序幕
絆。
それは、とても大切なものだと思っていた。
しかし、人間の体が、肉とかでできている限り…それは、とても儚くて脆いものだと気付いた。
誰よりも優しく、誰よりも俺を守ってくれると信じていた存在は、簡単に俺を忘れてしまった。
レビー小体型認知症。
それは、普通の認知症と違い、脳自体が縮小して、なくなっていく病気であった。
母親は、段々と俺を忘れ…脳の萎縮により、体を動かせなくなり、発病して五年で亡くなった。
その終わりは、悲しみや儚さよりも、侘しさを俺に残した。
生きてきたすべてを忘れて、無になった存在。
人間の記憶や愛情なんて、脳がなくなれば、消えてしまう。
だからこそ、俺は消えないように、脳味噌以外に刻んでやろうと思った。
心に。
しかし、心もまた…脳がなくなれば、消えるのだろうか。
俺のすべても、無に…。
母親が死に、天涯孤独になった俺…いや、父親はいたが、離れて暮らす父親と接点はなかった。
生活費もいれてなかったから、母親が働いて、学校に行かせてくれていた。
亡くなった母親が貯めていたお金は、病院代でほとんど消えたが、死んだ後に入った保険金が残された。
「それは、大学受験に使いなさい」
と言って、俺を引き取ってくれた人がいた。
母親の姉だ。
叔母であるその女性はシングルマザーであり、女で一つで二人の娘を育てていた。
一人は、俺と同じ年で、これから通うことになる学校の生徒会の会計をしていた。
もう一人は二つ上で、最近学園の寮に入ったらしい。
それでも突然、連れて来られた女だけの空間に戸惑いながらも、俺は…新しい環境で暮らすことになった。
それが、俺のすべてを変えることも知らずに。
「起きろ!司」
三畳くらいの狭い部屋で、布団の中で丸くなっていた神原司を叩き起こしたのは、従姉になる香坂姫百合であった。
「…え…あっ、姫百合さん…!どうして、ここに!?」
親戚とはいえ、女に起こされることに慣れていない司は、目覚めると最初にパニックになってしまっていた。
この家に来て、2日目。
今日から、姫百合達が通う高校に編入することになっていた。
「朝ごはんができているわ。着替えたら、キッチンに来てね」
パニックになっている司の様子を気にすることなく、姫百合はそれだけ言うと、部屋のドアを閉めた。
「そうか…ここは」
まだ開けていない段ボールを見て、司は…今まで住んでいた家ではないことに気付いた。
布団から出ると、昨日の夜にハンガーにかけておいた制服に目をやった。
「新しい学校か」
見慣れない制服を手に取ると、司は環境が変わった実感をその重みで味わった。
「どんなところか」
制服に袖を通すと、司は表情を引き締めた。
キッチンにいくと、叔母はもう出勤していて、姫百合が自分の食べた分の皿を洗っていた。
「わたしも今日は、早く行かなくちゃいけないの。生徒会の関係でね。司くん、戸締まりお願いね」
「はぁ〜い」
気を引き締めたつもりが、キッチンに入ると、司は欠伸をした。
「じゃあ、いくね」
ここの女達は、動きが早い。
司が椅子に座った時には、もう玄関に移動していた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
姫百合に声をかけると、司はごはんと味噌汁というシンプルな朝食に手を伸ばした。
味噌汁を一口啜って、司は目を見開いた。
「う、旨い!」
「ふわあ〜。まったく、嫌になりますね」
大きく欠伸をした犬上輝の横で、腕を組んでいた中小路緑はため息をついた。
「仕方がないでしょ。これも仕事よ」
「え」
輝は驚いた顔をして、手に持っていたビラを緑に示し、
「逃げた蛇を探すのが、仕事ですか!」
指で蛇の絵を叩いた。
「仕方がないでしょ。逃げたんだから!生徒に危害をくわえる前に、捕獲する。それが、今回の依頼よ」
緑は組んでいた腕を崩すし、木刀を手にして歩き出した。
「大体、学校のペットに、大蛇を飼いますか!大蛇を!」
輝はビラを丸めると、緑とは反対側を歩き出した。
「ごちゃごちゃ言わない」
生徒が来る前の静まりかえった校内に、女の声が響いた。
校内放送にアクセスし、乗っ取った櫻木舞が、部室から輝に向かって話していた。
「校内に仕掛けられた監視カメラの記録に、蛇が映っていない。恐らく中庭か、グラウンド周辺に潜伏していると思われます」
「了解」
舞の放送を聞いて、緑は中庭に向かって、進路を変えた。
「フッ…中庭か」
自転車置場にいた高坂真は、軽く笑うと、中庭に向かおうと振り向いた。その瞬間、何かを踏んだことに気付いた。
「うん?」
気付いた時にはもう、遅かった。
鋭い口を広げた大蛇が、足に噛みついていた。
「朝から、大変ね」
そんな高坂のそばを、裏口から入ってきた如月さやかが見て、眉を寄せた。
「おはよう。さやか」
噛まれながらも、挨拶する高坂。
「大蛇を発見!裏口の自転車置場!部長が噛まれています」
舞の声が、校内に響いた。
「部長!」
猛ダッシュしてきた緑の目に、大蛇に全身を巻き付かれた高坂の姿が映った。
「心配いらないわ。あの蛇、毒はないから」
「如月部長!」
思わず足を止めた緑の横を、さやかが通り過ぎた。
「まったく…」
呟くようにため息をつくと、さやかは前に続く中庭の道に目を細めた。
「げっ!如月さやか!」
途中、輝と出会ったが、さやかは気にすることなく、歩き続けた。
普段なら、先輩を呼び捨てにする馬鹿を蹴るのだが、そんな暇はなかった。
思わず道を開け、怯える輝の横を、さやかは静かに通り過ぎた。
そして、東館と言われる校舎に入った。
その館の一番奥に、理事長室があった。
本来なら、こんな朝早くに誰もいるはずがないのだが…さやかは真っ直ぐに奥へ向かった。
「待っていたわ」
重い木製の扉をノックして、おもむろに中に入ると、部屋の奥で理事長である黒谷が立っていた。
黒い机の向こうで、黒谷はさやかに向かって微笑んだ。
さやかはため息をつくと、時折校内に響く舞の放送を示し、
「この茶番は何ですか?」
黒谷にきいた。
すると、黒谷は苦笑し、
「カモフラージュですよ。大事なことを隠すには、馬鹿馬鹿しいことが適切でしょ?」
さやかに向かってウィンクをした。
「やっぱり…」
さやかは深くため息をついた後、表情を引き締め、改めて黒谷に顔を向けた。
「と言うことは…それ程、重要ななんですね」
「ええ」
黒谷は深く頷いた後、虚空を見つめ、数秒後に言葉を続けた。
「多くの人間にとっては」
「?」
黒谷の言葉に、さやかは眉を寄せた。
「だからこそ、隠さなければいけない」
そう自分に言い聞かせるように言った後、黒谷はさやかの目を見た。
「しかし、理事長。私よりは、そういうことに適任なものが…」
さやかが口にしょうとしたものを、黒谷は即座に遮った。
「彼らも、特別です。その中に隠すことも考えましたが…まだ時期が早すぎます」
黒谷は目線を、隣の部屋に繋がる扉に変え、少し声のトーンを上げた。
「入りなさい」
その声を合図に、扉が開いた。
来客用のソファーなどがある部屋から、1人の少女が姿を見せた。
少女は無言で、さやかに向かって頭を下げた。
「今から言うことは、他言無用です」
黒谷は釘を刺してから、話し出した。
「あなたにしか教えません」
「わ、わかりました」
普通の少女にしか見えない彼女を見て、さやかはなぜか…初めて人間を見たような気分にさせられた。
だからこそ、心の底で、ことの重大さを知ったのであった。
そんな重い空気が流れる理事長室と違い、裏門ではドダバタ劇が続いていた。
「高坂ローリング!」
全身を蛇に絞められながら、地面を転がるという荒業に出た高坂。
「部長!」
木刀で、巻き付いている蛇を叩く緑。
そんな日常生活とはかけ離れた状況を見て、予想よりも早く学校に来てしまった司は、裏門の前で立ち竦んでいた。
(な、何だ?この状況は)
初めての登校で、司は始まる前に、転校を考えてしまった。
そんな様子を屋上で、見ているものがいた。
「…」
屋上のフェンスの上に立ち、携帯電話を逆さにして指先で持つ緑色の髪をした少女。
「…」
携帯を耳に当てているが、少女は何も話さない。
「聞いているのか?アフロディーテ」
携帯の向こうから、声がした。
「アフロディーテ?」
数秒後、少女は話し出した。
「おはようございます。マスター」
少女は、瞼をパチパチさせた。
「ね、寝てたのか?アフロディーテ」
「はい」
そう答えた後、アフロディーテは無言になった。
「アフロディーテ。お前に指命を与えたはずだ。この学園に、今朝入るだろう人物を探れと」
電話の声に、アフロディーテは目をパチパチさせ、
「申し訳ございません。マスター。昨日の夕方から任務に入りましたが、途中寝てしまいました。眠気には勝てません」
真面目な声で言った。
「…」
その報告に絶句した電話の主は、震えながら、言葉を絞り出した。
「と、とにかくだ…。この学校に来る転校生を探れ!わかったな」
「イエス。マスター」
「我々は、神によってつくられた。猿から進化したなど神への冒涜!そして、今も」
「マスター!蛇を発見!確認に行きます」
「蛇?そんなことよりも」
「任務開始」
「任務ではない!」
「行きます」
と言うと、アフロディーテは携帯を切り、そのまま地上に向けて飛び下りた。
その真下には、さやかに蹴られずにすみ、ほっと胸を撫で下ろした輝がいた。
「よ、よかった…」
「着地します」
自転車置き場に向かって歩き出した輝の前に、屋上からアフロディーテが着地した。
「な」
普通ならば、自殺行為だが…そうはならなかった。
地面に激突の寸前、ひらりとパラシュートが開いたように減速し、地上に着地したアフロディーテ。怪我がなかったが、スカートが捲れた。
「な!」
目の前に、少女が舞い下りて来ただけでなく、パンツが丸見えであることに気付いた輝は足を止め、反射的に目を見開き、記憶にインプットした。
「お金を頂きます」
スカートが元に戻る前に、アフロディーテは輝に向かって、手を差し出した。
「この国は、パンツを見せたら、お金を貰えると聞いています」
アフロディーテの言葉に、制服の内ポケットに手を伸ばしかけた輝は、はっとした。
「ち、違う!それは求めた時だ!今の不可抗力だ!サービスタイムだ!お、おのれ〜!少年の純粋さに付け入る詐偽か!そんなものに、引っ掛かるか!」
慌てる輝を見て、アフロディーテは肩を落とし、
「そうでしたか。でしたら、見せろと言って下さい」
改めて提案した。
「み、見せろだと!?」
予想外の言葉に、輝はパニックになった。
「なんて甘美な言葉だ!しかし、金はいくらだ!今日の俺は…五百円しか!も、もっと、用意すべきだった!天使が舞い下りるならば!」
拳を握り締め、悔しがる輝。
しかし、アフロディーテの関心は、蛇に戻っていた。
輝に、背を向けて歩き出すアフロディーテ。
それに気付き、慌てて輝は手を伸ばした。
「待って!天使」
「あっ!そうでした」
アフロディーテは半転し、輝の方を向くと、
「お金を頂かない代わりに、黙っておいて下さい。あたしが、超能力者であることを」
頭を下げた。
「ち、超能力者!?」
輝は、我に返った。
(そう言えば、彼女は上から降ってきた)
そして、輝はその場で崩れ落ちた。
「天使ではなかったのか」
「よろしくお願いします」
深々と頭を下げた後、アフロディーテは自転車置き場に向かった。
「そうか…そうだよな」
エロのせいで、輝は頭が回らなくなっていた
超能力者に、謎の転校生。
こうして、事件は始まった。