俺のケツをなめてくれ
ツイッターでつぶやいた、『トイレットペーパーも温水洗浄便座もない異世界に転移したので俺のケツが大変なんだが』という異世界ファンタジーのネタを調理してみました
俺が異世界に転移して、ずいぶんと時が過ぎた。
最初は、えらく苦労したものだ。二十一世紀の日本に住んでいた文明人が、いきなり右も左もわからないファンタジーっぽい世界に転移したのだから。
ここは野蛮な、力こそパワー、魔法こそマジックな異世界である。ゴブリンもいれば、ドラゴンもいる。むしろ人間の方が少ない。
俺が死なずにすんだのは、異世界転移と同時に目覚めた魔法の力のおかげだ。
《モンスターの調教》。
これが、俺の持つ魔法だ。
ちなみに、ここでいうモンスターは、人間以外全部、だ。
犬や馬もモンスターだ。調教できる。
エルフやドワーフもモンスターだ。調教できる。
ドラゴンや天使もモンスターだ。調教できる。
無敵じゃないか、と思うだろう?
実は、この魔法には大きな落とし穴がある。
繰り返すが、俺が手に入れた魔法の力は《モンスターの調教》だ。魔法での調教に成功すれば、モンスターに芸や仕事をさせることができる。ドラゴンに乗って飛ぶこともできるし、その時に土足でドラゴンの背中にあがってもいい。
そして失敗すれば、怒り狂ったドラゴンに食われる。
考えてみれば当たり前の話である。調教というのは常に成功するわけではない。成功したり失敗したりするものだ。そして、失敗すれば報いを受ける。これが馬になら噛まれる。ドラゴンも同じだ。
また、たとえ調教が成功したとしても、相手が知性のある生き物ならば、そのことに反感を覚えるものだ。人間に「お手」を仕込んで、芸をさせることができたとしよう。そいつが調教した相手に恨みを抱かないなら、そいつは太平洋のように心が広い聖者か、ドM、あるいはその両方である。俺としてはどちらにも近づきたくない。よるな。
そして――ここから先が大事な点だ。
成功するかどうかは別として、人間以外なら何でも調教できる魔法の使い手がいたとする。そのことを知った、この世界の権力者が何を思い、どう反応するか、考えてほしい。
偉大なるドワーフの槌王に、美しきエルフの妖精女王に、手をパンパン、と叩くだけで三遍回ってワン、と言わせたり、寝っ転がって腹を撫でさせられる人間がいたら?
いやもちろん、成功するとは思えないよ?
ドワーフもエルフも、魔法への抵抗力はすごいし、王様ともなれば、危害を加えそうな魔法に備えて、アイテムやら結界やら用意してるし。
しかし、そんな魔法が野放しになっているのを放置してくれるとは思えない。そしてここは、基本的人権など存在しない、野蛮がワイルドな異世界なのだ。
問答無用で殺されるか。それとも脳に呪い針を打ち込まれて魔法を封じられるか。
あるいは、利用価値ありと考えられて、特殊な工作員をさせられるか。
《モンスターの調教》は、持っていることを知られただけでも、危険すぎる魔法なのだ。
そういうわけで、俺は自分の持つ魔法を《スライムの調教》と周囲に偽り、スライム調教師として生きることになった。
スライムも、スライム調教師も、それなりに数がいて、紛れやすいからだ。
この世界では《スライムの調教》は汎用的な魔法だ。あまり魔力のない一般人でも習得し、使用できる。
それなりの規模の集落には、ひとりはスライム調教師がいる。
大きな街であれば、スライム調教師ギルドがある。それほどに普及している。
《モンスターの調教》魔法を隠して生きるには、スライム調教師は都合がいいのだ。
では、何でそんなにスライムが人気なのかというと、スライムは便利なのだ。
スライムは何でも食う。ゴミも食う。スライムが出すものは、肥料や燃料になる。汚れた水も、スライムを使って濾過できる。
《スライムの調教》とは、スライムに食わせるものと、出すものとを制御する魔法だと考えてもらえばだいたい合ってる。
この世界で井戸やわき水をのぞく飲料水がどうやってできるか知った時には、しばらく水を前に悩んだものだ。
もちろん、スライムについて知った今では、それなりに得心している。
オシッコじゃない。生きている濾過器を通しているだけで、これはオシッコじゃない。
断じてオシッコでは、ないのだ。
俺は納得している。この話はここまでだ。
貴族の館で働くスライム調教師は、メイドや執事だ。
《スライムの調教》を覚えたての幼いメイドが、小さなスライムを棒でつっつきながら、おっかなびっくり床の掃除をしている光景は、なんとも微笑ましい。
そんなメイドも数年ほど仕事を続けて馴れてくれば、洗濯物をスライムに取り込ませ、汚れだけを食わせてきれいにすることができるようになる。
現代日本での掃除機や洗濯機などの仕事を、こちらの世界ではスライムがしているのだ。
街や農村で働くスライム調教師は、肥料や燃料や飲料水を作る。
これは少し熟練が必要になる。
スライムは何でも食うし、食べてはダメなものを教えるのも簡単に調教できる。
しかし、何を、いつ、どのように出させるか、は難しい。それでは、社会にとって有用な産物は作れない。調教されていないスライムに汚れた水を飲ませても、出るのは、いろいろと飲んではダメなものが混じった黄色い液体だ。
あれこれ苦労してできた肥料や燃料も、完璧とは言いがたい。肥料はさらに色々と混ぜたり熟成させる手間があるし、燃料は燃やせば臭いし、火力も乏しい。
それでも、スライムの排泄物は、地球の歴史における、中世盛期――それどころか、江戸時代の日本と比べても豊かな食料生産と、健康な生活という恩恵をもたらしている。
スライムとその排泄物が、この異世界を支えているのだ。
この世界のスライム調教師の育成の基本はギルドによる徒弟制度だ。スライムによる肥料や燃料の作り方を師匠から学ぶ。ノウハウの蓄積は世代にまたがるゆっくりとしたもので、成功と失敗をわけるものがなんであるか、その原理は知られていない。
そこに現代日本で簡単ながら生物学や化学の基礎を学んだ俺の持つアドバンテージがあった。
もちろん、俺とて素人に毛のはえた存在だ。大学は文系であったし、就職先は流通業である。しかも、この世界は魔法があって、どうも俺の知っている科学とは法則が微妙に違っている。
それでも、この世界の住人でない俺には、従来のスライム調教師のやり方が、理論に基づく因果関係ではなく、経験の蓄積からくる相関関係である、という視点があった。長年受け継がれてきた経験の蓄積は尊重すべきだが、その中には必ず、試す必要がないので試していない、見落としがある。
そこに、俺が試行錯誤する余地があった。
最初に俺が試みたのは製塩だ。
海水をスライムに飲ませ、塩を作る。
スライムに飲料水を作らせるやり方の応用だ。これはまだ初心者だった俺にも、何とかなる範囲の調教だった。
スライム製塩は、それなりに金を稼げた。けれど、すぐに他のスライム調教師も真似を始めて供給過多になる。さらには、従来の製塩業を営む海人とも衝突するようになったので、すぐに手を引いた。
製塩で稼いだ金を使って、次に始めたのがスライムの中で穀物を発酵させて酒を作るスライム醸造である。これまでにも試みた者がいないでもない分野だが、十分な期間、スライムの中で発酵を持続できず、成功した者はいなかった。
俺はこれを、スライムが出したものを、次のスライムに食わせるやり方で解決した。できた酒の出荷と販売については、製塩の失敗から学んで、これまで果実酒の一大供給元だった地母神の神殿と組んで行っている。
スライム醸造の成功は、俺を裕福にし、この異世界での生活を快適なものにした。
裕福で快適な生活は、新たな問題を俺につきつけた。
現代日本にいた頃、俺は胃腸があまり丈夫でなかった。ちょっとしたことで腹を下し、トイレのお世話になっていた。
異世界にきて、しばらくは食うにも困ることがあったが、なぜか腹の具合は悪くならなかった。それが、贅沢ができるようになると、たびたび、腹の調子が悪くなるようになったのだ。
この異世界での俺は、スライムのおかげで、まずまず清潔で文化的な生活を営めている。煮沸せずとも飲める、濾過された水。汚れを落としたきれいな衣服。豊富な燃料で沸かされた公衆浴場。
しかし、残念ながら、この世界のトイレはあまり文化的とはいえない。
人間の排泄物が、この世界でどう扱われるか、くだくだしく説明する必要はないだろう。
スライムに食わせるのだ。
街にも、農村にも、人が住むところにはあちこちに、スライムを飼っているトイレがある。屋根はあったりなかったり。そして壁はない。
スライムトイレに壁はないのだ。
どうもこの世界では、他人に排泄を見られることに、文化的な禁忌のようなものがないらしい。大人も子供も、男も女も、平気で服をまくってスライムトイレを利用している。大をいたす時には、隣の人と会話してたりもする。
腹を下すようになる前は、俺も我慢してスライムトイレを利用していた。
しかし、再びトイレと付き合う時間が増えたことで、俺はこの世界のトイレにも、改革が、いや、革命が必要であると考えるようになった。
一個人としてのトイレ問題は、すぐに解決できた。
屋敷を建て、その中の一室に、俺専用のスライムトイレを作ったのだ。もちろん壁はあるし、鍵のかかる扉もある。
この世界でも、王侯貴族や、金持ちは屋敷や王宮の中に専用スライムトイレを作っている。羞恥からではなく、安全面からだ。排泄時は人間が無防備になる瞬間である。
だが、俺はこれで満足しなかった。
やはり、トイレというのは個人の安らぎの空間でなくてはいけない。
この世界の住人にも、個室トイレのすばらしさを知ってもらいたい。
そこで俺はスライムを調教し、とある革命的な――
しゅぽー。
「うひょほぉぉぉお?!」
失礼。革命的なトイレを作り上げた。
べろべろん。
「ほおおおおおおお?!」
失礼。それがこの『お尻をきれいにするトイレ』である。
スライム調教師として、それなりに経験を積んだ俺にとっても、これは難題だった。
普通のスライムトイレにいるスライムは、穴の底にいて、落ちてくる排泄物を、ただムシャムシャやるだけの存在だ。スライムトイレが出したものは、肥料の元になる。
トイレ用スライムに新たな調教を追加することも考えたが、これは諦めた。
スライム醸造で気付いたのだが、一体のスライムに複数の仕事を教えるのは、失敗の元になる。シンプルさこそ、成功の秘訣だ。
そこで俺は、便座に新たな調教をほどこしたスライムを――
「いつまで、便所にこもっているんだい?」
コウモリの羽根をつけた、二十センチほどの小悪魔が、パタパタと飛んで窓からトイレの中に入ってきた。
「うるさい、はいってくんな。考えごとを」しゅぽー「うひょほおおお?!」
「キミがそういう奇声をあげるからだろ」
「大丈夫だ。何も問題は」べろべろん「ほおおおおおお?!」
「まったく、だらしない顔だね。鏡を持ってきてあげようか?」
「余計なお世話だって言ってるだろうが」
このうるさい小悪魔はリジー。
右も左もわからない異世界にやってきて、野垂れ死にそうになった時からの、長い付き合いである。
なぜそんなに長い付き合いになったかというと――
「それにしても、ボクも運がないよ。ひとりでトイレにこもって、奇声をあげて百面相する男に“調教”されてしまうなんて」
野垂れ死にそうになった俺に近づいてきたリジーに、俺が言った言葉は「助けてくれ」だった。
それは日本語だったが、俺の魔法《モンスター調教》では、言葉の壁は意味をもたない。
元の世界で三十年間生きてきて、一度も魔法を使うことなく貯めに貯めた魔力で増幅した魔法がリジーの魔法抵抗力を打ち砕き、そして。
「ボクはキミを助けなくてはいけない。それがキミがボクにした調教だ」
「わかってる」
「なら、いつまでもトイレでスライムにケツをなめさせてないで、出てきたまえ。仕事がたまっているぞ。ボクはキミを助けなくてはいけないのだから、さっさと助けさせろ」
「いや、だからこれも仕事の一環なんだってば」
「ふーん」
リジーは、可愛らしい顔に醒めた表情を浮かべて俺を見た。
そして、何を思いついたのか、ペロっと舌を伸ばして唇をなめ、言った。
「なら、ボクがキミのお尻をなめてあげようか?」
勘弁してくれ、この小悪魔め。
それでは、俺が調教されることになるではないか。
(おしまい)