第2話:黒き剣の旅人
エルミアは、さまよえる魂と化した者の関係者から浄化を依頼されることも少なくなかった。
それは、時に亡き者が愛する家族の夢枕に立ち、切実な願いを伝えることから始まり、またある時は、町の霊媒師や預言者が「あの魂は、未だ現世に縛られている」と静かに告げることで始まるのだった。
依頼は決して華やかなものではない。多くの場合、それは貧しい民衆からの必死の願いだった。失った家族の苦しみを終わらせたい、安らかに眠らせてあげたい——そんな切実な想いが込められていた。
エルミアはその一つひとつに心を込めて応えた。たとえ報酬がわずかであっても、それがたった一杯の温かなスープや、一輪の花であったとしても、彼女は決してその願いを拒むことはなかった。
依頼が届くと、エルミアは静かに出立の準備を整えた。浄化の儀式に用いられる呪文を胸中で練習し、風の音に耳を澄ませる。どこか遠くから、未練を宿した魂のかすかな呼び声が届くような気がした。
その道行きは、決して楽なものではない。足元はぬかるみ、冬の夜には身を切るような冷たい風が吹きすさぶ。それでも彼女は迷うことなく進んだ。未練に縛られ、苦しみの中にいる魂のもとへと。
浄化の場では、必ずと言っていいほど、幻獣がその姿を現す。依頼された魂が最後に抱いた強い感情——愛情、後悔、誓い——それが美しい幻獣となって現れるのだ。
その一体一体に込められた物語は、決して同じものはなかった。
エルミアはその幻獣にそっと触れ、語りかけ、そして大粒の涙を流す。浄化とは、魂との対話であり、過去に向き合うことでもあった。
彼女が流すその涙は、ただ悲しみの涙ではない。魂の重みを受け止める覚悟と、彼らを安らぎへ導くための祈りが込められていた。
浄化を終えたあと、彼女は決まって空を仰ぎ見た。そこには、浄化された魂が残していった淡い光が、まるで星のように瞬いていた。その光景を見るたびに、彼女は小さく微笑み、胸に手を当てるのだった。
そうして得られるわずかな報酬——それが、エルミアと妹フィリアのささやかな生活を支える糧となっていた。
けれども、彼女にとって真の報酬は、安らかに眠りについた魂たちの安堵の気配と、残された家族たちが見せる静かな笑顔だった。
◇
ある日。エルミアはまた別の墓地にいた。今回の依頼は、老いた詩人の墓での仕事だった。
生前、老詩人はその繊細な筆先で数えきれぬほどの愛を詩に綴ってきた。しかし、ただ一つ、自らの胸に秘めた最も純粋で強い想いだけは、決して言葉にすることができなかった。
それは、一人の若き弟子への深い愛情——禁じられたともいえる、静かで切実な想いだった。
彼女は、春風のように明るく、純粋で、詩人が長い歳月の中で忘れかけていた青春そのものを思い起こさせた存在だった。
彼女が庭先で風に髪を揺らし、陽だまりの中で微笑むたびに、老詩人の胸には若かりし頃の情熱がわずかに灯り、しかし同時に、それがどれほど遠い存在であるかを思い知らされた。
弟子との歳の差は、まるで超えられぬ深い谷のように彼の前に横たわり、師としての立場はその想いを口にすることすら許さなかった。
いや、それ以上に、詩人としての誇り——心の奥底で「詩人は、真の想いを言葉にしてしまえば、それはもう詩ではなくなる」と信じていた頑なな誇りが、彼の唇を固く閉ざし続けたのだった。
それでも、彼は書き続けた。ただ誰の目に触れることもなく、一冊の詩集草稿の中にだけ、その叶わぬ想いを少しずつ滲ませていった。
そして、その草稿は彼の死後も、静かに机の上に置かれたままだった。頁は時折そっと風にめくられ、薄く黄ばんだ紙は、まるで過ぎ去った季節の記憶のようにかすかに揺れていた。
草稿の最終ページ——そこに書かれていたのは、未完の一節だった。
『君が笑う春の日のために、わたしは・・・』
その先の言葉は、ついに綴られることはなかった。ペンはそこで止まり、彼の想いは永遠に途切れたままだ。しかし、その一行だけが、どんな詩よりも雄弁に、彼の最後の祈りと叶わなかった愛を物語っていた。
春の日差しが差し込む静かな書斎で、その草稿だけが今もなお、息をしているかのように佇んでいた。
エルミアが静かに「帰光の幻印」を紡ぐと、薄明の風が彼女のまわりに舞い始めた。風はまるで遠い昔の記憶を運ぶかのように優しく、そして切なさを含んだ旋律のように流れていく。
やがて、その風の中から無数の光の粒が生まれ、それらは寄り集い、白銀の輝きを纏いながら形を成していった。ふわりと大気が震え、そこに現れたのは一羽の幻鳥。
翼は純白で、雪よりもなお透き通るような輝きを放っていた。その羽根は薄絹のように繊細で、一振りするたびに無数の光の粒が舞い上がり、まるで春の陽光に溶けて消える朝露のようだった。
その幻鳥は空を羽ばたくことなく、静かにエルミアの前に舞い降りた。その澄んだ瞳は、まるで遠い過去に置き忘れた大切な想いを映し出しているかのようだった。弟子に捧げることを叶えられなかった詩、その想いの象徴が今ここに顕現していた。
エルミアはそっと手を伸ばし、その柔らかな羽根に指先で触れた。
その瞬間——。
まるで押し寄せる波が堰を切ったように、老詩人の胸に秘められた想いが奔流となってエルミアの心に流れ込んだ。
言葉にされることのなかった愛——弟子の背を遠くからただ見守ることしかできなかった日々。小さな成長に静かに微笑み、弟子が失敗して涙するたびに、誰よりも胸を締め付けられていたこと。
陽だまりの中で微笑むその姿を遠くから見つめるたびに、胸が切なく疼き、それでも決して口にすることはできなかった、ただひとつの想い。
「ありがとう」
そのたった一言。それだけを伝える勇気が、最期まで持てなかった後悔。心の奥底で幾度となく繰り返したその言葉が、今、魂となって、ようやく溢れ出した。
エルミアの瞳からは、熱い涙がとめどなく零れ落ちていた。彼女の手に伝わる幻鳥のぬくもりは、まるで老詩人の手そのものが、最期の力を振り絞ってその想いを託してきたかのように、優しく、切なく、温かかった。
「もう、大丈夫だよ・・・あなたの言葉は、きっと・・・届いているよ」
幻鳥は静かに首をもたげると、その翼をゆっくりと広げた。純白の羽ばたきは、一瞬、世界そのものを包み込むほどの神聖な光を放ち、薄明の空へと舞い上がる。
その動きはまるで、長く閉ざされていた心がようやく解き放たれたかのような、解放の祈りそのものだった。
ひと振り、またひと振りと天に向かって羽ばたくたびに、幻鳥の姿は徐々に光の粒へと変わっていく。その輝きは朝露にきらめく花びらのように儚く、美しく、見る者の心に言葉では表せぬ静かな感動を刻みつけた。
最後のひときらめきは、まるで消え入りそうな星が瞬くように優しく輝き、やがてそっと、風に溶けるように消えていった。
残されたエルミアは、その場に膝をつき、肩を激しく震わせた。胸の奥から噴き出すように込み上げる嗚咽は、もはや抑えようもなく、細い喉から苦しげな泣き声が漏れる。
呼吸を整えることすら叶わず、張り裂けそうな胸に手を押し当てて、それでもあふれ続ける涙は止まらなかった。まるで、老詩人が生涯胸に閉ざしてきたすべての愛と後悔が、今この瞬間、彼女の中に流れ込んだかのように——。
その涙は、哀しみだけではない。報われなかった愛への痛切な祈りと、ようやく訪れた魂の救済に対する、名もなき感謝の涙だった。
薄明の静寂の中で、彼女の嗚咽だけが、まるで魂そのものの叫びのように、長く、いつまでも響き渡っていた。
◇
日がゆっくりと東の空に昇り、墓地を覆っていた冷たい霧が静かに引いていく。夜の名残を帯びた湿った空気は、朝日とともに温もりを取り戻していく。
しかし、エルミアの周囲だけは、まるで別の重たい気配に包まれているかのように、ひときわ沈んだ静寂が漂っていた。
彼女は膝をついていた地面に両手をつき、しばし動けずにいた。ようやく震える指先で腰を上げた。その動作は驚くほどゆっくりで、肩は小刻みに震え、吐き出される息は苦しげだった。
浄化を終えたばかりの彼女の身体は、見えない重石を背負っているかのように重く、立ち上がるだけで全身の力を使い果たしてしまうようだった。
魂を浄化するたびに蓄積されていく穢れは、目には見えないが、確かに彼女の胎内に深く染み込んでいた。それは薄い黒い靄となって心の奥に溜まり、じわりじわりと彼女の生気を蝕んでいく。
胸の内側には、名もなき痛みが常に巣くい、幻獣たちと別れるたびにその痛みは鋭さを増していた。
彼女の褐色の肌に浮かぶ冷や汗は、光に照らされてかすかに輝くが、その美しさの陰で、心身を蝕む穢れは、まるで消えない影のように彼女の魂に絡みついていた。
肩で荒く息をつきながらも、エルミアは顔を上げる。けれどその瞳には、どこか遠くを見つめるような焦点の合わない霞がかかり、疲労の色は隠しようもなかった。
幻獣との別れはいつも彼女の心を深く削り取っていく。それは、単なる消耗ではない。ひとつひとつの別れが、彼女の中に取り返しのつかない痕跡を残していくのだった。
エルミアは、重たい足取りで、ダークエルフの里への帰り道を歩いている。そして、彼女はふと人気のない森の小道で足を止めた。微かに血と鉄の匂い。風にまぎれて、剣戟の残響が聞こえた気がした。
小道を進むと、倒木の陰に座り込む一人の青年がいた。全身、黒の旅装は粗末で、袖は裂け、肩には深い傷がある。だが、その腰に帯びた剣は異様なまでに洗練されていた。
よほどの技術で鍛えられたものであることは素人目にも明らかだったが、それ以上の情報は、青年の沈黙によって覆い隠されていた。
「・・・怪我をなさって・・・いますか?」
エルミアの問いに、青年はわずかに目を細めた。日差しの中に浮かび上がるその顔立ちは端正で、彫刻のように整っていた。
切れ長の瞳は深い森のように静まり返り、影を帯びた表情の奥に、かすかな憂いが宿っている。風に揺れる漆黒の髪が頬をなで、汗に濡れた首筋がその生命力を静かに主張していた。
だが答えは返ってこない。ただ、静かにこちらを見つめ返すその眼差しには、どこか懐かしさすら感じさせる不思議な深みがあった。
しばらくして、彼はユリウス=ヴァルグレインと名乗った。自ら素性を語ることはなく、この時から二人の旅は運命のように始まりを告げていた。
まだ互いを知らず、ただすれ違うように交わした視線。だが、それがこの世界に残された魂たちと向き合う旅の第一歩になることを、エルミアはまだ知らなかった。