第1話:幻の墓守
冷たい霧が地を這うように立ち込める夜明け前のことだった。空はまだ星をわずかに残し、東の地平線にかすかな白光が滲むだけ。
すべてが夜の静寂に包まれ、吐息さえも白く溶けるほどの冷え込みがあたりを支配していた。古びた墓地は、ひび割れた石碑と苔むした十字架が影を落とし、忘れ去られたような静寂がそこにはあった。
その場に、一人の少女が静かに佇んでいた。身を包む薄衣は冷たい霧に濡れ、白い吐息を静かに漏らしながら、彼女は黙って古びた墓石を見つめていた。
月光を受けたその姿は、まるで夜露に濡れた花のように儚く、そして気高かった。
名はエルミア=ネヴァルティア。里では「幻哭」と二つ名で呼ばれ、涙とともに幻獣を呼び出すその姿は、畏れと美の象徴とされた。
ダークエルフの血を引く少女で、不浄なものに触れる仕事を任とする忌避された存在。だが、その容姿はまるで月光から生まれたように美しく、見る者の心を奪う美貌を持っていた。
茶褐色の肌は滑らかに輝き、銀灰色の長髪は夜の霧を思わせて風に揺れ、紅の瞳は深淵のように静かで神秘的だった。その美しさは、里で忌避される彼女の存在をかえって際立たせ、恐れと羨望の対象として語られていた。
彼女の持つ術の名は、「帰光の幻印」と呼ばれている。
この世には、死してなお成仏できずに彷徨う魂が存在する。多くは未練を抱きながらも時の中で薄れていくが、中にはあまりに強く、深く、愛情や後悔にとらわれて現世に残り続けてしまう者もいる。
そうした魂は、やがて苦しみに歪み、周囲にも悪影響を及ぼしかねない存在となる。最悪は、アンデッドとして現世に形を持ってしまい、永遠に浄化されず、この世をさまよう魂となってしまう。
「帰光の幻印」は、そうした魂を安らかに導くために生まれた技であり、強すぎる未練を幻獣という姿へと変え、術者との最後の対話を経て、浄化するという、極めて特異で繊細な術なのだ。
この術は、死者の魂に残された強すぎる未練を、幻獣という形に変えてこの世に一時的に顕現させ、触れ合いによってその魂を浄化へと導く禁忌の技である。
魂を救い、浄化する術がなぜ禁忌とされるのか。それは、未練をもち、さまよう魂が浄化されるとき、術者がその不浄を引き受けるからだ。つまり術者は、この術を使用すればするだけ、穢れていく。
この穢れは、胎内に蓄積され続ける。それにより、いずれ術者の精神は崩壊し、多くの場合、死に至る。そのような術であるからこそ、禁忌なのだ。
この術を扱えるのはダークエルフの中でもさらに限られた者のみ。もっとも“不浄”とされた少女だけが、この深い痛みに触れることを許される。
エルミアはそのただ一人に選ばれ、生まれ育った里で疎まれ、目を背けられ続けてきた。それでも彼女は、魂の痛みに寄り添うことをやめなかった。
◇
エルミアの前には、まだ新しい土が盛られた小さな墓が静かに横たわっていた。粗末な木の十字架には、戦場から帰らぬ人となった一人の若き兵士の名が、かすれた筆跡で記されている。
その文字は震えるように歪み、書いた者の深い悲しみと未練が痛いほどに伝わってくる。土はまだ湿り気を帯び、踏みしめるたびにかすかに沈み込む。
手向けられた一輪の白い花は、霧の露に濡れて首を垂れ、まるで今にもその悲しみの重さに耐えかねて崩れ落ちそうだった。
その墓に眠るのは、ほんの数日前まで生きて未来を夢見ていた、一人の若き兵士。まだ粗削りな剣を手に握るだけで精一杯だったはずの彼は、大義の名のもとに戦場に駆り出され、誰の記憶にも深く刻まれることなく、無情な運命に斃れた。
家族のもとに帰ることもなく、愛する者に最後の言葉を告げることもできなかった名もなき命。その短すぎる生涯は、この冷たい土の下に、静かに、あまりにあっけなく終わりを迎えていた。
彼の母親は涙を流し、こう言い残して去っていった。
「この子は・・・人のために、剣を取ったのです。どうか、心だけは迷わぬように・・・」
エルミアは、悲しみに暮れた母が去った、その墓に、静かに手をかざした。禁忌の術を、展開している。
その掌から淡い光が広がり、空気が震える。世界が一瞬、静止したように感じられる。
墓の前に、淡く揺れる光の粒が静かに集まり始めた。それは夜明け前の霧の中にあって、ひときわ幻想的に輝き、やがて輪郭を成す。
光はゆっくりと形を変え、一歩、また一歩と、霧を踏みしめるように現れたのは、一頭の幻の狼だった。
その狼は見紛うことなき気高き存在——金色のたてがみは朝日の予兆のように暖かな輝きを放ち、柔らかな風に揺れていた。
光の糸で織り上げたかのように繊細でありながら、一筋の乱れもなく、その毛並みは凛とした威厳に満ちていた。
漆黒の瞳は遠い記憶の彼方を見つめるように静かで、どこか切なさを宿している。その大きな体は堂々としていて、一歩踏み出すごとに、周囲の霧が光に溶けるように静かに引いていく。
それはまさに、生前の兵士が幼い頃、何度も夢に見ては、小さな手で拙く描き続けた理想の守護獣。その小さな心にとって、世界で最も強く、最も優しく、そして何よりも「自分だけを守ってくれる存在」として、純粋な願いを込めて思い描いた幻の狼だった。
そして今、彼の最後の祈りに応えるかのように、その幻獣は現実となって、この墓前に立っていた。まるで、「もう恐れることはない」と告げるために——。
エルミアはそっと幻の狼に近づき、指先で、その狼の頬を撫でた。
途端に、彼女の脳裏に激しいビジョンが流れ込む。これは、墓の主人に起こった出来事である。
焼け焦げた空は、まるで世界そのものが絶望に呑み込まれたかのように重く、黒煙が渦を巻いて空高く立ち昇っていた。
太陽すらもその黒雲に隠され、薄暗い赤銅色の光が地表を陰惨に照らしていた。戦場の泥濘は、無数の命が散った証を残すように血と泥が混じり合い、足を踏み入れるたびに不気味な音を立てていた。
その場所に、ひとりの若き兵士が無惨に倒れていた。
視界はすでに血で霞み、世界はゆらゆらと揺れる炎の影に覆われていた。耳には絶え間なく断末魔の叫びが響き渡り、金属がぶつかり合う甲高い音や、馬の悲鳴、燃え盛る炎の爆ぜる音が、容赦なく意識を切り裂いていく。
彼の身体は、もはや石のように重く、冷たく、指先一つ動かすことさえ苦痛だった。ただひとつ、まだ命の灯火がわずかに残る右手だけが、胸元を探り当てる。
そこにあったのは、懐に大切にしまっていた母からの手紙。そして、その手紙にそっと添えられていた、一輪の小さな花弁。乾いたはずのその花びらは、戦場の湿気に少しだけしっとりと重さを取り戻していた。
彼は最後の力を振り絞って、その花弁を震える指で握り締めた。意識が朦朧とする中、焼き焦げた空の下でふと、あの穏やかな日の記憶が鮮明に蘇る。
あの小さな丘。春風が柔らかく吹き抜け、一面に咲き誇る野の花の香りに包まれた場所。母の手はあたたかく、小さな自分の手を優しく引いてくれていた。
花摘みをしては、「見てごらん、これが春の宝物よ」と笑いながら髪に飾ってくれた。あの日の母の笑顔は、どんな陽だまりよりも柔らかく、どんな花よりも輝いていた。
そして、あの誕生日のこと。小さなかまどで焼いてくれた、不格好で少し焦げたケーキ。それでも、その甘さとあたたかさは、世界のどんなご馳走にも代えがたかった。
ひとくち食べた瞬間に広がった、砂糖の優しい甘み。母は恥ずかしそうに笑っていたが、あの味は今も胸の奥に焼き付いて離れない。
彼の唇がかすかに動いた。声にならぬ「お母さん」という祈りが、その場に溶けていく。血の気が失われていく中でも、心だけはあの日の丘に帰ろうとしていた。
彼は願う。もう一度だけ、あの丘に立ち、母の笑顔に包まれたかったと——。
そして、静かに、意識は闇の彼方へと沈んでいった。握り締めた花弁だけが、最後まで温もりを忘れず、彼の小さな祈りを抱き続けていた。
『お母さん、ごめん・・・本当は、生きて帰りたかった・・・もう一度だけでも、会いたかった』
兵士の魂は泣き叫びながらも、最後の一瞬まで母のことを想った。そして、その深く激しい愛は、死してなお現世に留まり、形を持とうとしていた。
その全てが、エルミアの心を焼くように貫いた。胸の奥で何かが軋み、彼女の視界はぼやけていく。彼女の頬を、大粒の涙が伝う。
「もう、大丈夫だよ・・・お母様は、君のこと・・・とても、誇りに思っているよ」
幻狼は、まるで彼方にいる誰かに最後の別れを告げるかのように、静かに頭を上げた。その金色のたてがみは光の奔流のように風にたなびき、凛と張り詰めた空気の中、重々しく、しかし確かに息を吸い込む。
そして次の瞬間——
澄み渡る夜明け前の空へ向かって、魂を揺さぶるような一声を放った。その咆哮は単なる獣の叫びではなかった。
それは、短く儚い生を終えた若き兵士の想いそのもの。叶わなかった願い、大切な人への最後の祈り、そして、この世への別れの言葉が、すべて込められていた。
その声は、冷たい霧を振るわせ、空の果てまで駆け抜けていくようだった。墓地に漂っていた重苦しい空気は、まるでその咆哮によって浄化されるかのように、静かに晴れていく。
そして、咆哮を終えた幻狼はゆっくりとその身を崩し始めた。金色のたてがみはふわりと宙に舞い上がり、細やかな光の粒子へと変わっていく。
その輝きは陽光よりも暖かく、星明かりよりも優しく、風に乗って静かに舞い上がる。
無数の金の粒子は、まるで天への帰路を辿るかのように、ゆっくりと空へ溶けていった。彼の魂は、ようやく安らぎの地へと還っていく。その光景は、見る者すべての心に深く刻まれる、美しい別れの儀式だった。
激しく泣くエルミアの小さな肩は、胸の奥から押し寄せる痛みに耐えきれずに震え続けていた。彼女の指先はわずかに握りしめられ、必死に自らの感情を抑え込もうとするかのようだった。しかし、それは叶わなかった。
彼女の心には、兵士が最後に見た焼け焦げた空の絶望と、母を思い出したあの切ない記憶が鮮明に流れ込んでいた。あの丘の柔らかな陽だまり、母の手の温もり、不格好でも心から愛情のこもった誕生日のケーキ——それらすべてが彼女の胸を締め付ける。
その純粋すぎる愛と、成し得なかった願いの深さに、エルミアはただただ打ちのめされていた。
喉の奥から絞り出すような嗚咽が漏れ、彼女の頬はあふれる涙に濡れていた。それでも肩は震え続け、まるで兵士が味わった絶望と悲しみを自らの内に引き受けているかのように、いつまでもその小さな身体は泣き崩れたままだった。
それは、ただの悲しみではない——彼女が背負う、魂の痛みそのものだった。