〃 (2) 先輩の暴走
学園祭二日目・昼前――、
校門に設置されたアーチの近くで人を待っていた僕の肩を、誰かが叩いた。
「こんなとこで何やってんの、お前?」
紗弥加姉だ。
プリントTシャツに太ベルトを巻いたジーンズというラフなスタイル。
「うん、ちょっと友達を待ってるんだ。つーか、なんで紗弥加姉がいるんだよ?」
「あぁ? 見にきたに決まってんだろ?」
そう言って紗弥加姉は指に挟んだチケットをヒラヒラさせながら僕に見せる。
「ちっ。きてほしくなかったからあげなかったのに……。いったい誰にもらったのさ。見せてよ」
「あ、てめ。バカ、よせっ」
「うげっ」
気になるから奪い取ろうとしたのだけど、紗弥加姉はすばやく手を引き、それと同時に膝で僕を牽制した。結果、カウンタ気味に膝蹴りが僕の腹に入ってしまった。
紗弥加姉はチケットをポケットにねじ込んだ。
「善良な生徒から巻き上げたんじゃないだろうな」
涙目になりながら、念のために聞く。
「心配するな。もらったんだよ、知り合いに」
「それだったらいいんだけどさ。お願いだから校内で暴れないでよね?」
ただでさえ態度や口調が聖嶺の雰囲気にそぐわないんだから、これで問題を起こされた日には僕にまでとばっちりがくるに違いない。
「わかってるって。かわいい弟の立場が悪くなるようなことはせんて」
そう言いながら、無造作に持っていたクリアバッグから取り出したのは、よりによって煙草だった。
「那智、灰皿――」
「ねえよっ!?」
電光石火の速さで煙草を箱ごと奪い取る。バカバカ。なんてバカな姉なの。僕は思わずその場に泣き崩れそうになった。
「もう危ないもの持ってないだろうな?」
クリアバッグを睨んで言う。
バッグは中がストライプのポーチになっているので中身までは見えない。
「さあ? どうだろうな?」
にやにや笑いながら紗弥加姉は言った。
「もういいや。とにかく絶対それを開けるなよ? 開けたら二度と口きかないからな」
「へいへい」
相変わらず笑ったまま返事をすると、紗弥加姉は校舎内へ入っていった。それを僕は見えなくなるまで見送る。
つーか、僕の手の中にその危ないものが残ったんだけど、どうしたらいいだろう?
-+-+- 第6話(2) 「先輩の暴走」 -+-+-
「なっち先ぱ~い!」
ようやく待ち人がきた。
アーチのすぐ前に停まったスポーツカー。その助手席の窓から上半身を乗り出してこちらに手を振っている元気なうさぎが一匹。なお、本名は宇佐美奈津という。
「……」
なんだ、あのすっげぇ高そうな車……
助手席が左にあるから、いちおう国産車なんだろうけどさ。絶対高いぞ、あれ。そう言えば、この前はこの前で黒塗りの車に乗り込んでいたな。いったい奈っちゃんは何ものだ?
僕が近づいていくと、奈っちゃんは一度中に引っ込んでからドアを開けて出てきた。
今日は赤のプリーツスカート、白の半袖ブラウスに赤いチェックの編み上げビスチェ――卯月学園の制服だ。
「千秋先輩、こんにちわー」
元気のいい挨拶が飛んでくる。
「こんにちは。今日は制服なんだね」
「はい。学園祭とは言え学校を訪問するんですから、やっぱり制服でないと。……そうですよね、お父様?」
そう言って奈っちゃんは後ろを振り返った。
へ? お父様?
僕もそちらに目をやると、運転席側から男の人が降りてきていた。
見た目、三十代半ば。ちょっとシャープな感じに整った容貌をしている。未だ残暑の残る九月下旬にあって、ビシッとスーツに身を包んでいる。
「初めまして。奈津の父などをしています」
その人は親しみやすい笑顔と口調で自己紹介をした。
「あ、はい。初めまして、僕は……」
「ええ、奈津から聞いていますよ。千秋那智君ですね?」
「あ、はい」
さっきからそれしか言ってないな、僕。なんとマヌケな応対だろう。そう思ったが奈っちゃんのお父さんは、それを笑うでもなく笑顔を浮かべている。なんだか少しほっとする。
「今日は娘をよろしくお願いします」
「わかりました。責任を持ってお預かりします」
と言うのも何だか大袈裟な気もするが、奈っちゃんのお父さんはそれに満足したようにやっぱり笑顔だった。
「今度ぜひ、ゆっくりお話でもしましょう」
そう言ってから車に乗り込み、去っていった。
「さっ、先輩、行きましょう!」
ぼうっと車を見送っていた僕の手を奈っちゃんが引っ張る。
「あ、ああ、そうだね。どこを案内したらいいかな?」
「えっとですね。やっぱり最初は先輩のクラスに行きたいですね、宇佐美は」
また、いきなりデンジャーゾーンを……。
さっそくクラスのたこ焼き屋に行く。
昨日まで細かく決められていた店番のシフトはすでに崩壊している。たこ焼きを焼くコツを覚えて喜びを見出した奴や、呼び込みに生き甲斐を感じはじめたやつがシフトを無視して居座り、それをいいことに店に戻ってないで遊び回っているやつらがいるからだ。
まあ、数時間ごとに新兵になるよりは熟練度の高いベテランがやり続けたほうがいいのは確かだ。
「千秋ー」
中庭の屋台街にある我がクラスの店に行くと、早速、嫌なやつに見つかった。
生ダコを切り刻むことにこの上ない快感を覚える女、宮里晶(通称サトちゃん)だ。時々「うふ、うふふふ」と奇っ怪な笑い声を漏らしていたとの目撃証言が上がっている。
「なになに、なんなのよ、その女の子は!?」
「別に大騒ぎするようなことじゃないよ。つーか、包丁を向けるなっつってんだろっ」
こいつ、人の姿を見て包丁を持ったままアグレッシブモード発動で飛び出してきやがった。
「千秋、片瀬先輩と四方堂先輩を誑かしただけじゃ足らずに、今度は年下?」
「あのねぇ、人聞きの悪いこと言わないでくれる。ただの友達だよ」
「まっ、いやらしい。男なんてみんなそんなこと言って、いろんな女の子と遊び回るのよねえ。そんなことしてるといつか刺されるわよ」
今いちばん刺しそうなのは君だけどね。
「宮里、その年でもう苦い過去があるんじゃないだろうな?」
「こんにちは。千秋のお友達? ゆっくりしていってね」
宮里は僕を無視して奈っちゃんに言う。どーでもいいけど、包丁持ったまま聞くなよ。怖いからさ。
「ありがとうございます。でも、お友達とはちょっと違いまして。実はわたしと千秋先輩は血の繋がらない兄妹――」
「よし、奈っちゃん、向こうに行こう、向こうっ。せっかくだからたこ焼き奢ってあげるよ。……悪い。これひと皿もらってくね。……はい、どうぞ。美味しそうだろ? 美味しそうだねっ。じゃあ、向こうで食べようかっ!」
とんでもないことを口走りそうになった奈っちゃんの言葉を遮って僕は言った。店の前にお客さんが並んでいるのにも拘わらず問答無用でたこ焼きをひと皿強奪。それを彼女に持たせると、その背を押して店から離れた。
「な、奈っちゃん。頼むからややこしい冗談をいたるところに大量投下しないでくれ……」
「今回はさらにアレンジを加えるつもりでしたのに」
「いや、そんなもの加えなくていいから」
どっと疲れた。
奈っちゃんは新しい設定を披露できなかったせいか、少々不満げな顔をしていたが、花壇の淵に座ってたこ焼きを食べはじめると、それもどこかに飛んでいってしまったようだった。
僕も潰れてお客さんに出せなくなったやつを食べたがなかなかの味だった。奈っちゃんも美味しそうに食べている。こういう姿は愛らしい。
と、そこに――、
「那智」
振り返ると屋台の近くで一夜が片手を挙げていた。僕のほうに寄ってくる様子がまったくないところを見ると、こっちにこいと言っているようだ。
「なに? どうしたの?」
奈っちゃんにひと言断ってから一夜のところに行くと、僕は訊いた。
「あの顔、どこかで見たことあると思たから調べてみたんやけど……」
そう言って一夜は奈っちゃんの方を見る。
「宇佐美グループって知ってるか?」
「そりゃあ、まあ、人並みには知ってるよ」
宇佐美グループ――海運業からはじまって船舶、航空機、次第に金融や損害保険などに事業を拡大していって、今では多くの分野でトップの地位を占めている。日本を代表する複合企業体だ。
最近は医療機器や福祉医療など、そっち方面に手を延ばしていると聞いている。
「って、まさか奈っちゃんってそこのお嬢様!?」
「ああ。会長、宇佐美蒼司のひとり娘らしい」
「うっは~。さっきまさにそのお父様と会っちゃったよ、僕。へえ、あれがあれが宇佐美グループの会長かぁ。そういやエリートっぽい顔してたなあ」
つい先ほど見た端正な顔を思い出す。
世の中、四十代の “青年実業家” がいっぱいいるけど、あれならその肩書きも納得できるな。
「ところがそうでもない」
「と言うと?」
「エリートどころか父親に対して実に反抗的で、若いころには女と駆け落ちしたこともある猛者や。半年後に捕まって連れ戻された後は従順な素振りを見せていたが、今から数年前、幹部の大半を率いてクーデターを決行。父親を会長の座から蹴落として隠居に追い込んだ後は自分が会長に就任してる」
一夜は解説するように淡々と語る。
「その経営手腕はなかなかもので、いろいろ大胆な冒険をして失敗もあるが確実に事業を拡大していってる。……ちょっと前にアメリカのBABELってところが次々と日本の企業を乗っ取っていった事件、覚えてるか?」
「いや、さすがにそこまでは……」
僕は一夜みたいに中学のころから経済誌を読んでたりしないし。
「そのときも真っ向からそれをはね除けたんで話題になっとったわ」
「ふうん。その子どもが奈っちゃんってわけか」
僕は改めて奈っちゃんを見た。
まだ熱いたこ焼きをはふはふいわせながら幸せそうに食べている。
「とは言え、そんなこと那智には勿論、あれにも関係ないことやけどな」
「確かに」
一夜にそう答えてから僕は奈っちゃんのところに戻った。どうやらちょうど食べ終わったところらしい。
「ごちそうさまでした~。美味しかったですよ、先輩~」
空になった皿を見せて言う。
「そりゃよかった。それじゃ、ふらふら見て回るか」
「はい♪」
そうして僕らは校内をひと回りすることにした。
事件は三年の教室の前を通っているときに起きた。
手作りケーキのお店。
そこは司先輩のクラスの店だ。本来の美術室にほど近い教室では場所が悪いので、空いている普通科の教室を借りているとのこと。
けっこう盛況の様子。そりゃ司先輩がいるもの。うちに一夜目当てで女子生徒がくるのと同じだ。
「あら、千秋くん」
司先輩いるかな、と思って中を覗いたら、しっかり先輩がいた。向こうも僕に気がつき、エプロンを外して中から出てきた。
「こんにちは、先輩」
「こんにちわーっ。片瀬先輩♪」
僕の後に奈っちゃんが続く。
一瞬、司先輩の表情が固まった。
「こんにちは、宇佐美さん……だったわよね?」
そのまま固い笑顔で先輩も挨拶を返す。
「覚えていて下さったんですね。光栄です~」
「ええ、こう見えてももの覚えはいい方なのよ、わたし」
先輩は奈っちゃんにそう答えてから、今度は僕を見ていった。
「よかったら寄っていく? サービスするわよ?」
「えっと……」
「いいえ、せっかくですが遠慮しておきます。先ほど那智先輩にたこ焼きを頂いたので、宇佐美、お腹いっぱいなんですよ」
僕がどうしようかと迷っていたら、先に奈っちゃんが答えてしまった。
「そ、そう。じゃあ、後で千秋くんだけでも寄ってね?」
「それもダメですよぉ。先輩は今日一日、わたしにつき合ってもらうんですから」
「う、うぇ?」
今日一日って、初耳だぞ、そんな約束。
「あら、そうなの? でも、所詮は学園祭だから見るのに一日もかからないんじゃないかしら?」
「大丈夫ですよ~。宇佐美、那智先輩となら何時間一緒にいても楽しいですから。ご心配には及びません」
だんだん険悪な雰囲気になっていっているように見えるのは気のせいだろうか。
どうも奈っちゃんは意図的に先輩の提案を悉くぶった切ってるっぽい。それに対して司先輩はちょっとずつ頭にきてる様子だ。
僕としては非常に精神衛生上よろしくない光景で、胃がキリキリしてきた。周りもただならぬ空気を察してか、次第に人が集まり出している。
「千秋くんも一日一緒じゃ大変よね?」
「そんなことありませんよね、那智先輩?」
って、いきなりこっちに振るのかよ。
「いや、まあ……」
「「 ほらっ 」」
ハモるふたり。
「お兄様は今、私に同意したんですよ。勘違いなさらないで下さいね。片瀬先輩」
「違うわ、わたしよ……って、ちょっとあなた。"お兄様"はやめなさいって、この間言われたばかりでしょ!?」
こ、このばかうさぎめ。こんなときに火に油を注ぐようなこと言いやがって。しかも、さっきから人のこと名前で呼んでないか? おまけに性格変わってるし。
いったいこの事態にどう収拾をつければいいんだ?
「なに、お前。年下の女の子捕まえて、そんなマニアックな人間関係を構築したの?」
「ぶっ……」
そこに登場したのは、肩にバッグを引っかけた紗弥加姉だった。
「さ、紗弥加姉!? 何でこんなとこに!?」
とりあえず、その人でなしを見るような目はやめて頂きたい。
「さっき言わなかったか?」
「うん、聞いた。でも、何でこんなカオスなときに湧き出てくんのかな、と」
いや、ホントたまんないよ。
「ち、千秋くん、お姉さんがいたんだ……」
「ぶっ……」
ゆこりん先輩キター!
いつの間にか僕のそばに五十嵐優子先輩が立っていた。いや、そんな怯えたような目をせんでも。
「いや、紗弥加姉とは別に姉弟でも何でもないんですけどね」
「姉弟でもないのにお姉さんとか妹さんとか、そんなのおかしいと思う……」
微かに非難の色を含んで言う。
そして、その横で、うんうん、と肯く居内加代子嬢。
……。
……。
……。
おい、誰だ。こんなところに居内さんを放ったのは。
「……」
僕は首を傾げる。
何だろうな、このジェットストリームアタックは。
「兎に角、あなたのように自分勝手にお兄様なんて呼んでつきまとったりしたら、千秋くんが迷惑でしょ!?」
「それを決めるのは片瀬先輩ではなく、那智先輩だと思いますが?」
「だそうだ。……どうする?」
と、紗弥加姉。
「二股はよくないと思う……」
と、ゆこりん先輩。
そして、その横で黙って頷く居内さん。
「……」
再び炸裂するジェットストリームアタック。
「あー、え~っと……」
前方、右を見る――
司先輩が奈っちゃんを睨んでいる。
前方、左を見る――
奈っちゃんが涼しい顔で司先輩を見ている。
正面――
冷ややかな目で僕を見る紗弥加姉。
右隣り――
なぜか懇願するような目のゆこりん先輩。
左隣り――
少し責めるような目の居内さん。
「……」
何でこんなことになってるんだろう?
かみさま。
僕、何か悪いことしたでしょうか?
と、不意に奈っちゃんが口を開いた。
「少なくとも那智先輩のことを『千秋くん』としか呼べない今の片瀬先輩には、私たちのことをとやかく言われたくはありません」
不敵な笑みを浮かべて言う。
明らかな挑発。
だけど、その挑発に司先輩は乗ってしまった。みるみるうちに先輩の顔が赤くなっていく。
「ええ、いいわ。じゃあ、ここで言ってあげる。わたしと那智君はつき合ってるの。夏休みの前から、六月からずっとつき合ってるの。さあ、これで文句はないでしょ!」
刹那、周囲が静まりかえった。
(ああ、とうとう言っちゃったよ……)
僕は天を仰いだ。
「あーあ、やっちまった」
と、紗弥加姉。
「やっぱりそうだったんだ……」
と、ゆこりん先輩。
そして、相変わらず黙っている居内さん。
やがて周囲に喧騒が戻った。て言うか、大騒ぎだ。僕が知らないところでいろいろ憶測を呼んでいたらしいが、今この瞬間、司先輩がついに明言してしまったのだ。「そうだったの!?」だの「やっぱり」だの、いろんな言葉が飛び交う。突然走り出したやつは、いったいどこに話を撒き散らしに行くつもりだ?
野次馬が好き勝手に騒ぎ立てる中、しかし、当事者である僕たちはそれだけではまだ終わらなかった。
「だから――」
静かに、だけど、力を込めて、
「だから、わたしたちの邪魔をしないで……!」
先輩は言う。
目に、涙をためて。
「どうしてよ!? わたしがこんなにも那智くんのことが好きなのに……! どうしてそんなことするの!? 冗談じゃないわ。後からきてわたしから那智くんを取ろうとしないでよ……!」
感情のままに言葉をぶちまけると、司先輩は逃げるように駆け出した。人垣を突き抜けて、すぐに見えなくなる。
僕は呆然と先輩の消えた方向を見ていた。
と、その僕の視界にぬっと何かが割って入ってくる。
「おおうっ!?」
居内さんだった。
追いかけた方がいい――彼女の目はそう言っていた。
なぜか奈っちゃんを羽交い締めにしている。ついでに何か言いかけた彼女の口も手で覆って塞ぐ。
「ごめん。それじゃ、それよろしく」
奈っちゃんを居内さんに任せると、僕は先輩の消えたほうへ走り出した。
方向としては美術科の教室の方だろう。
僕はそう決めつけて全力で走った。が、実際はそれよりも手前だった。
美術室に入る先輩の姿が見えた。
「先輩!」
僕も後を追って中に飛び込んだ。
入って正面の窓の近くで、先輩は手で顔を覆って泣いていた。僕の声に気づき、顔を上げる。
「こないで!」
「でも……」
「こないでったら!」
そばに立っていたイーゼルの一本を僕に向かって倒した。二、三本巻き込んで派手に散らばる。僕と先輩の間に転がったそれは、まるでバリケードだ。
かなり錯乱してるな。
だからと言って、ここで引き下がるわけにはいかない。
「先輩……」
「こないでって言ってるでしょっ。那智くんなんてあの子と一緒にいればいいんだわっ」
今度は台の上にあった首だけの石膏像。
さすがにそれは重くてたいして飛ばない。
「うおっ、危ねっ」
床に落ちて砕ける石膏像。慣性の法則に従って放射線状に飛び散った破片を、僕は跳んで避けた。
「先輩、落ち着いて下さい」
床から顔を上げた僕の目に映ったのは一直線に飛来してくるマグカップだった。教卓の上でペン立てとして使われていたのだろう。いくつかのペンや定規を撒き散らしながら飛んでくる。
そして、それは僕の額に命中した。
「痛~~っ」
思わず手を額に当てる。
その手に生暖かいものがついた。……血だ。
「うわっちゃ~」
「那智くん!?」
はっとして先輩が駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫!?」
「えっと、ああ、うん、この程度ならたいしたことないです」
別に流れるほど出てるわけじゃないし。
そう言ってる間にも先輩がポケットからハンカチを出して傷口を押さえてくれた。しばらくこうしていたら血は止まるだろう。先輩の手と交替して自分でハンカチを持ち、僕は床に座り込んだ。
「わたし、何やってるんだろう……」
黒板にもたれて先輩は自嘲気味に言った。
「わけのわからないこと言って逃げ出して……。心配してきてくれた那智くんに八つ当たりして、挙げ句に傷つけて……」
「ホントですよ、まったく……」
「ごめんなさい……」
先輩は力なく謝った。
「最近は説明責任なんて便利な言葉があるんですが?」
「……」
「……」
「……」
「……」
「ただの、ヤキモチ……」
長い沈黙の後、ぼそっと先輩が言った。
いや、まあ、その辺りだろうなあとは思っていたけど。それにしても……。
「だって、悔しいじゃない」
先輩は続ける。
「わたしよりもあの子の方が那智くんと一緒にいて似合うんだもの。誰が見てもお似合いのカップルだわ。でも、わたしは年上だし、那智くんよりも背が高いし……。一緒にいてもあの子のように絵にならない」
そうきましたか。
「見た目がどうこうは問題じゃないでしょう」
ちょっと呆れ気味に言わせてもらった。
「しかも、それが人から見てどう映るかだとしたら尚更です。……血は、うん、もう止まってるな。ハンカチ、また洗って返しますよ」
僕は立ち上がりながら言った。ハンカチはポケットに押し込む。
「誰が何を言おうが、どう見ようが関係ないです。だいたい、昨日、先輩が言ったばかりですよ」
そこで言葉を切る。
そして、
ひと呼吸おいてから、僕は言った。
「僕は司先輩のものです」
「那智くん……」
「誰よりも先輩が好きです」
珍しく恥ずかしげもなく真正面から先輩を見つめた。
吸い込まれそうにきれいな瞳。軽くウェーブのかかった柔らかそうな髪。自分を責めて沈んでいる顔もやっぱりきれいだ。
こんなときにもかかわらず僕は先輩に見とれている。
「本当に?」
「本当です」
「わたし、誰にも那智くんを取られたくない」
「ずっと先輩のものですよ」
「でも、今のわたしは言葉だけじゃ信じられないの」
「……」
……おい。
「え~っと……それは何か行動をもって示せと仰っているんでしょうか……?」
「ええ、そうよ」
「……」
何ですかね、悪戯っぽい笑顔は。
ああ、ちくしょう。
要するにやるしかないわけね。
「……わかりました」
僕は、黒板にもたれたままの先輩に向かって、一歩、進み出た。
そっと両肩に触れる。
「少し下を向いてください」
うわ、情けない。普通、男が言うなら上だよなぁ。
僕の言葉に従う先輩。
そして、僕たちは唇を重ねた。
夏祭りの夜に初めてキスをしたときの感覚が甦る。
そう思えるだけ今回は余裕があるのだろう。やがて僕らは前よりも長いキスを終えて唇を離した。
互いに顔を見つめ合う。
「……」
「はは……」
先輩は顔を赤くしてうつむき、僕は何だか意味のない笑いを漏らす。
どうも慣れない。
キスの後ってどんな顔をすればいいんだろう?
と、そのとき――、
「ああ、終わったんなら、ちゃんと片づけておいてくれよ?」
教室の中で声がした。
弾かれたように振り返ると、イーゼルに立てたキャンバスの横から顔を覗かせてる人物がいた。
「きゃあああっ!」
「か、か、か……」
ふたり揃ってその人物を指さす。
そこにいたのは香椎先輩だった。
香椎先輩の顔は我関せずといった感じのまま、キャンバスの向こうに消えた。
「か、香椎くん!?」
「香椎先輩、いたんですか!?」
「いかにも。俺は香椎信だな、お嬢さん。言っておくが最初からずっとここにいたぜ? ただ、それに君たちが気づかなかっただけだ」
キャンバスの向こうから声だけで質問に答える。なるほど。椅子に腰掛けてキャンバスに向かっているとこちらからはほとんど姿は見えないわけね。
そりゃあ確かに入ってくるなりイーセルやら石膏像やら投げて大暴れして、その後いろいろやってた僕たちが悪いのかもしれないけどさぁ。人が額かち割って流血してるのに、ずっと絵描いてたのかよ。
「……っ!」
司先輩が耐えきれなくなって美術室から飛び出した。
「あっ、先輩……!」
追いかけようと思ったが、すぐに思いとどまった。
どうせ外ではさっきの騒ぎが広まっているんだ。行くところなんてどこにもなくて、司先輩もすぐに戻ってくるだろう。
だったら、しばらくここに身を隠していよう。
「香椎先輩、もうちょっとここにいていいですか?」
「好きにすればいい」
絵に集中しているせいか、素っ気なく言う。
僕は近くにあった椅子に座った。足を組み、膝の上で肘をつく。ロダンの考える人もどきの構造。
(これからさらに大変だな……)
自然、ため息が出た。




