表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

平凡な令嬢、マリールイスの婚約の行方




「僕はあなたに、一目惚れをしてしまったようです。どうか次の曲のパートナーとして、この手を取っていただけませんか」


王宮で新しい年の幕開けに開催される舞踏会で、マリールイスは話したこともない公爵家の令息からダンスに誘われた。

レイフ・オークランスは自身の外見が女性の心を鷲掴みにすると知っている、そんな妙な余裕を纏っていたが、マリールイスはただ戸惑っていた。


(ど、どうしましょう、このお誘い、どうするのが正解なの……!?)


縋るように父に目線を送ると『お受けしなさい』とでも言うように、コクコクと頷いている。

公爵家の嫡男から声を掛けられたのなら、伯爵家のマリールイスに断るという選択肢は無いようなもの。

マリールイスは、差し出された手に恐る恐る手を載せた。


「……よろしくお願いいたします」

「良かった、僕は果報者だ」


レイフはそう言って微笑むと、そっとマリールイスの腰に手を回す。

それは触れるか触れないかのソフトなもので、強引にも思えた誘い方を考えると少し意外に感じた。

それでも、一目惚れだなんて信じられなかった。


(自分の容姿は、この国のだいたい平均値だもの。これは謙遜ではなく真実に限りなく近いという自信があるわ!)


明るい栗色の髪は身分を問わずこの国で一番多い髪色で、薄い緑色の瞳もありふれている。

高くも低くもない身長に、細身でもグラマラスでもない体型。

そして名前までが、『舞踏会で石を投げればマリーに当たる』と言われるくらいにありふれている『マリー』が愛称の、マリールイスなのだ。

実家のエングダール伯爵家も、堅実な領地運営だと評価されているけれど、他に語れる美点は特にない。

ただ、何もかもが平凡なマリールイスも、ひとつだけ平凡の枠から少しはみ出す部分があった。もっとも、それはマリールイスの『魅力』の話ではない。

マリールイスの家族はとても仲が良いのだった。


マリールイスは、エングダール伯爵夫妻の間に産まれた娘ではなかった。

エングダール伯爵の妹夫妻に婚姻後三年経っても子が生まれず、妹の夫の親戚である子爵家から、生まれたばかりのマリールイスを養女として迎えた。

籍を移すのは、引き取ってから一年後と取り決めされた。


ところが、半年が過ぎた頃にエングダール伯爵の妹に、待望の妊娠が分かった。

しかも、医師から双子を妊娠していると言われたのだ。

双子が生まれるとあっては、まだ赤子のマリールイスの面倒を見られるか……。

マリールイスに乳母はついていたが、伯爵の妹は自分が産んだ双子にしか目がいかなくなるだろう。

幸いというべきか、その時点でまだ籍を動かしていないマリールイスを生家に返そうとした。

マリールイスの生家の子爵家からは、女児ばかり四人続いて生まれた四番目の娘を、今さら返されても困ると言われてしまった。


話し合いの調整を頼まれたエングダール伯爵夫妻は、生家と養子先の双方から『不用品』扱いされている一歳にもならないマリールイスが哀れになり、マリールイスを引き取ったのだった。

伯爵夫妻は夫妻のどちらとも血縁のないマリールイスを、二人の息子たちと同じように可愛がって育てた。

マリールイス十二歳の時に、実子ではないことを夫妻はマリールイスにも息子たちにも打ち明けたが、それまでと何も変わらず、家族から愛される生活をマリールイスは送っていた。



「マリールイス嬢、どうか僕の婚約者になってくれないだろうか?」


レイフは一曲が終わってもマリールイスを離さず二曲目も踊り続け、その曲が終わる直前に、そう言った。


「……婚約、ですか? あの、わたくしの一存では……」

「ごめんごめん、もちろんお父上やご家族とよく話し合って決めて欲しいと思っているよ。でも僕はどうしても君と婚約したいということを、分かってもらいたいと思ってね。君に一目惚れしたのは運命だと思っているんだ」

「運命……」

「そうだ。僕が感じたこの運命を、君と共有できたらと思っている」


二曲目が終わると、マリールイスはようやく解放された。

一目惚れだとか運命だとか、ふんわりした言葉で婚約者になって欲しいと言われたが、少しも現実感がなかった。

マリールイスにとって、格上過ぎるオークランス公爵家の嫡男レイフからの唐突な婚約の打診は、嬉しいというより困惑でしかない。


「お父様お母様、エーギル兄様ヨーアン兄様、私、レイフ様に婚約してほしいと言われてしまいました……」


「婚約!?」


マリールイスの父は、動揺から手を滑らせて、この新年の舞踏会の為に新調したフロックコートにシャンパンを掛けてしまった。


「お父様、大丈夫ですか!」

「大丈夫ではない、私の服もマリーの婚約の話も、何も大丈夫ではないな! 急いで帰ろう、家族会議だ」

「まあ。だいたいのご挨拶は済ませておいてよかったわ」

マリールイスの母は、エングダール伯爵のフロックコートをハンカチで拭きながらのんびりと言った。

二人の兄も父親と同じように動揺を見せたが、運良くグラスは持っていなかった。




***




舞踏会から戻ると着替えもそこそこに、マリールイスと家族たちはダイニングルームに集まっている。

最後に父親であるエングダール伯爵がやってきて、ダイニングテーブルのいつもの席に座った。


「オークランス公爵家の嫡男レイフ殿は、エーギルと同じ二十一歳だ。学園で一緒だったろう、どういう人物なのだ?」


促された長兄に、皆の視線が集まった。


「あまり交流はなかったので、よく分からないとしか言えません。高位貴族ばかりの、いわゆる華やかなグループにいらしたと思います。

僕らの学年には王族がいらっしゃらなかったので、オークランス公爵家嫡男であるレイフ様はその中でもリーダー的な存在だったかと」


エーギルが淡々と言うと、いつもは口数が少ない次兄ヨーアンが続けた。


「一つ下の僕の学年の教室は、レイフ様たちがいつも昼休みを過ごしている第二食堂と同じ建物にありましたのでよく見かけました。カタリーナ・ブルネル公爵令嬢と親しく、てっきり婚約者なのだと思っていました。二人きりということはありませんでしたが、いつも近くにいたといいますか。まあ、他の令嬢も傍に置いていたので、正直あまりいい印象はありません」

「確かに、悪く言えば女たらしかもしれない……」

「エーギル、それは悪く言い過ぎだろう。ここではともかく、外では気をつけてくれ。相手は公爵家の嫡男なのだ」

「……申し訳ありません」

「大切なのはマリーの気持ちではないかしら」


母の言葉に皆が頷いたが、父の眉間の皺が深くなった。


「それはもちろんそうなのだが、いかんせん相手は公爵家だ。マリーの気持ちを優先することは叶えてやれないかもしれない……。それでも私もマリーの思いを聞きたい」


「私は……レイフ様のおっしゃった『一目惚れ』というのは違うと感じました。直感……としか言えませんけれど。ですが、オークランス公爵家と縁続きになるのがエングダール伯爵家にとって良いことであるなら、私は嫁ぐことに異存はありません」


マリールイスはレイフと婚約などしたくなかったが、血の繋がらない自分を実子である兄たちと分け隔てなく育ててくれた父母や兄たちや、家門の為になる婚姻であれば、これを受けるのが自分にできる最大の恩返しだと思っている。

『お父様のおっしゃる通りにします』と言えば、優しい父のことだから罪悪感を持ってしまいそうだ。

だからあえて、『嫁ぐことに異存はない』と言った。

あくまでも、私の決断だとしなくては……。

マリールイスは無意識のうち、エーギルの顔を見た。


(レイフ様と同級生だったエーギル兄様には、何か思うところがあるのかもしれないわ)


エーギルは口を引き結んで難しい顔をしていた。


「オークランス公爵家と姻戚になることは、我が家門にとってはもちろん悪いことではない。真偽は定かではなくとも、マリーに一目惚れと言ったのだ。マリーを大切にしてくれると信じるしかないな」

「そうだといいのですけれどね……」


父母の会話に、二人の兄は何も言わずに無表情になっている。

レイフを見知っている兄たちの様子に、マリールイスはこの婚約で自分がどうなってしまうのか、不安な気持ちになった。

家族会議が終わり、マリールイスは自室に戻ろうと歩いていたら、エーギルに声を掛けられた。


「マリー、何かあればすぐに言って欲しい。父上に言いにくくとも、俺やヨーアンになら言えることもあるだろう? いつでも何でも相談に乗るからな」

「エーギル兄様……。そう言ってくださると安心します。何かあればお兄様に話しますわ」

「俺はいつだってマリーのことを一番に考えているからな」

「私も一番頼りにしています、エーギル兄様」


エーギルはマリールイスが見えなくなるまで見送ると、そのまま今居た部屋に戻った。


その翌日に、オークランス公爵家から先触れがあった。

さすがに昨日の今日とは想定外で、慌てふためくエングダール伯爵家に、午後になってオークランス公爵と嫡男レイフが豪奢な馬車でやってきた。

正式に、マリールイスに婚約を申し入れたのだった。

夕べの家族会議の後、エングダール伯爵はこの婚約を断ることはできないと判断した。


マリールイスの祖父の世代までは、子供の頃に婚約を結ぶことは貴族の間では普通のことだったが、その頃婚約破棄を突きつけることがあちこちで見られた。

そしてついに当時の王太子が、身持ちの固い婚約者である公爵令嬢よりあちこちが緩い下位貴族の令嬢を選び、婚約者令嬢に冤罪を吹っ掛けて婚約破棄をするという案件が起きた。

大勢が集まる場所でのことで、王家といえども王太子の暴言を撤回も隠蔽もできなかった。

きちんと調べれば婚約者令嬢の冤罪はすぐに晴らされた。そしてその結果、建国以来、初の王太子の廃嫡という醜聞になった。

それから、あまりにも早い時期の婚約は控えられるようになり、ある程度の社会性が身に付いてからの婚約が主流になっている。


エングダール伯爵家の嫡男で、二十一歳のエーギルにまだ婚約者はいないが、さすがにそろそろ決めなければならない。

今は、伯爵家の嫡男としての学びの総仕上げに取り掛かっている。

父の持つ男爵の爵位をいずれ譲られる予定で、今は技術者として働く次男ヨーアンにもマリールイスにも婚約者はいなかった。

婚約を結ぶ書類に双方の父がサインをすると、オークランス公爵と嫡男レイフは機嫌よく帰っていった。




***




マリールイスの婚約が結ばれて数か月が過ぎた頃、ブルネル公爵家の一人娘カタリーナと、ストレーム侯爵家の三男グスタフの婚約発表パーティがブルネル公爵家で開催されることになり、エングダール伯爵家にも招待状が届いた。

カタリーナとグスタフはマリールイスの兄エーギルと婚約者レイフの同級生で、レイフが最も懇意にしている友人だ。

マリールイスは当然のように婚約者のレイフからエスコートの申し出を受けたが、憂鬱に感じている。

あれから、オークランス公爵家嫡男レイフが伯爵家のマリールイスに一目惚れをして婚約が調ったという噂が流れていた。


(どう考えても、噂の出どころはレイフ様だわ……。彼自身が語らなければ『一目惚れ』という言葉が出回るのはおかしいもの)


婚約が調ってから、レイフからティーサロンに連れて行かれたり、髪飾りを選ばせて欲しいという名目で王都の街歩きに誘われたりした。

どの場面でもレイフはとても紳士的な対応をしていたけれど、マリールイスはレイフと会うのが『外ばかり』ということに気づいた。


オークランス公爵家の広大な庭を案内してくれるだとか、マリールイスの家を訪れて一緒にお茶を飲むだとか、そうした人目につかない誘いは一度もなかった。

自分を見るレイフの瞳に、一目惚れをしたという『熱量』を感じることはなかった。むしろ、無関心さだけを感じている。

レイフは他者がいるところでは優しくマリールイスに話し掛けるが、二人きりの時は冷ややかだった。

特にマリールイスの口調や仕草に対し、『公爵家の僕が躾をしてやる』という姿勢で物を言ってきた。


(人に上手く説明することは難しいけれど、レイフ様が私に恋をしてないことだけは絶対確かだわ。恋どころかまったくの無関心。これは、本人である私にしか分からないものかもしれない)


婚約を申し込まれた理由が分からず、マリールイスはあれからずっと居心地の悪い思いをしていた。

兄たちが言うように、カタリーナ・ブルネル公爵令嬢と親しくしていたようだが、婿を取ることになった婚約披露パーティにレイフも招待されている。

ブルネル公爵家から、エングダール伯爵家宛に届いていた。

レイフとカタリーナの間に何か関係があったのなら、レイフの婚約者となったマリールイスの家族宛の招待状は送らないだろう。


そしてパーティの二週間前には、レイフからマリールイスにドレスが届いた。

婚約が正式に調ってすぐに、公爵家での採寸にマリールイスが呼ばれて行ったのだ。

公爵家には、王妃殿下や王女殿下御用達で予約が取れないことで有名なドレスメーカーが大勢でやってきていた。

こうしたパーティや舞踏会のために、マリールイスのドレスを公爵家持ちで作ると言われたが、こんな有名なドレスメーカーだとは思わずマリールイスは困惑した。


届いたドレスを広げると、エングダール伯爵家の人々は感嘆の声をもらした。

女性のドレスにあまり詳しくないエーギルやヨーアンにも、その生地がとても豪華で丁寧に織られていることが判るほどだった。

デザインも凝っていて、母は素晴らしいわねと呟いた。

マリールイスは、相変わらず腑に落ちないままだ。

自分に似合うとは思えない豪奢なドレスを前にしても、気分は少しも上がらない。

マリールイスを除くエングダール伯爵家の人々は、一周回って本当にレイフがマリールイスに一目惚れをしたのではないかと思い始めていた。





「マリー、ドレスもネックレスもとても似合って美しいよ」

「ありがとうございます。レイフ様も、とても素敵です」


ブルネル公爵家のパーティの当日、迎えに来たレイフは、マリールイスを見るなり笑顔でドレス姿を褒めた。それなのに、マリールイスにはその言葉が取って付けたように感じてしまう。

馬車に乗り込み、二人きりになるとレイフの態度が変わった。


「さっきはすぐに『ありがとうございます』と言ったよね。まずは『はい』と僕の言葉を受けてから、ありがとうございますと繋げるのだろう? いつになったら子供のような話し癖が抜けるのだろうか。パーティではしっかりしてくれよ? 恥をかくのは君だけではないのだからな」


「……申し訳ございません」


「だから相手の言葉を受けて『はい』と最初に言うんだ」


「……はい、重ね重ね申し訳ございません」


やはり、レイフが自分に一目惚れをしたなどというのは嘘なのだ、マリールイスはそう確信する。

マリールイスは自分の腿のあたりに目を落とした。

今夜のためにレイフから贈られた、光沢の美しいシルバーの生地のドレスはスカートが斜めに切り替えられていて、そこからヴァイオレット色の細かいプリーツとなっている。

落ち着いた栗色のまとめ髪に、髪飾りの代わりに控えめに白い生花を挿した。

レイフから髪飾りを贈られなかったので、豪華なネックレスが目立つようにという意味だと受け止めた。


ドレスと一緒に贈られたネックレスは、繊細にカットされたオークランス領の大粒のダイヤモンドに、こちらも細かくカットされた紫色のアメジストがダイヤの両サイドにあり、眩い煌めきを放っていた。

このネックレスは、レイフの母であるオークランス公爵夫人のものだったらしい。

今はこうしてマリールイスの白い胸元で輝いているが、マリールイスに贈られた物のようでそうではない。結婚すればオークランス公爵家の宝石が並ぶ棚に戻るだけだ。

そうして代々受け継がれる、公爵家の歴史の一部なのかもしれない。

レイフが贈ってくれたこのドレスは胸元が大きく開き過ぎているし、何もかも落ち着かない気持ちになった。




レイフにエスコートされて、ブルネル公爵家に入る。

カタリーナとグスタフの婚約が発表され、マリールイスはレイフに連れられて主催の二人に挨拶をした。


「カタリーナ、グスタフ、婚約おめでとう!」

「ありがとう、レイフも一目惚れをしたという可愛らしい婚約者を紹介してくれるわよね」

「ああ、もちろん。僕の婚約者のマリールイスだ。僕らの同級生にエーギル・エングダールがいただろう? 彼の妹なんだ。マリー、今日の主役のカタリーナとグスタフだ。どちらも僕の同級生で、この婚約を友人としてとても喜んでいるんだ。さあ、挨拶を」


レイフに促されると、周囲の人たちがじっとマリールイスを見た。


「この度はご婚約おめでとうございます。心よりお慶び申し上げます。エングダール伯爵家が娘マリールイスと申します。ブルネル公爵令嬢様が……とても美しくて……真紅のドレスがとてもお似合いで、まるでフレイヤ様のようです……」


マリールイスは緊張から言葉が震えてしまったが、カタリーナを美の女神にたとえたことで、緊張からの震えはカタリーナの美しさに感動したものと捉えられた。

マリールイスはカタリーナの華やかな美しさを目の当たりにして、またカタリーナを見るレイフの瞳の持つ熱量にもそっと気づいた。


「フレイヤ様のようだなんて、嬉しいわ。マリールイスさん、カタリーナと呼んでくださるわね? 私たちの友人であるレイフの婚約者ですもの、仲良くしましょう」

「……カタリーナ様とお呼びできる幸せを、ありがとうございます」

「あまり今夜の主役の二人をここに留めてしまっては、他の皆様に申し訳ないからね。僕らはこれで」

「レイフもマリールイスさんもパーティを楽しんでね!」


カタリーナはグスタフに肩を抱かれて、マリールイスたちから離れて行った。

それからレイフの何人かの知り合いに紹介されて挨拶をした。マリーは紹介された人たちのことを、課題を覚えるように記憶していった。


「君の挨拶はまあまあ良かったよ、七十点というところかな。少し疲れただろう」


レイフはマリールイスをホールのすぐ外のソファに座らせ、給仕からグラスをひとつ受け取り手渡した。


「白葡萄の炭酸水だそうだ。少しここで待っていてくれないか。まだ挨拶をしていない友人のところへ行ってくる。君は決してここを動かないようにね」


「はい、かしこまりました」


マリールイスはホールに戻っていくレイフの後ろ姿を見送り、炭酸水を飲んでほっと一息ついた。


(七十点をいただいたわ。これは及第点ということなのかしら。残りの三十点の内訳を尋ねたら叱られてしまうのでしょうね……)


ここはホールを囲むようにして置かれているソファの一つで、常に人目がある。ホールの女性たちのドレスを見ていると、それほど退屈でもなかった。

壁際にもソファは置かれているが、ホールの近くのこのソファは安心できた。

時々、給仕係の女性が飲み物やカナッペやフルーツの小皿をソファ横の小さな丸テーブルに置いてくれる。

その時、マリールイスのソファにカタリーナが近づいてきた。


「あらマリールイスさん、我がブルネル公爵家のパーティは退屈かしら」


マリールイスは慌てて立ち上がった。


「いいえ、こうした華やかな場所に慣れていないものですから……少し休んでおりました。申し訳ございません」


「そうね、休憩は招待客の当然の権利だったわね、どうぞごゆっくり」


カタリーナが去ると、マリールイスはへたり込むようにまたソファに座る。

給仕の女性が、今度は果実の炭酸水ではなくオレンジを浮かべた水を持ってきてくれた。

マリールイスは、それがありがたくて礼を言った。


「ご令嬢、お一人で退屈でしょう。向こうでお話でもしませんか?」


どこかの令息に話し掛けられたが、マリールイスは丁寧に断った。


「婚約者がすぐに戻りますから」


同じようにもう一人から声を掛けられたが、また同じように返した。

それにしても、レイフはなかなか戻ってこない。


(きっと私といても、レイフ様は退屈なのよ。だとしてもずいぶん遅いわ……)



そろそろ一時間くらいは過ぎただろうか、マリールイスはパウダールームに行くことにした。

手持ち無沙汰だったとはいえ、冷たい飲み物を四杯も飲んだのは失敗だったのかもしれない。


歩いていくと、壁際のつい立ての向こうからレイフの声が聞こえた。

マリールイスはつい立てに背中を向けて誰かを待っているようにして、レイフの声に耳をそばだてる。


「──そうだよ、一目惚れなんて嘘に決まっているだろう。父に厳しく言われたんだ。この婚約は、優れたダイヤモンド研磨技術者であるマリールイスの次兄を、我がオークランス公爵家に留めておく為のものだとね」


「オークランス公爵領のダイヤモンドは、王国随一の素晴らしさだと他国も認めているね。そのダイヤは、鉱山からの切り出しも原石の研磨も今はヨーアン・エングダールの技術力に支えられ、他国が彼の引き抜きを狙っていると僕も聞いたことがある。王家がオークランス公爵家に、決してヨーアン・エングダールを手放さないようにと言っていると」


「そうなんだ。彼の技術でこれまでダイヤの鉱石から取り出せなかったものも切り出すことができ、さらに加工技術に使う道具もすべて彼が作っている。ただの岩石でしかなかったものから、イエローダイヤやピンクダイヤが切り出せるようになったんだ。いくつかのジュエリーを王家に献上したところ、王妃殿下に大変気に入っていただけた。おかげで我がオークランス公爵家は実に潤っている。王家からエングダール伯爵家とさらなる強い縁を結べと言われても、まさか俺が彼と結婚するわけにもいかないだろう? だから、仕方なくという話さ。実際、茶色の髪でパッとしないマリーより、金髪の兄のヨーアンのほうが美しいくらいだ」


「それでマリールイスさんと婚約したというわけなのね。おとなしい感じだったから、レイフの趣味が変わったのかと思ったわ。でもいい子じゃないの、私を美の女神にたとえるなんて」


「あんなのカタリーナに取り入ろうとしただけだろう。おとなしそうに見えて意外に狡猾なんだと思ったよ」


「上目遣いで媚びてくる子はいるけど、あんなふうに震える子はいないわよ」


「カタリーナに気に入ってもらえたなら良かったよ。まあ俺の分まで可愛がってやってくれよ。父からエングダールの娘を大事にしろ、妹が大事にされていればオークランス公爵家の鉱山からヨーアン・エングダールが出て行くことはないと、うるさいくらいに言われてウンザリなんだ。マリーと婚約してまで引き留めたヨーアン・エングダールには、せいぜい我が公爵家のために安く長く働いてもらうさ。そのためには、あのたいして美しくもなく面白みもないマリーと仲良くやってくしかない。マリーに贈ったドレスだって、呼び寄せたテーラーが連れてきた見習いの女の子が美人だったから、その子に合いそうなものを想定して選んだんだ」


「……確かに、あのドレスはマリールイスさんには似合っていなかったけれど、ずいぶん酷いことをするわね」


「マリーに似合うドレスを作ったら、王宮の侍女になってしまうからな。ここは俺の想像力を褒めるところだろう?」


「そういえばまだあの子は一人でいるの? さっき声を掛けたけれど、ずいぶん前よ」


「動かず待っていろと言って置いてきた。安全な場所だし、そう言ったらバカ正直にどれくらい待つものかと思ってね」


「レイフったら、本当にどこまでも酷い男ね」


笑い声の混じったカタリーナの声が、他の笑い声を誘った。


「カタリーナ、こんな男と別れて僕を選んで良かっただろう?」


「グスタフ、まだブルネル公爵家の婿になったわけではないんだぞ。カタリーナ相手はともかく、オークランス公爵家嫡男の俺に対する言葉はきちんと選べ」


「はいはい、婚約者令嬢のことを悪意で放置する酷くて素晴らしい公爵令息様、申し訳ありませんね」


どっと笑い声が上がった。

中でもひと際大きな笑い声を立てたのは、レイフだった。



……婚約者のレイフがマリールイスに優しかったのは、高い技術力を持つ次兄が他国へ引き抜かれるのを防ぐためだった。

次兄を繋ぎ止めるために、マリールイスをちょうどいい『鎖』として使っただけ……。

しかも、兄を生涯安く使ってやるとも……。


『俺が彼と結婚するわけにはいかないだろう? だから仕方なく……実際、マリーより兄のヨーアンのほうが美しいからな』


『ドレスだって、呼び寄せたテーラーが連れてきた見習いの女の子が美人だったから、その子に合いそうなものを想定して選んだんだ』


レイフの言葉が頭の中で繰り返される。

マリールイスは、床が急勾配になったかのようにふらついた。

レイフの『一目惚れ』というのはまったく信じていなかったが、ここまで酷く扱っていい存在と思われているとは……。

彼にとって大事なのは、父である公爵の言うとおりにすることだけ。

レイフはマリールイスを馬鹿にするだけではなく、優れた技術者である次兄ヨーアンのことも馬鹿にしていた。


ヨーアンは子供の頃から機械いじりが好きで、たいていの道具は自作した。

マリールイスの壊れたオルゴールを直してくれたり、庭師に水やりの道具を自作したりもしていた。

天才的な手先の器用さと、機械への好奇心から、父の懐中時計をバラバラにして再び組み立てたのは九歳の頃だったという。

そんなヨーアンのことを聞いた父方の親戚が、オークランス公爵家の鉱山のダイヤを切り出す道具を改良してみないかと声を掛けたのだ。

その親戚はオークランス公爵家の鉱山で働いていたのだ。

公爵家傘下の多くの貴族が、ダイヤの加工や研磨、そして芸術品のようなジュエリー製作を担っている。



マリールイスは、目の前にグレーの緞帳が下りてきたように暗くなり、口元を押さえてその場を離れた。

そして、ふらついたマリールイスの細い腕を誰かが掴んだ。




***




「マリールイスは一緒ではありませんか?」


仲間内で笑い合っているレイフの前にやってきてそう言ったのは、マリールイスの長兄エーギル、エングダール伯爵家の嫡男だ。


「やあ、エーギル、久しいな。マリーなら、向こうのソファで休んでいると思うが。ああ、知人への挨拶も済んだことだし、そろそろマリーのところに戻ろうと思っていたから、一緒に行こう」


レイフはエーギルを先導して、マリールイスが居るはずのソファに来たがそこには誰もいなかった。


「……おかしいな……。マリーは、フロア前のソファで少し休んでいると言ったのだよ。僕は、その間に知人たちに挨拶をしていたところだ」


「マリールイスと離れたのは、どれくらいの前のことでしょうか?」


レイフはエーギルにそう問われて焦った。

マリールイスに待つように言ってから一時間以上過ぎている。まさかそんな長時間、婚約者であるマリールイスを放置していたと、彼女の兄には言えなかった。


「……どれくらいというか、つい先程だ……」


「そうですか。では私はマリールイスを捜します。失礼します」


「僕も捜そう!」


「……ご自由になさってください。では」


エーギルは、ソファ横の丸テーブルを片付けている給仕の女性に尋ねた。


「君、仕事中にすまない。あのソファに令嬢が一人で居たと思うのだが、その令嬢がどうしたか知らないだろうか」


「はい。あちらのソファにいらっしゃったご令嬢に、炭酸水や果実水を……そうですね、四杯お持ちいたしました」


「……四杯も……その間はずっと一人だったのか……」


「私が気づいてからはずっとお一人でしたが、その前のことは分かりません。お一人でしたので、何度か男性から声を掛けられていましたが、丁寧に断っていらっしゃいました。体調が優れないのではと思い、上の者に伝えてこようと離れて戻ってきたら、ご令嬢はいらっしゃいませんでした」


「……そうか。ありがとう」


「人を呼んでまいります。こちらでお待ちください」


女性の給仕は、マリールイスに気を配っていたようだった。

まだエーギルの隣にいたレイフの顏が、青ざめている。


「カタリーナとグスタフに事情を話してくる。マリールイスを捜すのを手伝ってもらおう」


レイフは、エーギルが自分を睨んでいるように感じて目を逸らした。


「私からもブルネル公爵にお話をしに参りますが、まずは先ほどの給仕の女性が誰かを呼んでくれるようでしたので、ここに残ります」


レイフは学園時代に、エーギルと二人で話した記憶はなかった。

元同級生であっても、家の爵位の違いでエーギルは他人行儀にレイフと話している。

そのことが、何故かゾワリと寒気を呼び寄せた気がした。


「……僕はカタリーナとグスタフのところへ行って協力を頼んでくる。何、きっと入れ違いになっただけさ」


(まずい、まずいことになった……。まさかマリールイスの行方が分からなくなるなんて……)


レイフはホールを二周して、ようやくカタリーナとグスタフを見つけた。

先程まで談笑していたスペースには、もう誰も居なかったのだ。


「マリーがいなくなってしまって、見つからないんだ。今はエーギルが捜している。彼が給仕に話を聞いて、彼女を長い時間一人にしていたと知られてしまった……。一緒にマリーを捜してほしい……」


「なんですって!? 我がブルネル公爵家が招待した令嬢の行方が分からないなんて……。酷いわ……私の婚約発表のパーティなのよ……もしもお父様の名前に傷がついたら……」


「今はマリールイス嬢を見つけることが大事だろう。とにかく、公爵閣下の耳に入る前に、俺たちで手分けしてマリールイス嬢を捜そう」


グスタフは、消えたマリールイスの身を案じるどころか、それが自分の婚約発表の場であったことや父親の評判のほうを気にしているカタリーナに呆れた。

その時、グスタフの向かいにいたカタリーナが驚いた顔をした。

振り返ると、そこにはカタリーナの父であるブルネル公爵とレイフの父オークランス公爵、そしてフレドリクソン公爵が立っていた。

フレドリクソン公爵は国王陛下の一番下の弟君、今夜の婚約披露パーティで一番高貴なゲストだった。

カタリーナの父であるブルネル公爵は、その場に居た全員を応接間に促した。そしてフレドリクソン公爵に何か話して、部屋を出て行った。




***




「私はたまたま居合わせてしまったというところだが、ブルネル公爵から話をまとめる役を頼まれたので、君たちの話を聞こう。ブルネル公爵は今、すべての門を封鎖して招待客が東の馬車門からしか帰れないように手配をしに向かった。これなら入口で招待状送付の控えと、照らし合わせてから帰ってもらうことができる。もっとも、これまでに少なくない招待客が帰っているだろうから、そちらを後で照合する必要はある。パーティは中止とはしないことにしたそうだ。下手にパーティを中止にすると騒ぎになってしまうからな。本来の終了予定時間まであと四十分ほどのようだから」


「レイフ、何故おまえの婚約者の行方が分からないのか、話すのだ」


レイフの父オークランス公爵が、冷たい声でそう言った。


「ぼ、僕はマリールイスと挨拶回りをしていました。それで、カタリーナ嬢やグスタフなど友人たちが集まっていたので……少し待っていてとマリールイスに言って、ホールのすぐ近くのソファのところで別れ、僕はカタリーナ嬢たちと少し話をしていました。話が弾んで、少々戻るのに時間がかかり……」


「そ、そうよ、レイフはマリールイスさんに待てと言ったのだから、きちんと待つべきだったのではないかしら……。マリールイスさんも友人を見つけて、連れだってどこかへ行ったのかもしれないわ!」


嘘の言い訳を並べたレイフと、そのレイフを庇うようなことを言ったカタリーナ。

『少し』話をしたというような、短い時間ではなかったとグスタフは思った。

レイフはソファにどっかりと腰を下ろし、酒を飲みながら長い時間そこに居たのだ。

二人に幻滅したグスタフは、同調するようなことを何も言わなかった。

嘘の片棒を担げば、きっと後からその罰が下ると思ったのだ。


そしてブルネル公爵が戻って来た。

複数の使用人たちと、マリールイスの兄であるエーギルを連れている。


「まずは話を聞こう」


ブルネル公爵の言葉に、レイフはもう何のごまかしも利かないのだと悟った。

先ほどエーギルに『飲み物を四杯提供した』と答えた給仕の女性が、同じことを話した。

別の男性の給仕は、マリールイスが何度か令息たちに声を掛けられていたが、毅然と断っていたと話した。

また、会場をゆったりと見て回っていたという警備に当たっていたブルネル公爵家の騎士は、重要と思われる証言をした。


「壁際の応接ブースとなっているところのつい立ての前で、当該令嬢と思われる女性がおりました。顔色が悪いように見え声を掛けようとしたのですが、その時、私の横でお歳を召した男性が杖を落としてよろけ、そちらを優先してソファに案内しました。すぐに戻ったのですが、もう令嬢はおりませんでした」


「つい立ての前にマリールイスがいた? まさか、話を、聞かれたのか……」


レイフは焦るあまり、つい口を滑らせてしまった。


恋人だと思っていたカタリーナは自分ではなく家を選び、公爵家のレイフより格下の侯爵家のグスタフを婚約者とした。

自分は父によって、カタリーナに何もかもが劣るマリールイスと家のために婚約させられた。

そんな鬱屈した思いから、マリールイスをぞんざいに扱ってやっているのだと友人たちの前で吹聴したのだ。

あれを、マリールイス本人が聞いてしまったのだとしたら……。


「レイフ、話とはどういうことだ?」


父であるオークランス公爵に促されても、レイフは答えることができなかった。

すると、これまで黙っていたグスタフが口を開いた。


「マリールイス嬢の兄であるエーギル殿の前で、このようなことを申すのは本当に心苦しいのですが、レイフ様はマリールイス嬢との婚約は、優れた技術者である彼女のもう一人の兄ヨーアン・エングダール殿を他国に引き抜かれないためのものだったと、そう話していました。そのようにオークランス公爵に厳命されていたと。また、レイフ様は、マリールイス嬢を、わざとここで待っていろと言って、バカ正直にどれくらい待っているか見ものだと、放置してきたと言いました。つい立ての辺りに彼女がいたのなら、それらを聞いたのでしょう。レイフ様だけではなく、その場に居た我々の誰もが最低でした……」


「レイフ!」


レイフの胸倉を掴もうとしたオークランス公爵とレイフの間に、グスタフが割って入った。


「レイフ様を庇う訳ではございませんが、レイフ様にマリールイス嬢との婚約はヨーアン・エングダール殿をオークランス領に留め置くためだとおっしゃったのは公爵閣下ではございませんか。公爵閣下の権謀術数なお考えがレイフ様を追い詰めたのではないでしょうか。また、フレドリクソン公爵閣下、ヨーアン・エングダール殿を我が国に留め置くようにという密やかな命をオークランス公爵閣下に出したのは、王家であると伺いました。他国から引き抜きの動きもあったとか。何故、優れた技術を持つ彼に、その技術に見合った立場と報酬を与えることを選ばず、公爵令息にすぎないレイフ様に、その妹を娶る形で押し付けたのでしょうか。そのせいで、僕らはみんな、望まない婚約を……」


グスタフは格上である王弟フレドリクソン公爵やオークランス公爵に対し、あり得ないほどの失礼な言葉をぶつけた。

だが、『権謀術数な考え』と言われたオークランス公爵も、王家は他国から引き抜かれそうな技術者に対し、それに見合った立場と報酬を与えなかったと言われたフレドリクソン公爵も、そのとおりだと思うほかなかった。

大人の損得勘定から一人の令嬢が婚約者の言葉でそれを知ってしまった。

その後に消えてしまったことは、令嬢がショックを受けたことと関連しているかは分からないが、そうした事実の前に公爵たちは呆然としていた。

そこにカタリーナの甲高い声が割って入った。


「……グスタフ、あなた今、望まない婚約と言ったわね? 私との婚約が嬉しくないとでも言うの!? ブルネル公爵家に婿入りできるのよ!?」


レイフとカタリーナは、それぞれ公爵家の第一子としての役割を背負っていた。

互いに惹かれ合っていても、その想いを封じてカタリーナは父の決めた婚約を受け入れた。ストレーム侯爵家の三男であるグスタフも、父親の決めた婚約に従った。

カタリーナのような気の強い女性はまったく好まないグスタフだが、嫡男ではないのだから、どこかに婿入りすることは普通のことで、ましてやそれが格上の公爵家とあれば喜ぶべきことだった。

カタリーナは自分の美貌に自信を持っており、地位と美しい妻の両方を手にするグスタフに、望まない婚約と言われて激高したのだ。

グスタフが周囲から『レイフのお下がりをありがたく頂戴した』などと揶揄されていることなど、カタリーナは知らなかった。


「……大変申し訳ありませんが、そうしたお話はマリールイスや我がエングダール伯爵家には、何も関係のないことです。ブルネル公爵家のお屋敷内を捜してもマリールイスが見つからないのでしたら、捜索範囲を外に向けなければならず、今はこのような時間も惜しいのです」


「あ、ああそうだな……すまない……」


「オークランス公爵閣下、マリールイスが見つかっても見つからなくても、レイフ様との婚約は白紙にすることをエングダール伯爵家は望みます。父と改めてオークランス公爵家に伺います。オークランス公爵家からマリールイスを求められた理由がレイフ様の一目惚れというのは真っ赤な嘘で、自分の技術力を留める為だったと知れば、弟ヨーアンもこのままではいられないでしょう。父も母も私も弟も、マリールイスの幸せを第一に考えています」


「婚約を白紙に戻すのは……やむを得ないが、それは令嬢が見つかってからのほうがいいのではないだろうか……」


「マリールイスがどのような状態で見つかるかも分からないのに、でしょうか? 生きていたとして、生きていられないような状態だったと判ってから婚約を白紙にしたら、オークランス公爵家はこの貴族社会でどのように思われましょうか。私のような若輩者は、公爵家はなんと薄情なことだと、そう思ってしまいそうですが。オークランス公爵閣下がそれで構わないとおっしゃるのでしたら、マリールイスが見つかってからの婚約解消でもかまいません」


カタリーナが震えながら声を殺して泣き出した。

先程から何を大袈裟なことをと思っていたが、マリールイスが自らの意志で出て行ったのではなく、誰かに連れ去られたのだとしたら……。

そこから先を想像するのは、同じ女性としてカタリーナにはあまりにも恐ろしいことだった。

グスタフは、さすがに泣き出した婚約者の肩をそっと抱いた。

レイフは重苦しい空気に潰されたように、膝をついてしまった。


「……オークランス公爵、エングダール伯爵令息の言うとおりだ。このタイミングで婚約を白紙にしたほうが、互いの家にとって傷が浅く済むと私も思う。今夜のパーティのように、その婚約は外に向けて発表していないのだろう?」


フレドリクソン公爵の静かな言葉にもう誰も何も言わず、ただ黙ってそれぞれどこかをみつめている。


マリールイスが消えた舞台となってしまったブルネル公爵は、家令に命じて紙とペンを持ってこさせ、それをオークランス公爵の前に滑らせた。

オークランス公爵は、嫡男レイフとマリールイス・エングダール伯爵令嬢の婚約を白紙にする旨を記して紙にサインをした。

マリールイスの兄エーギルも、エングダール伯爵家当主代理としてサインをした。

その紙に、王弟であるフレドリクソン公爵が見届け人としてサインをする。

用意された三枚の紙にそれぞれが三度ずつサインをし、オークランス公爵、エーギル・エングダール伯爵令息、そしてフレドリクソン公爵に手渡した。

エーギルは渡されたその紙を畳み、大事そうに胸元にしまった。


バタバタと使用人たちがやってきて、公爵邸内と庭をくまなく捜したものの令嬢は見つからなかったと報告をした。

また、門を閉ざす前にも招待客は帰っていったが、そこに不審な者はいなかったという。

もしもマリールイスが徒歩でブルネル公爵邸を出たのなら、歩いていくか辻馬車を拾うしかないが、どの門の門番も歩いて一人で門を出た令嬢はいなかったと証言したという。

となると、やはりパーティ参加者の誰かの馬車に乗せられて行ったとしか考えられない。

エーギルは表情をどこかに落としたような顔をしている。

オークランス公爵は、そんなエーギルに向かって口を開いた。


「明日は朝からエングダール伯爵家では捜索をするのだろう? そこに我がオークランス家の者を幾人か参加させてもらえないだろうか。我が公爵家はもちろん令嬢を捜すつもりだったが、両家がバラバラに行動するより効率的だと思うのだ。無駄なく迅速に令嬢を見つけたいと思っている」


レイフが婚約者を放置していたことと婚約者マリールイスが行方不明であることは、パーティ会場のブルネル公爵家の使用人たちに知れ渡った。

オークランス公爵家の使用人ならばその口を噤ませることはできるが、これからレイフのやらかしは、婚約が白紙になったことと抱き合わせで人の口を渡り歩くだろう。

少しでもオークランス公爵家の名誉を守るためにも、マリールイスの捜索にオークランス公爵家も加わることが重要だった。

あくまでもマリールイスの身を案じている顔をし続けなければならない。


「大変ありがたいお申し出をありがとうございます。伯爵家の我々では届かないところまで公爵家が照らしてくだされば、きっと妹はすぐにも見つかることでしょう。どうかよろしくお願いいたします」




***




マリールイスは、レイフの話を立ち聞きしてしまった直後、目の前にグレーの緞帳が下りてきたように暗くなって、口元を押さえてその場を離れた。

そしてふらついているマリールイスの細い腕を掴んで支えた男性の顔を見て、安堵から涙がこみ上げた。


「エーギル兄様……」


エーギルは恋人たちが愛を囁き合うのによく使われる、狭いバルコニーへマリールイスを抱くように隠して出た。

豪奢なブルネル公爵邸は、こうしたバルコニーがいくつもあった。


「マリー、あいつとの婚約は無かったことにしていいか」

「はい。最初から望んでいません」


マリールイスは、不安そうにエーギルをみつめ返した。

自分を映す、エーギルの瞳が熱を帯びている。

マリールイスは不思議と、その優しく熱く甘い瞳をずいぶん前から知っていたような気がした。この瞳に守られて、マリールイスは幸せに生きてこられたのだ。

エーギルやヨーアン、そして何より父母が大事にしてくれるこの家族の一員でいられることが嬉しかった。

その大事な家族を壊しかねない気持ちは、捨てなくてはならないと、マリールイスはきちんと理解してきた。


(でも……もしかしたら、諦めて土に埋めた想いを神様が……)


「単刀直入に言う。俺と結婚してほしい。マリーと血の繋がりが無いと知った日から、ずっとマリーを望んでいた。答えだけを今くれれば、後はすべて俺がかたをつける」


(……ああ、神様……)


レイフから結婚を求められた時とは、天と地ほど違う思いがした。

自分を望む言葉が本物なら、こんなにもその想いは伝わり胸が高鳴るのだ。



「……はい、エーギル兄様。私もずっと兄様のことを、お慕いしておりました」


エーギルは、『よしっ』と口の中で小さく呟き、一瞬だけマリールイスを胸に抱きしめ、思い切るようにグイと離した。


「必ず迎えに行く。今はヨーアンととにかくこの屋敷を抜け出してくれ。先に謝るが、マリーに良からぬ噂が流れることになる。すまないが辛抱してほしい。だが、そうするしか格上の公爵家との婚約を白紙に戻すことはできず、この先は俺がマリーを守り抜くから」

「エーギル兄様にすべてお任せします。私は兄様といられるなら……」


マリールイスは涙を堪えて微笑んだ。

いつも真面目な顏ばかり見せていたエーギルが、日なたに置いたバターのように蕩ける微笑みをマリールイスに返した。

マリールイスの心が温かいもので満たされる。

だが、エーギルはその微笑みをすぐに消した。


「急いでヨーアンとこの屋敷を出るんだ。詳しいことは馬車の中でヨーアンが話す」


ヨーアンは、エングダール伯爵家の馬車で皆と来たわけではなかった。

仕事を終えてから一人、家紋の入っていない馬車で遅れてやってきたのだ。

エーギルは警戒しながらバルコニーを出て、身を切られるような思いでヨーアンにマリールイスを預けた。


「ヨーアン、後は頼んだ」

「任せてくれ、マリールイスを無事に連れていく」

「エーギル兄様も、どうかお気をつけて!」


エーギルはマリールイスの言葉をしまい込むように自分の胸を叩き、振り返らずに歩いていく。

まだまだやるべきことがたくさんあった。



エーギルの耳にマリールイスやヨーアンの名前を出して笑っている集団の声が聞こえたのは、飲み物を取りに行こうとした時だった。

婚約の本当の理由を、マリールイスを侮辱しながら話すレイフの言葉に呆然とした。

だが、マリールイスが反対側のつい立てのところに居るのが見えて我に返った。

その場を離れずに、レイフたちの酷い言葉を聞いているマリールイスの小さな背中を見て、エーギルの怒りは沸点を超えた。


ヨーアンを見つけたエーギルは、自分の唇に指を一本押し当てる仕草を見せると、ヨーアンも気配を殺して隣に立った。

なおも止まらないレイフ・オークランスの聞くに堪えない話を、エーギルと共にヨーアンも歯を食いしばって聞き続けた。

エーギルはしばし考え込む顔をしたが、それも僅かな時間だった。

そして隣のヨーアンに小声で囁いた。


「今すぐマリーを連れ出して王都を出て、コルテカンナス領を目指せ。三日後には伯父上のカントリーハウスに着くはずだ。今夜は馬車で行けるところまで行ってくれ。俺はこっちをすべて片付けてからコルテカンナスに向かうが、数か月はかかるだろう」


エングダール領と隣接しているコルテカンナス領は、母の実家である侯爵家が治めており、領主はエーギルたちの伯父だ。


これから、オークランス公爵家やブルネル公爵家の者たちが、エングダール伯爵家にやってきて『一緒に捜索』ということになるかもしれない。

いくらマリールイスを屋敷の奥に隠しても、伯爵家のすべての使用人の口を閉ざすことは不可能だとエーギルは判断したのだった。


エーギルは今夜のようなパーティや舞踏会などの時だけ身に着ける、金の時計を外してヨーアンに渡した。成人の記念に父が買ってくれて以来、ずっと大切にしていたものだ。

だが、急なことで持ち合わせが無い。

明日になればこの時計を換金して、宿代や二人の着替えを揃えることなどに払い、馭者と馬にもいろいろ与えるようにと、エーギルはヨーアンに託した。


「分かった。マリーのことは任せてくれ。兄上、俺の部屋の机の引き出しに、辞表があるからそれをオークランス公爵に渡してもらいたい」

「辞めるつもりだったのか?」

「ああ、レイフ殿がマリーに嘘をついていると気づいた日に書いた。何かあればオークランス公爵家から離れる用意をしていたんだ。俺の大切な妹を任せられるのは、兄上だけだ」


エーギルとヨーアンは、今後のことを小声で話し終えるとマリールイスの傍に行った。

ふらついたマリールイスの腕をエーギルが掴んで支えた。



ヨーアンは人が多く行き来している公爵邸のエントランスを、マリールイスの肩を抱いて何気ない風で歩いていく。

少し酒に酔った妻を夫が抱き寄せながら帰っていく夫婦が、二人の目の前を歩いていた。

エントランスポーチを出ると、ヨーアンは彼らと同じように夜風に金色の髪を揺らしながら歩いた。

ブルネル公爵家の門番の目からマリールイスを隠すように自分に寄りかからせ、鷹揚に片手を挙げて出て行った。

その少し後ろを歩いていたヨーアンの従者が、馬車に走った。

ヨーアンは、馬車をブルネル公爵家の馬車溜まりに入れず、門の外で待つように従者と馭者に言っていたのだ。

舞踏会を楽しめないと思っていたヨーアンは、遅れて来たのに一人で先に帰るつもりだった。

特に誰かの気を引かない、至って普通の仕様の馬車はヨーアンと従者とマリールイスを乗せて、コルテカンナスを目指して北上して行った。



エーギルは、頭の中で組み立てたこれからの手順を確認し、レイフ・オークランスたちがいる場所に向かった。

小さく息を吐く。


マリールイスにオークランス公爵家から婚約の打診があった日の夜、家族会議が開かれたが、マリールイスが部屋を出た後に、父母と兄弟で『家族会議の本番』が始まった。

マリールイスが幸せにならない婚約を、どうにかして白紙にできないかを皆で話し合った。

その席で、マリールイスはエングダール伯爵家の籍に入っていないことを父が話した。

マリールイスは四女として生まれた子爵家の籍のままだった。

それを聞いたエーギルが立ち上がり、『自分はマリーを妹として見ていない。マリーと結婚して本当の意味でエングダール伯爵家の籍に入れ、幸せにしたい』そんな爆弾発言をした。


ところが、そんなエーギルの言葉に驚く者はいなかった。

伯爵も伯爵夫人も弟ヨーアンも、エーギルが隠しているつもりの気持ちを知っていた。

知っていたからこそ、父はマリールイスをエングダール伯爵家の籍に入れていなかったのだ。

いつかエーギルがマリールイスを妻にして、この家を継いでくれたら、こんなに嬉しいことはないと思っていた。

マリールイスが成人すれば、子爵家の実父のサインも必要なくそれは実現する。

そんな中で、オークランス公爵家から婚約の打診がきてしまったのだった。

エーギルや家族の気持ちは公爵家の横やりで閉ざされてしまい、あれからずっとエーギルは塞ぎこんでいた。

心から望んだマリールイスが、公爵家嫡男レイフの妻になってしまうと。

それが、レイフのマリールイスを嘲笑する言葉を聞いて、マリールイスを取り戻すことを決意したのだ。


父が一緒にいない時は、嫡男のエーギルがエングダール伯爵代理としてふるまうことを許されていた。

それは良いことばかりではなく、重い責任を背負わされていることでもあった。

とはいえ、ここまでのことを自分の独断で決めて良かったのだろうか。

だが、マリールイスをヨーアンに託し、二人を乗せた馬車は王都を出て行く。


──もう後戻りはできない。


エーギルは、使用人待機所にいるマリールイスの侍女を確保して、自分の従者に預けた。

そして格上の高位貴族たちが集まっている『掃き溜め』に向かい、なるべく大袈裟になり過ぎないように声を掛けた。


「マリールイスは一緒ではありませんか?」




***




レイフ・オークランスとオークランス公爵家にとって、悪夢のようなブルネル公爵家のパーティの夜が明けた。

オークランス公爵家は、マリールイス・エングダール伯爵令嬢の捜索のための人員を、エングダール伯爵家に向けて送りだす準備をしていた。

レイフを引きずってでも連れていこうとしたが、頑として支度をしない息子を諦めた。

ここでしっかり捜索に加わり、伯爵の嫡男エーギルと遜色ない態度で従者に指示を出せるように育てられなかった自分をどれだけ責めても遅い。


エーギル率いる伯爵家の従者たちとオークランス公爵家の従者たちがマリールイスを捜した。

ブルネル公爵家からも少しの人員が差し向けられた。

安宿や飲み屋、カフェなどを中心に話を聞きに行き、考えたくはないがとしながらも、王都の外側にある娼館にも人を差し向けた。

マリールイスの名前は出さずに、特徴だけを伝えて聞いて回ったのだ。

平民たちの街では年頃の娘が姿を消したりすることは、そう珍しいことではなかったから、貴族たちが思うほど大層なこととは受け止められなかった。

昨夜のパーティに参加した者たちへの聞き取りは、フレドリクソン公爵閣下が引き受けていた。

日頃、あまり対面する機会のない王弟である公爵閣下の口から、『ご夫人を含めて他言無用』と念押しされれば、話が漏れることを少しは抑えられる。

とはいえ、日を置かずにマリールイスの行方不明は噂に上ることだろう。


夕刻が過ぎて、それらの捜索人員が何の情報も得られなかったと報告を持ち帰った頃、捜索から戻ったエーギルは、父であるエングダール伯爵と共にオークランス公爵を応接室に招いた。

驚いたことに、そこにはレイフがいた。

オークランス公爵が捜索に向かった後で、家令とレイフの弟から、すぐに支度をして後を追うようにと言われたらしく、つい先ほど伯爵邸に着いたという。

余計なことを言うなとレイフに小声で囁いたが、通じたかどうかも怪しい。

レイフは道中、マリールイスを捜しながらやってきたと言ったが、それを信じる者はいなかった。


オークランス公爵としては、一緒に連れてこられなかったレイフをエングダール伯爵の前に出したくなかったが、もうここにいる以上どうにもならない。

公爵家の嫡男より伯爵家の嫡男が秀でているのを、並べて目の当たりにするのは辛いが、よく考えれば、父親の能力の差が並べられているのだった。


「公爵閣下、昨夜の出来事につきましては、愚息からすべて聞き及びました。我が娘の捜索に、オークランス公爵家並びにブルネル公爵家の方々にご尽力いただいたことに心より感謝申し上げます。ありがとうございました」


「エングダール伯爵、どうか頭を上げてほしい。すべてはこちら側の落ち度で謝罪するのは──」


公爵の言葉を遮るように、エーギルが一歩前に出て声を発した。


「本日は早朝から今まで、公爵家ご両家より我が妹の捜索にお力添えいただき、感謝の念に堪えません。なお、今後の捜索は当家のみで静かに続けて参る所存であります。

どうか、今後はマリールイスが人々の噂の俎上に上らないことへのご配慮をいただきたく、よろしくお願いいたします。それから弟のヨーアンから、こちらを預かっております」


「……辞職願い……」


公爵は、エーギルがテーブルの上を滑らせた封筒を見て、思わず言葉を漏らした。


「はい。弟ヨーアンの辞職願を直接公爵閣下にお渡しする無礼をお許しください。ヨーアンは以前から体調を崩しがちで、この辞職願を書いていたようでした。私がそれに本日の日付を入れた次第です。弟は……マリールイスが行方不明になったことでさらに体調が悪化したようでした。ヨーアンが身体を起こせるようになれば、エングダールの領地で静養させるつもりです」


ヨーアン・エングダールの辞職願いは、オークランス公爵家に確約されたはずの輝かしい未来を幻にするだろう。

王家から内々に言い含められた案件であったのに、とりあえず今は国外に引き抜かれることはないようだが、王家からの咎めは避けられない。

優れた技術者ヨーアン・エングダールを、オークランス公爵家は酷い労働条件で使ってきた。彼の道具と彼の研磨技術だけが頼りだったのなら、もっと大切にすべきだった。


何より、レイフの口からいろいろ露呈してしまった直後に、ヨーアン・エングダールの妹が行方不明になった。

彼の体調が戻っても、妹が戻らなければ……いや、妹が戻ったとて、ヨーアン・エングダールがオークランス公爵家の鉱山に戻ることは二度とないだろう。

だが、公爵はまだ足掻こうとした。


「退職ではなく休職というわけにはいかないだろうか。体調が戻った時に、慣れた仕事があるということが……ある意味で彼の支えになればと……」


エーギルが笑みを浮かべた。

微笑んでいるのにどこか冷酷で、オークランス公爵は背筋に冷たいものを感じた。


「昨夜のレイフ様はご友人たちの前で、マリールイスとの婚約はヨーアンを安く長くオークランス公爵家で働かせるためのものだとおっしゃったのを、私もこの耳で聞きました。そんな職場がヨーアンの支えになると、公爵閣下は本当にお思いでしょうか?」

「よさないか、エーギル。公爵閣下に対しあまりにも無礼だ。オークランス公爵閣下、愚息が大変失礼な物言いを、誠に申し訳ございません」


エングダール伯爵は、問題が生じそうな言葉はすべて息子エーギルに言わせている。

何かあれば、『若さゆえの暴走をお詫びいたします』と、言い逃れができるように。

それをエーギルは阿吽の呼吸で、自分がどの言葉を担うべきか瞬時に理解して発言しているのだ。

オークランス公爵は、嫡男のレイフに無いものを持ち合わせているエーギルに、自分でさえ敵わないのではないかと戦慄した。

声や言葉を荒げることなく、確実にこちらの急所を突いてくる。

もはやこれまでだと、オークランス公爵はすべてを諦めた。

ふと、隣に座ってこれまで何も発していない息子レイフを見る。

言うべき言葉を考えているとしても遅いのだ。

余計なことを言うよりいいが、機を掴めないのは愚鈍でしかない。

嫡男の教育にエングダール伯爵とはここまでの差があった、これに尽きる。


「……ヨーアン殿の退職を受け入れよう。どうか十分に静養できるようにと願うばかりだ」

「寛大なお心に感謝いたします」


「……マリールイスが見つかったら教えてくれ。会って謝罪がしたい」


これまで置物のように黙っていたレイフが、エーギルに向かってそんなことを口走った。


「申し訳ございませんが、その謝罪はレイフ様だけを楽にするものではないでしょうか。マリールイスを再び傷つけることになりかねない謝罪のための面会を、たとえマリールイスが見つかっても、エングダール伯爵家は許可するつもりはありません。何もかもが平凡で面白みもないマリールイスではなく、あなたには爵位も美しさも格上の女性が相応しいでしょう。もうマリールイスのことはお忘れください」


「……マリーに……謝りたいんだ……」


とことんレイフは己のことしか考えていなかった。


「レイフ、もう黙っていろ。エングダール伯爵、そしてエーギル殿、マリールイス嬢が無事に見つかることを我々は祈っている。後でヨーアン殿に見舞いの品を届けよう」


オークランス公爵は、疲れと睡眠不足のせいなのか夜の湖のような目をしたエーギルが恐ろしく、早く話を終わらせてここから帰りたかった。

同時に、エーギルに比べれば柔和に見えるエングダール伯爵も不気味だった。

傑出した才も特になく、ただ持っているものを溢さないように気をつけているだけの人物だと思っていたが、おそらくそれは間違っていた。

二人とも、それぞれ違う恐ろしさを、その顏の皮の下に隠しているのだ。

どうしてそう感じるのは分からないが、人間としての本能のような部分で二人とこれ以上話をしていたくなかった。


ブルネル公爵邸でエーギルと話していた頃から、本当にマリールイスは『行方不明』になったのかと、小さな疑念が浮かんではいた。

妹の行方が分からないとなったその時に、婚約を白紙にする話まで行き着くものだろうかと。

だがオークランス公爵は、たとえそれが目の前の親子の策略だったとしても、もうこの流れを止めるつもりはなかった。

エングダール伯爵とその嫡男とは、一切関わらないほうを選ぶのがオークランス公爵家と嫡男レイフの為だと思ったのだった。


「マリールイスの婚約解消につきまして、白紙ということで何も無かったとなりますから、慰謝料などは当家としては求めません。それからヨーアンの退職願もお受け取り戴きまして安堵いたしました。ご高配を賜り感謝ばかりです。また今後の捜索はすべてこちらで行う件につきまして、ブルネル公爵ならびにフレドリクソン公爵にお伝え願えればと、大変失礼ながらお願い申し上げます」


「あ、ああ、それはもちろん構わない。私から二人に伝えよう。エングダール伯爵、繰り返しになるが、マリールイス嬢のことは本当に申し訳なかった。無事に見つかることを信じている。また、ヨーアン殿の早い快癒を祈っている。それではこれで失礼する」


「ご配慮ありがとうございます。どうぞお気をつけてお帰りください」


オークランス公爵は、レイフを引っ張るようにして、エングダール伯爵邸を出た。

エーギルはそれを見送りながら、頬が緩みそうになるのを堪えている。


(まだだ──喜びをこんなところで表してはならない)


今はまだ、行方不明になった妹を心配して沈痛な思いの兄の顔をしなければ。

それにエーギルにはまだまだやるべきことがたくさんあった。

それでも今だけは、喜びたかった。




***




エーギルがコルテカンナス領に向かった時には、ブルネル公爵家の婚約パーティから十か月が過ぎていた。

いろいろなことを片付けるのに、思いのほか時間がかかった。

ヨーアンはルビー鉱山を有する隣国からの誘いを断って、縞状鉄鉱層の広がる土地を持つコルテカンナス領の伯父のところで働いている。

現王家は王妃殿下が権力を掌握している。

その王妃殿下にオークランス公爵家が献上した宝飾品のせいで、こんなことになってしまったとヨーアンは思っていた。

ならば、今後は王妃殿下の気をそれほど惹かないであろう鉄鉱石を採掘することにした。

一番硬いものを切り出すことが自分の力を高めるものだと思っていたが、そればかりでもないと気づいた。

これまで掘り進める道具は旧式のものを使っていた侯爵家で、ヨーアンは大小さまざまな機械を作った。

地表から近いところに鉱床が広がる形状の土地で、円形の巨大な穴を掘っていく。

鉱山と違い、トンネル状の穴ではないため地中に潜って掘り進める必要もない。


ヨーアンとマリールイスと従者たちは今、伯父が貸してくれている屋敷に住んでいる。

エーギルも、しばらくはそこに住まわせてもらうことになった。

すでに、マリールイスと新たに暮らす家を、コルテカンナスに隣接するエングダール領にエーギルは建て始めている。

基礎の部分はもうすぐ終わりそうだ。

これからはエーギルが本格的に手を掛けられるので、工事も迅速に進んでいくはずだ。

エーギルは領地の新しい家に住みながら、年に数回王都のエングダール邸に赴くことになる。

そしてエーギルが継ぐ時にマリールイスを伴って戻る。

それが何年先のことになるかは、父が決めるだろう。




マリールイスはヨーアンと共に、真っ黒になりながら鉄鉱石の掘削作業をしていると聞いて、エーギルはひっくり返りそうになるほど驚いた。

ヨーアンから『彼女も働いているよ』と最初に手紙を貰った時は、てっきり小さな子供たちに言葉を教えているだとか、刺繍を施した物を売っているとか、そういうものだと思っていたのだ。

早くマリーに会いたかった。





「エーギル兄様ー!」


馬車を降りたエーギルは、手を振りながら駆けて来るマリーに驚いた。

長かった栗色の髪は、肩のあたりまでしかなかった。

何より、伯爵令嬢としてきちんと淑女教育を受けたマリールイスが駆けてきたということだけでも驚きだ。


「エーギル兄様、お久しぶりです」

「ああ、マリー会いたかった。しばらく見ないうちに、何ていうか逞しくなったな」

「褒められている気がしませんけれども、褒めてくださったということにします!」


マリールイスはその必要もないのに、声を落として気になっていたことを尋ねる。


「……オークランス公爵家とのことは……」

「ああ、うまく婚約を白紙にすることができた。慰謝料もなし、今後は関わりを持つこともないだろう。つい最近、レイフ様の新たな婚約が決まったと聞いた。宝飾品を主に扱う商会を持つ、子爵家の令嬢だそうだ」

「また公爵家のお仕事絡みのご婚約なのですね」


マリールイスに対して爵位の違いから居丈高だったレイフは、子爵家の令嬢相手で大丈夫なのだろうかと少し気になった。


「それが意外なことに、今度こそ本当に恋愛が先にある婚約だそうだ」

「まあ、それは良いお話ですね!」


レイフにあまり良い気持ちは持てなかったが、不幸になってほしいとはまったく思っていない。

あの当時、エーギルへの密かな想いは完全に封じ込めていた。

レイフから婚約を申し込まれてあちこちに連れて行かれていた頃、向かいにいるレイフへの違和感から、押さえていた蓋がカタカタと動いてしまったことに申し訳なさを感じていた。


エーギルとヨーアンの二人の兄は、いつもどんな時もマリールイスの味方だった。

我が侭をなんでも聞いてくれるのではない。

むしろ、我が侭を言えば父より先にエーギルに諭された。

困っていても、マリールイスが『助けて欲しい』『アドバイスが欲しい』と言うまでは手を出さなかった。

幼い頃は、そんな兄たちを冷たいと思ってしまうこともあったが、それがどれだけ深い優しさに基づいているものなのかを知る頃には、マリールイスは二人の兄に大きな感謝と尊敬を持った。

そしてエーギルに特別な想いを抱いたが、すぐに抑えた。

それは、マリールイスが父母と血縁関係がないことを知ったのと同じ頃だ。

封じこめた暗闇の中で、その想いはマリールイスにも知られることなくひっそりと息を殺して生きていた。

それがエーギルに想いを打ち明けられて、光の中に戻ってきたのだ。


「そんなことより、よく顔を見せて欲しい、マリー」


エーギルは置いたトランクの上に被っていたハットを載せて、マリールイスを抱き寄せた。

マリールイスは、エーギルがここまで兄としての顔を捨ててくるとは思っておらず、心臓が飛び出しそうだった。


「……あまり見ないでください。今日は採掘場には行っていませんけど、毎日鉄鉱石を運んでいるのです。爪も髪も、以前のように綺麗にしていないので、恥ずかしい……」

「今も変わらず可愛い、俺のマリーだ」

「……兄様」

「兄様といつまでも呼ぶのもどうかと思うが、今はまだそれでいい。晴れて教会で誓った日から、変えてくれればそれで」


そう言ったエーギルの微笑みが、どこか照れたように見えてマリールイスは落ち着かない気持ちになった。

こういう顔を、エングダール伯爵邸でエーギルが見せたことは一度もなかった。


「で、では……何て呼んで欲しいか、その日までに考えておいてくださいね、エーギル兄様」


マリーは何かから逃げるように駆け出したが、すぐにエーギルに捕まってしまった。

そして背後から抱きすくめられて、エーギルはマリールイスの耳元で囁いた。


「Sweet pieと呼んでもいいぞ」

「ス……そんなの、無理です!」

「では練習しよう。子供の頃のマリーは覚えるのが少し苦手だったな」

「大昔のことは忘れてください! 早く行きましょう、ヨーアン兄様が待っています!」


マリールイスはエーギルの腕をすり抜けて、今度こそ本気で駆けて行った。

エーギルはそんなマリールイスを追いかけて、トランクと帽子を忘れたことに気づいて戻った。

慌てて帽子をかぶり、トランクを持ってマリールイスの背中を追いかけた。

すると、先を走っていったマリールイスが足を止めて振り返った。

エーギルはゆっくりと近づいて行く。

マリールイスは、ポケットから何かを取り出した。


「これ、懐中時計なのです。エーギル兄様がお父様からいただいて大切にしていた金の時計を、私たちの逃亡費用として手放してくださったこと、ヨーアン兄様から聞きました。鉱山で働くことで良いお手当をいただくことができ、それを貯めてこの時計を買いました。お父様からの贈り物には、到底及ばないけれど……」


時計店でマリールイスが『一目惚れ』をした懐中時計だったが、文字盤の色だけが少し思うのと違っていた。

それをヨーアンに話すと、ヨーアンが文字盤をマリールイスの理想どおりに作り替えてやるから買ってしまえと言ってくれたのだ。


下の方が緑色で上に行くにしたがって青から紺色へと変わっていく。

そこに、銀でアワーマーカーを付けてもらったら、森と夜空と星のようになった。

懐中時計の代金はもちろんマリールイスが払い、作り替えの材料費も、すべてマリールイスがヨーアンに渡した。

エーギルが、マリールイスのために手放してくれた大切な時計に代わるものは、自分の労働の対価で正しく得たかったのだった。


「兄様が、大切にしていた時計の代わりになればと……」


マリールイスが懐中時計をエーギルに渡すと、エーギルは美しいその時計に見入った。


「これを、マリーが……」


エーギルは懐中時計を捧げるように持ち、懐に収めた。

そして再びトランクを放り出して、マリールイスを抱きしめた。


「ありがとう、大切にすると誓う。マリーと新しい毎日を刻んでいくのを、この時計がずっと見守ってくれるだろう。愛している、マリールイス」


マリールイスは抱きしめられて、自分の胸の音よりゆっくりと打つ時計の音を、じっと聴いていた。

そしてマリールイスが返した言葉は、エーギルの胸で溶けて染み込んでいった。








  おわり

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ