〃 (3) 突然の
司先輩と僕が乗り込むと、ゴンドラは係員によって外から閂状の鍵でロックされた。
回り続ける観覧車。
ゴンドラがゆっくりと円軌道に沿って上昇していく。
高度が上がるとともに遮蔽物は少なくなり、少しずつ視界の中の夕焼けがその面積を広げていった。
きっと今、僕は貴重な瞬間に存在しているに違いない。これは、この時間、この場所にいてこそ得られる場面だ。
そして、そばにいるのは司先輩。
最高のロケーションだ。
……。
……。
……。
うん。何だろうな。今、僕、知らなかったほうがよかったことを認識してしまったような気がするぞ。
密室。
ふたりきり。
悲鳴を上げても聞こえない。助けはこない。
「……」
最高のロケーションだな、おい。
脳裏にかつて、冗談とは言え、音楽準備室で襲われかけた記憶がよぎる。
一瞬にして視界が白黒になり、景色を楽しむ余裕が心から吹き飛んだ。それから、僕はゆっくりと向かいに座る司先輩のほうに顔を向けた。まるで殺人鬼に背後に立たれたような心境だ。
しかし――、
先輩は僕のことなど眼中になく、穏やかな表情で外の景色に見とれていた。
「……」
そして、僕はそんな先輩に見とれた。
-+-+- 第15話(3) 「突然の」 -+-+-
「きれいね」
不意に司先輩が言い、僕が驚いてわずかに身体を跳ねさせた。
先輩は相変わらず外を見たままだ。たぶん、僕が先輩を見つめていたことなんて関係なく、ただ単に目の前の景色の感想として口をついて出た言葉だったのだろう。
「そ、そうですね」
しかし、僕は動揺を隠せないまま慌てて同意した。
(景色よりも先輩のほうが……)
ぐわ。何だこのチープな台詞は。こんなの吐いた日にゃここから飛び降りるしかないだろうな。
「わたしね、こういう心打たれる風景を見ると、絵に描いて収めたくなるの」
「絵、好きなんですか?」
美術科にいるくらいだし、やっぱりそうなんだろうな。
「ええ、もちろんよ」
そう言いながら先輩は外の景色から目を離し、僕を見てやわらかく微笑んだ。
その笑みに僕の心臓が一度だけ大きく鳴った。
「美術にはいろんななものがあるし、授業でも絵以外の課題もあるけど、わたしは絵を描くことがいちばん好きね」
と、先輩は楽しげに言う。
ああ、僕はまだ先輩のこういう部分を知らない。
これまでの追って追われてどたばたした毎日の中で、先輩の性格や性質、考え方みたいなものは知ったけど、僕はまだ趣味や好み、嗜好、もっと表面的なところで休日やひとりのときの過ごし方、そういうデータ的な情報はあまり知らない。
先輩をもっと知らないと。
これからの課題かもしれないな。
「でも、今はダメね。那智くんがいるもの」
「僕がいちゃ集中して描けませんか」
そりゃそうだ、と苦笑する。
「ううん。そうじゃないわ。ただ、わたしが絵よりも那智くんのほうが好きなだけ」
「……」
すみません。油断してました。先輩は常に直球勝負でしたね。
「ねぇ、気づいてる?」
そう言って先輩は身を乗り出し、自分の膝の上に片肘をついた。その掌の上の顎を乗せて僕を真正面から見据えた。そして、悪戯っぽく笑う。
「な、なんでしょう……?」
ちょっとだけ嫌な予感がする。
「ここ、今はふたりきりで誰にも邪魔はされないってこと」
「あー、うん。気づいてるような、気づきたくなかったような……」
「そう。なら話は早いわ」
言うと、すっ、と先輩が立ち上がった。
く、喰われる!? 僕、ついに喰われますか!? ここはもう覚悟を決めるしかないっつーか、むしろ逆に喰いにいくべきですか、男としてっ。
しかし、僕の錯乱気味の苦悩をよそに、先輩はすとんと僕の隣に腰を下ろしただけだった。
「先輩?」
「やっとふたりきりになれたわ」
僕の肩に頭を乗せ、先輩は眠そうにも聞こえる声で言った。
「急に円たちと一緒になっちゃったものね」
「確かに」
「だから、ここで那智くんを補給しておかないと」
先輩は自分で言ったことが可笑しかったのか、くすくすと笑い出した。
……僕は充電器か何かか?
気がつくとゴンドラはもう下降をはじめていた。地上に着くまでもう後十分もないだろう。先輩は僕にもたれたまま動かないし喋らないし。……仕方ない。僕は僕で外の夕焼けを楽しむことにしよう。
「……」
しかし、肩に感じる確かな存在にぜんぜんそれどころではなく、にも関わらず、十分足らずの時間は永遠にも思えた。
地上に着く頃には辺りはさらに暗くなっていた。
「さて、一夜と円先輩は、と……」
降りたらてっきり一夜たちが待ってものだと思ったのに、その姿は見えるところになかった。
「いいわ、那智くん。帰りましょ」
急に手を掴まれ、引っ張られた。
「え? でも、一夜と円先輩が……」
「いるわよ。ほら、あそこ」
そう言って司先輩が顔を向けて示した先には、一夜と円先輩がふたり並んでベンチに座っていた。ただし、それは先輩が僕を引っ張った方向とは正反対の位置だ。
「だったら――」
「せっかくいい雰囲気なんだから、邪魔せずに先に帰りましょ。電車に乗ってからメール
でもすればいいわ」
いい雰囲気、なのかな……?
遠目に見て、円先輩は楽しげに話しているようだけど、一夜は変わらずっぽい。でも、まあ、無視したり追い払ったりしない辺り、見た目ほど嫌じゃないのかもしれない。そう言えば、一夜が女の子とふたりっきりでいるところ見るのは初めてだな。
「ほら。早く行くわよ」
「うわっと……」
再び僕は腕を引っ張られ、強引にその場から連れ出された。
あのふたりって結局どういう関係なのかはっきりせずじまいだったな。
こんなふうに司先輩を家まで送っていくのは何度目だろう。
僕と先輩は、一夜たちに見つからないように遊園地を出た後、計画通り電車に乗ってから先に帰ることをールで伝えた。速攻恨み言めいた返信があったが、司先輩は無視を決め込んだようで、そのままふたりで帰ってきた。
電車を一度乗り換えて、先輩の家の最寄り駅に着いたころには冬の夜の帳が降りていた。
駅を降りて、大きな道路に沿って歩道を歩く。ガードレールの向こう側ではヘッドライトの河が、前に後ろに流れている。時折、強い風が吹いて、先輩がスカートと頭のキャスケットを押さえる場面が幾度かあった。
「あーあ。せっかく今日はずっと那智くんとふたりきりでいられると思ったのに」
それが先輩の今日一日の感想らしい。
何つーか、なかなか素敵に身勝手な感想だ。円先輩を追及したくて巻き込んだのは自分なのに。
「まあ、機会なんてこれからいくらでもありますよ」
「あら、珍しく積極的なことを言うのね」
さも意外そうに先輩は言う。
「失礼な。僕はいつでもそれなりに積極的ですよ。先輩が規格外にアレだから、その陰に隠れて目立ちませんけどね。今ちょうど先輩のことをもっと知りたいと思っていたところですし」
途端、先輩が足を止めた。
それに気づいたのは、遅れること数歩分。僕は立ち止まった先輩へと振り返った。先輩は何やら恥ずかしげにもじもじした後、うつむき加減にひと言――、
「……ホテル?」
「ち、違……ッ。そんな深い意味じゃなくてっ。ああっ、もう、だーっ。何でそうなるんですか!?」
そういう蒼司みたいな思考はやめて欲しいよな。
「変なこと言ってないで、ほら、行きますよ」
「はいはい」
先輩は先に歩き出した僕に投げやりな返事を返して、すぐに後を追ってきた。
「なによ。先に……したの……くせに……」
「うん? 何か言いましたか?」
「いーえ、何も言ってませんっ」
なぜかキレ気味ですが、僕、何か悪いことしたでしょうか。
言いたいことがあるならはっきり言えばいいのに。
「でも、どうしたの。急にそんなこと言い出すなんて」
「いえ、ただ何となく。先輩と知り合って半年も経つのに、思ったほど先輩のこと知らないのかなって思って」
ため息が出そうになって意味もなく夜空を見上げる。上を向けばため息が出なくなるってわけじゃないけど。
「あら。そんなことなの?」
「そんなことって……」
まるで僕がしょーもないことで悩んでいるみたいじゃないか。
「わたしと那智くんは所詮は赤の他人よ。半年だろうが十年だろうが、どれだけ長く一緒にいたところで絶対に理解の及ばない部分は出てくるわ。あくびを我慢して夜明けまで話をしたところで、わからないものはわからないものよ」
「そう、ですか……」
あっさり切り捨てられて、僕は少し項垂れる。
「そんな顔しないの」
そう言って先輩は僕の頭に掌を乗せ、元気づけるみたいに揺すった。
「ええ、そうね。できる限りわかりたいと思う気持ちは大切だわ。努力も必要よね。でも、きっと大変よ。わたしのことを知るにはひと晩じゃ足りないんだから」
「それでも僕は少しでも先輩のことを知りたいと思う」
「そう。わたしもね、那智くんのことをもっと知りたいと思っているの。……那智くん、これからもわたしに那智くんのことをおしえてくれる?」
「ぁ……。はい、もちろんですっ」
僕は力いっぱい答えた。
司先輩はよくわからない人だ。感情の起伏が激しく、悪戯好きで手に負えない人だと思っていたら、やっぱりちゃんと年上の女の人で、僕なんかじゃ敵わないんだなと思う。
ああ、そうなんだ……。
「……」
僕は足を止めた。遅れて先輩も止まり、振り返った。さっきとは逆だ。
「どうしたの?」
街灯の光の下、先輩が首を傾げる。
僕はその問いの答えず、少し溜めてから思い切って言った。
「僕、先輩のことが好きです」
「……」
なんて突然で、且つ、今更な台詞だろう。
先輩だって驚いている。
でも、これは僕が今まで数えるほどしか言ったことのない言葉。突然だろうが何だろうが、今、どうしても言いたかった。
まるで時間が止まったようだ。
言葉もなく、
道路の車通りも一瞬の空白。
動くものは何もなくて、本当に時間が止まったかのよう。
「……」
「……」
その停滞した時間を、まず最初に打ち破ったのが先輩だった。
「ええ。わたしも那智くんのことが大好きよ」
そう言ってたおやかに微笑む。
先輩は僕の突然で今更な言葉に当たり前のように応えてくれた。僕はほっと胸を撫で下ろした。それから急に恥ずかしくなった。
「はは……」
まともに先輩の顔が見られない。僕は照れ笑いをこぼしながら、うつむいて先輩から顔を逸らした。
と、そのとき――、
一段と強い風が吹いた。
「きゃっ」
先輩が小さな悲鳴を上げる。
顔を上げると先輩がスカートを押さえていた。でも、頭のほうは間に合わなかったらしく、キャスケットが風に飛ばされていた。
キャスケット。
僕が贈ったキャスケット。
僕は夜空に舞ったそれを追いかけた。さっきのことで少し照れくさくて、駆けて逃げ出したい気持ちがあったのだろう。それが僕の身体を動かしたのだ。
ぱさりと白いラインの上に落ちたキャスケットを拾い上げる。
瞬間――、
「那智くん!」
先輩が叫んだ。
振り返った僕の視界の端に強い光が映った。
左を見る。
強い光がふたつ。
車のヘッドライト。
バカな僕は気づいていなかった。時間はとっくに動き出していたことを。
キャスケットが落ちたのは白いラインの上。
白い、横断歩道。
それは同時に道路でもある。
けたたましいクラクションと耳障りな急ブレーキの音が重なる。
普段から無駄に動く僕の身体は、こんなときに限って動こうとしない。
代わりに動いたのは司先輩だった。
どん、と――、
「ぇ……」
僕を突き飛ばした。
尻もちをついた僕の目の前で、先輩に向かって車が突っ込んできた。
幸い車はほとんど止まりかけていた。それでも完全にスピードを殺しきれず、先輩の体はボンネットの上に乗り上げ、
「先輩……!」
車が止まると、慣性の法則に従ってボンネットから、転げ落ちた。
ごっ、と頭を地面に打ちつける、不吉な音が僕の耳に届いた。
先輩はうつ伏せのまま動かない。
「先輩! 先輩! 司先輩!」
うるさい! 誰だよ、さっきからわめき散らしてるのは。
あぁ、僕か。
車から運転手が降りてくる。
どこからともなく人が集まってきた。
気がつけば救急車まできて……、
それから……、それから……、何があったんだっけ……?
あまり、よく覚えていない……
「あぁっ、何だって!? 目が見えないって何だよ!? ふざけんな! わけのわからないこと言ってんじゃないぞ! ちょっとぶつかっただけだろっ」
「まだ詳しくはわからないけど――視神経管骨折による血腫。それが視神経を圧迫しているんだろう。運が悪かったとしか言いようがない」
「運って……。そんな言葉ですませてないで何とかしろよ、医者だろ!」
「やめなさい、なっち!」
青いユニフォームの救急医に掴みかかろうとした僕を、後ろから円先輩が羽交い絞めにした。
「何でっ! 何でだよ……!」
何でこんなことになってるんだよ。
……。
……。
……。
何でって?
そんなの決まってるじゃないか。
「僕のせいだ……」




