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【競演】 アリスの奇妙なお伽話 〜古書堂・不思議ノ国〜

 それは、暑い日だった。

 空模様が抜けるような青一色で塗りつぶされていても、温度計は三十度超えと八月の真夏日を思い知らせる容赦ない数値を見せていても、昼食時はとっくに過ぎていて、食べずに家を出てきたことを後悔していても。

 こうして目的もなく緩慢に歩いていられるだけで、彼にとって、実家にいるよりもずっと気が楽なのだった。

 時計はとうに十四時を回っている。田舎なのもあるだろうが、平日の閑散とした商店街を、彼、青山修はのんびりと当て所もなく歩いた。

 くり返すが、空は颯爽とした青空で、かんかんに照りつける日射しはお世辞にも散歩日和とは言えない。

 が、つい先程までふたりの兄達と揉めていた彼にとって、外の天気なんてどうでもいい事だった。

 

”……親父が亡くなったってのに、久しぶりに再会して話すことは遺産だの金だのと、それしか頭にないのか”


 いまは何より、あの陰鬱な空気から逃れられればいいわけで、たとえ問題の先送りにしかならないと分かっていても、せめて今日は父の喪に服そうと決めたのだった。


”……でも帽子くらいはかぶってくるべきだったか”


 遠慮の欠片もない真夏の太陽の光を手で避ける。かといって、いまから取りに戻るのも気が引けた。兄達と顔を合わせる位なら、こうして汗ばむ陽気の中を歩いている方がよっぽどマシだ。

 商店街を端まで歩き切ったところで修は立ち止まって考えた。ここから先には田畑と、子供の時に通っていた小、中学校位しかない。

 とにかく、いい加減暑いのにも飽きてきたことだし、汗をかいて喉が渇いた。どこか開いている店を探して涼むとしよう。

 そう思い立ち、再び来た道を戻ろうとして、


「……ん?」


 見覚えの無い一軒の古い建物が目にとまった。

 これまでずっと空地になっていた場所に佇む、古い木造の建物。軒先には年期を感じさせる木製の立て看板が出ていて、中心に大きく文字が躍っている。


「古書堂・不思議ノ国」


 古書堂……その名が示す通り古本屋なのだろう。証拠に看板の店名の横にも小さく「古本古書・査定収集」と記してあることからも間違いなさそうだ―――ん? ……査定”収集”? 古本屋に詳しいわけではないが、こういった宣伝文句には普通、”買取”とか、そういった物を書くのではなかろうか。

 多少首を捻ったが、それ自体は些末な事だったので、すぐに頭から離れていった。なんといっても娯楽施設に乏しい田舎町だ。手ぶらで飛び出してきた上に、時間を持て余している。丁度良いので、本でも買って喫茶店で一息つくとしよう。

 修は古書堂の前に立って引き戸を開け放った―――



 仄暗い店内は想像していたよりもずっと清潔で整頓された空間だった。

 古本屋といえば、本棚に多種多様なサイズの本が乱雑に収納されていたり、それでも収まり切らずに床に積んであったりするものだが、この店はそうではなかった。

 天井は高くないものの、西洋風の内装に隙間なく綺麗に配置された大きな本棚の群れ。そこに本がきちんと整頓されて収納してある。試しに手近な本を一冊引き抜いてみたが、手にまったく埃がつかないところを見ると、普段から清掃を怠っていないのだろう。


「それにしても……凄いもんだな」


 ザッと見回して思う。実用書、教養書、事典、図鑑、語学関連に辞書、歴史、文学小説から哲学、はてはこども用の絵本まで、圧巻の蔵書量に思わずため息が零れた。

 ぐるっと店内を回り、奥の方まで来たとき、わたしは言葉を失った。

 二十歳前後の女性がカウンターの向こう側に座り、大きな本のページをめくっていた。ときおり笑顔を浮かべたり真剣に頷いたりしている。

 青と白のエプロンドレスという、古本屋にまったくそぐわない服装で、長い金髪がはらりと胸元へと流れていた。

 色素の薄い肌に大きな青い瞳が目立つ。まっすぐ伸びた鼻筋の下に桜色の唇があった。


「……あら?」


 彼女は呼吸を忘れて佇んでいた私に気づくと、読んでいた本に栞を挟み、閉じてから微笑を浮かべた。


「これは、失礼致しました。いらっしゃいませ」


 明らかに日本人ではない風貌の女性から紡がれた流暢な日本語に、私はどう返事をしたら良いか分からず、金魚のように口を開閉しただけだった。

 咄嗟に何か言わなければ、と口を出たのが、 


「あ、いや、あの……実は本を探してまして……」


 言ってからすぐに私は赤面した。本屋に来ているのだから、本を探していて当然だ。彼女もそれに気づいたらしく、クスッと顔を綻ばせた。


「どの様な本をお探しですか? もし目的の物がお決まりでしたら、ご用意致しますが」

「いえ、そういうのは特に無くて。何かおもしろいのがあればって、立ち寄って見たんです」

「なるほど、そうでしたか」


 彼女は二、三度小さく頷いてから立ち上がり、カウンターからこちらへと出てきた。丈の長いエプロンドレスが、柔らかい感じの美貌を持つ彼女にとても似合っていた。


「ようこそいらっしゃいました。私はこの古書堂”不思議ノ国”の店主を務めております。アリス、と申します。よろしければお名前を窺っても?」

「……あ、は、はじめまして。青山です、青山修」

「青山様。もしご迷惑でなければ、私に本探しのお手伝いをさせては頂けませんか?」

「……え?」


 思いがけず唐突な申し出に、私は戸惑った。未だかつて、本屋の店員に本を選んでもらったことなど一度もない。普通は店頭に平積みされているおススメコーナーなんかから選ぶか、その場のインスピレーションで表紙買いをする程度だ。

 私が返答に困っていると、彼女は淀みない口調でこう告げた。 


「貴方様がこの場所に来られたのも、何かのご縁。きっといまの貴方様に相応しい本をご用意できると思いますが」

「僕に相応しい本……ですか?」


 相応しい本、と言われて、私はこの女性がどんな本を持ってくるのか興味が湧いた。


「なら、お願いできますか?」

「畏まりました。ではこちらへ……お掛けになって、お待ちください」


 アリスは私をすぐ傍にあった豪奢なソファーへ案内して座るように促し、それから体を畳むように深々と頭を下げた。

 それからしばらくして、彼女は大事そうに一冊の本を抱えて戻ってきた。

 このとき、私は彼女が胸に抱く”それ”を見て、ムッと眉をひそめた。


「あの……もしかしてそれ、絵本ですか?」


 どんな本がでてくるのか期待していたのに、がっかりだ。それどころか、相応しい本なんて言われて、持ってきたものが絵本とは、なんだか馬鹿にされたような気分になった。

 だが、不審そうな顔を向けている私に構わず、アリスは抱えていた絵本をそっとソファーの前にあるテーブルに置いた。そしてさきほどまで座っていたカウンターからティーセットを持ってくると、新しいカップに紅茶を注いでいく。


「砂糖とミルクは如何なさいますか?」

「……じゃあ、砂糖をひとつだけ」


 私の質問には答えず、なんというか、彼女はあくまでもマイペースだった。注文通りにカップに角砂糖をひとつ落として混ぜると、それを私の前に差し出し、それからこう告げた。

 

「その物語が……貴方様のこれからの一助になれば、幸いでございます」


 アリスは優雅に一礼すると、私を残し、カウンターのさらに向こう、店の奥へと姿を消した。

 しん……と沈むような沈黙が流れる。私は息ができなかった。どうやら肺が呼吸をする方法を忘れてしまったらしい。

 去り際の彼女の瞳。宝石を宿したような彼女の青い瞳はどこまでも深く、そして……本への愛情に満ちていた。だからこそ理解した。彼女は決してふざけてなど、ましてや私を馬鹿になどしていないということを。

 少しでもふざけた雰囲気があったら帰るつもりになっていたが、気が変わった。


 私はおもむろにテーブルの上に置かれていた絵本を手に取り、そして……表紙をめくった―――



 ―――昔、とある国に三人の姉妹が暮らしていた。三姉妹はみな、衆目を集めるほどの美貌を持ち、芸術品のように整った面立ちの評判は、城下町中に知れ渡るほどだった。

 いつしかその評判は国王の耳に届くこととなり、王は噂の姉妹たちを一目見たいと、特別に彼女達を自らの主催する「舞踏会」へ招待することにした。

 しかし、舞踏会へ参加するのは上の二人の姉だけ。一番下の三女は姉達の言いつけで、舞踏会への参加は許されなかった。三女は意地の悪い姉達に虐げられていて、家事雑用を押しつけられたすえ、惨めに家で待つだけだった。

 一番下の妹は、華やかな装いでお城へと赴く姉二人に羨望の眼差しを向けながら、いつか自分も参加したいと夢見るようになった。

 そんなある日、三女の内心を見透かした次女が、こう告げた。


「次の舞踏会までに、わたしのために新しい髪飾りを仕立ててくれたら、連れていくのを考えてもいいわよ」……と。


 だがこのとき、三女は気付かなかった。次女の口が、意地悪く釣りあがっていたことに。

 次の舞踏会は三日後の夜。よほど舞踏会へ行きたかったのだろう、その願望一心で必死の想いで髪飾りを仕立てた。

 三日三晩、寝ずに仕上げた髪飾りはそれはもう見事な出来栄えだった。受け取った次女は美しさに目を見開いて驚き、それから飛び上がるように喜んだ。

 それを見た三女は胸をなで下ろした。これで夢だった舞踏会に、自分も行く事ができると。

 ……だが、そんな三女に次女はにやりと笑みを向ける。


「誰も”次の”舞踏会に連れて行くなんて約束はしていないでしょう」


 三女は怒りで真っ赤に染まった。

 この女はどこまで意地が悪いのだ―――

 憤怒のあまり、奥歯を噛み砕きそうになった。これまでの数々の仕打ちを想い起こし、溜まりに溜まった鬱憤に打ち震えた。

 どうして私ばかり、いつもいつもいつもいつもいつもいつも―――

 妹は姉を心の底から軽蔑した。傲慢で強欲で尊大で、実の妹も平然と騙して利用する。これが本当に血の通った身内かと思うと反吐が出そうだった。

 我慢の限界に達した三女は、ついに報復に出た。裏手にある森から猛毒を持つ蜘蛛を捕まえてきて、次女が寝ている隙にベッドに忍ばせたのだ。

 毒蜘蛛に噛まれた次女は、死ぬことこそなかったものの、寝込んで動けない体になった。しかし三女の怒りはそれでも収まらず、次女の食事にその毒蜘蛛から摂った猛毒を混ぜて食べさせ続けた。

 美貌を誇った次女が、毒がまわるにつれて醜く変わり果ててゆく様子を眺めると、胸がすくような思いだった。

 それから数日、三女は毒を盛った食事を次女に与えながら、次第に思うようになった。

 これは良い機会ではないか……と。ずっと我慢してきたあの願望を叶えられるのではないか。

 舞踏会へ行きたい―――

 一度その気持ちに火がつくと、抑えることが出来なくなった。

 ……どうせ次女はもう動くことすらままならないのだ。ならば、ドレスや装飾品は彼女のものを黙って拝借してしまえばいい―――そう思い立ち、着ていたみすぼらしい服を脱ぎ捨て、次女のドレスに身を包んで化粧を施し、鏡の前に立ってみる。すると、そこにはまるで別人のような自分がいるではないか。

 ……大丈夫だ、これならきっと誰も、自分だとは気づかない。

 そして舞踏会の夜。次女のドレスを身に纏い、次女のために作った髪飾りを身につけて、こっそりと舞踏会に紛れ込んだ。


 ところが、紛れ込むどころか着飾った三女は他の誰よりも注目を集めた。確かにこのとき、誰も彼女が三姉妹の末娘だとは気づかなかった。ただ、彼女が醸し出す雰囲気が、その場にいたどの貴婦人よりも妖艶に過ぎた。

 美貌の姉二人に勝るとも劣らない肢体に、貴族の男達は鼻息を荒くする。まるで砂糖菓子に群がるアリのように、こぞって三女の元へと群がり、どうにかして彼女の気を引こうとあらゆる言葉で、態度で、褒めてもて囃した。

 最初は何が起きたのか分からず、ただ唖然とするしかない三女だったが、次第に襲ってくる強烈な優越感に、震えた。これまで蔑まれることしかなかった三女にとって、それはまさに快感と愉悦感以外の何物でもなかったのだ。


 それ以降、舞踏会のたびに素性を隠して参加し続けた。謎の美女はいつも多数の男達に囲まれ、花よ蝶よと持ち上げられた。

 舞踏会に慣れてきたこの頃から、引っ込み思案だった三女の性格が一変する。

 舞踏会に参加するだけに飽き足らず、気に入った容姿の男を積極的に誘惑し、一夜限りの関係を結ぶようになった。決して素性は明かさないという約束だったので、男達は誰も彼女の正体を詮索しなかった。ただその美貌と一夜を共にできるというだけで興奮した。

 謎の美女を近くで見た貴族達はこう噂したという。


「彼女なら、王子すらも虜にするかもしれない」


 王子は温和で誠実な人物で知られていた。人徳があり、誰からも慕われていた。もとを正せばこの舞踏会も、王が王子の妃を選定するために催しているというのは公然の秘密となっていて、若い貴族の女達は自分こそが王子に相応しいと、影に日向にと醜い争いを繰り広げているのだった。

 王子に見初められれば、それはつまり次代の王妃である。二人の姉が三女を舞踏会に参加させなかった理由も、実のところ王子の視線が三女に向くことが怖かったからだ。

 彼女達は分かっていたのだ。自分達を差し置いて、三女が男達を魅了することを。そして恐らく、王子の目にとまるであろうことを。なぜなら美人揃いの姉妹の中でも、とりわけ三女がもっとも美しかったのだから。これまで三女を苛めてきたのも、そんな醜い嫉妬心の表れなのだ。

 ……ただ、ひとつ忘れてはならないことがある。それは三女の中にもふたりの姉達と同じ血が流れているということだ。

 それを証明するように、三女は自分以外の女性に周囲の注目が集まると、激しい嫉妬心に駈られた。当然、それが血のつながった姉妹であっても。

 長女が件の王子の目にとまり、恋仲になっていると聞いて、三女はそれを激しく憎んだ。

 人の欲望は、まるでとどまることを知らない。最初は舞踏会に憧れるだけの大人しい女だった。出られるだけで満足していた。だが慣れてくるにしたがって、次第に男を選ぶようになり、今では姉の男まで奪おうとまで考えだす。

 どうすれば、王子を姉から奪うことができるのか。

 三女は考えた。そして答えに辿り着いたとき、自然と笑みがこぼれた。いまの三女にとって、その答えがあまりにも簡単だったからだ。

 ずっと憧れていた舞踏会にでられるようになったのは、次女を排したことで、彼女の座っていた席を奪ったからだ。

 なら、

 ……長女からも同じように奪ってしまえばいい―――


 その夜、三女は長女のベッドに毒蜘蛛を忍ばせた。

 

 あるいは、復讐心からだったのかもしれない。自分を苛め抜いてきた姉が、幸せになることが許せなかったのかもしれない。

 少なくとも、すでに三女の中に罪悪感などかけらもなかった。ただ自分と王子との恋仲を邪魔する長女が憎かった。

 彼女がいるから王子は自分を愛してくれないのだ。

 身内であっても、必要ならば排除する。それは彼女の中で当然の考え方となっていた。まさに、その思考を実際の行動に移す点からも、三女にふたりの姉と同じ血が流れていることの証明になるだろう。

 そして舞踏会の夜。三女は寝込んで動けなくなった長女のドレスを纏い、王子の部屋へと赴いた。

 見知らぬ女が突然部屋に現れたことに、王子は驚いた。


「……何者だ」


 王子の問いに、三女はさも当然のように、返答した。


「あなたの恋人です」……と。


 三女は信じて疑わなかった。長女を自らの手で排したいま、これまで彼女の持っていたものは全て……そう、例えばこの王子すらも自分のものになったはずだと。

 ところが、王子の次の言葉に、三女は耳を疑った。


「恋人……? 私はお前など知らぬ」


 王子は何を言っているのだろう。私を知らないなんてことはありえない。なぜならワタシは王子の恋人の席にいるのだから。

 次女から奪えたように、私は長女のすべてを手に入れたのだから。

 ……そうだ。彼はきっと何か勘違いをしているのだ。もっと良くワタシを見ればいい。そうすれば思い出してもらえるはずだ。


「王子様、私が分からないの? アナタの恋人でしょう?」

「何を馬鹿なこと言っている。お前など見たこともない」

「……どうして私が分からないの? そんなのおかしいでしょう? 貴方のためにやったのに……姉さんはいなくなったんだもの、私を愛してくれるはずでしょう?」


 王子は戦慄した。

 笑みを浮かべながら、意味の分からないことを並べ立てる女に。

 こうしている間にも、謎の女は両手を広げて一歩、また一歩と近づいてくる。


「止まれ、それ以上私に近づくな」

「ああ……分からない。どうして貴方がそんな事を言うのか、私には分からない」 


 三女は歩を止めると、あくまでも自分を拒否し続ける王子を見て首を横に振った。


「―――そう……認めてくれないのですね。あくまでも私のものにならない……と、そうおっしゃるのですね」

「ふざけるな、くどい!! いますぐに出ていかぬと言うのなら、兵士を呼ぶぞ」

「……そうですか。分かりました」


 女があっさりと引き下がったのを見て、王子は胸をなでおろした……が、それが油断だった。

 ……気付くと、その女が自分を強く抱きしめていた。

 胸に感じる鋭い痛みに、喉の奥がつまる。


「……貴方が悪いのよ? ワタシを知らないなんて嘘を言うから……出ていけ、なんてひどいことを言うから。だからもうこうするしか他にないの。でも安心して……貴方をワタシだけのモノしてあげる。貴方の居場所をわたしがもらってあげる……姉さん達と同じように……」


 王子が悲鳴をあげると、三女は慌てて王子の部屋から逃げ出した。だが、その時に、片方の靴が脱げてしまった。

 異変に気づいた兵士が駆けつけた時には、王子は胸を短剣で一突きにされて床に倒れ、すでに息絶えた後だった。


 翌日。


 国中に「王子を殺害した謎の女」が手配された。手がかりは王子の部屋に残されていた「片方の靴」である。

 兵士と役人が駈りだされ、その靴にあう女の捜索が開始された。老若問わず、城下町に住む女はことごとく呼び寄せられるか、家を捜索され、無理矢理に靴を履かされる。

 三女は焦っていた。そう時を置かずしてこの家にも役人が来る。そうすればすぐに自分だとバレてしまうだろう。捕まれば処刑は免れない。いや、処刑だけで済めばいい。自分は王子を殺したのだ、恐らくこれ以上ないほどの酷い拷問を受けるかもしれない。それにきっと姉達に毒を盛ったことも知れてしまうだろう。

 三女は分からなくなっていた。

 いったい何が現実で、どうしてこんなことになったのか。

 ―――こんなはずではなかった。わたしはただ、舞踏会に出たかっただけ。ただ王子に愛されていただけなのに。悪いのはすべて姉達や、私を抱いたあの男達や、私を認めなかった王子ではないか!! 

 ドアを叩く音がする。外で役人達がここを開けろと怒鳴っている。

 三女は涙を流した。

 姉達を憎みながら……。

 関係を持った男達を憎みながら……。

 王子を憎みながら……。

 どうして自分ばかり、いつもいつもいつもいつも……酷い目にあうのか。

 ……嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ……私はまだ死にたくない……!


 そう泣き崩れた時だった。

 今にでも壊して押し入ってきそうなほど強く叩かれていたドアの音が、突如として止んだ。同時に、目の前に不思議な光景が広がっていく。

 大きな光る「卵」のようなものが宙に浮いていて、それがどんどん大きくなるばかりで、しまいには人間じみてきたのだ。

 その「卵」には目も鼻も口もついているのが、三女にはわかった。最後には、あろうことかそれが話しかけてきたではないか。


「君のその願い、叶えてあげようか」……と。


 三女は呆気にとられた。


「あなたは……誰?」

「わたしが誰かだって? ずいぶんと間の抜けた質問だと思わないかね? わたしが誰だとか、いまはあまり重要ではないね。まあ名前ぐらいは教えてあげてもいいけどさ。わたしの名前はハンプティ・ダンプティ」

「ハンプティ……ダンプティ……?」

「ことばにたくさん仕事をさせると、それに見合った給料を払わなきゃならないんだ。まったく、土曜の晩にことばが群がってくるところを見せたいよ。彼らは給料を受け取りにくるわけでしてね。そんなことより、良いのかい? このまま捕まれば、君はこの世のあらゆる拷問という拷問を受けて、最後には殺されてしまうよ?」

「そんなのは嫌! 私は死にたくないの」

「そうかい。なら君にとって、もっとも大切なものを差し出すんだ。そうすれば君の願いを叶えてあげようじゃないか」

「私にとって、一番大切な物?」

「そのとおりさ、どうだい?」


 ハンプティ・ダンプティと名乗る存在の申し出を、三女は即座に了承した。彼のいう”もっとも大切なもの”が何かは分からないが、酷い拷問を受けて殺されるよりはマシだと考えたからだ。


「それで命が助かるのなら、なんだってあげるわ」

「Good. 契約成立だ」


 ハンプティ・ダンプティは、ほとんど耳から耳へ届くように、にんまりと笑って見せて、三女に手を伸ばした。彼女がその手を取ると……途端に眩い光に包まれ、意識が深い闇の中へと落ちていった。それが完全に途切れる間際、最後に卵の声が耳に届いた。


”You are welcome to the wonderland.―――それでは、良い悪夢を……”



 ―――目覚めると、ベッドに横たわっていた。

 体を起こそうとして、奇妙なことに気づく。なぜか身動きがひとつも取れないのだ。どうにか視線だけを動かし、ここが自宅の、それも次女の部屋であることは理解できた。

 状況がつかめない。私を捕まえにきた役人達はどうしたのだろう。私は助かったのだろうか。そうこう考えていると、ドアが開く音がして、誰かが部屋に入ってきた。


「あら、起きていたのね?」


 ベッドの横の椅子に腰をかけたその”女”を見て、三女は自分の目を疑った。なぜならそこに座ったのは自分に瓜二つの女……どころか正に”自分自身”だったからだ。


「お腹がすいたでしょう? そうだと思ってちゃんと食事を持ってきたから。ほら、口をあけて」


 ”わたし”じゃない、”わたしのニセモノ”がスプーンで掬ったのは、これまで姉達に食べさせてきた毒入りの食事とまったく同じもの。

 ―――冗談ではない、そんな物を口にして堪るか……。

 そう思ってこの場から逃れようとするのに、身体がまるで石にでもなってしまったかのように動かない。


「あらあら……ダメじゃないの、こぼさずにちゃんと食べないと」


 含んだ猛毒入りの食事をやっとのことで吐き出すと、今度は無理矢理に口を広げられ、強引に押し込まれる。舌が痺れ、気管が焼ける。胃に落ちるとマグマのような熱さと激痛が腹から全身に広がった。


”やめてっ!! そんな物を食べさせないで―――!!” 


 耐え難い激痛と嘔吐感に、必死にやめてくれと懇願するが、出るのは言葉にならないうめき声のみ。それを目の前にいる”ニセモノ”は、ただ嗜虐に満ちた笑みで見つめている。


「泣いているの、”姉さん”? ……ああ分かったわ、よっぽどおいしかったのね? ふふ……大丈夫よ? まだまだ、たくさんたくさん、食べきれないほどあるから」


”―――……姉……さん……?!”


 この時、ニセモノに”姉さん”と呼ばれて、ようやく三女は自分に起きている異変の正体に気づいた。

 そう、目の前に座っている自分は”ニセモノ”なんかではなく、むしろ自分の方が”次女になり代わってしまったのだ”という事実に―――


「……安心して、姉さん。動けなくなった姉さん達の面倒は、私が見てあげるから……ええ、ずっとよ? これからもずっとね――――――」



 最後まで読み終えて、私は絵本を閉じた。そして一度だけ表紙を見直してから、テーブルの上に置く。

 すると、まるでそれを待っていたかのように、真っ白い一匹の……猫、らしき物体が私の足にじゃれついてきた。

 らしき物体と言ったのは、それがあまりに真ん丸に肥えていて、しばらく猫だとは思わなかったからだ。

 その小玉西瓜並に太った猫がしきりに私の足に絡みついて、何かを訴えてくるので、抱きかかえてソファーに移した。

 ……なるほど、彼か彼女かは分からないが、どうやら自力で登れないらしい。

 しばらくそうして白い小玉西瓜と戯れていると、


「……ハンプティ、お止めなさい。お客様に失礼ですよ」


 店の奥から、新しいティーセットを持ってアリスが姿を現した。向かいのソファーに腰かけた彼女に長居していることを詫びると、彼女はそれを笑って許した。

 ―――これも縁ですから……と。


「本とはあわせ鏡。それ自体が完結したひとつの生の形。そして観る者によっても違う……まるで万華鏡の組み合わせのようなものでございます」


 そうは思われませんか? ティーカップに温かい紅茶を注ぎながら、アリスは私に尋ねた。


「すみません、僕にはよく分かりませんが……。でも、ひとつボタンを掛け違えていたらきっと違う結末があったかもしれませんね」


 自分で言って、なんだかそれは人生に似ていると思った。なるほど、言われてみれば合わせ鏡とは、そういう意味を示しているのだろう。

 この話のモチーフがシンデレラだろうことは想像に難くない。ただ大きく違うのは三女の心のありようだ。


「あの……思うんですけど、もしかしたら二人の姉は気づいていたんじゃないでしょうか」

「気づいていた、とは?」

「三女の異常性……というか本質にです。長年一緒に暮らしていた姉妹が、互いの性格や情緒を知らないはずがないと思うんです。だから姉達は三女を舞踏会に参加させなかった。いや……こんなのただの深読みかもしれませんけどね」

「物事をどう捉え、解釈するかは自由でございます。青山様がそのように感じられたのだとしたら、それもまた事実ではないでしょうか」

「ただ気になったのは、最後にでてきたあの……」

「ハンプティ・ダンプティですね」

「はい。三女が願いを叶えるために差し出した”もっとも大切なもの”って、いったいなんだったのかなって」


 結局、アリスはその問いに答えなかった。きっとそうだろうと思ったし、なによりこれは、私が見つけるべきことなのだ。


「あの、アリスさん。絵本だと馬鹿にしたことをお詫びします。それと、この本を買いたいのですが、いくらですか?」

「いえ、御代は結構です。その本は差し上げますので、どうぞお持ち帰りください。貴方と出会えたことを大変喜んでいるようですから」


 まるで本の気持ちが分かるかのように言うアリス。けれどその姿に違和感を感じなかった。……もしかしたら彼女なら本当に本の気持ちが分かるのかもしれない……不思議とそんな印象を受けるのだった。

 私は素直に好意を受けることにした。

 

「今日はありがとうございました。近いうちにこの本のお礼もかねて、また伺わせてもらいます」


 膝の上でじゃれついていた例の小玉西瓜をどけてから席を立った。もしかしたら、私はこの美しくも不思議な印象を持つ彼女と、再び会って話す口実ができたのが嬉しかったのかもしれない。


「いつかまたご来店されることを、心よりお待ち申し上げております」


 深く頭を下げて見送るアリスに、もう一度礼を述べて私は店を後にした。

 外はすでに夕焼けに染まっていて、刺すような日射しは影を潜めていた。セミの鳴き声もいくぶん落ち着いている。どうも本当に長居をしてしまったらしい。

 なんだか不思議な店だったな、と今一度振り返ると、

 そこには”古書堂”など影も形もなく、以前のような雑草にまみれた空き地が広がっているだけだった―――







作者より


この度は アリスの奇妙なお伽話 〜古書堂・不思議ノ国〜 を読んで頂きまして、誠にありがとうございます。

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