〃 Who's that boy?(2)
今ひとつ意味の感じられない入学式が終わり、遠矢一夜は教室に戻ってきた。尤も、この教室に入るのは初めてなので、“戻ってきた”という表現は今日だけは正確ではない。
黒板に張られた座席表を見て自分の席を探す。順に辿っていると、先に千秋那智の名が現われ、直後に自分の名があった。席が前後に並んでいる。
千秋那智――。
彼とは、入学試験のときに席が隣同士となり、その後、街の書店でばったり再会した仲である。一夜から見て彼は、無闇に明るくて子どもっぽく、そして、わけもなく気になる存在だった。本来希望していなかったこの特別進学クラスに進んだのも、彼がいるからだと言っていい。
その千秋那智が教室に入ってきた。
一夜同様、黒板の座席表を見てから自分の席へと向かう。席に辿り着く数歩手前でついに一夜に気がついた。
「ああっ! あのときの親切な消しゴムでサングラスの人!」
「……」
その言い方は大雑把すぎるが間違っていないこともない。正確な表現に戻すには訂正箇所がありすぎてどこから指摘したものか迷い――結果、黙り込んでしまった。
「え~っと……」
「……遠矢」
「ああ、そうだったそうだった。遠矢だったよね」
そう言うと那智は机の上に鞄を投げ出し、椅子に横向きに座った。
「遠矢って通常クラスじゃなかったっけ?」
「繰り上げ合格。入試のときの成績がよかったらしいな」
「うおぉ、本当? すごいなぁ」
那智は盛大に感激した。
どうやら彼はその時どきの感情を表現することに躊躇いのない性質らしい。反対に一夜はそれを好まない質である。
「僕はどうだったんだろ? 点数が出るわけじゃないわからないけど。きっとギリギリ合格だったりするんだろうなぁ」
「入ってしまえばそんなもん関係ないわ。繰り上げもギリギリも補欠合格も一緒。いちいち言わん限りわからん」
「そりゃそうだ」
一夜の言葉の同意すると、那智は子どもっぽい笑顔を見せた。
「因みに、その他の特典は?」
「……もれなく入学金免除」
「げ。それってほとんど特待生扱いじゃん」
今度は目を丸くした。本当にころころと表情がよく変わる。
「ホンマの特待やったら学費も免除になっとるわ」
「いや、それでもタダになる額は大きいよね。バカにできない」
「そうか?」
「そうかって……。もしかして遠矢の家って、お金持ち?」
「らしいな」
思わず吐き捨てるように言ってしまった。
一夜にとって家の話題はどう転がっても面白いものにはならないので、どうしてもそれが態度に出てしまう。
しかし、那智にはそれは気にならなかったらしい。
「なに、その無関心さ」
代わりに目が向いたのは、一夜の家庭への冷めた態度だった。
「俺、愛人の子やから」
一夜はさらりと言った。
「母親が死んで、父親のところに引き取られたのがちょっと前。そんなんで家に愛着も感心もあったもんやないわ」
しかし、これはイコール一夜が父親を軽蔑しているという意味ではない。正妻に隠すことなく堂々と愛人を三人も作っている男ではあるが、正妻ともども愛人たちもしっかり養っているし、できた子に愛情を注いでもいる。勿論、それが立派だとは思わないが、軽蔑するつもりもない。
「それはまたちょっぴりハードな感じの家庭の事情だよね」
那智は困ったような顔をして苦笑いを浮かべた。
直後、担任の教師が入ってきて、一夜と那智の高校初の会話は打ち切られた。
それから数日後の昼休み――、
一夜はいつも通り家から持ち出してきた文庫本を読んでいた。昼休み終了の予鈴五分前のことである。
「遠矢、遠矢。ついに見ちゃったよ」
やや興奮気味に那智が教室に戻ってきた。一夜の前の自分の席に、これまたいつも通り横向きに腰を下ろす。
「UMAでもおったか?」
「そんなんいるかっ。……まあ、もうすぐUMAの域に到達しそうなでぶ猫はいるけどね」
「ほう」
「いや、それはおいといてさ」
開始直後に早くも脱線の兆しを見せた話を、那智は自ら元に戻した。
「片瀬先輩だよ、片瀬先輩。知らない? 今日初めて見たけど、すっごいかわいいの。もう人形みたい」
そう言うと少し前に見た映像を頭の中でリピートしているのか、那智は夢見心地な表情を浮かべた。
「……それ知らんかったわ」
「うそっ!? けっこう有名な話だよ。知ってるやつは入学前から知ってて、片瀬先輩目当てに受験したってって猛者もいるらしい。しかも、先輩、受験日当日に何かの用事で学校にきてて、うっかり見てしまったせいで試験に手がつかなかったって話だ」
「やっぱりUMAか」
そこまでいくと立派な都市伝説である。
「失礼なこと言うなっ」
那智がやけ喰ってかかる。
「いいから一度見てみろって。ホントかわいいから。あれで愛想もいいっていうし、僕も一度挨拶だけでもしてみようかな。……ま、兎に角、見ておいて損はないから」
「興味ない」
那智の言葉を突っぱねるように一夜は応えた。
「えー、何で? 女の子が気になったり、好きになったりしないか?」
「しない」
またも一夜は間髪入れず返した。
「前に言うたやろ? 俺の家の話。そのせいで周りからあまりええ扱いは受けてこんかったしな。そんなんで他人に興味なんか持つ気にもならんわ」
愛人の子だ何だと後ろ指を差されてきた一夜は、小学六年のときに母親と死別すると、一代で財を成した事業家の父親に引き取られた。しかし、そうなったところで今度は嫉妬とやっかみが加わるだけで、陰口を叩かれることには変わりはなかった。
「あー、そりゃ軽い人間不信だね。気持ちはわかる。半分くらいは」
那智は腕を組んで、うんうん、と頷いた。真剣なのかそうでないのか判じがたい態度である。
そして、当然、一夜はそれをふざけていると判断した。
「……わかられてたまるか」
「わかる」
だが、那智も言い返す。
互いの主張が真っ向から対立し、ふたりはしばし睨み合った。
やがて――、
すっ、と那智が顔を寄せてきた。まるで内緒話をするように声のトーンを落とし、口を開いた。
「実は僕は捨て子だ」
「……」
「疑うなら教会に聞いてくれてもいいぞ。僕、あそこに小五の途中までいたから」
そこまで言って那智は離れた。
「幸い僕は最初から親の顔を知らないから、遠矢みたいに死に別れることもなかったけど、差別と偏見はあった。そこは一緒だ」
だから、気持ちはわかる――と、そう繋がるのだろう。
「でもさ、周りにそういうやつがいたからって自分以外の人間をひと括りにするのはどうなんだろ。敵と同じくらい味方はいると思うんだよね。実際、僕はそうだったし」
「……」
なんなんだ、こいつは。それが一夜に素直な感想だった。
親を知らないから死に別れる辛さも知らない。だから、自分の方がまだマシだと言うのか。そんなバカな。どう考えたってそっちの方が不幸ではないか。
その那智が周囲に味方を見出せるのなら、今まで自分は何だというのだろう。
一夜にはそれができなかった。
周りは程度の低いやつらばかりだと、そう決めつけてしまった一夜にはそういう考えに至らなかった。考えることすら放棄していた。
「……」
そこまで考えてようやくわかった。
那智は、一夜が"なれなかったもの"なのだ。
一夜がならなくてはいけなかった姿を、似た境遇である那智はしっかりと捉え、実際にそれになっていたのだ。
でも――、
「今更そんな気にはならんわ」
「諦めるの早っ。この歳でもう諦めるのかよ。見た目は年上っぽいのに、中身はさらに老成してやがるな、さては」
「……ほっとけ」
確かに今更周囲に対する見方を変えようとは思わない。
しかし、目の前にいるこの少年だけは大事にしたいと思う。彼を自分以上に大事にできたなら、そこから何か変われるような気がするから――。




