第10話(1) 先輩/先輩
土曜日――
聖嶺学園は悪名高きゆとり教育のころから、土曜日も毎週授業を行っている。と言っても、三時間だけだけど。
さて、今、僕はその三時間の授業を終えて親友(と言っても差し支えないと思う)の遠矢一夜とともに帰宅しようとしていた。が、丁度、上靴から革靴に履き替えて昇降口を出たところで声をかけられる。
「おーい、那智ー。なーっち。なったーん。おーい」
いろんな呼び方で僕の名前が連呼される。
こんな賑やかな人を僕はひとりしか知らない。が、辺りを見回してみてもその姿はどこにもなかった。
「上よ、う~え」
「上?」
言われた通り上を見上げると、三階の教室の窓から顔を出している四方堂円先輩がいた。今から部活なのか、クラブのジャージ姿だった。
「いいものあげるから、ちょっとこっちおいで」
そう言って手招きする。
円先輩に“いいものあげる”なんて言われると、何となく警戒してしまう。
「ほいっ」
「? ……うわっと――」
近寄ると何か投げて寄越してきた。それは小さなもので、けっこう近くにくるまで視認できず、キャッチする段になって慌てた。
掌に収まったのは五百円硬貨だった。
「ポカリとウーロン。なっちも好きなの買っといで。遠矢っちもね。釣りはとっといていいから」
「つまり、円先輩は僕にパシれとおっしゃる?」
「そういうこと。タダでって言ってるんじゃないんだからいいでしょ? あたしら、第二体育館に行ってるんで、そっちに持ってきてくれたらいいから」
「……りょーかい」
肩をすくめてから僕はそう答えた。
「ああ、それから、体育館に入るときはシューズね。上靴はダメだから」
円先輩は付け加えると、ニヤニヤ笑いながら手を振って僕らを送り出した。
-+-+- 第10話(1) 「先輩/先輩」 -+-+-
「お人好し」
食堂に向かって歩いてると、早速一夜に文句を言われた。
「あんなもん無視れ。わざわざ引き受けてやる義理なんかあるか」
「まあ、いいじゃないの。たいして面倒な用事でもないし。それくらい頼まれてもさ」
「今から帰ろうかいうところ呼び止められて、せっかく履き替えた靴をもっかい上靴に戻して食堂行って、今度はシューズ持って体育館行くののどのへんが面倒でないねん」
「……」
マズい。
一夜が不機嫌モードに突入した上、いつもとは逆に口数が増えてる。最悪のパターンだ。ここはさっさと用事をすませて帰るに限る。僕は歩く足を速めた。
そして、食堂――。
「ポカリにウーロン茶、と。……どうしよう? ホントに僕らの分も買っていいのかな?」
食堂の隅の自販機でまず頼まれたものを買う。それからふと手を止め、後ろに立つ一夜に訊いてみた。
「かまうか。パシりの報酬としてもろとけ」
「それもそうだね。じゃあ、僕はコーラにしようっと。一夜はどれにする?」
「……コーヒー。下の段の左から二番目のやつ」
指定された缶コーヒーを買って一夜に渡す。円先輩の注文の品を左手に、右手には僕のコーラを持つ。後はこれを体育館に届けて任務完了。一夜の不機嫌度がこれ以上増大しないうちに終わらせてしまおう。
途中、再び昇降口に寄って体育館用のシューズを取ってから目的の場所へと向かう。
「一夜、何だったら先に帰っていいよ。お腹すいてるでしょ?」
そう、僕らはまだ昼食をとっていない。今日は土曜日なので弁当を持ってきていないのだ。僕が引き受けた用事で一夜まで帰宅を遅らせるのは悪いと思ったのだけど、
「もうちょっとつき合うたるわ」
とのことなので、ふたりして体育館へと向かった。
前にも言ったかもしれないけれど、第二体育館はバスケットボール用の造りになっている。だから、近くまでくるとバシンバシンという、あのボールをつく特有の音が聞こえてくる。
(あれ? てことは、円先輩ってバスケ部?)
そんな疑問を頭に浮かべながら中を覗くと、円先輩と他数名の部員がシューティングをしていた。
そして、
「あ……」
体育館のステージ前に片瀬先輩の姿――。
その姿を認めて呆けていると、先輩も僕を見つけたらしく、胸の前で小さく手を振ってきた。
こういう思いもよらない場所でばったり出くわすと、どうしていいのかわからず戸惑ってしまう。まあ、先輩と遭遇して慌てなかったことの方が少ないけど。
「さーんきゅ、なっち」
今度は円先輩だ。
「円先輩ってバスケ部だったんですね」
「そうだよ? 知ってると思っていちいち言わなかったんだけど」
「知りませんでした。……あ、これ」
言いながらポカリとウーロン茶を差し出す。が、円先輩はポカリだけを手に取った。
「そっちは司のだから。アンタが渡してやって」
「ええっ!?」
「『ええっ』じゃなくて。ほら、あがったあがった」
ここはあなたの家ですか?
「なるほど。最初からこういうつもりやったんやな」
僕の横で、今まで黙っていた一夜がようやく口を開いた。
「バレたか。鋭いね、遠矢っち」
「つき合うてられん。先帰るわ」
そう言うと一夜は踵を返し、背中越しに手を振りながら帰っていった。
「なぁに、あれ?」
「さあ? お腹すいてるのかな?」
「お腹すくと遠矢っち、不機嫌になるの?」
そんな性質があるとは本人からは聞いていない。まあ、そうでなくても、ここのところ機嫌悪い率うなぎ登りだけど。
「あ、そうそう。ちょっとあたしにつき合ってよ、なっち」
と、円先輩は僕を誘導するように歩き出した。僕はシューズに履き替え、その後を追う。向かった先は、案の定というべきか、片瀬先輩のところだった。
歩きながら、片瀬先輩を見てから落ち着きがなくしている心をどうにか静める。何も緊張することなんかないとわかっているのだけど、未だにこのていたらく。
すぐに片瀬先輩のもとに辿り着いた。
「ど、どうぞ。……先輩もバスケ部だったんですか?」
最初に言う言葉を決めてシミュレーションまでしていたにも拘わらず見事に噛んだ。
そんな僕の心の動揺など知る由もなく、先輩は笑って答える。
「まさか。円に見にこいって無理矢理つれてこられたの」
「円先輩が?」
その張本人に目を向けると、丁度ポカリを飲んで水分補給を終えたところだった。
「よーし、なっち、一対一やろうぜぃ」
「何で僕が!?」
「ケチケチしない。この前、昼休みに見てたけどさ、なっち、けっこう巧いじゃん。いい勝負になるんじゃない?」
昼休み? ああ、3on3やったときか。
そう言えば、あのとき円先輩もあの場所にいて、一夜と何か話してたな。未だに話の内容は謎だけど。
(ついでに片瀬先輩の前で大恥かいたのも思い出しちゃったよ……)
なにせ顔面直撃、転倒のコンボだものな。
「身長と体格の差、男女の基本的な身体能力の差、全部引っくるめて差し引きゼロってとこでしょ?」
こっそり落ち込んでる僕の横で、円先輩が指先でボールを回しながら言う。
「つまり、先輩は僕よりタッパがあってガタイもいいので、男には負けないぞ、と」
「てめ、この」
「わあ、暴力反対! 暴力反対!」
口は災いの元。飛びかかられて、ヘッドロック喰らいました。
まあ、円先輩が僕より背が高いのはまぎれもない事実。体格もいいが、同時にしなやかさも感じる。ついでに言うとスタイルもよろしいようで、ヘッドロックなんか気軽にかけないで欲しいと思う。
「どうしよっかな……」
いろんな意味で危険なヘッドロックから解放されても、僕はまだ勝負を受けるか決めかねていた。
「逃げるんだったらさっきの金返しなさいよ? 当然、遠矢っちのもね」
「わかりました。やればいいんでしょ、やれば」
先輩の方が28倍くらいケチです。
渋々準備をはじめた。ブレザーを脱いでネクタイを外し、カッターシャツの袖をまくる。脱いだブレザーとネクタイはまとめてステージの上に置いた。
「円先輩と勝負することになっちゃいました」
「ふうん。よかったね」
な、なんだあ?
ブレザーを置くついでに横にいた片瀬先輩に話しかけたら、えらい素っ気ない口調の返事が帰ってきたぞ。しかも、心なしか口を尖らせて、そっぽ向いてる気がする。
あっちもこっちもわけのわからない展開に首を傾げながら、とりあえず準備運動をはじめた。
(円先輩、最初から相手させるつもりでシューズ持ってこさせたんだな)
靴紐を固く結び直しながらそんなことを思っていると、頭の上から声が降ってきた。
「円、バスケ部の主将だから」
片瀬先輩だった。
やっぱり素っ気ない口調。つーか、先輩、真後ろに立つのやめて。怖いから怖いから。
「まじでぃすかー?」
「うん」
これはまいった。
中学時代に女バスの主将だったという宮里(通称サトちゃん)とは辛うじて互角だった。単純にそれがさらに高校バスケで鍛えられたと考えても、確実に円先輩の方が実力は上だろう。
「円先輩、ボール貸してください」
「あいよ。アップは念入りにね」
準備運動に続いてボールを使ったウォーミングアップに入る。
まずは軽くランニングシュート。次にセットシュートの感覚をつかむためにフリースロー。最後に3ポイントシュート……はハズレ。悔しいのでリバウンドをタップで放り込む。……まあ、こんなものか。
「先輩、いいですよ」
「んじゃま、やりますか。うちの練習が1時からだけど15分前には集まるから、実質10分少々ってとこかな」
なら、攻守交代して各3本ずつくらいか。
一対一はその名の通りの勝負。3on3のような競技やゲームでも何でもなくて、主にゴール前の一対一を想定した練習のひとつである。
僕はリング正面のスリーポイントラインに立ち、円先輩がその僕と向かい合うような位置に立つ。
「司にいいとこ見せなよ」
「……」
言われなくてもそのつもりだけど、いちいち言われたくはない。
僕は黙ったまま片手でバウンドパスを出し、先輩もすぐにそれを返してくる。こうしてボールを一往復させるのははじめる前の挨拶か合図、儀式みたいなものだ。
円先輩はボールを返すとともに間を詰めてきた。僕はフェイクを入れて円先輩を振り、すぐさま出した脚を戻してシュート体勢に入る。
(うわっ、速っ……)
さすがと言おうか、円先輩の動きは僕が予想している以上に速かった。もうすでにシュートコースを塞いでいたのだ。
が、チェックに跳んでしまっている以上もうこっちのものだ。僕は脇を突破してレイアップシュート。先輩が着地して振り返ったころには、すでにボールはリングを通っていた。
「那智くん、すっご~~い!」
片瀬先輩の口から歓声が上がった。
いや、まあ、名誉挽回、汚名返上のつもりでいいとこ見せようとは思っていたけど、ここまで感激されると、正直、照れる。
「おーおー、やるねえ、なっち。軽いお遊びのつもりだったのに、二度フェイク入れたりしてさ。いきなり全開じゃない。てゆうか、速いわ。やっぱ男子と女子の違いってやつ?」
「すいません。ムキになっちゃって」
「いいよいいよ。そのかわりあたしもこっからは本気だから」
……怖いことを言う。
いや、もう惨敗だった。
これでもかというほど、完膚無きまでやられた。
結果的に僕が取ったのは最初の一本だけ。要するに円先輩が本気出したら僕なんか相手にならないってことなのだろう。
「ホント、速いの何のってさ。こっちはついていくのがやっとよ?」
よく言う。シュートもドリブルもまともにやらせてくれないし、挙げ句、むりやり撃ったシュートは外れて、リバウンドはすべてゴール下で迫り負けた。完敗だ。
「いい刺激になったわ。また付き合ってよ」
「丁重にお断りします。何度やっても勝てそうにないし」
「なっちって意外とケチ」
僕より496倍くらいケチな人に言われたくない。
「お、もういい時間ね。あたしがいつまでも部外者と遊んでたら示しがつかんわ」
「じゃあ、わたしも帰るね」
そう言ったのは片瀬先輩だ。
先輩はもう床に置いていた鞄を持っていて、円先輩が「おう、じゃあな」と返すと、にっこり微笑んで去っていった。
ふたりでその後ろ姿を見送っていると、ばん、と背中を叩かれた。痛い。
「追っかけなくていいの?」
「へ? でも、あまり近づくとマズいし」
「面白くない奴」
「と言われましても、ね」
僕は床に腰を下ろし固く結んでいたシューズの紐を解きはじめた。
「まったく、せっかくのあたしの厚意をアンタは……」
「厚意?」
「そ。わざと知らん振りしてるふたりを近づけてみたら面白そうじゃない?」
それのどこが厚意だよ? いらんお世話だぜ。
時刻は1時前。
帰ったら2時近くになっているだろうから、途中でスーパーに寄ってお昼と、ついでに夕食の材料も買って帰ることにした。今、冷蔵庫に何が入っていたっけ? と、思い出しながら靴を履き替え、昇降口から出ようとすると――、
「円と仲いいんだ……」
「わあっ!?」
下駄箱の蔭、死角から声をかけられた。
跳び上がるほど驚き、情けない悲鳴を上げながら振り返ると、下駄箱にもたれて立つ片瀬先輩がいた。
ふてくされたようなふくれっ面とジト目で僕を見ている。
「せ、先輩?」
「『なっち』 『円』の仲だもんね」
いやいや、誰も呼び捨てにしてませんがな。
「あれは円先輩が『四方堂先輩』じゃ呼びにくいだろうからって……」
「しかも、あんなにくっついちゃってるし」
先輩は僕の言葉を遮るように言う。てか、こっちの話なんか聞いてないっぽい。
くっつく? あのヘッドロックのことかな? あれはただ単に円先輩が乱暴で暴れん坊なだけだと思うけど。
「変な噂たてられても知らないんだからね」
そう言うと口を尖らせて、ぷい、とそっぽを向いてしまった。何か体育館でもそうだったけど、あのときよりも酷くなってないか。
あー、え~っと……。
「もしかしてまた何か怒ってますか?」
「怒ってません!」
360度どこからみても怒ってますね、ハイ。
ただ、いつもと違うのは面と向かって言わない上に、口では否定してることだ。
「それにね――」
まだありますか。
「わたしが応援してあげてたのに、全ッ然気がついてなかったでしょう」
うげ。それは気づかなかった。
結局、また僕が悪いわけね。僕のばか、まぬけ、いかでびるっ。
「……すみません」
僕は素直に謝る。
「僕、夢中になると周りが見えなくなるみたいで」
すると、先輩はきょとんした顔で僕を見た後、ふう、とため息をひとつ吐いた。
「もういいわ」
「?」
「那智くんが一生懸命になるとそうなるって知ってるから」
いちおう、許してもらえた、のかな?
「あ、那智くん、ネクタイ曲がってるわ。直してあげる」
「え? ああ、さっき外したときかな? 自分で直す……ぐえっ」
ネクタイ直す振りして、首締められました。まだ怒っていらっしゃるようです。
「ふ~ん、だ」
そう言って先輩は歩き出した。また拗ねたような顔をしているが、さっきまでとは違って険のある感じじゃない。きっと僕の首を絞めて気がすんだのだろう。
昇降口の扉まで進んだところで先輩の足が止まった。
「那智くん、帰らないの?」
と、振り返る。
「や。一緒にいたらマズいかなって」
「あ、そうか」
今やっと気づいたように言う。
大丈夫かな、先輩。自分が注目されてるって意識が薄いんじゃ……、と思っていたら、周りをきょろきょろと見回しはじめた。
「この時間だと残ってる人も少ないみたいだし……。一緒に帰ったらダメかな?」
先輩は少しうつむいた感じの視線で、恥ずかしそうに訊いてくる。
破壊力満点。
その表情は反則だと思った。
今度は僕がきょろきょろする番だった。確かに辺りに生徒はいない。帰る人は皆帰って、残ってる人は部活に出ているのだろう。
「ま、まあ、今ならいいんじゃないですか?」
「よかったあ」
喜ぶべきは僕の方だろう。だって、もう少し片瀬先輩と一緒にいられるのだから。けれど、そこでひとつ思い出す。
「あ……」
「何? どうかしたの?」
「僕、帰りにスーパー寄らないと」
我ながらせっかくの機会に何を言ってるのだろうと思った。
「何か買って帰らないと昼も夜も食べるものないから」
「え? もしかして、那智くん、ひとり暮らしだったの!?」
「うん。生活力のない父さんの転勤に母さんがついて行っちゃって」
「ふうん。そうなんだ」
そう言うと先輩は顎に人差し指を当て、宙に視線を彷徨わせて何やら考えはじめた。
この時点で、嫌な予感とかはなかった。
いつもの面白いものを見つけた悪戯っ子の顔をしていなかったこともあるが、たぶん、それが深い意味も他意もない、純粋な親切心から出た厚意だったからなのだろう。
そして、片瀬先輩は言う。
「じゃあ、うちにくる? 簡単だけどお昼くらいご馳走できるけど?」
「え゛っ!?」




