第9話 彼の気持ち/彼女の気持ち
朝、ショートホームルームのとき、尾崎先生に言われた。
「千秋。五限目に東ヨーロッパに地図を使うので、社会科資料室から持ってきておくように」
尾崎先生。
我らが担任にして学年主任。担当科目は現代社会。
頼まれごとはぜんぜんかまわない。僕は、僕にそれをする能力があって、相手がそれをできなくて困っているなら、できる限り引き受けることにしているから。
が、その言い方はひとりの社会人としてどうだろう?
別に丁寧語を使えとは言わない。年配で先生なんだから。でも、せめて「~しておいてくれ」くらいの言い方で言って欲しいものだ。
と、心の中で文句を言っても実際に断れないのが生徒という立場。
尾崎先生、絶対に僕のこと嫌いだと思う。
-+-+- 第9話 「彼の気持ち/彼女の気持ち」 -+-+-
そんなわけで昼休み――、
僕は社会科資料室に向かっている。
幸い資料室の鍵の管理は尾崎先生じゃなかった。これで尾崎先生が持っていたら、借りにいっただけでまた何か言われていただろう。
キィホルダの輪っかに指を突っ込み、くるくる回しながら歩く。
と――、
校舎の廊下と渡り廊下が集まる角で、ばいん、と誰かとぶつかった。
「あっ、と、すみま――」
「お。なっちじゃない」
謝っている途中で言葉が遮られる。
「へ?」と改めて相手を見ると、それは四方堂先輩だった。……なるほど。だから、ぶつかった効果音が「ばいん」だったのか。ちょっと目の毒なほどスタイルがいいものな。
四方堂先輩は校舎の中だというのに、なぜか傘を持っていた。黒い紳士ものの傘……って、僕のじゃないか。数日前に四方堂先輩に強奪されたのだが、それはまた別のエピソードでまたの機会に。
「丁度よかった。今から返しにいくとこだったんだ」
「ああ、そうですか。僕は今から用がありますから、教室で誰でもいいので渡しておいてください」
それだけ告げて僕は先を急ぐ。
「ぁによぉ。愛想悪いわね」
「そりゃあ、ね。つい先日、追い剥ぎに遭いましたから。上級生だからってやっていいことと悪いことがあると思いますが」
可能な限りの皮肉を込めて言ってやる。
「あー。でも、いいこともあったでしょうが」
僕は思わず後ろを振り返った。
案の定、四方堂先輩はニヤニヤと笑っていた。
「片瀬先輩、怒っていたんじゃないですか? 先輩の責任を取って僕を駅まで入れてくれたんですから」
僕は言いながら再び歩き出す。先輩もついてきた。
「さぁて、そりゃどうだろうねぇ」
「つーか、先輩、どこまでついてくるんですか?」
「ん? なっちの行くところ。今、アタシ、暇だから。おかまいなく」
「……」
かまうわぃ。
しかし、先輩は僕の心中など気にした様子もなく後からついてくる。
で、到着した社会科資料室。
「へぇ、用ってここなんだ」
「地図を取ってこいって言われてるんです」
そう答えながら鍵を開けて中に入る。さも当然のように四方堂先輩も続いた。
そして、ガッチャン。
「って、何で鍵かけるんですか!?」
「いや、何となく?」
「怖いですよ!? 開けといてください!」
「しゃーないわね」
先輩は渋々鍵を開けた。……いったい何を考えてるんだか。
「さて、地図地図。地図は、と……」
社会科資料室は奥に細長い部屋だった。左右両方に棚があって、やたら面積のある郷土資料の本や二十個ほどの地球儀が置かれている。超大判の地図帳もあったが、今僕が探しているのは教室の天井のフックに引っ掛けて吊るす、タペストリィのようなタイプの地図だ。
「この中のどれかだな」
突き当たり奥の窓際に筒状のものがたくさん立て掛けてあった。
僕はそのラベルをひとつひとつ確かめていく。が、西ヨーロッパや東アジアはあるけど、肝心の東ヨーロッパが見当たらない。
「あ、なっち。あれじゃない?」
「え? どれですか? ……げ」
先輩が見つけて指さした先は棚の上だった。確かにいくつかそれに似た形状のものが転がっている。にしても、高い。
「なっちじゃ無理ね。アタシが見るわ」
うるせぇ。
てか、いくら先輩でも無理だろ。と思っていたら、先輩は丸イスを持って近寄ってきた。台を使えば僕だって届くぞ。
「これ持ってて」
と傘が渡される。
僕が口を挟む間もなく先輩はひょいと丸イスに乗った。確かに僕ならただ届くだけだけど、先輩なら何かを探すという作業も楽にこなせるほど高さ的に余裕がある。
「覗くなよ~」
「覗きませんよっ」
と言いつつ、しかし、あれだ。目の高さで短いスカートがひらひらしてて、太ももがあったりすると、こう、首を横に傾けてしまうのはなぜだろう?
「どこのだっけ?」
「え? あ、はい。東ヨーロッパです」
慌てて首を起こして答える。
「東ヨーロッパ、ね……。ああ、あった。これだ。……ほい」
視界上方から地図がにゅっと降ってきた。僕はそれを受け取る。
「ありがとうございます」
「いーえ、お安い御用ですよ……っと」
言いながら先輩はイスから飛び降りる。
空気抵抗でスカートが舞い上がった。太ももが大きく露出し、ついでに白いものも見えたけど、本人は気づいていないようだ。……黙っておこう。
先輩は着地するとそのまま丸イスに腰を下ろした。足を開いて座り、その間のイスの上
に両の掌を重ねる。これまた大胆な構造だ。
身を乗り出すような前傾姿勢で僕を見る。
「出ますよ? 何やってるんですか?」
時間的にまだ余裕はあるけど、かと言って長居して面白い場所でもない。
「人間観察」
「うわ。なんて迷惑なっ」
「ところでさ――」
観察結果の報告はなしかよ。気になるじゃないか。
「遠矢っちってカノジョいるの?」
「一夜、ですか? ……いや、聞いたこともなければ見たこともないし、そんな気配もないですね。……何ですか? 先輩、気になるんですか?」
「いや、アタシじゃなくて、司」
司ってーと……。
「えっ!? 片瀬先輩って一夜のことを!?」
「んにゃ。アタシが勝手に言ってるだけ。……どうよ? 司と遠矢っちって並べたら絵になると思わない?」
「う~ん。まあ、確かに……」
一夜は大人っぽいし格好いいし背高いし。『聖嶺一の美少女』片瀬先輩とも充分つり合うよな。
「でがしょ?」
「でも、片瀬先輩はどうなんですか?」
僕は担いでいた地図を肩から下ろした。床に下ろし、自分の身体に立て掛けるようにして持つ。
「片瀬先輩にそれを確かめずに、周りが勝手なことをするのは何か違うと思うんですよね。例えば、僕だって一夜には、一夜にお似合いなかわいい子とつき合って欲しいと思いますよ。でも、そんな女の子を連れてきて紹介したところで、当の本人が興味を示さなかったらそれまでだし」
「まぁ、そりゃそうよね」
「だいたい、それ以前に美人、かわいいの定義を述べよって話になりませんか?」
自分でも驚くほど饒舌に、僕は続ける。
「定義?」
「そう。片瀬先輩はかわいいと思うかって質問されたら、十人中九人はかわいいって答えるでしょうよ。でも、そのうちひとりくらいは違う人を指して、こっちの方がかわいいって言うかもしれない。そして、それが一夜かもしれない。所詮、美人だのくぁいいだのは最大公約数的なものでしかなくて、僕がかわいいと思った女の子を一夜が同じようにそう思うとは限らないわけです」
「結局、どこまでいっても主観がつきまとうってことね」
そう納得したように四方堂先輩は腕を組み、開いていた足も組んだ。……今度は見えなかった。ちょっと残念。
「なっちは司のこと、どう思うのよ?」
「僕は幸か不幸か九人の方で、片瀬先輩は誰よりもかわいいと思いますよ。……まあ、それは兎も角。だから、いくら僕が一夜にはこういう子が似合うって妄想したところで、それを押しつけることはできません。それは友達のやるべきことじゃない。先輩たちにしてもやっぱりそうだと思いますよ」
「ふうん。いいこと言うわね。……そんじゃ、ま、アタシも親友として司の気持ちを尊重するとしましょうかね」
そう言うと四方堂先輩は勢いよくイスから立ち上がった。
「何となく司の気持ちもわかってきたしね」
先輩が立ち上がったので、僕は改めて地図を担ぎ上げ、扉へと向かった。
「あ、そうそう、なっち。アタシのことは『円』でいいよ。『四方堂』じゃ呼びにくいでしょ。アタシも『なっち』って呼んでるし」
「うぃうぃ」
確かに『円先輩』の方が呼びやすい。
しかし、僕の『なっち』はどうだろう。その呼ばれ方、好きじゃないんだよな。クラスメイトならすぐさまイエローカードなんだけど、相手が円先輩だとどうも言いにくい。おかげで今までやめてくれるよう頼み損ねている。かと言って、このまま何も言わないでいると、ずっと『なっち』のままかもしれない。
いつか思い切って言おうと心に決め、僕は社会科資料室から出る。
と、
そこでばったり片瀬先輩と出会った。
「あ、那……じゃなくて、千秋……く、ん……」
後にいくにつれて言葉に力がなくなっていったのは、僕の後に続いて資料室から出てきた円先輩を見てからだ。
片瀬先輩は円先輩と僕を交互に見る。
「こ、こんにちは、先輩」
その様子に何やら不穏なものを感じながらも、僕は挨拶を口にする。
が、届いていないようだった。
届かないまま僕たちを見ているうちに、次第に片瀬先輩の頬がぷぅと膨れていき、そして、ついには、ぷい、とそっぽを向いて去っていってしまった。
「……」
「……」
いつもならふた言、三言、言葉を交わしてから別れるのだけど、今回はまたえらくあからさまに無視されたな。
そして、隣では円先輩が「こりゃ確定かな」とつぶやいていた。




