第6話 噂/本当
月曜日――、
学校に行くと大変なことになっていた。
「聞いたか、なっち」
朝、教室に入るなり、まだ席にも辿り着いていないうちからトモダチに声をかけられた。何を聞きつけたのか知らないが、そいつはやや興奮気味だ。
「何の話? あと、なっち言うな」
「我らが片瀬先輩にカレシがいたんだよ」
「ええっ!?」
自分でもびっくりするくらいびっくりした。教室中のクラスメイトが何ごとかと全員こっちを向いたくらい驚いた。
「しかも、相手が中三ってんだから驚きだ。名前はアイバ・シンヤ。南第二中のやつらしい」
「……」
あー、それって……。
「ふっふっふ、驚きで声も出まい」
何を勝ち誇っとんのだ、この男は。つーか、情報だだ漏れじゃん。
「ところがっ」
「ま、まだ何かあんの?」
「ああ、ここからがミステリだ。なんと南第二中にアイバ・シンヤなんてやつはいなかったんだよ、これが」
「へ、へえ……」
それはそうだろう。学校は実在するけど(僕の出身校だ)、名前は口から出任せの嘘だもの。いるはずがない。いたらそれは同姓同名さん。その場合はえらいとばっちりだっただろうな。
「その話、どっから流れてきたの?」
「どこって、お前、もう学校中その話で持ち切りだぜ?」
うわあ……。
-+-+- 第6話 「噂/本当」 -+-+-
(何だかとんでもないことになってるなあ……)
とりあえず、自分の席に着く。
後ろは一夜の席。一夜はもうすでに登校していて、静かに文庫本を読んでいた。
(そういえば、昨日、一夜を見かけたんだったな)
机の上に鞄を放り出してから座る。
「おはよう、一夜」
「おはよう」
と――、
一夜は、ぱたん、と本を閉じた。
「ど、どうしたの?」
一夜が挨拶されたくらいで読書を中断したので、僕はかなり焦った。なぜ今日に限っていつもと違う行動をとるのだろう?
「どうもせん」
しかも、機嫌が悪そうな声。
一夜は何か話をするわけでもなく、黙ったまま僕を見ている。恐ろしく居心地が悪いのは僕に後ろめたいところがあるせいだろうか? 何か話題を振らないと視線に射抜かれそうだ。
「何だか大騒ぎになってるね」
……よりによってこの話題か。我ながら見事なミスチョイスだ。
「みたいやな。あの片瀬先輩に男がおったとか」
「あ、一夜も知ってるんだ」
何なんだこの情報伝達速度の速さは?
「相手は南第二中のアイバ・シンヤ。現在中三って話やけど、それ、お前やろ? ……待て、逃げんな」
「離してくれよっ。今日はガス管の工事がくるんだ。すぐに帰らなきゃいけないんだよっ」
「わけのわからんこと言っとらんと座れ」
一夜は逃げかけた僕の後ろ襟をすばやく掴むと、力ずくで僕を席に戻した。
「嫌だよ。僕は帰りたいんだ。こんなことしてただですむと思うなよ。あとでひどいぞっ」
「涙目で逆ギレられても困んねんけどな」
そう言うと一夜は僕の頭を掴んで引き寄せた。額と額がくっつきそうなほど接近する。
「まず黙れ。みんなこっち見とる。宮里辺りに見つかったら収拾がつかんようなる」
それは確かに嫌だな。サトちゃんがアグレッシブモードで突撃してきたら、きっと根ほり葉ほり訊かれるに違いない。サトちゃんマジビッグモス。
こくこく、と黙って頷いて一夜に応える。
「よし。じゃあ、ぜんぶ話せ」
……おい。
結局、一夜か宮里かってだけの話で、根ほり葉ほり訊かれるのは同じなんじゃないか。
「なるほど。ようわかった」
ひと通りこれまでの経緯を話し終えると、一夜は納得したように頷いた。
「ところでさ、何で僕が先輩と一緒にいたこと知ってるの?」
「お前が俺を見かけたってことは、俺にもお前を見つける機会があったってことやろが」
「あ、そうか」
ニーチェが言うところの深淵みたいなものか。
顔を寄せて小声で話す僕と一夜。怪しいことこの上ない。こっちのほうがよっぽど宮里の目を引きそうだ。
「問題はどこからこの情報が漏れたかだと思うんだよね」
昨日の出来事が今日の朝には知れ渡っていた。しかも、アイバ・シンヤの身辺調査をした形跡まである。えらく行動が早い。
「そんなもん簡単に絞り込めるわ。ただ単に片瀬先輩が男と連れ立って歩いてたって言うんやったらまだしも、具体的な情報が流れとんや。なら、『南第二中アイバ・シンヤ』を知っとる人間やろ」
「それで言うと、一夜は外れるわけだよね?」
一夜は僕らを見かけただけで、先輩の嘘を聞いていない。
「そうなるな。……なんや、疑っとったんか?」
「ってわけじゃないけどね。となると、あの三人しかいないよなあ」
昨日会ったのは先輩の友達三人だけだ。
その中で特に思い出されるのが、四方堂円先輩だ。片瀬先輩の親友で、“危険人物”。
(あの人、なのかなあ……)
なにせ“危険人物”だものな。
そんなことを漠然と思っていると担任の先生が入ってきた。いつの間にかチャイムが鳴っていたらしい。すぐに朝のショートホームルームがはじまり、一夜との話も僕の思考も中断された。
昼休み――、
「一夜、僕、学食行くから」
四限目の授業が終わってから僕は一夜に言った。一夜は、丁度、鞄から弁当箱を取り出そうとしているところだったらしく、僕の言葉を聞いてその手を止めた。
「弁当忘れたんか?」
「て言うか、寝坊して作る時間がなかった。だもんで、今日は学食」
どうも昨日、片瀬先輩と長い時間一緒に過ごしたことは、自分で思っていた以上に気疲れの原因になっていたようで、夜は早々に寝て爆睡。今朝はいつもより三十分以上も遅い目覚めだった。
「つき合うたるわ」
一夜は簡潔、且つ、素っ気なく言うと立ち上がった。
「え? 弁当は?」
「持って帰る。 ……ほら、行くで」
僕は慌てて歩き出した一夜の後を追った。昼休みの賑やかな廊下をふたり並んで歩く。一夜は無口なのであまり自分から話を切り出すことはない。それは専ら僕の役目だ。
その一夜が珍しく先に口を開いた。
「那智って、もしかして自分で弁当作ってるんか?」
たぶん、さっきの会話から推測したんだろう。
「あれ? 言ってなかったっけ? 自分で作ってるっていうか、僕、目下のところひとり暮らし。父さんが転勤になってね、それに母さんがついて行っちゃったんだ。父さん、仕事はできる人なんだけど家事の類がからっきしで、母さんがいないと三日で飢えて死にそうだから」
「……初耳や」
一夜の声には僅かに驚きの色が含まれてた。
「姉貴に頼んだろか?」
「へ? なにを?」
「弁当。頼めばもうひとつくらい余分に作ってくれるやろうし。那智、毎朝早う起きて作るんも面倒やろ?」
「あははっ。いいっていいって。それに僕、けっこう弁当作るの好きなんだ」
「そうか」
そう言って一夜は残念そうな顔をした。
「なに、どうしたの、一夜。やっさしーの。一夜がそんな優しいやつだったなんて、僕びっくり」
「アホ。死ね。お前にはもう頼まれても頼んだらん」
おお、照れてる。
照れて言ってることが無茶苦茶になってる一夜がちょっとかわいかった。なるほど、僕をからかう片瀬先輩の気持ちが少しわかった気がした。
「よっ、おふたりさん。となり座らせてもらうよ」
一夜と向かい合わせで昼食をとっている最中、聞き覚えのある声が聞こえた。顔を上げると、そこには“危険人物”四方堂円先輩がいた。
「どうぞご勝手に。そこ空きやから好きに座らはったらええわ」
一夜が先に答える。
今の今まで僕と普通に喋っていた一夜が、一気に不機嫌になった。体育館で話しかけてきた四方堂先輩の印象がそんなに悪かったのだろうか。
「そっか。いや、連れのために席取ってるかもしれないと思ってさ、いちおう」
一夜のぶっきらぼうな言い方を気にした様子もなく、四方堂先輩は持っていたトレイを置き、自分もイスに腰を下ろした。一夜のとなりだ。
聖嶺学園の学生食堂はわりと広めに造られていて、多少混雑しても座る席がなくなるようなことにはならない。が、そろそろまとまった空席を探すのに苦労する程度には混んできたようだ。
「じきにアタシの連れがくると思うから、そこ取られないようによろしく」
どうやら僕に言っているらしい。僕のとなり、四方堂先輩の正面が丁度空いている。
会話が止まってしまった。
食べながら僕は四方堂先輩を覗き見る。体育科にしては珍しく髪が長い。今の制服姿ではわかりにくいが、昨日の私服姿を見た感じスタイルがよかった。スポーツをやっているせいだろうか。男っぽい話し方をするが悪い印象はなかった。性格もこれくらいさっぱりしているなら案外好きになれそうだ。
ただし、片瀬先輩の件を言いふらしたのがこの人でなかったらの話だけど。
(やっぱりこの人なんだろうか……)
見た目通りならそんなことをするようには見えない。なら、なぜ片瀬先輩は“危険人物”と言ったのだろう?
「どうした、なっち。アタシに何か?」
「い、いえ、何でも……」
考えごとをしながら観察していたせいで、いつの間にかじっと見つめてしまっていたらしい。
「って、あれ? どうして僕の名前を?」
「ああ、なっち、遠矢っちと抱き合わせでわりと有名なんだよ」
「うわ、なにそれ!? 初めて聞いた。……一番人気の一夜のそばにいつもいるやつ、ってところ?」
昨日、片瀬先輩に聞いた。知的美少年・遠矢くんは三年生の女子の間では大人気なんだそうだ。僕の知らないところで告白してきた女の子を何人か振っているらしい。
「耳ざといね。まあ、そんなとこかな」
「何が『そんなとこ』や。那智に余計なこと吹き込まんといてください」
不機嫌声の一夜が割り込んできた。
「そーゆー保護者ぶったところが誤解を生むんだよ」
そう言って四方堂先輩はくつくつと笑う。
対する一夜はそんな四方堂先輩が嫌いなタイプのようだ。横に並んでいるから当然なんだけど、まったく先輩のほうを見ようともしない。
「お、ようやくきたね。お~い、司。こっちこっち」
「ぶっ」
危うく僕は口の中のものを吐き出しそうになった。辛うじてそんな醜態は晒さずにすんだが、思いっきりむせて咳き込んだ。何とか呼吸を整えてから顔を上げると、案の定、片瀬先輩がトレイを持って立っていた。
「あ……」
「う……」
思わず固まってしまう。一瞬だけ視線が交差し、僕たちは小さくうめき声を漏らした。それから互いに目を逸らす。
「せ、先輩、ここどうぞ」
「あ、ありがとう」
先輩は答えると僕の隣に座って静かに食べはじめた。僕も中断していた食事を再開する。
「……」
ダメだ。意識しすぎて箸が上手く運べない。
昨日、一度は片瀬先輩のことをわかった気になったけど、こうして校内で会うとまた感覚が違う。どうしても緊張してしまう。
しかも、目の前にはミス危険人物。片瀬先輩と親しげにするとマズい。ここは話しかけたりせず、たまたま席が隣になっただけのような顔をしてやり過ごさないと。
と――、
「あんたたちさぁ、もうちょっと楽しそう食べれないわけ?」
向かいで四方堂先輩が僕たちに言う。
そして、ぐい、と身を乗り出して顔を寄せてくると、さらに言葉を続けた。
「昨日はふたり仲良く遊びに出かけてたんでしょうが。……逃げんな、なっち」
「四方堂先輩じゃないんですか?」
「もち、違う」
食後、僕たちは頭をつき合わせてヒソヒソと話し合いをしていた。話題は今朝から広まっている例の情報の出どころについて。実際に顔を寄せているのは僕と二名の先輩だけで、一夜は発言する気がないらしく、肘を突いて会話を聞くだけ。その顔はやっぱり不機嫌そうだ。
このメンバーで内緒話をしている様子はあまりにも人目を引く。なにせ学園一の美少女と三年に一番人気の新入生……と、そのおまけだ。しかし、気にはなってもそこにあからさまに聞き耳を立てる勇者はいなかった。密かに立てていた男子生徒も四方堂先輩に見つかり、ひとり目は七味を、ふたり目はコショウの容器をぶつけられて撃退された。次にきたやつはきっと醤油だろう。
「見損なうな。司が隠そうとしてるのに、あたしが言いふらすような真似するか」
スポーツマンシップなのか、四方堂先輩のこの姿勢はやはり好ましいと思う。
「たぶん、やったのはあのふたりね。スキャンダラスなことが好きなやつらだし、行動力もある」
「え? でも、片瀬先輩が“危険人物”だって……」
「那智くん、それ、勘違いしてるわ」
片瀬先輩が僕の言葉を遮る。
先輩からほのかに雪の香りがした。身を寄せなければわからないほど微かなものだけど、その香りと距離が僕の心を掻き乱す。
「どういう意味です?」
「わたしが危険って言ったのは、円が那智くんのことを見抜くと思ったからなの。那智くんのことさえわからなければ、間違った噂がどれだけ広まろうが、そんなものはどうでもいいのよ」
要するに何を危険と感じるか、なのだろう。
例の二人組 > 妙な噂は広がるけど僕のことはバレない
四方堂先輩 > 言いふらさないけど僕のことには勘づく
結果、先輩は前者を無害とし、後者を危険視した。
「で、これからどうするの?」
「噂に関してはほうっておいていいと思うの。ニッコリ微笑んで『ご想像にお任せします』って誤魔化していればいずれは消えるわ」
紅薔薇のつぼみかよぅ……。
「んじゃま、そっちは放置の方向で。……で、なっちのことは?」
「うぇ!?」
いきなり僕が話の対象になってびっくりした。ついでになぜか一夜もかすかに反応していた。心なしかこっちに寄ってきている。一夜、耳がダンボだぞ。
「え~っと……」
「それは昨日決めた通りでいいと思うわ」
これにも僕よりも先に片瀬先輩が答えた。
「学校では必要以上に近づかない。周りにいらぬ誤解を与えたくないもの。……それでいいわよね、千秋くん」
千秋くん……。
先輩にそう呼ばれるのは、なぜか少しだけ胸が苦しかった。
「なっちもそれでいいの?」
「……はい。そのほうがいいと思います」
四方堂先輩の確認に僕は肯いた。
片瀬先輩がそれを望んでいる以上、僕はそう答える以外になかった。
「決まりやな。那智、教室戻んで」
今まで黙っていた一夜がそう言って立ち上がり、踵を返した。それを待っていたように昼休み終了のチャイムが鳴る。
「あ、待ってよ。……それじゃ、失礼します」
「ええ、またね」
千秋くん、とまた言われないうちに僕は一夜の後を追ってその場を立ち去った。
教室に戻るともうすでに僕が片瀬先輩と一緒にいたことが知れ渡っていた。
何なんだろう、この口コミネットの異様な広さと伝達速度の速さは。つまるところ、みんな大なり小なりスキャンダラスな話題には興味があるってことなのか。
(ここで『ご想像にお任せします』をやったら逆効果だろうな)
結局、学食でたまたま隣同士になっただけと嘘で誤魔化した。
そう、打ち合わせ通りに。
「つっかれたー」
放課後、終礼が終わって僕は机に突っ伏した。
今日は妙に疲れた。校内を駆け巡った片瀬先輩がらみの話題のせいか、それとも七限目のリーダで長文丸々和訳させられたせいか。たぶん、両方だな。
「那智、帰んで?」
「うん、先帰ってて。僕、もうしばらく休んでから帰るよ」
一夜に声をかけられたが、僕は机に伏せたまま答えた。「そうか。じゃあな」と素っ気ない言葉を残して一夜は教室を出ていく。
五月も終わりに近づき、夕方四時を回ったというのにぽかぽかと温かい。陽気が次第に思考を鈍らせていく。
(“千秋くん”か……。な~んか辛いよね、それって)
程なく僕は睡魔に襲われた。
……。
……。
……。
「――くん。那智――」
誰かが僕を呼んでいる。
眠りの中で誰かの声を聞いたような気がしたが、誰なのか思い出せない。こういうのを夢現というのだろうか。
今度は優しい香りが鼻をくすぐる。
何だろう、この香りは。どこか懐かしさを感じる。
(ああ、これは雪の香りだ)
ぼやけた頭でそう認識する。
そして、
何かやわらかいものが僕の頬に触れた。
「う、う~ん……」
やがて、ゆっくりと意識が覚醒をはじめる。
かなりの時間を眠っていたようだ。教室には夕陽が差し込んでいて、もう誰も残っていなかった。
いや――、
僕以外にもうひとり、そこに誰かがいた。
誰だろう……?
その人物は窓枠に体を預けるようにして立っている。夕陽が逆光になって顔がよく見えない。
「やっと起きた」
「先輩……?」
その声は片瀬先輩のものだった。
「うん」
先輩が頷く。
僕が目の上に掌を当てて眩しそうにしていると、先輩は少しだけカーテンを引いて夕陽を隠してくれた。ようやく先輩の顔が明らかになる。
「先輩が何でここに?」
「美術室で課題を仕上げてたの。その帰り。通りかかりに那智くんを見つけたからつい、ね」
“那智くん”と呼ばれて、僕はどきっとした。
違う呼ばれ方をしたのは一度だけなのに、なぜか懐かしい感じ。ほんの少しだけ気恥ずかしい気持ちもあった。
「那智くんのとこって特進クラスだから、普通に七時間授業なのね」
そんな僕に気づかず、先輩は何でもない話題を振った。視線の先には壁に貼られた時間割り表がある。
「お昼食べてさらに三時間ですよ。しんどいだけです。……ところで、いいんですか、こんなところにきて」
学校では必要以上に近づかない。昼にそう決めたばかりだ。
「大丈夫よ。誰も見てないもの」
「まあ、先輩がそう言うんなら別にいいですけどね」
「うん。那智くんがいいなら、わたしもいい」
何だか変なやり取りだな。
だけど、ちょっと楽しかった。先輩も笑っている。
「そう言えば、先輩、僕が寝てる間に何かしませんでした?」
「気づいてたんだ。那智くんの寝顔がかわいかったから、ちょっとほっぺたに触れてみたの」
なーんだ。
相変わらず子どもっぽいことが好きな人だ。
「唇で」
「☆×■◎※△ーーーー!?」