〃 (2) 本気?/冗談?
きっと僕は間の抜けた顔で、その家を見上げていたに違いない。
日本の平均的な家庭よりもひと回りほど広い敷地に、洒落た造りの綺麗な邸。それが片瀬先輩の家だった。
「どうしたの?」
表でいつまでも邸を見上げている僕に先輩は声をかけてくる。
「あ、いや、きれいな家だと思って」
「去年改築したばかりだから。家はお父さんがデザインしたのよ。お父さんね、ちょっとは名の知れた建築デザイナなの」
そう言った先輩は心なしか誇らしげだった。
ということは、所謂デザイナハウスというやつか。格好いいなあ。うちも広いけどものは古いから、こういうのには憧れる。
片瀬先輩が門を開けて中に入っていく。
(ここ、先輩の家なんだよな……)
そう思うと緊張する。
まあ、家の人がいるだろうし、ふたりきりになるわけじゃないんだから、何も身がまえる必要はないはず。
そう自分に言い聞かせて緊張をほぐす。
「ああ、大丈夫よ、那智くん。今日は誰もいないから」
いやいや、ぜんぜん大丈夫じゃないですから!
-+-+- 第10話(2) 「本気?/冗談?」 -+-+-
「……」
外観通り中もきれいだった。
リビングとキッチン、ダイニングが遮蔽物なしでひとつの空間を形成しているので、ものすごく広い。全面窓から庭が一望できるのもそう感じる理由のひとつなのだろう。
てか、リビングに螺旋階段がある家なんて初めて見た。
「広いですね……」
そのまんまの感想だな、僕。
「そう見えるようにしてるだけよ。実際には普通の家とさほど変わらないわ」
子どものような感想しか出てこない僕に、先輩はくすりと笑って言った。
そうは言うが限られた空間を最大限に利用したり、錯覚にせよ広く見せることこそデザイナの業ではなかろうか。
「適当に座ってて」
ただただ呆けるだけの僕に先輩が言う。
先輩はキッチンにいる。当然のことながらダイニングに食事をするためのテーブルがあるのだが、それとは別にキッチンにもカウンター席のようなものがある。また、キッチンは使いやすいよう配置に工夫がなされていて、きっと料理をしていても楽しいだろうと思う。
「はい、どうぞ」
先輩が出してくれたのは冷たいお茶だった。
「ごめん。わたし、先に着替えてくるから、それ飲んでゆっくりしてて」
「あ、はい。いただきます」
そこで僕はようやくソファに座った。
僕にお茶と出した後、先輩は軽い足取りで螺旋階段をのぼって二階に上がっていった。リビングから見上げたところにある二階の廊下にドアがいくつかあるので、そのどれかが先輩の部屋なのだろう。
と――、
「ぶっ……。げほっげほっ……」
危うくお茶を吐き出しかけて咳き込んだ。
「そんなに慌てて飲まなくてもいいのに」
「す、すみません……」
まさか何の気なしに階段を上っていく先輩を目で追っていたら見てはいけないものが目に入りかけた、なんて言えるはずもない。
何で女の子って制服のスカートをあんなにも短くするんだろう? いや、それが嫌とか変とか言うのじゃなくて純粋な疑問。僕も男なので短い方が好きだけど。でも、相手が片瀬先輩になると、何というか激しく攻撃的だ。
リビングにひとり残され、やることがないので庭に目を向ける。敷地が広い分やはり庭も広く、なんとバスケットボールのゴールがあった。とは言え、所詮は日本の土地。ゴールはひとつだけ。コートとしては半面も取れないだろう。いいところフリースローレーン、プラスアルファくらいで、完全に趣味の産物だ。
「お待たせ。すぐに何か作るからね」
やがて二階から声が降ってきた。
反射的に声の聞こえた方に目を向けかけたが思いとどまる。またスカートが短かったらマズいからだ。耳で先輩が降りてきたことを確認してからようやく先輩を見る。
「……」
基本的にベクトルは同じだった。
肩が剥き出しのトップスにローライズのデニムパンツ。肩出しヘソ出し。制服が私服に変わったところで、露出度が高いのはそのまんま。足か上半身かってだけの違いだ。
つまり――、
(心臓に悪いです、先輩……)
そんな僕の精神根幹部への負荷なんて知る由もなく、先輩はリビングを抜けてキッチンへと向かった。
「那智くん、オムライスでいい?」
冷蔵庫を覗き込んだまま訊いてくる。
「別に何でもいいですよ。こっちはご馳走になる身ですから、贅沢は言いません」
「そう、よかった。今あるもので作れそうなものがそれくらいしかないってものあるんだけど、オムライスはわたし、けっこう得意なのよ」
カウンタの向こうで自信満々に言う。
「じゃあ、楽しみに待たせて頂きます」
「ええ、そうして」
そう言うと先輩は早速作業に取りかかった。
程なく料理ができあがる。
「「いただきます」」
僕らはテーブルに向かい合わせに座り、合掌してから食べはじめた。
片瀬先輩が作ったオムライスは本人が得意だと言うだけあって、実に美味しかった。そのことを僕は素直に伝える。
「このくらい朝飯前なんだから」
得意気に先輩はそう言った。
「お父さんが仕事に出てる以上、家のことはわたしがやるしかないもの。自然にこれくらいできるようになるわ」
「……」
それは、つまり。
「そう。お察しの通りうちは父子家庭よ。若くしてお父さんが建築デザイナーとして独立して、夫婦で頑張ってきたみたいだけど、その苦労がたたったのね。わたしが六歳のときにお母さんは病気で亡くなったわ」
意外にあっさりと、先輩はそれを口にした。
「大変、だったんですね」
「みんなそう言ってくれるわ」
けれど、その表情が少しだけ曇り、
「『大変だったね』『苦労したのね』。でも、そんなの結局は当事者じゃないとわからないものよ」
今度は寂しそうにそう漏らした。
「……すみません」
確かにそうだ。僕には父子家庭の辛さはわからない。
「ううん。ごめんなさい。わたしの方こそ変な言い方しちゃって」
先輩は笑ってそう言ったが、気まずい沈黙が残った。
黙々とオムライスを食べる。
話す言葉はなく、スプーンと皿がぶつかる音だけがあった。
「そうだ。先輩んちの庭ってバスケのゴールがあるんですね」
思い出したように話題を振る。
「うん。お父さんの趣味なの。物置にボールもあるはずよ。後で行ってみる?」
「あ、ちょっと触ってみたいかも。少し真面目に練習しようかな? 今日、円先輩にコテンパンだったし。そしたら再戦……でっ!?」
正面から脛を蹴られた。
その蹴った犯人は何ごともなかったような顔で食事を続けている。……ちょっと怖かった。
「……」
「……」
気がつけば先程よりもさらに気まずい雰囲気になっていた。
いったい何だというのだろう?
食後――、
物置からボールを引っ張り出してきて少しばかり遊んでみた。
「お父さんって高校までバスケをやってたらしいの。それで去年の改築の際に、ね。とは言っても、休みの日にちょっと身体を動かす程度にしか使えないみたい」
たぶんそんなところだと思っていた。
ここには広さ以前に致命的な欠点があった。それは地面が芝生だという点だ。芝生だとボールがぜんぜん跳ねない。実際、ここにきてみてボールをついてみたが、ドリブルをするにはかなり厳しく、シューティング程度しかできないだろう。
ついでに言うとゴール自体も安上がりにできているようだ。
「那智くんはバスケ部には入らないの?」
シュートする僕に先輩が訊いてくる。
先輩は開け放ったリビングの窓に腰掛けて、横で見ていた。
「僕? う~ん、背がね、どうしても……っと」
リバウンドしたボールがもうちょっとで植木鉢に突っ込みそうになって、僕は慌てて拾いに走る。
「高校でバスケやろうって奴はみんな体格もいいし、実力もあるから。僕程度じゃ、ね」
「え~っ。確かに那智くん、小っちゃいけどもの凄く上手いのに。ほら、あのときだってジャンプした後にこうして、こうして、こう……」
言いながら先輩は右腕を上げたり下げたりした。
「ん? ああ、ダブルクラッチですか? あれはあれでテクニックとしては高度だけど、器用なやつならわりとやってのけるから」
そこでふと湧いた疑問に首を傾げる。
先輩は言う“あのとき”っていつだろう? 今日、円先輩と一対一をやったときにはダブルクラッチはやっていない。となると、先輩がいてそれをやったときと言えば……。
「あれ? 先輩、もしかしていつぞやの昼休みの3on3、見てたんですか?」
「うん。見てたわよ」
「うわ、ぜんぜん気づいてなかった」
「だから言ったでしょ? 那智くんが何かに一生懸命になると周りが見えなくなることくらい知ってるって」
「……」
いや、もうまったくもって面目ない。
「ねえ、那智くん。那智くんならフリースロー、何本くらい連続で入る?」
「フリースロー、ですか? どうだろう。五、六本なら決めれるかな?」
答えながら一本、シュートを撃ってみる。
リングに当たって激しい音を鳴らしながらも、何とかゴールした。
「ふうん。……じゃあ、十本。連続十本入ったらキスしてあげる」
「ぶっ! 何それ。唐突な提案!?」
ボールを追っていた僕は危うくひっくり返りそうになった。
「いいじゃない。……なあに? 那智くんは男の子なのにチャレンジ精神ってものがないわけ?」
「む」
先輩、えらく挑戦的だな。
謎な景品は兎も角、そこまで言われたらやらないわけにはいくまい。僕は長年に渡って身体に染み込んだ感覚で、ゴール真下から四.六メートルの距離を取った。
まずは一投目……。
ガンッ
ボールはリングに嫌われて見事に外れた。
「せ、先パ~イ……」
「はいはい。今のは練習でいいわよ」
先輩は笑いながら先回りして言った。
交渉の末、五本だけ練習をさせてもらえることになった。
中学レベルでも十本連続というのはそれほど難しいものでもない、と僕は思っている。五本の練習で三投目までにシュートをしっかり決めて、残り二投でそれをトレース。その感覚を体に覚え込ませれば十分に可能だ。
「では、本番いきます」
改めて一投目……。
スパンッ
と、小気味よい音を鳴らしてボールはリングを撃ち抜いた。
「ナイスシュート!」
先輩が手を叩いて歓声を上げた。
ボールが地面を転がり、僕のところへ戻ってくる。シュートの際、手首のスナップがしっかり効いていて、且つ、ボールがリングにノータッチで通ると、回転の関係で自分のところに戻ってくるのだ。この辺りからも僕は理想的なシュートが撃てていると実感した。
続く二投目から六投目までもほぼ同じ軌道を描いてリングを抜けた。
七投目でリングに当たって一瞬ひやっとしたが、リングの淵を二周した後、内側へと落ちた。
八投目でズレた軌道を修正し、九投目では再び理想型のシュートを決めることができた。
そして、最後となる十投目――
僕はあまり跳ねない芝生に力を入れてボールをつき、むりやりドリブルをしながら精神統一をはかる。
と――、
「那智くん、あと一本。決めたらご褒美のキスが待ってるぞっ」
「え……」
あー、え~っと……。
フリースローを十本連続で決めるという課題にばかり意識がいっていて、そのことをすっかり忘れていた。
本気、なのか?
聞けばすむことなのだが、何だか怖くて聞けなかった。てか、顔すらまともに見られない。
いや、そんなの訊くまでもなく冗談に決まっている。そうに違いない。……でも、過去に二度、前科があるし。もし仮に、万が一、ひょっとして、何かの気まぐれで本気だった場合、それは口なのか頬なのかが問題になる。いったいどっちだ?
……。
ちょっと待て、僕。何を真面目に考えているんだ。これはあれだ、僕の動揺を誘うための先輩の罠だ。今一度冷静になれ。よし、何か別のことを考えよう。6、28ときて496の次は何だったっけ? ……ええい、ダメだ。思い出せない。
……。
そう言えば僕、今までに二度もキスされてるんだな。一度目は身動きできないときで、二度目は意識がないとき。……そんなのばっかりというのは男としてどうよ? って、違うだろ!
……。
くそっ、何でこんなことになってるんだ? そうか、お昼につられてきてしまったのが悪かったんだな。お昼をご馳走になっても、結局は買いものに行かないと夕食に困ることには変わりないじゃないか。迂闊。
……。
……。
……。
あー、僕、もうなんかぐだぐだだな。
(兎に角、無心で撃つんだ……)
ごくり、と唾を飲み込む。
そして――、
「……」
「あ~らら」
無心どころか雑念入りまくりのシュートは、別の意味でリングにノータッチだった。
「残念無念、また今度~♪」
唄うように先輩が言う。
僕はというと残念なような、ほっとしたような、複雑な気持ちだった。
はたしてご褒美のキスはいったいどこまで本気だったのだろうか? 勿論、そんなの怖くて聞けないけど。




