第3話 暗闇にて/修復と崩壊
昼休み――
学生食堂を見渡すと、すぐに円の姿を見つけることができた。もうすでに席に着いていて、目の前にはランチのトレイが置かれている。
早い。
わたしとて特に急いできたわけでもないけど、四限目が終わって普通に歩いてきたというのに、円のこの早さは何なのだろう。
円もわたしを見つけ、軽く手を挙げて応えてくれた。ただ、携帯電話で誰かと話しているらしく、声は出さずに手を振っただけだった。いつもならひと声かけるのだけど、とりあえず先に昼食を確保することにした。
-+-+- 第3話 「暗闇にて/修復と崩壊」 -+-+-
「じゃあ、そこまではやってあげるけど、後は知らないからね。自分でやりなよ。……ああ、うん、じゃあね」
席に戻ってくると、ちょうど円が電話を終えたところだった。
「なに? また頼まれごと?」
「まあね」
携帯電話をポケットにしまいながら円は答える。
「本当はそういうの面倒でやなんだけどね。中にはこいつのためならやってやろうかなって思うやつもいるわけよ」
何だかんだ言って円はよく頼られる。きっと面倒見の良い姐御体質だからだろう。
「あーあ、誰かさんも頼ってくれたらいいのになぁ」
「………」
わたしは何も言わなかった。
わたしが那智くんの前から逃げ出したあの出来事からもう一週間が過ぎようとしていた。あれ以来、那智くんとは会っていない。と言うより、わたしがただひたすら顔を合わせることを避けている。自分の咎を知った今ではどう接していいかわからないのだ。那智くんには一度ちゃんと会って謝らないといけないとわかっているのだけど、今はその勇気もない。
こういった事情は円にも話していない。にも拘わらず、那智くんと鉢合わせしないように少なからず協力して貰っていて、一方的に心配をかけさせているばかりだ。それで円は先のようなことを言ったのだろう。
「ま、いいけどさ。気が向いたら話してよね」
「うん……」
と、返事をしたものの、たぶん話すことはないだろうと思う。これは自分で解決しないといけないことだから。
食後、わたし達は第二体育館へと場所を移した。バスケットボール好きの那智くんがいるかと思ったけど、幸い今日はきていないようでほっとした。円が少々強引にわたしをここに連れてきたのは、その可能性を期待してのことだったのかもしれない。
シュートの練習をする円の横に立ち、適当に言葉を交わしていると、やがて昼休みの終了を告げる予鈴が鳴った。
教室へと戻るその帰り道、
「まったく誰よ。体育館から飛び出したんだったらすぐに拾いに行けっての」
そう言って円が拾い上げたのはバスケットボールだった。きっと円の言う通り体育館から飛び出したのだろう。
「悪い、司。これ、返しといてくんない?」
「え? いいけど。何でわたしが?」
「うちさ、次、数II なんだわ」
「ああ、なるほど」
それだけで納得できた。
円やうちのクラスの数学II を担当している中馬先生は有名な先生だ。始業のチャイムと同時に授業をはじめ、終業のチャイムと同時に帰ってしまう。そして、授業開始の際、席に座っていなかったものは問答無用で遅刻扱いになる。
「悪いね」
ボールをわたしに預けると、円はあいた手で合掌して言った。
校舎に向かう生徒の流れに逆流して、わたしは第二体育館へと戻った。入り口ですれ違った生徒が最後のひとりだったのだろう、体育館はもう誰もいなかった。
バスケットボールを持って無人の体育館を横切っていると那智くんのことが思い出された。プレイしてるときの真剣な表情と、その中で時折見せる笑顔が目に焼きついている。
(いいかげん那智くんに会わないと……)
わたしは体育倉庫まで来ると籠の中にボールを戻した。
と、そのとき、微かに物音が聞こえた。
「誰?」
呼び掛けてみるが応答はない。
気のせいだったのだろう。そう思って立ち去ろうとしたとき――、
「うぇーい」
奇っ怪なかけ声とともに、跳び箱の一段目を持ち上げて中から誰かが出てくる。
那智くんだった。
「………」
「……」
「よいしょ、と……」
とりあえず、押し戻して蓋(?)を閉めておいた。
「なんでっ!?」
蓋の上に置く重しになりそうなものを探していると、再び那智くんが勢いよく飛び出してきた。
「なんでじゃないでしょ。いったい何をやってるのよ、こんなところで」
「先輩を待ってたんです。……よっ、と」
答えながら那智くんは跳び箱から出てきた。軽やかにに着地すると跳び箱の一段目を元に戻す。
「待ってたって、こんなところじゃ……あっ、円とグルだったのね!?」
わたしはようやく気がついた。
こんなところで待っていたって出会うはずがないのだから、後はわたしをここにくるように仕向けた円が一枚噛んでいたと考えるしかない。
「だって、先輩、僕のこと避けてたみたいで、こうでもしないと捕まりそうになかったし」
「それは……」
事実なので反論のしようがなかった。
「だからって跳び箱に入ってる必要はないんじゃない」
「それはヒネりというか、ちょっとしたサプライズってことで。……ん? あ、マズい。先輩、隠れてっ」
「え? なに?」
「いいからっ」
那智くんの強い口調に圧されるようにわたしは高い跳び箱の裏に隠れた。那智くんもボール籠の陰に身を潜めている。
と――、
「誰かいるのかー?」
入り口の方から先生の声。たぶん昼休みに解放していた体育館の施錠兼見回りの先生なのだろう。
「声がしたと思ったんだがなぁ」
姿は見えないが首を捻っている様子が伝わってくる。
それからおもむろに重そうな音を立てて扉が閉められ、ガチャンと鍵のかかる音が響いた。
「……」
「……」
そして、わたし達は暗闇の中に取り残された。
「あー……」
タイミングを計るように那智くんが口を開いた。
「もしかして、僕、判断誤ったっぽい?」
「ええ、見事な判断ミスだわ。素敵よ、那智くん。だってわたし、初めて那智くんに殺意を覚えたんですもの」
まったく、何で隠れたりしたのだろう。
「と、とりあえず、僕、ドア叩いてみます」
そう那智くんが言った後、ごそごそと動く音が聞こえてきた。きっと手探りでドアを探っているのだろう。それからすぐにドンドンと厚い金属のドアを叩く音が響きはじめる。
「誰かーっ。助けてーっ」
ドンドン
「誰かいませんかーっ」
ドンドンドンドン
「ここに人がいまーすっ」
ドンドンドンドンドンドンドンドン
何だか妙に熱心に叩いてる。まるで殺人鬼と一緒に閉じこめられているかのような必死さだ。
「……」
あまり深く考えないことにしよう。
こういう場合は冷静になることが大事だ。そう思い、わたしはケータイを見た。
「……那智くん、もういいわ。ここ電波届いてるから」
「は?」
幸いにして最初に思いついた方法で解決してしまった。
円にメールを送る。後はそれさえ見てくれればすぐに円が行動を起こしてくれるだろう。相手に円を選んだのは、彼女ならあまり騒ぎにせず、且つ、迅速に対処してくれると思ったからだ。ここにはわたしだけでなく那智くんもいて、下手に騒がれると大変なことになる。その点、円ならそのあたりの事情もわかってくれているので安心できる。
「はい、送信っと。これでいいわ。やることはやったし、後は待つだけね」
わたしは腰を下ろした。ケータイはポケットにしまう。どうせ数秒でスリープモードに入ってしまうので灯りにもならない。
「那智くんも座ったら?」
「そうですね」
そう言うと那智くんも座ったようだ。
そして、沈黙。
何だかバタバタしていてそれどころじゃなかったけど、よく考えれば那智くんと顔を合わせたのも、ふたりきりになったのも久しぶりだ。今日が金曜日なので正確には五日ぶりか。
(これ以上先延ばしにしていても仕方ないか……)
知らなかったとは言え、那智くんに酷いことを言ったこと――。那智くんがどう思っていようと、そのことについて一度ちゃんと謝っておこう。それがけじめだと思うから。
わたしは覚悟を決めることにした。
だけど――、
「すみません」
そう言ったのはわたしではなく、那智くんだった。
「な、なにが?」
「紗弥加姉がいろいろ言ったでしょ? きっと先輩、気を悪くしたと思う」
那智くんは自分がしたことでもないのに申し訳なさそうに言った。それだけあの後宮さんという女の子は身内も同然と言うことなのだろう。少し、胸が締めつけられる。
「ううん。そんなことない。……ちょっとショックだったけど」
「やっぱり。紗弥加姉ってそういうところがダメなんですよね。口は悪いし、人を怒らせるのは得意だし。しかも、それを直そうとも思わないところがますますダメ。僕が注意してもぜんぜん煙草やめないし――」
「えっと……、那智くん?」
放っておくとどこまで続くかわからないので、適当なところで呼び止める。
「はい?」
「いや、そういうときって普通、“でも、悪い人じゃないんだよ”とか“本人に悪気はないんだよ”とか続くんじゃないのかなって……」
「え? でも、紗弥加姉の場合、本当にフォローのしようがないし」
「あー、そうなんだ……」
つまり、後宮さんが“そんなやつにうちの那智はやれない”みたいなことを言ってたのは、任せられる相手を選別していたわけではなく、本気で誰にも渡すつもりはなかったわけ?
「その後宮さんから那智くんの話、聞いたわ」
「そうらしいですね。……あ、いや、別に隠していたわけじゃなくて、いずれは話そうと思ってたんですよ?」
「……」
まったく何という子だろう。あんな話、隠そうとして当然なのに、それを黙っていた自分が悪いと思うなんて。
「ごめんね」
わたしはようやく言った。
「わたし、前にひどいこと言った」
「んー? どれだろう。たくさんあってどれのことやら」
「……怒っていい?」
「ごめんなさい。もうしません」
「……」
「……」
再び沈黙。
那智くんが茶化すから話すタイミングを逸してしまった。
と――、
「前に先輩ンちでお昼ご馳走してもらったときのことですよね?」
「! わかってたの?」
「まぁ、何となく。でも、先輩、そんなこと気にしないでください。僕も先輩の気持ちわかりますから」
「わかる……?」
「だって、僕も少なからず同情される側にいて、そんなこと言われたくないって思ったころもあったから」
「過去形なんだ」
「うん。今はちゃんと父さんと母さんがいるから。……だから、先輩もあんなこと言ったくらいで気に病まなくていいですよ」
那智くんは、強い。
それに比べてわたしは血のつながった実の父親がいるというのに、未だに同情されると子どものように拗ねている。そして、そんなわたしを那智くんは許そうとしている。
那智くんはどこまでも強い。
「ねえ、那智くん?」
「何ですか?」
「抱きしめていい?」
「ぶっ。何それ!? 何でいつもそんな唐突なんですか!?」
「そうしたいと思ったから。……ダメ?」
「い、いや、まあ……」
口ごもる那智くん。
もうひと息かな?――そう思ったとき、扉が外から叩かれた。
「おおーい。司。なっち。いるかー? 助けに来たよー」
円の声だった。
「あらら。ざ~んねん」
すぐに倉庫の扉が開けられ、わたしたちは十数分ぶりに光の下に出ることができた。
「だいたいの事情はわかった」
那智くんの担任、尾崎先生は言った。
あの後、すぐにわたしたちは職員室に連行された。円が倉庫の鍵を借りるには体育科の先生に掛け合わなくてはならず、さすがに先生にも知られずに事を済ませることはできなかった。
「人に聞かれたくない話をしていて、そのまま閉じこめられたというんだな? どうやらすぐに四方堂に助けを求めたようだから、まぁ、いかがわしいことが目的ではなかったと思っておこう」
「……」
信じられない。何だ、この先生は。自分のクラスの生徒を含めた高校生をそんなふうに疑っていたのか。しかも、“思っておこう”って、ぜんぜん納得してないみたいだし。
尾崎先生は那智くんに目を向けた。
「しかし、千秋。お前はいろいろやってくれるなぁ。確か先週はガラスを割ったんだったよな。頼むから大人しくしててくれんか。お前みたいなやつでも成績はいいし、それなりに有名な大学には入ってくれるだろうしな」
尾崎先生は嫌味たっぷりに言う。
その蔑んだような言い方に、わたしはもしやと思った。
「申し訳ありません。以後、気をつけます」
那智くんは大人だから耐える。だけど、その横でわたしは悔しさに拳を握った。
那智くんの辛さを微塵もわかろうとしない尾崎先生は、ふんと鼻を鳴らすと、次にわたしの方を向いた。
「お前もお前だな、片瀬。ついこの間、中学生とつき合ってると聞いたばかりだが、今度は千秋か?」
そして、ぐっと顔を寄せると、わたしの手を握った。
「そんなガキばかり相手してないで、たまには大人ともつき合ってみるか? ん?」
さらにもう一方の手でわたしの手の甲をさすってくる。あまりの気持ち悪さに全身鳥肌が立ち、口からは悲鳴が漏れそうになった。
生理的嫌悪感に手を引っ込めようとする。が、それよりも先に先生の方が離れていた。と言うより、椅子ごと後ろに転げ落ちている。
「先生、それが教師の言うことですか!?」
握り拳を固めて那智くんが怒鳴る。
わたしはようやく那智くんが先生を殴り飛ばしたことを理解した。
「はっ。すぐに暴力とはさすがに躾がなってないな。所詮は施設育ちか。それとも、もう片瀬にたぶらかされて、すっかり言いなりか?」
「先輩をそんなふうにっ!」
倒れている椅子を跳び越え、那智くんが再び先生に飛びかかる。
だけど、それは叶わなかった。たまたま職員室にいた体育科の先生に取り押さえられてしまったのだ。警察が犯人を捕まえるときのように後ろ手に腕を掴まれ、床に押さえつけられる。
「ちくしょう! 取り消せ、さっきの言葉を! 取り消せよ!」
それでも那智くんは小さな身体で抵抗し、喚くように先生への非難を続ける。
騒然とする職員室の中、わたしはいつしか泣き出していた。




