第3話:少しの間だけ
ユリウスの肩の傷は思いのほか深く、止血の包帯もすでに赤く染まっていた。
エルミアは街道脇の林で彼を座らせ、黙々と応急処置に取りかかっていた。湿った布で血を拭い、薬草をあて、慎重に布を巻き直す。その手つきは慣れていたが、内心は穏やかではなかった。
(とても動ける身体ではない・・・このままじゃ、悪い病気に感染してしまう)
エルミアがそうつぶやいたとき、不意に足元の空気が震えた。ひやりとした風が一筋、ふたりの間を通り抜ける。エルミアは手を止め、そっと目を閉じる。
「・・・魂がいる」
その場所には、たまたま未浄化の魂が静かに佇んでいた。
「ユリウス様、すみません。少し、おかしな儀式をしますが、お気になさらないでください」
エルミアはそう言って立ち上がると、あたりを静かに見渡した。空気の揺らぎ、土に染み込んだ残響、焼け焦げた木片。この場所で、かつて命を落とした誰かが、まだ想いを残していたのだ。
「帰光の幻印」
淡い光とともに現れたのは、白く輝く鬣を持つ巨大な幻獣——光羽の獅子。その姿を見たエルミアの瞳は、無意識にも潤んでいた。
彼女の手が獅子に触れた瞬間、視界がひらく。
幼い少年が、激しい炎に包まれた孤児院の納屋の中で弟を庇っていた。周囲は崩れかけた梁と黒煙に満ち、天井からは火の粉が降り注いでいる。弟の背を自らの身体で覆い、壁際に身を寄せながら、少年は何度も外を見やった。
開け放たれた扉から外に出れば、助かる。だがいま、少年の腕に抱かれた弟はまだ幼く、気を失っている。兄である彼自身も、身体は小さく細い。弟を抱えたままでは、この炎の中を駆け抜けることなど到底できない。
弟をその場に残して走るか、自分もここに留まるか。その選択は、幼い彼にはあまりに重すぎた。迷い、震え、涙をこらえながら、それでも少年は弟のそばに膝をつき、ゆっくりと弟の体を覆った。
彼の視界には、弟が眠るような顔で胸に抱きしめている古びた木の人形が映る。それは、少年がかつて母からもらったものだった。母ももういない。弟だけでも、この人形とともに生きてほしい。
『どうか、弟だけでも助けて・・・お願いだ、お願いだから・・・』
涙とすすで汚れた頬に、強い風が吹きつける。木材の爆ぜる音と共に、彼は目を閉じた。その願いが、魂に刻まれた最後の想いとなった。
エルミアの目から大粒の涙が落ちる。
幻獣は小さく震えた。そしてその身体から淡く優しい光が溢れ出し、彼女の腕を包み込んだ。
「あなたの願いは、ちゃんと届いてるよ。お母様が『えらかったね』って言ってるよ・・・」
エルミアの言葉に、幻獣は短く鼻を鳴らし、どこか安心したように目を閉じる。次の瞬間、光羽の獅子は静かに吠え、空に金の羽根を撒きながら霧の中へと還っていった。
残されたエルミアは、それからしばらく、大声をあげて泣いていた。
その様子を見つめていたユリウスは、言葉を失っていた。
まだ10代半ばに見えるダークエルフの少女。その近くに、突然、光の幻獣が現れた。少女は誰かに優しく語りかけ、幻獣に触れると、その幻獣が消えた。現実とは思えない、詩の中にいるような光景が、ユリウスの目には映っていた。
だがその直後の彼女の泣く姿、息遣いや表情の陰りから、この現象が、少女の精神に大きな負担を与えていることが、痛いほど伝わってきた。
彼の胸に何かが残響のように鳴っていた——まだ知らぬ感情の音色だった。
◇
それから数日、エルミアはユリウスの手当のためにこの場に野営地を築いた。エルミアは、毎日ほとんどの時間をここにいて、ユリウスを看病した。
彼の傷は浅くはなかったが、黙々と手当を受け入れる姿には、不思議な静けさがあった。傷を洗い、布を巻くその手は、小さいが確かな動きをする。
そして、癒えていたのはユリウスの肉体よりも、むしろエルミアの心のほうだった。誰かのために自分の力が使えること——そして、それが拒まれなかったこと。彼の体温が、指先を通してゆっくりと胸の奥に届いていくようだった。
ある夜、包帯を巻かれながら、焚き火の前でユリウスがぽつりと呟いた。
「俺も・・・死んだ人の声を、聞いたことがある」
その一言が、エルミアの胸を揺らした。彼がただの剣士ではないこと、どこかで同じ世界を見ていることを、彼女の本能が察していた。
「ユリウス様、もう動けそうですね。それでなのですが・・・少しの間だけ、私の護衛として、私と一緒に小さな旅をしていただけませんか?ユリウス様の肩の傷が完全に癒えるまでで構いませんので。もちろん、報酬はお支払いします」
エルミアのその言葉に、ユリウスはただ頷いた。