一部二話 濡れた日常のさざめき
家に帰ると、玄関先で三人とも体中の水気をなんとか取ろうとした。全員もれなく全身びしょぬれだ。ここでふたつ選択肢が生まれる。
れいじから風呂に入るか、涼花から風呂に入るかだ。
正直こちらから提案するにも心苦しいが、誰かがこの汚れ役を買わなくてはいけない。
俺がそれを担うべきだと思い、口を開く。
「2人とも「オネーさん先入れば?」
俺の言葉を遮るようにしてれいじが声をかけてきた。
涼花も予想外だったようで目をまん丸にしていた。優しい彼女のことだ。一番びしょ濡れなれいじのことを心配しているのだろう。
「女の人って体冷やしちゃダメなんでしょ?」
「ばーちゃんが言ってた?気がする」
れいじは頬を掻いて頭を上にあげる仕草で渋い顔で考えていた。何かを、思い出そうとするかのような・・・・。俺は祖母とはすぐに会えるものだから、意外に思う。すぐに祖母と会えない事情でもあるのだろうか。
そんなれいじの様子に涼花はくすりと笑い、「じゃあ、入っちゃおうかしら。」と洗面台の入り口に手をかける。
「男の人2人なら後で一緒に入れるものね。」
そう言って脱衣所を閉めると、風呂場へと入っていった。
その一言に心がひゅっと縮こまった。そ、そうか・・・・れいじと風呂に・・・・?
「ッスね~~~~。」とれいじはなんともないように笑っていた。
俺は、何とも思っていないように、至って平静な態度を保とうと心がけた。玄関で立ち往生するれいじに、新たなタオルを投げ渡す。
「さっきのじゃもう水分吸ってるだろ、」
「あ~・・・・ハイ。あざす。」
靴を脱いで上着を脱ぐ。ボタボタと雨粒が落ちてきて鬱陶しかった。
そのまま上のシャツを脱ごうと、上の服に手をかけると、れいじが口を開く。
「いいんスカ?」
意図することが分からなくて、聞き返す。
「・・・・?なにが。」
れいじは成長途中のまだ少し未発達な体で俺を見上げてにんまりと笑った。
ほのかな、色香を乗せた笑みだった。
「だって、俺が男の人とそういうことしようとしてたの知ってるでしょ?」
そうしてゆっくりと人差し指を唇へと持っていく。
「いいの?エッチな目で見ちゃうかも。」
ふと指の動きを追うように、顔を上げると、れいじがじっとこっちを見ていた。
まだ夕方だが、暗い廊下。少年の目がすこし赤く光っていた。
俺の心臓は再び脈打ち、思わず視線を逸らした。
一瞬、意味が理解できなかった。頭がぐらぐらする。
れいじは、どういう意図で、そんな言葉を口にするのか。
思考が停止する。正直な話、俺がれいじをいやらしい目で見てしまうことは頭の端に懸念点としてあったが、れいじにその気がある・・・・ということか?これは。
にわかには信じがたく、心臓がどくんどくんと、強く脈打ったのを強く感じた。
あまりの展開に、思考が先ほどから動かず、思わずぼんやりとした。思考停止、というやつに再び陥る。
「あれ~~~~?」
れいじはぼたぼたと水滴をまき散らしながらカーキ色のズボンで立ち上がると、「大丈夫っすか?」と俺の前で手を振ってきた。
「・・・・別に。」
その手を払いのけるとじとりとれいじを見つめる。「馬鹿言ってないで体拭いてろ、」
至って平静に、そう、平静を保つために、そう告げたつもりだ。
「・・・・は~~~~い。」
れいじも間延びした返事で靴やら上着やらの水滴を落とし始めた。
・・・・・・心臓がバクバクと鳴る。俺はどうしちまったんだ一体。あれだけのことで!あれだけのことで!こんな感情になってしまう自分に一種の嫌悪感すら芽生えつつある。
言うなれば、俺の心は思春期の中学生とさして変わらなかった。
その後風呂から涼花は出てくる。
少し焦ったのだろう。いつもより幾分か早い。
「じゃあ入るか。」
至って、平静に。それを心がけて風呂へと入る。
湯船は俺と涼花が普段入っても少し窮屈なくらいだが、男二人だと妙に狭く感じる。
れいじの体はというと、その白い肌はアザだらけで、生傷もあるということが分かった。
色目を使っている場合か、自分を大事に・・・そう思ったところで・・・。
「俺泡風呂したいな~~~~。」
れいじは、怪我の痛みを厭わず、湯船に入る。そうして手には、横にあった容器が。
次の瞬間、あろうことか、れいじはボディソープを風呂にぶちまけやがった。
「は?」
俺は何度この少年によって、頭がおかしくされるのか。この一日の間でも、数えきれないほどだ。思った結果と違かったのか、「なんか違う?」とれいじは頭を傾げた。
「なんか違うって・・・・お前」ようやっと声を出して何とか止めようとするが、れいじの手は止まらない。
ばちゃん。
ボディソープの容器が、浴槽の中へと落ちた。
俺は気が付いたら、れいじの頭をひっぱたいていた。
「馬鹿野郎!」
風呂場には、中途半端に泡がついた湯船と情けなくキレ散らかす俺と、目をぐるぐるにして浴槽に突っ伏すれいじがいた。
なんとか髪と体を洗い、風呂から出ると、「なんか遅かったわね」と涼花が言った。
「このバカのせいでな。」
「バカって酷くないっすかあ?ね、涼花さん。」
「ふふ、たしかにバカは酷いかも。」
「涼花、このバカを甘やかすな。浴槽にボディソープまき散らす奴だぞ。」
「まあ!」
「今度ボディソープを買いに行かなくちゃいけない。」
あらあらと、涼花は笑っていたし、れいじはというと自分が悪いのにも関わらず、不服そうな様子だった。
「二人がね、お風呂に入っている間に焼うどん作ったのよ。食べましょう。」
そう言って涼花は茶色のうどんと野菜が乗った香ばしい香りの皿を持ってきた。すかさず手伝うように持ってくると、彼女は嬉しそうに笑った。
三人でブラウンのちゃぶ台を囲むようにして座る。
箸やコップに、麦茶が注がれてようやく夕飯らしくなってきた。
さあ食べるか、というところで、もじもじと涼花がれいじに聞いた。
「れいじくんの口に合えばいいんだけど。」
涼花は、笑っていたけれど、ほんの少し不安げだった。
そういえば、涼花は俺に料理を出す前には家族以外に食べさせたことがないと言っていた。
自分の料理を出すことが気恥ずかしいんだろう。もじもじと顔を赤くしてはれいじの様子を伺っていた。
「安心しろよ。涼花の飯は美味いから。」何の気なしに俺がそう言うと、「も~~~~~零助ったら!!!!!」ときゃあきゃあと涼花は喜んだ。今の発言にそこまで喜ぶことあるか?そう思うと「お熱いっすね。」とれいじは感情の読めない笑顔で笑っていた。その顔に少し違和感を抱いたが、このままでは飯が冷めてしまう。
「あ~~、その、そろそろ食べないか?」なんとなく気まずくなってしまい、食事の音頭を
取る。
「そうね!いただきます!」
「「いただきます。」」
食べた焼うどんは美味しかった。醤油で味付けされたうどんに、香ばしく焼けた野菜がしなっとしていてよかった。やみつきになる味付けに、箸もどんどんと進んでいった。れいじも嬉しそうに、「こんな美味いもんはじめて食った~~~~。」と直ぐに完食して満足げだ。
「あらおおげさねえ。」
涼花はうふうふと恥ずかしそうに笑う。
「おおげさじゃないっす!それに、涼花さん、可愛いし!」
れいじのその言葉に、明るげだった食卓の雰囲気が変わる。楽しいものが、気まずいものへと物凄い勢いで移り変わってゆくのを感じた。れいじは・・・・涼花に気があるのだろうか。と、妙に勘ぐってしまう。決して人のことをとやかく言える立場ではないのに。
「いや、違うんす!!!!」
れいじは慌てたように口を開いた。自分でもタブーを口に出したと理解している口ぶりだ。
「俺アロマンティックなんで!好きにはならないっすよ?!」
聞き馴染みのないその言葉を頭で反芻する。アロマンティック・・・。セクシャリティの話だろうか。
涼花もその発言に戸惑ったようで、口を開く。
「れいじくん、アロマンティックってなあに。ごめんなさい、偏見があるとかじゃなくてね、初めて聞いたから。」
「あ、、、、、えっとお、アロマンティックっていうのはあ・・・・」
れいじは目を逸らした。その言葉を口にするのが、心底嫌だというようなそぶりが見て取れた。
「・・・・人に、恋愛感情を抱けない人のこと。」
まるで、罪の告白のように感じた。
それほどまでに、れいじは苦し気で、不安げで、自分の存在すら受け入れられないと思っているように見て取れた。
「れいじくん、それは悪いことなんかじゃないわよ?」
涼花も、異様な雰囲気に負けじと背筋を伸ばして声を張った。
それは労りであり、尊重の言葉だったと思う。
その言葉に、れいじは目を細めた後にその瞳を閉じ、再度顔を上げる頃にはカラっとした顔をしていた。
「はは!うん!性的思考なんて気にしたって、多様性の時代っスもんね!」
その言葉に、れいじは笑っているのかいないのか、分からない笑顔で頷いた。
恋愛感情がない、その言葉が、れいじのどんな背景や人生で培われたのかを、俺にはまだ分からない。生まれつきの性質なのか、なにかきっかけがあってそうなったのか。理由はともあれ、ただ・・・知りたいと思った。この少年のことを知りたい。れいじのことを知りたい。それで、どうして____。
どうしてれいじのことを好きになってしまったのか知りたい。
俺はただ、この日初めて垣間見えた、自分のおぞましさや矛盾について、整理をつけたかった。
自分はまともな人間だと、倫理に反していないと、人としての道を踏み外していないと、確認したかった。そう、自分をただただ信じたかったのである。
読んでくださりありがとうございました!