第8話 魔薬/雪の香り
聖嶺学園高校は、所謂お坊ちゃん学校だ。
ちょっと入学金や授業料が高いだけだが、周りからは金持ちの成り上がり校と呼ばれている。たぶん、3年前に大々的に行った校舎の改装と設備投資、それと有名デザイナーにデザインさせた制服せいだと思う。あと、裏門から入学したおぼしき、明らかに毛並みの違った生徒が混ざっているのも揶揄される理由だろう(ほら、例の四人組とかさ)。
それでも私立の進学校としては十分な実績を挙げている。
以下、一学年の構成――
普通科 通常クラス 6クラス 1~6組
同 特別進学クラス 1クラス 7組
体育科 2クラス 8・9組
美術科 1クラス 10組
計10クラス、それが3学年。
少子化が進む昨今の日本でこれだけの生徒を集められるのも、たゆまない企業努力の賜と言える。
“充実した授業内容”という入学の志望理由の裏で、本音が“制服が可愛いから”であろうが、“更衣室にドライヤーがついていて、水泳の授業の後に便利だから”であろうが、要は生徒さえ集められれば勝ちなわけだ。
以上、聖嶺についてのマメ知識でした。
-+-+- 第8話 「魔薬/雪の香り」 -+-+-
朝、学校の靴箱を開けると見慣れぬものが入っていた。
封筒だ。それもファンシーショップで売っているレターセットのような、かわいらしいキャラクタものの。
ぱたん、と思わず扉を閉じる。
「僕の、だよなあ……」
そこが僕に割り当てられたスペースであることを確認する。
そして、改めて扉を開ける。うん、確かに僕のだ。使い慣れた上靴と、なぜか数冊の教科書が入ってるが、まあ、それには触れないでおこう。
で、上靴の上に封筒があるわけだ。
「むー」
凝視してみたところではじまらない。それに靴箱の扉を開けた構造で固まっているのも端から見ると怪しい。昇降口についてから約三分。僕はようやくその封筒を手に取った。
表には丸っこい文字で『千秋那智くんへ』。
裏はハート形のシールで封をしてあるだけで、差出人の名前はなかった。
つま先で床を蹴り、上靴を履きながら封筒を開ける。中には封筒とおそろいの便箋が一枚だけ入っていた。それを抜き出し、封筒はブレザーの内ポケットへ。そして、僕は教室へと歩きはじめる。
階段を登りながら、二つ折りになっていたそれをひらいてみた。
『ぜひ会ってお話ししたいことがあります。放課後、藤棚の下で待っています。
2年2組 五十嵐優子』
ただそれだけの非常に簡潔な文章。
誰だ? そして、何の用だ?
クラスの数字からして普通科通常クラスだろうけど。いや、体育科だろうが美術科だろうが、二年の先輩に知り合いはいない。三年なら約二名ほどいるが。つまり、この五十嵐さんは僕の知らない人ということになる。
やがて階段を上りきったところでその手紙を、封筒と同じく内ポケットへとしまい込んだ。
(こういうの、中学のときに二回くらいあったなぁ)
何ごともなかったような顔で教室のドアをくぐり席に着く。
「おはよう、一夜」
いつも通りな一夜に声をかける。
「ねえ、一夜。一夜が女の子から告白されたときってどんな感じだった?」
「何やそれ? そんな抽象的な質問があるか」
そういう一夜はあまり遠回しな表現をしない人間だ。いつもストレートな言葉を投げかけてくる。
「えっとね、告白に至るまでの経緯っていうか、相手側の手段や段取り?」
「そんなことか。くだらんこと訊くねんな。……パターン分けするとやな――」
パターン分けできるくらい例があるのね。
「なんらかの手段で手紙が舞い込んできて、そこに会う場所が指定されている。行ってみたら……ってのがいちばん多かった」
なるほどね。
てことは、やっぱりポケットの中のこの手紙もそれと考えてよさそうだな。
「まあ、行ってみたら野郎が数人おって、危うくリンチってこともあったけどな」
「うわお。何その修羅場!?」
放課後――、
僕はさっそく藤棚に向かった。
(やっぱり、それ系の呼び出しなのかなあ?)
つまり、こういった事態に真っ先に思いつく、僕としてはあまり嬉しくないイベントだ。ああ、いちおう一夜が言っていたように呼び出しリンチって可能性もあるか。
こういう一方的な召喚は嫌いなんだけど、無視しても後で気になるし。きちんと収束させておくに限る。ただ、問題は時間が“放課後”としか指定されていないことだ。通常クラスの放課後とは六限目の後なのだろうが、特進クラスの場合は七限目終了後だ。
(その辺わかって待っててくれたらいいけど……)
そんな心配をしながら早足になり、しかも考えごとをしてるものだから人にぶつかるぶつかる。歩きながら考えごとをするものじゃないと思った。
兎に角、先を急ぐ。
藤棚は中庭にある花壇の、さらに奥まったところにある。手入れが行き届いていないせいで人気も人気もない。
そこにその人は、いた。
藤棚にはベンチもあるが、その人はそこに座らず柱にもたれて立っていた。向こうを向いているが、何となくそわそわした様子が伝わってくる。
「あの、五十嵐優子さん、でしょうか?」
早足だった歩調を緩め、ゆっくり近づきながら声をかける。彼女は一度びくっと体を振るわせてからこっちを振り向いた。驚かせるつもりはなかったんだけどな。
「あ、はいっ。そうです」
一度だけ僕と目が合った後、五十嵐さんは恥ずかしそうに俯いてしまった。
それにしても律儀な人だ。下級生の僕に丁寧語を使うなんて。
「よかった。なかなかきてくれないから相手にされなかったのかと思った」
「いちおう、これでも急いできたんですけどね。……あれ? もしかして特進クラスが平日七時間授業だってこと忘れてます?」
「……」
「……」
「……わ、忘れてました」
おーい。
五十嵐さんは耳まで赤くして、これ以上ないくらい下を向いてしまった。もう見えるのは自分の足と地面くらいのものだろう。
こういう仕草って素直にかわいいと思う。小柄で僕よりも小さいし、ちょっと間の抜けたところも愛嬌があっていい。守ってあげたくなるタイプとでもいうのだろうか。
「それで話って何でしょうか?」
「あ、はい。あの実はわたし……」
そう言って顔を上げた。
が、僕を見て言葉が途切れる。
「……何か探してるんですか? きょろきょろして」
「あ、いや、世の中ごく希に修羅場なイベントが起こるらしいから」
いかん。無意識のうちに伏兵を捜してた。
「しゅ、しゅら……?」
「こっちの話です。……続きをどうぞ」
そう言って先を促すと、五十嵐さんはまた俯いてしまった。それから少し間があって、意を決したように――、
「実はわたし、前から千秋くんのこと好きで、ずっと見てました。そ、それで、できたらつき合ってほしいなって……」
「……」
あー、やっぱり。
男としては、正直こういうことを言われるのは嬉しいし、相手が相手だけになかなかぐっとくるものがある。だけど、じゃあ、その気持ちに応えられるかというと、それはまた別問題だ。彼女は僕のことを知っているのかもしれないが、僕は彼女のことを知ってまだ十分と経っていない。もっと言えば、彼女だって僕のことを上辺だけでしか知らないはずだ。僕はこういう状態で彼氏彼女の関係になろうという気にはどうしてもなれない。
「……ごめんなさい」
僕がそう言葉を切り出した瞬間、五十嵐さんが落胆したのがわかった。
「その申し出に僕は、いい返事を返すことができないんです。本当にごめんなさい」
「す、好きな人とかいるんですか、やっぱり」
「……」
一瞬、僕はその問いの答えに迷った。
(そんなのいない、よなあ……)
確かめるように僕は心の中でつぶやく。
だが、ここで正直にいないと言ってしまうと、五十嵐さんが諦めきれないのではないだろうか。なら、嘘も方便。この場をきれいに収めるためには嘘を言わせてもらおう。
「うん。僕、実は好きな人がいるんで……」
お願いだから「それって誰ですか?」とか言いませんように。
「やっぱりそうなんだ。ごめんなさい。それなのにこんなこと言っちゃって」
「ううん、気にしないでください」
そういう悲しそうな顔をしないでほしい。
僕だって心が痛まないわけじゃない。でも、納得できないものはどうやっても受け入れることはできないんだ。
「そ、それじゃあ」
「うん。気をつけて」
それを別れの挨拶にして五十嵐さんは走り去っていった。
そして、そこに僕が残される。
(後味悪いなあ。こういうの、好きじゃない)
深いため息をひとつ吐く。
それから、おもむろに藤棚の蔭に向かって声をかけた。
「ところで、そこにおられるのはどなたでしょう?」
「……! にゃ、にゃお~ん」
それで誤魔化してるつもりなんだろうか。明らかに人間の声だっちゅうの。
そろっと足音を立てないようにして近づいていくと、そこにはこちらに背を向けてしゃがみ込んでいるお方がひとり。さっき辺りを見回したとき、見覚えのあるふわふわウェーブの髪が見えたからもしやと思ったのだが、案の定だったようだ。
その人は隠れているにも拘わらず、ご丁寧に握り拳を頬に当てて猫の真似をしている。……ちょっとかわいいかも。
「先輩……」
「にゃん!?」
片瀬先輩は僕が接近していたことに気づいていなかったようで、真後ろで聞こえた僕の声に驚いていた。
「あははは……」
乾いた笑いを漏らしながらゆっくりと振り向き、僕を見上げる。
「そこで何をしておられるのでしょう?」
「せ、声帯模写の練習、かな?」
この期に及んでまだ誤魔化そうとする往生際の悪さは称賛に値する。
「覗き見してたんですね?」
「え? え~っとね……」
「してたんですね?」
どうやら珍しく僕の方が立場的に優位にあるようなので、調子に乗って問いつめてみる。すると、先輩はむっとした顔をしてから、すっと立ち上がった。
「何よ、那智くんが悪いんじゃない」
逆ギレされてしまいました。
「何で僕が!?」
「那智くん、さっき廊下でわたしとぶつかったのよ。しかも、謝ってるわりにはその相手がわたしだって気づいてないし」
あー、そりゃあ僕が悪いわ。
先輩はまだ腹の虫が治まらないらしく、さらに捲し立ててくる。
「そんな調子だから気になって後をつけてきたら、女の子の告白なんかはじまっちゃうし。思わず隠れたら今度は出るに出られなくなっちゃうし。これでもわたしが悪いって言うんですか、那智くんは」
ヤバい。丁寧語になってる。
今の先輩に逆らうのは得策ではない。
「……ごめんなさい。僕が悪かったです」
「はい。よろしい」
何か釈然としないものが残るのですが、気のせいでしょうか。
それきりふたりとも黙り込み、気まずい沈黙が辺りに流れる。僕はその沈黙を破って深いため息を吐いた。ここにきて二度目だ。
「そうか。先輩、見てたんですね」
「……うん」
「僕、こんなやつなんです。せっかく女の子が勇気を出してあんなふうに言ってくれているのにね。……嫌なやつ」
僕はベンチに腰を下ろした。
「それって仕方ないと思う」
先輩も、僕とは逆を向いて座る。
僕たちは背もたれのないベンチに背中合わせで座っている。肩が触れて、一瞬どきっとしたが、僕はそのまま先輩の背に身体を預けた。もしかしたら少し甘えてみたかったのかもしれない。先輩は何も言わなかった。
「好きな子、いるんだ……」
ぼそっと先輩がつぶやいた。
「いませんよ、そんなの」
「え?」
また驚かれた。
誤解を正しておこうと思っただけなんだけど、何か今日、しゃべるたびに驚かれてるな、僕。
「あれ、嘘です。そう言った方が話が早いから」
「そ、そっか……」
わかってくれたっぽい。
「そうなんだ。いないんだ……」
もう一度、先輩は繰り返した。と、同時に、触れ合ってる背中を伝って先輩の身体から力が抜けたのがわかった。
沈黙の刻、再び。
だけど、今度はこの沈黙が心地よかった。こうして互いにもたれ合って過ごしている時間が、何か貴重なもののように思えた。
「先輩?」
「なあに?」
「帰らないんですか?」
「ん~。もうちょっとここにいようかなって思ってる」
風が雪の香りを運んできた。
真っ白でやわらかい雪を連想させる先輩の香り。そして、それはある種の警告でもある。先輩に近づきすぎてるぞという警告――
「じゃあ、僕もここにいていいですか?」
だけど僕はそれを無視した。
だって、それは僕の胸をどきどきさせながらも惹きつけてやまない、麻薬にも似た香りだから。
「那智くんも、ここにいたいの?」
「ていうか、もう少しこうしてたいかなって……」
瞬間、先輩の体が微かにと跳ねた。
そして、
「……いいんじゃない」
とだけ言った。
(いいんじゃない、か。何か他人ごとだよな)
今、先輩はどんな顔をしてるのだろう。今ここで僕とこうしていることをどう思っているのだろうか。
……。
……。
……。
「ま、いっか」
僕は先輩に聞こえないように、小さくつぶやいた。
素敵な魔薬はそんなことを考える力すら僕から奪ってしまっていたらしい。




