第1話 接触/事故
初めてあの人を見たとき、人形のようにかわいい人だと思った。
小さな顔にパーツが完璧に配置された、万人が認める美少女。大きな目と吸い込まれそうに綺麗な瞳、笑ったときに覗く八重歯、等々語るべき魅力はいくらでもある。軽くウェーブのかかったハニーブラウンの髪はいつも左右非対称に二箇所リボンが巻かれているが、もともとボリュームがあるのか、それでもふわふわとやわらかい印象を受ける。
年相応に明るくてかわいらしく、下級生の僕から見れば少しだけ大人に見える。それが学園一の美少女と噂の片瀬先輩――片瀬司だった。
-+-+- 第1話 「接触/事故」 -+-+-
ようやく高校生として実感の湧いてきた5月のある日の放課後――、
「なっちなっち、見ろよ。片瀬先輩が歩いてる」
「なっち言うな」
と、文句を言いながらもトモダチの手招きに誘われて教室の窓の外を見てみる。二階から見下ろした中庭に、片瀬先輩が数人のクラスメイトとともに通り過ぎていく姿があった。きっと人気があるのだろう、先輩はいつも輪の中心にいる。
「今日もかわいいなあ。……せっかくだから一枚撮っとこ」
そう言って制服のポケットからケータイを取り出す。
「やめとけよ、失礼だろ」
「気にすんな、気づきゃしないよ」
結局、僕の制止の声も聞かずケータイを向けはじめる。こうしてだんだんと肖像権に対する意識が薄れていくのだろう。まあ、どうせこの距離じゃロクなものは撮れまい。
僕は離れていく片瀬先輩たち一行の姿をぼうっと見送った。
「あーあ、行っちまった」
隣でトモダチが残念そうにつぶやく。
「いいじゃないの、お目にかかれただけでさ」
「だーっ、一度でいいから間近でお話してぇ。……いっそ思い切って告白するか」
「安心しろ。向こうはお前のことなんか知りもしないから」
「だよなぁ」
と、がっくり肩を落とす。
「よし、じゃあお前いけ」
「何でさ!?」
「いや、お前ならかわいい系の顔立ちだし。母性本能を刺激できれば、俺より可能性はありそうじゃん?」
「『先輩、前から好きでした。つきあってください』って? 僕はそれでOKする女の子を信じない」
考えてみたらいい。初めて逢う異性に告白されて即OKする人間がいるだろうか? 告白する側はこっちを知ってるかもしれないけど、こっちは初対面だ。もしいたとすればそれは『別にいっか』っていう刹那的思考の産物か、『私も好きでした』っていう希有な例だと思う。九分九厘玉砕する。
「それでも月に何人か玉砕する男がいるそうな。……で、那智の本音は?」
「『片瀬先輩、かわいいなぁ。せめてお友達にっ』」
思わずぐっと拳を握り締める。
「……」
「……」
「……」
「ま、所詮は高嶺の花だけどね」
僕はくるりと踵を返し、窓から離れて教室のドアへと向かう。
「帰るのか?」
「んにゃ、トイレ。……先帰ってて。もしかしたら追いつくかも」
背中越しに手をヒラヒラと振って、僕は教室を出た。
そうして数分後、用を済ませてトイレから出ようとしたとき、
「片瀬だぜ、片瀬」
どやどやと数人の生徒が喋りながら入ってきた。
(片瀬?)
聞き覚えのある名前。僕が知ってる片瀬はひとりしかいない。無論、同姓はいくらでもいるだろうから、この会話に出てきてる『片瀬』が別の片瀬さん(もしくは、片瀬君)を差している可能性はおおいにあるが。どちらにせよ続きが気になったので、僕は半開きになった個室のドアの後ろに身を潜めた。ドアは内側へ開くから中を覗かれない限り見つかるまい。
「部室に連れ込めばバレやしねえって」
「後で騒がれたらどうするよ?」
「やることやって写真撮っときゃ大丈夫だ。バラまかれるの覚悟で警察に駆け込む女なんていやしねーよ」
やがてその生徒たちは密談と用を終えてトイレから出て行った。少し間をおいて僕も個室から出る。
「……」
水道で手を洗いながら、耳では先ほどの生徒たちの足音を拾い、去っていった方向を確認していた。僕の教室とは逆の方向だ。
視線を上げると鏡の中に見慣れた顔があった。ほんの数秒、僕と同じ顔をした鏡の国の住人と見つめ合い、それから廊下に出た。教室へと向かう。
が――、
僕は、ふと、その足を止めた。
「……」
振り返って廊下の反対側に目をやる。休み時間よりも生徒の数は少ないが、ざわざわと開放感を含んだ喧騒に満ちていた。そんな廊下を見ながらしばし考え込む。
何の変哲もない放課後の廊下。
そう、よからぬことを企んでる連中が消えていった以外は。
「んじゃ、いくか」
わざわざ発音してから足を踏み出す。……勿論、教室とは反対方向に向かって。
「問題がふたつほどあるよな」
歩きながら僕はつぶやいた。
ひとつは、話されていたようなよからぬ企みが、今すぐ実行されるのかということ。もうひとつは、話に出てきた『片瀬』が、あの片瀬先輩なのかということだ――と、そこまで考えて気づく。
「いや、どっちもたいした問題じゃないか」
前者は、無駄足になったのならそれはそれで結構。そして後者は、それこそ些末な問題と言える。
「それよりも連中を見失ったことのほうが重大か。つーか、僕、そもそも連中の姿を直で見てないし」
そう、僕は追跡すべき目標を見失うという非常に根本的な問題にぶち当たっていた。
(そういえば部室がどうのこうの言ってたか)
思い出してひとまずの目的地を得た。部室と言えばおそらく校庭横にある運動部のクラブハウスだろう。僕は靴を履き替えて校舎から出た。途中、剣道場の前を通ったので練習用の竹刀を一本拝借しておく。
そこからクラブハウスへ向かおうと体育館の前に差し掛かったときだ。
「うわっ、と……」
脇から飛び出してきた男子生徒とぶつかった。けっこうな勢いだったので、おかげで互いに弾き飛ばされ、尻餅をつく羽目になった。見るとその男子生徒は濃紺のネクタイを締めている。どうやら三年の先輩のようだ。
さて、ここでマメ知識。
ここ聖嶺学園高校の制服は男女ともにブレザーで、男子のネクタイは学年ごとに濃紺、深緑、薄紅に分けられている。現一年生は三年間通して薄紅色を使用し、来年度入学の新一年生は現三年生が使っている濃紺が学年のカラーとなる。順繰り順繰りに使い回していくわけだ。
ところが、なぜか女子のリボンタイには色の区別がなく、淡いブルーのチェック柄スカートに合わせて、タイの色も淡いブルーで全学年統一されている。
僕とぶつかった三年の先輩はえらく悲愴な顔をしていた。
「どうしたんですか、先パ……」
「俺は悪くないっ。あいつらに命令されて呼び出しただけなんだ。さっ、逆らえないんだからしょうがないだろっ」
そうとう取り乱してらしい。訊かれもしないのに言い訳を口走ると、這うようにして逃げ去った。
「てことは、体育館裏かな?」
竹刀を握りしめて体育館の裏手へと回ると、展開されていたのは最悪の、ある意味では予想通りの事態――四人の男子生徒が片瀬先輩を取り囲んでいた。まだひどいことになっていないのが救いか。
つまり手口はこうだ。先ほど逃げていった男子生徒がこの連中に脅されるか何かして片瀬先輩を呼び出したんだろう。で、先輩は定期的に発生する『前から好きでした。僕と(ry』イベントだと思って何の疑問も持たずにやってくる。そして、テキトーなところでこいつらが出てきて、今まさに襲いかかろうとしている、と。
卑劣な奴ら。
ムカついてくる。
「先輩から離れろっ!」
僕は叫びながら竹刀を手に駆け出した。
先手必勝とばかりに僕の声で振り返ったいちばん手前の奴に殴りかかる。剣道の経験はないので竹刀の振り方なんて知らない。なので、バットを振る要領で腹に思いっきり叩き込んでやった。不意打ちはけっこうなダメージがあったようで、そいつは盛大に吹き飛んでくれた。ただし、頼りの竹刀も折れたが。
「何だぁ、お前は!?」
問われたところで答える義理はない。というよりも、そんな余裕が僕にはなかった。
「片瀬先輩、逃げてっ」
状況を理解したらしく、先輩は一瞬の逡巡の後、すぐに走り出した。
「待ちやがれっ」
「待つのはそっちだろっ」
逃げた片瀬先輩を見てひとりが追いかけようとする。僕はそいつの腰にしがみつくと、むりやり放り投げて地面に引きずり倒した。
「てめぇ、よくも邪魔しやがって! ただですむと思うなよ」
かくして連中の標的は僕へと変わった。
約三十分後――、
僕は大の字になって地面にぶっ倒れていた。
(さすが慣れてるよなあ。殺さない程度の袋叩きはお手のものか)
多勢に無勢。殴り合いなんてしたことのない僕が四対一で不良に勝てるはずもなく、結局、袋叩きにあった。羽交い締めにされて腹に五発、顔面に四発喰らったところまでは覚えてるけど、後はもう記憶にない。
(手と、足は動くな。ほかは……、ああ、アバラ数本持っていかれたっぽい)
倒れたまま被害状況を確認する。兎に角、全身が痛い。とりわけヒビが入ってるらしい肋骨は、呼吸して横隔膜が動くたびに激痛が走る。とりあえずしばらく動けそうにない。
「ま、いっか。片瀬先輩が無事だったし」
そうつぶやいてみて新たな被害箇所発見。口の中をだいぶ切ってるみたいだ。すごく喋りにくい。
「明日から食事に苦労しそうだな……いぎっ」
肋骨のことも忘れて深々と溜め息を吐いてしまい、激痛に襲われた。僕はアホか。一過性の痛みに耐えた後、目を閉じ、身体を落ち着けて疲労回復に努める。
と、そのとき――、
「だ、大丈夫……?」
そんな声とともに僕の口元に冷たいものが当てられた。
「……っ!」
いろんなことに驚いた。こんなところに人がきたこととか、口元に当てられた冷たいものが思いっきり傷にしみたとか。
そして、何よりもそこにいたのが片瀬先輩だったことが衝撃的だった。
「せ、先輩、何で……?」
「うん、心配になって。……あ、じっとしてて」
思わず起き上がろうとした僕を制した。どうやら先輩は濡らしたハンカチで僕の顔の傷を拭いてくれているようだ。口元や頬を順番に拭いていく。
いつもは遠目に見ていただけの片瀬先輩を、僕はこのとき初めて間近で見た。心配そうな、そして、申し訳なさそうな顔をしていたが、先輩の魅力は少しも損なわれていなかった。本当にかわいい人というのはどんな表情でもかわいいらしい。
「大丈夫?」
「いえ、見ての通り大丈夫じゃなさそうです」
この状態で大丈夫ですと言ったところで百パー嘘だ。
「何ていうか、こう、全身が痛くて。疲労困憊? あと、四番と五番を持っていかれたっぽいです」
「よ、四番と、五番……?」
さすがに意味がわからなかったらしく、先輩は困ったように聞き返してきた。
「えっと、冗談です。ちょっと格好よく言ってみただけなんで。実際、何番目がやられたなんて、ぜんぜんわからないし」
「ホントにごめんなさい……」
いや、確かにかわいいのだけど、こう何度も謝られると僕まで申し訳ない気分になってきた。しかも、だんだん泣きそうになってきてるし。
「気にしないで下さい。僕が勝手にやったことですから。たまたまあいつらが話してるとこを聞いちゃって。今ここで何もしなくて、後で先輩がひどい目に遭ったなんて知ったりしたら、絶対に後悔すると思って……」
自分でも何が言いたいのか解らなくなってきた。恥ずかしくなって先輩から視線を逸らし、昏くなりはじめた空に目を向けた。
「いや、それに、本当は先輩だから助けたってわけじゃないんです。たぶん、見知らぬオッサンがオヤジ狩りに遭ってても飛び出しただろうから。僕、そういうやつなんで」
顔を背けたままこっそりと目だけで先輩の様子を窺う。あんな要領の得ない僕の言葉でも少しは気が楽になったようで、先輩は少しだけ表情を軟らかくしていた。
「君は優しいね。ホントにありがとう……」
そして、片瀬先輩は顔を寄せると、僕に頬に軽くキスをした。
「○×◆☆♂△●□♀☆~~!!!」
本日いちばんの衝撃。
(まさかお近づきなるを通り越して、接触事故を起こすとは思いませんでしたよ……)