猫はイカサマで丸くなる
擬態のチェックは念入りに。
すんなりと伸びた首、なだらかな肩、もふもふ手足、ふっさりした尻尾。鼻先と尾と背中が灰色で、顔とお腹側と耳は、まっ白なとろとろの毛並みだ。
よし。
しっとり濡れた鼻、ピンピンおヒゲ、細く長い毛が詰まった三角の耳。本体の面影がある少し吊り上がった金茶の目で鏡を覗き込み、尖った爪でそっと毛並みを整える。
完成だ。
開始時刻になりスタッフルームにもざわめきが伝わり始めた。
タッチ式招待カードの入場システムを導入してから、迷い子が入ってくることもなくなりトラブルが減ったそうだ。
カード発行時の身元確認のおかげでセキュリティも上がったと良質の顧客が増えたらしく、兄の奥さんは年齢不詳の美貌でにんまり笑っていたっけ。
「ネイコ、入れる?」
「はーい、ホール入ります」
呼ばれて寧子がそっと入るのは、暗がりに上品なライトが浮かぶ場所。
異世界から移入し普段人に擬態して暮らしているモンスターたちが本来の姿で出会いを求める婚活会場、モンハ●クラブだ。
主催者である義姉に頼まれて、真正人間ながらモンスター慣れしている寧子は、人間の擬態を解いて参加するモンスターたちとは逆に、もふな猫娘に擬態してサクラ兼ホールスタッフのバイトをしている。
バンパイアに狼男、エルフ女に雪男、サキュバスはミイラにしなだれかかり、蜘蛛女は蜘蛛男を背負う――。秋の一週間続いた婚活パーティは、最終日の今夜は特に盛況だ。
不意に、会場のど真ん中で大きな威嚇音がして、寧子は毛の中に埋もれたインカムに報告しつつ、スタッフとしてそっと近づいた。
当事者は、霧深い森の木そのもののドリアードと、向こう側のライトがうっすら透ける直立歩行のクラーケン、まあ有り体に言うイカだった。礼儀正しいドリアードが不快そうに葉を黄色くしているのに、イカはオロオロと触腕を上げ下げ。
うん、初めて見る客だ。
「お客様、こちらのイカサマ、いえイカ様は初めてのご参加の様子。当方からよくよくご説明いたしますので」
と、立派な触腕をぐわしと握りしめて会場の隅に導いた。
大人しくぬめぬめついてきたイカは、警戒心を隠さない。感じは悪いがこれも仕事。寧子はニコリと片手を上げ、顔の横でグッパした。
「お客様〜、名札の色が漆黒つまり男性型でいらっしゃいますね? 女性型の名札はこのように金色となっておりまして」
巨大なイカの下の方についた目が、小柄な寧子と同じ目線。その半眼が寧子の名札を確認して、きょろきょろと戸惑っている。
「先ほどのお客様も漆黒でした。偏見はございませんが、同性のお相手をお求め」
「違う」
うわ、と寧子は心で仰け反った。
壮絶にいい声だ。イカがこんな声を出せるなんて。なんてイカがわしい。
思ったことはおくびにも出さず、インカムに問題なしの合図を送って再度笑顔を浮かべる。声のためにサービス、しようじゃないか。
「他にお困りのことはありますか?」
確かに聞いた。困っているなら助けになると言った。
けれどそれからずっとイカに拘束されるとは思わなかった。スタッフが潤沢だからいいよと言われて良かったが。いやよくない。
イカはすっかりスルメのようになっていた。
モンスター向けの酒は確かに強いが、イカはモンスターにしては弱いようだ。先ほどから、自分がいかに人間の女に酷い目に遭わされ見切りをつけたかを、延々語られている。
会場はかなり混み合っていた。小さな寧子が大きなモンスターの視界に入らず蹴り飛ばされそうになった時、さっと触腕で抱き寄せて庇ってくれたのには少しときめいた。
イカが赤みを増すにつれて深く抱き込まれるようになり、今や触腕に座って飲まされたり食べさせられたりしている。
バイトとしてどうかと思うが、嫌悪感はない。イカは美味し、もとい好きだし。
ねっとりしてそうな腕は、意外や毛に絡むこともない。肌が合うとはこのことか。猫毛とイカ肌ではあるが。
だが好感を持つにつれ、居た堪れなくなってきた。
だって寧子は、本当は人間なのだ。
異種恋愛を楽しむモンスターも人間もいるが、このイカは人間の女に深い恨みがありそうで。
「また、会いたいな。君といるのはとても心地いい」
真っ赤なイカがそんなことを言う。
正体を知ってもそう言ってくれるといいのに。そう切なく俯くよりも、寧子はさっさと賭けに出ることにした。
「じゃあ、帰りに待ち合わせましょ」
受付でモンスターは人間に擬態してから帰っていく。誰もが大体美形なのは不可抗力らしい。
イカ、いや剣先さんは、その中でも群を抜いて美しかった。
寧子は受付の手前で立ち止まっていた。受付を抜ければ擬態は解ける。
ああ、イカサマには勇気が必要だ。
「私ね、本当は」
「ネイコさん?」
剣先さんは不思議そうに首を傾けている。その声がとても好きだ。
引き寄せられるように、寧子は受付を越えた。
「……人間なの。それでもいい?」
奇跡は起こるだろう。
外はハロウィンの夜だ。