足音の正体は
二十五歳の誕生日を迎えた日に俺は、地方の小学校へと転勤が決まった。昨今の教師不足で人手が足りないらしい。
そこは、山に囲まれた田園風景が広がる町で、人口一万人未満の過疎地だ。戦前は日本の台所と呼ばれるほど農業が盛んだったらしいが、高齢化の影響からか、農作地の大半は放棄されており、今や見る影もない。これをいい機会と、かねてより夢だった田舎で気ままな日曜大工。いわゆるDIY生活のため古民家を買うことにした。
過去、一家心中事件が起きた曰くつきの家らしく、足音がするとかモノが無くなるといった心霊現象がよく起こるそうだ。
とんだ繊細な人もいるもんだと思った。古くはあるが、リフォームなしで住めるほどしっかりとしている家だったので、幽霊なんて信じていない俺は、特価価格で売り出されていた木造一軒家を迷わず購入。それが目の前にある木造二階建ての家だった。
「まずは掃除からだな」
目の前には雑草が生い茂り、背が高い草が左右の庭に生えている。
ここに来るのは家具を運んでから一週間ぶりだ。
しかし、久しぶりの訪問は俺を歓迎していなかった。
ポケットから鍵を取り出して、鍵穴を回す。
そして、木製の引き戸に手をかけ――。
ガタッガタッ。
「相変わらず硬いな……」
ガタッガタッ……バシン!
人を拒絶するがごとく硬い扉を開けた途端、ヒュッと冷たい空気が全身を叩く。
「うわっ」
思わず声が出る。
なんだか気味悪いな。
七月の真夏日だというのに両手を胸の前で組んで体を擦りながら俺は中に入り、引き戸を閉じた。
最低限生活できる荷物はすでに運び終えているが、テーブルも椅子もない室内は、大人が大の字で寝ころべるほどにガランとしている。台所まで歩き、水道水がしっかりと出ることを確認した俺は、バケツに水を入れ雑巾を絞った。
「雑巾掛けとか小学校以来だな」
軽く腕を回してから床に手をつき、タタタと一直線に駆け出す。
リビングから始まり廊下、階段、そして二階全体を巡る。一通り掃除をし終えると、窓を開けて空気の入れ替え。
「はぁ、はぁ、明日は筋肉痛だな」
一階のリビングに戻るとそのままごろりと寝転がった。
まずは体力づくりからだな。これぐらいで息が上がるようじゃDIY生活なんてできっこない。
俺は欠伸をして、目を閉じた。
「……」
暗闇。鳥のさえずりが耳に心地よい。
新しい環境で疲労がたまっていたのか、そのまま深い眠りに落ちていった。
――タンタンタン。
聞きなれない小さな足音に意識が浮上する。
上階から音の振動が伝わってくる。
「ん? 何の音だ?」
そういえば、窓を開けたままだったな。動物でも入り込んだか?
そう思った瞬間、全身から冷や汗がにじみ出る。
都会に住んでいた時、地方で人が熊に襲われたというニュースをよく聞いていたからだ。
雑巾片手に、音のする二階へと続く階段に足をかけると、ギシッと音がした。
「猫ならいいんだが……」
上から何が向かって来ても対応できるように、ゆっくりとした足取りで慎重に上る。
夕日に照らされた短い廊下を歩き、畳張りの寝室を角からそっと覗くと……。
赤い着物を着た十歳ほどのおかっぱの女の子が正座で座っていた。
「わああああああ」
俺は尻餅をついて叫んだ。
その少女はピクリとも動かずに、虚ろな視線でこちらを見続けている。
白い肌に整った黒髪。
無言のにらみ合いが続き、徐々に冷静になった俺はゆっくりと立ち上がった。
「君は……いつからそこにいたんだよ」
「……」
相変わらず無言で、視線だけは俺から外れない。
少女の赤い着物や白い足袋には汚れがなく、肌も綺麗だ。教師生活で似た年齢の子をたくさん見てきたが、容姿は整っているほうだろう。
親と喧嘩して家出でもしたか。
そう考えると頭が仕事モードに切り替わった。
「大丈夫、怒ってないよ。だから名前を教えてくれる?」
「……清水文子」
子供特有の高い声だった。
それからも何度も質問を繰り返したが、答えは返ってこなかった。
ぐぅうと俺のお腹が鳴ったことで、一時休戦。
その場で立ち上がり屈伸。
「なんか買ってくるよ。食べたいものとかあるか?」
できるだけ、優しい顔を作ってそう言った。
「……」
人形みたいに感情の見えない少女に、俺はため息をこぼしたのだった。
夜の帳が下りようとしている夕刻。
カラスの鳴き声が夕暮れに響く。
人よりも動物のほうが多いんじゃないか?
なんて思いながら近くの八百屋へと足を運んだ。
「いらっしゃい。おや、見ない顔だね?」
壮年の男性が人の好さそうな笑みでレジ前に座っていた。
「今日からこの町に引っ越してきた鈴木です。今後お世話になります」
教師生活で培った営業スマイルで返す。
都会と違って、村社会では個人主義では生きていけないと聞いている。
客と店の立場とて、人と人であることに変わりないのだ。数少ない商店の店員に嫌われたら、暮らしづらくなること請け合いだ。
「あはは、なかなか爽やかな兄ちゃんじゃないか。気に入った。サービスにナス一本もってけ」
「いいんですか? そんなの都会じゃ経験したことないですよ」
「だろ? それなのに若いもんときたら、こんな田舎から抜け出したいだのほざきやがる。まったく」
「あはは……」
俺も学生の時は都会住みに誇りを持っていたから下手なことは言えない。
でも、大人になった今は田舎暮らしに憧れているんだから不思議なものだ。
買い物かごを手に取ると、ごゆっくりと声をかけられた。
品ぞろえはしっかりとしており、旬の果物や野菜が揃っていた。
都会よりも新鮮だな。いや、田舎だからこそなのかもしれない。
どれもツヤがあってみずみずしい。
キュウリとトマトそれからキャベツを入れてレジに向かう。その途中に一玉のスイカが目に入った。
家に侵入した着物少女が脳裏をよぎる。
一人で食べるには大きいが、あいつに分けてやればいいか。
一玉かごに入れレジへと向かった。
「それじゃ、ナスはサービスしとくよ」
「ええ、ありがとうございます」
俺のことを爽やかな兄ちゃんというが、この人こそ裏表ない優しそうな人だな。
そうだ、あの少女のこと何か知ってるかもれしない。実はここらで有名な悪ガキという線もある。それに、このまま黙ってたまま誰かに見つかると、誘拐を疑われるかもしれないしな。
「あの、清水文子って子知ってますか?」
そう言うと、彼は渋い顔をした。
「ああ、悲しい事件だったな。まだ若かったのに」
「事件?」
「一家心中。そこの娘はまだ十歳という若さで……さぞ無念だっただろう」
一家心中――。
冷たいものが全身を駆け抜けた。
清水文子と名乗った少女も十歳ほどの子だ……。
いや、そんなまさか。ありえない。
じゃあ、あの子は幽霊だとでも言うのか。
「おい、兄ちゃん、そんなに汗かいて大丈夫か?」
「え、あっ、いえ、大丈夫です。ありがとうございました」
「待て、ほらパイナップルもサービスしといてやる」
そう言って、一個丸ごと袋に入れてくれた。
「いや、さすがに悪いですって」
「いいから持ってけ。熱中症には気を付けろよ。今年の夏は暑くなるとニュースで言ってたからな」
断ろうとしたら無理やり押し付けられてしまった。
店員の笑顔に毒気を抜かれた俺は、何度も頭を下げたのだった。
八百屋から出ると、夕日の代わりに月が顔を出していた。
風に吹かれる木々が不気味に揺れる中、気が付くと家の玄関の前に立っていた。
目の前の引き戸に手をかける。
「……」
何を怖がっているんだ。
ほっぺを両手で叩いてから、勢いよく扉を開けた。
「た、ただいま」
あの少女が幽霊かもしれない。そう思うと、声が震える。
返事はない。
俺は深呼吸をして、靴を脱ぎ、上がり框に足をかけた。
荷物を置き、階段を上る。ギシギシと軋む音がやけに耳に響く。まるで、危険を知らせるアラートのように思えた。
気のせいか、足が重い。いや、幽霊を怖がるとか馬鹿げてる。あの少女はただの家出した悪ガキだ。
俺はむしろ足音を立てて、一気に駆け上がった。
そして、二階にたどり着き短い廊下の先にある部屋を覗いてみると、
「わっ! い、いるなら返事ぐらいしろよ」
家を出たときと変わらぬ位置で、正座のまま虚ろな目をした少女がそこにいた。
真っ赤な着物に白い足袋。
改めてみるとまるで日本人形のようだな。
「お前は……その……幽霊なのか?」
ごくりと唾を飲み込み、単刀直入にそう尋ねてみた。
否定してほしいのか肯定してほしいのか、俺自身、定かではなかった。
「……分からない」
今にも消えそうな声音を吐いた少女の瞳は、不安を湛えているようにも見える。
まったく、一体何を怖がっていたんだ俺は。
そもそも選択権はこっちにある。不法侵入者は少女のほうだ。
「なぁ、一緒に外行かないか」
誰かと会わせてみれば、幽霊なのかどうか判断がつくと思っての発言だったのだが、
「……出たくない」
そう言って怯えて後ずさる様子に俺は頭をかいた。
これではまるで虐待しているみたいじゃないか。
『さぞ無念だっただろうな』
八百屋の主人との会話を思い出す。
「ちょっと待ってろ」
買ったスイカを台所で十等分に切り分け、それを大皿に盛って二階へと戻った。
「ほら、腹減ってるだろ。模様がしっかりとしたスイカだからきっとうまいぞ」
警戒させないように笑顔でそう言って、少女の目の前にスイカを乗せた皿を置く。
すると、視線を俺とスイカを行き来させて、ゆっくりと両手を伸ばした。
着物の上に汁をこぼしながら、種ごとスイカを頬張る少女に、満足感のようなものが湧いてくる。
普通ならすぐにでも追い出すべきなんだろうが、まったく……根っからの教育者だな俺は。
今日は家に泊めて、明日ゆっくり話を聞いてやろう。
そう思いながら、あぐらで頬杖をつき、その様子を見守っていると、
「ごちそうさまでした!」
それは突然だった。
子供らしい満面の笑みを浮かべたと思った次の瞬間、少女は光の粒となって消えてしまった。
まるで夢でも見ていたみたいに、皮だけになったスイカを残していなくなってしまった。
「お、おい……」
最初から誰もいなかったように、俺の声は虚空に消えていく。
皿の上に残ったスイカの皮だけが、少女の存在を証明していた。
ひゅっと冷たい風が肌を撫でる。
俺はその場で目をつむり、黙祷を捧げた。




