して、薬自体の効果が醒めても気持ちが収まらない、ということも十分考えられます。

 そうなっては我々薬師にも、いえ、何者をもってしても手のつけようがないでしょう。

 いずれにしても、どうかあなたとご友人方に和やかな結果がもたらされますよう。


 追伸 何か新しい効能や適正量など判明したら是非教えてください。



 シーマは手紙をうっかり握りつぶしそうになった。


 ――先生、貴方の推論は極めて正しいと思います。友人に対し効果を示した青年は昨晩には鎮静化したそうです。一方私の前で薬を飲んだ奴は数日経ちましたが一向に元の調子に戻る気配がなく、依然私の仕事場に来ては愛情を訴えていくのです。この差については検証の余地があるかと存じます――。

 とてもじゃないが続報には書けそうもない。書こうものならからかわれること間違いなし、先日の失敗に劣らぬ恥である。

 シーマは横目にレドルの顔を見た。凛々しい目は期待ありげな輝きに溢れている。眩しさに堪らず目を逸らす。

 もしも恩師の言う通り、これが薬によるものでないとするならば。

「ねえ、いいだろう、シーマ」

「…………あなたがお店を追い出されたって、私の責任じゃないわよ……」

 溜息は幸せそうな笑いにかき消される。

 駆け出しの薬師はどうにか恋心に冷や水を浴びせる薬を作れないものか、さもなくばいっそ自分も妙薬をあおってしまうべきかと思案するのだった。


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