パレードがやってくるーふう君の探し物ー
色とりどりの電飾に、ペンキの剥がれたカルーセル。木漏れ日が夕暮れに変わり、金色と紺色が混じりあうその頃に、パレードはやってくる。
象がいるかい? ライオンがいるかい? ピエロがいるかい? ほら、パレードがやってくるよ。
ほら懐かしい――君の街にパレードが来るよ。
――みんな見においで。サーカスを。パレードを。
君の大切なものを見つけたら、どうぞ家にお帰りなさい。でもね、もし見つけられなかったら――
僕らと一緒に行こう。次の街へ、次の街へ――
その日のサーカスも満員御礼だった。
小熊のふうくんは今日も一生懸命玉乗りの曲芸をする。
拍手をもらうと少しだけ得意げな顔をする。
ふうくんは芸が終わった後にご挨拶をしながらぐるっと客席を見回す。
あ、見つけた!
ふう君は嬉しくなった。
ふう君は出番が終わると、男のもとへやってきた。ぺちぺちと男の足を叩く。
「ねえ、ぼく見つけたよ。
今度は可愛がってもらえるかなあ?」
ふくふくと笑うふう君に、男は微笑む。
ほんの少しだけ、悲しそうに顔をゆがめてから。
「そうかい。今度は見つけられるといいね」
男はそういうと、ぱちんと指をはじいた。
「見てみて! 可愛いお人形!」
客席から聞こえてきたのは、そんな声だった。
女の子が熊のぬいぐるみを手に取る。
「どうしたの、それ」
女の子の横に座っていた母親は、いぶかしげに熊のぬいぐるみを見た。
あんなの、置いてあったかしら。
「ダメよ、誰かのお人形でしょ。置いておきなさい。忘れ物だったら誰かが取りに来るわ」
「ええ! やだやだ! みいちゃんが見つけたんだから、みいちゃんの!」
「みいちゃんのじゃないでしょ? お席に置いてあったんだったら、誰かが持ってきたんでしょう? 人のものを勝手に持って帰るわけにはいかないわ」
母親はそう言って、『みいちゃん』と呼ばれた子を窘めた。
みいちゃんはぬいぐるみを名残惜しそうに見つめる。
みいちゃんは熊のぬいぐるみをぎゅっと抱きかかえながら、みるみる顔を歪めた。
「みいちゃん、これほしい! ほしいの!」
客席で泣き出したみいちゃんに、隣の男性が咳払いをする。女性は困ったように頭を下げてから辺りを見回して、みいちゃんを抱きかかえるようにしてテントの外に出た。
もう、また悪い癖だわ……。
みいちゃんを抱きかかえて、周りの視線に小さくなりながらテントを出て、ため息を吐く。
みいちゃんの腕にはしっかり熊のぬいぐるみが抱えられている。これを取り上げるのは至難の業だ。女性は頭を抱えた。
持って帰ってもいいかしら?
でも、誰か取りに来た時になかったら悲しむかしら。
「どうなさいました?」
ギャン泣きしているみいちゃんを抱えて、困ったように佇んでいる母親を見つけて男は声をかけた。
みいちゃんのお母さんは声に驚いたように振り返ると、立っている男を見て困ったように目を逸らした。
「どうかなさいましたか?」
男に再度尋ねられて、みいちゃんのお母さんは意を決したように顔を上げた。みいちゃん、ちょっと貸して。そう言ってみいちゃんのぬいぐるみを取り上げた。
「あ!」
突然人形を取られて、みいちゃんの顔はぎゅぎゅぎゅっと中央に寄っていき、爆発するようにはじけて泣き出した。
男はその声量に驚いて耳を塞ぐ。
「あの! このぬいぐるみ客席の忘れ物のようなんです。娘が気に入ったようで持ってきてしまって……」
みいちゃんの声量に負けないように、男に声を上げながら説明する。すると、男はああ。といって、ぬいぐるみを手に取った。
「忘れものなんですねぇ」
それからぎゃんぎゃん泣いているみいちゃんの手に持たせた。
「どうぞ、お持ちなさい。このサーカスは街から街へ行きます。もしも忘れ物に気がついて取りに来ても、その頃にはこのテントはないかもしれません。その前に取りにお見えになったら――そうですね、見当たりませんでしたとでも伝えておきましょう」
男は微笑んだ。内緒ですよ、そう言って人差し指を唇に当てる。そのしぐさに、みいちゃんのお母さんが笑う。
「一つだけ、約束をしてくださいますか?」
男はみいちゃんのお母さんを見てから、クマのぬいぐるみの頭をそっと撫でた。
「この子が、ここに帰ってこないように大切にしてくれますか?」
男が優しく笑う。その笑顔を見て、みいちゃんのお母さんはそんなことはたやすいと、思えた。
「ええ、もちろんです。前の持ち主さん以上に、大切にします」
みいちゃんのお母さんが笑う。みいちゃんの腕の中にいるくまのぬいぐるみも心なしか微笑んだようだった。
みいちゃんはご機嫌でくまのぬいぐるみと遊んでいる。
どうしてうちの子はこうなのかしら――?
みいちゃんのお母さんは帰宅してから、食事の支度にとりかかる。みいちゃんの好物のハンバーグを作りながら、さっきの出来事を思い出してため息を吐いた。みいちゃんの聞き分けがないのが目下の悩みだ。人のおもちゃを欲しがったり、癇癪がひどかったり、他の子はこんなんじゃないのに。今日だって、あんなに泣かなくてもいいのに。人のものだから、そう言って諭しても聞き分けない。
みいちゃんの父親である夫は毎日午前様だ。みいちゃんのことを話しても、子どもなんてそんなもんだよ、その一言で片づけられてしまう。
「ねえ、ちゃんと聞いて」
何度そう言っただろうか。そのたびに仕事が忙しい、育児はお前の仕事だ、そんなことを言ってみいちゃんと向き合おうとしない父親に、いつしか諦めていた。
次の日、みいちゃんはずっとクマのぬいぐるみを離さない。
「ねえ、ママ! クマちゃんのお名前、何にしよう?」
腕を掴んで振り回しながら、みいちゃんはご機嫌だ。
「そうねえ」
みいちゃんのお母さんは洗濯を干しながら、生返事を返す。
「ねえ! ねえ!」
相手をしてくれないお母さんに、みいちゃんは声を大きくする。それを聞きながら、みいちゃんのお母さんはまた、ため息を吐いた。
「今忙しいから!」
つい、声が大きくなる。これから公園に行って、みいちゃんを遊ばせて、買い物に行かないと。公園に行ったら、またみいちゃんはお友達と喧嘩をするかもしれない。公園に行きたくないけど、行かなければ家の中で癇癪を起すだけだ。
「あー、はいはい。みいちゃん、公園行くからお仕度して!」
「やったあー! クマちゃんも行こうねー」
みいちゃんは熊のぬいぐるみの腕を掴むと、ルンルンと踊っていた。
午前中の公園は、みいちゃんと同じくらいの年の子を連れた親子が多い。この公園に来るほとんどの親子と顔見知りだった。みいちゃんは砂場で遊び、みいちゃんのお母さんは他のお母さんたちとおしゃべりをしている。みいちゃんのお母さんの唯一の息抜きだ。
「ダメなの! ダメなのよ!!」
母親同士でおしゃべりをしていたら、砂場でみいちゃんの声が聞こえてきた。きいきいと金切り声を上げている。どうしたの? と顔を上げた途端、ぎゃあーという泣き声が聞こえてきた。
「どうしたの!?」
慌ててみいちゃんの方へ行くと、みいちゃんがクマちゃんをぎゅっと抱きしめて、男の子を睨んでいる。
「みいちゃんがたたいたー!」
男の子は泣きながら、そう言ってお母さんの足にしがみついている。どうやらみいちゃんがクマのぬいぐるみを男の子に取り上げられそうになって、怒って叩いたようだった。
「もう! みいちゃん!」
思わずそう声を荒げると、みいちゃんはみるみる顔を歪ませた。
「だって! みいちゃんのなんだもん! クマちゃん! みいちゃんの!!」
そう言うと、うわーんと声を上げて泣き出した。
「もう、また……」
みいちゃんのお母さんがため息を吐く。周りのお母さん達があらあら、なんて言っている。そんな周りのお母さんたちの声を聴きながら、無性に恥ずかしくなった。
「みいちゃん、ごめんなさいは?」
みいちゃんの背に合わせてしゃがみこんで、諭すけれど、みいちゃんは泣いていて全然聞く耳を持たない。近くでは叩かれた男の子が泣いているし、男の子のお母さんの顔は険しい。
みいちゃんのお母さんは、慌てて男の子のお母さんに謝ると、本当にごめんなさい、と言いながら、みいちゃんに行くよ、と言って手を引いて公園を後にした。
これから食事の買い物をして――。
そう思ったけれど、もう何もしたくなくてとりあえず家に帰ることにした。買い物もしないと夕飯のおかずが。みいちゃんのパンツタイプのおむつも買っておかなきゃいけなかった。
でも――。
家に着いたら、ソファにどさっと座り込んだ。みいちゃんはまだ泣いている。
もう、どうして!?
公園で喧嘩をしている子なんて他にはいなかった。男の子を叩いたりするのも、みいちゃんだけだ。みんなが陰でみいちゃんのことをなんて言っているのか、みいちゃんのお母さんも知っている。気にしないようにしていたけど――。
無性に苛立った。
言うことを聞かないことも。乱暴なことも。泣けば済むと思っているところも。
ねえ、どうして!?
何でいうことを聞かないの!?
何がそんなに気に入らないの!!
気に入らないなら――
みいちゃんのお母さんは泣いているみいちゃんをキッと睨みつけた。その泣き声が妙に癇に障って、いら立ちが抑えられない。
「うるさい!」
気がついたら、みいちゃんに怒鳴っていた。みいちゃんは、お母さんに突然怒鳴られて、何が起きているのかわからずに驚いて固まった。それからゆっくりとお母さんを見上げて、ふ、ふ、ふと息を吐いて、ぎゃあーとさらに泣き出した。
「うるさい!! うるさいって言ってるでしょ!?」
爆発してしまえば、抑えられなかった。怒鳴り声に反応して泣くみいちゃんに、いらいらして「泣き止みなさい!」と怒鳴った。そんなことを言っても何の意味もないこともわかっているのに。
それでもいら立ちは抑えられない。
「うるさいって言ってるじゃないの!!」
怒鳴って、手を振り上げて、その手を振り下ろそうとしたその時だった。
――泣かないで!
声が、聞こえた。え? と思ったけれど、振り上げた手の勢いは止められずに、そのまま振り下ろした。その瞬間、みいちゃんは自分を庇う様にクマちゃんを差し出していた。
――りっちゃん、泣かないで
はっきりとそう聞こえてから、ぱしっと床を転がる音がした。
はっと我に返ると、床に転がっていたのは熊のぬいぐるみだった。
「あ」
今、自分は何をしようとしたんだろうか……。コロコロと転がる熊のぬいぐるみを見て、慌てて熊のぬいぐるみを拾いに行った。
私、みいちゃんを……。
背筋に冷たいものが走る。怒りに身を任せて、自分は……。そのほうが楽だと思ってしまった! 私は――母親失格だ。拾い上げた熊のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
――りっちゃんは、優しい子だよ。泣かないで。
熊のぬいぐるみから、そんな声が聞こえてきた。その声に、みいちゃんのお母さんは顔を上げる。
「りっちゃん……どうして私の名前を?」
どこからか聞こえる声に、みいちゃんのお母さん――律子は驚いて目を見開いた。昔、そう名前を呼んでくれたのは、いったい誰だったっけ。律子は熊のぬいぐるみを見ながら逡巡する。
熊のぬいぐるみは律子の腕の中で、ふるふると首を振ってから、律子の顔を見るとにっこりと笑った。
りっちゃん――
懐かしいその呼び名に、昔を思い出した。
どうして、どうして忘れていたんだろう……。
すると、ぱちんと部屋の電気が消えた。
え?
驚いて辺りを見回すと、一つハロゲンの明かりがつく。
「思い出しました?」
背後から声が聞こえて、律子はひっと小さな声を上げて振り返った。
立っていたのは、フロックコートを着てステッキを持った男だった。男が口元に手をかざして、ふうっと息を吐くと、熊のぬいぐるみがぽんと律子の腕を飛び出して、ちょこんと立った。ぬいぐるみの姿から小さな熊に変わっている。そして、律子の足元に立つとぺちぺちと足を叩く。
「りっちゃん、りっちゃんは優しい子だよ。僕、知ってるよ」
熊はそう言うと、にっこりと笑った。男が熊を抱き上げる。
「この子、ふう君って言うんです」
……その名前に、律子はあっと口を押えた。どうして忘れていたのだろうか。
「サーカスの、パレード……。火の輪くぐりのライオンや空中ブランコ……楽しかったの、覚えてたはずなのに……」
幼いころの唯一の楽しい思い出のはずだった。それをどうして、忘れていたのだろうか。
律子はぽろぽろと泣き出した。ふう君はわたわたと律子の顔を覗き込んで、困ったような顔をしている。
「私、どうして忘れてたんだろう……。ふう君は、ふう君は私の――大事な友達だったのに」
律子はふう君の顔を見る。
あの頃、律子にとって唯一の友達がふう君だった。
「そうですよね。あなたのご両親は、あなたに対してたいそう冷たかった。だから、あなたは温かい家庭を築くのが夢だったのですよね」
男はステッキをくるりと回す。
「どうして、それを……」
律子にとっては思い出したくない過去だった。律子の両親は子どもに厳しかった。これはしつけだと言って、叩かれるのは日常茶飯事だった。そんな律子はひどくびくついた性格になり、学校でも友達はできなかった。
唯一の友達は、熊のぬいぐるみだった。茶色い小熊の――。
ああ、そうだ。ふう君はどうしたんだっけ。
ふう君を思い出そうとすると、華やかなサーカスを思い出す。火の輪くぐりのライオンや、華やかな衣装を着た空中ブランコ乗り。花で飾り付けられた象のパレードを遠くから眺めたのを覚えている。
男がぱちんと指を鳴らすと、ふう君は熊のぬいぐるみに戻った。それを男が拾い上げる。
「昔々の話です。とあるサーカスの客席に忘れられた男の子がいました。その子は両親が戻ってくるのを今か今かと待っていました。でも、サーカスはテントをたたんで次の街へ行きます。男の子はぽろぽろと泣きながら、お願いをします。いつか、自分を迎えに来てくれる人が現れるまで置いてください――と」
男はそう言うと、熊のぬいぐるみの頭を撫でる。ぬいぐるみは心なしか嬉しそうに笑っているように見えた。
「私には途方もない夢物語のように思えました。ですけど、真剣にお願いされたんで断るわけにもいきません。ですから、サーカスで働きながら迎えを待ちましょうと、提案しました。それから、男の子はずっとこのサーカスで働いています。両親はとうとう迎えに来ませんでした。いつしか、その子は大人になって老人になって、寿命が尽きました。寿命が尽きてしまった後、男の子は小熊の姿になって、自分を大事にしてくれる人を探すようになったのです」
男の言葉に、律子は口を押えた。
「その子は、サーカスに寂しい子が来ると熊のぬいぐるみの姿になって客席に行くのです。寂しい者同士、きっと可愛がってもらえるだろうと。――でも、結局忘れられて戻ってきてしまうのです。そう、あなたの元へ行った後のようにね」
あ、と律子は小さな声を上げる。まるでパズルのピースを繋げるように、思い出す。
小さい頃、サーカスに連れてきてもらった。あの時、律子は客席に置いてあった熊のぬいぐるみを――持って帰ってきた。
今の、みいちゃんのように……。
あれから、どうしたっけ。
「りっちゃん、ふうのお名前、ありがとう。ふう君ね、ふうのお名前大好きだよ」
熊の男の子が、律子の足をぺしぺしと叩く。
そうだ……。
――これからよろしくね。そうだ、くまちゃんのお名前どうしよう。
――絵本にね、ふうって名前があったの。とても可愛いから、あなたの名前も『ふう』にしよう。あなたはきっと男の子だよね。だからふう君!
そう言って、熊のぬいぐるみを高く掲げる、幼いころの――私。
律子は涙を流した。
ずっと一緒にいたふう君、それからどうしたっけ。小学生になって、高学年になって、ぬいぐるみで遊ぶ年じゃなくなって、いつしかいなくなっていた――。親に捨てられてしまったと思っていたけど……。
「ふう君は、持ち主に忘れられてしまうとここに戻ってくるんです。いつか、本当にふう君を大切にしてくれる人を、また探すために。あなたの元からいなくなったのは、あなたがふう君を忘れてしまったからでしょう」
そうか、ふう君はサーカスに戻って、また、誰かを探す――。私は、ふう君を忘れてしまった……。あの時、言われたのに。
「あの時、約束したんです。この子を大切にしてくださいねって……なのに、私……」
その場に泣き崩れた。親に虐げられる日々の中で、ふう君がいるだけでどれだけ心強かったか。
「ふう君、ごめんね。ごめん……」
律子は声を上げて泣いた。まるで子供の頃に戻ったように。
「りっちゃんが幸せで、僕、嬉しかったんだよ」
ふう君が笑顔で律子を見上げる。りっちゃん、懐かしい呼び名だった。幸せだったころの両親が自分を呼ぶ優しい声を思い出す。幸せから不幸になるのはあっという間で、信じられる人が世界で一番嫌いな人になるのに、時間はかからなかった。
家を飛び出して――生きていくのに精いっぱいで、ふう君のことを忘れてしまっていた。叩かれて泣いた時、家から追い出された時、ふう君がずっと一緒にいてくれたのに。
「りっちゃんは優しいよ。僕がりっちゃんのママに捨てられそうになった時、僕を庇ってくれたんだ」
ふくふくと笑って、ふうちゃんが言う。
そうだ。ふう君が燃やされそうになった時、一生懸命火を消した。あの時のキズは――。
ふう君がポンと律子の足を叩く。
「おてて、痛かったね。りっちゃんがみいちゃんを叩いたら、おてて、悲しいよ」
ふう君が律子の手にぽんと両手を乗せる。そうだ。掌に引き攣った跡があるのは、ふうちゃんの火を一生懸命消したからだ。
その手で、私はみいちゃんを叩こうとした――。私、なんてことを。
「私、二度もふうちゃんを大切にできなかった――!」
ふうちゃんをぎゅっと抱きしめて、律子は泣いた。ふう君は律子の背中をぽんぽんと叩いた。
男はそんな二人を見て、優しく微笑む。
「大切なもの――見つかりました?」
男は律子の目の高さに合わせて座る。そして、そう尋ねると律子を見つめる。
「大切なもの――。私、自分の子どもが産まれるのを楽しみにしてたんです。今度こそ、私の家族ができるって。それなのに、私、なんてことをしようとしたんだろう!」
泣き崩れる律子に、男は優しく語り掛ける。
「大切なものが見つかったのなら、お行きなさい。あなたは思いとどまった。もう大丈夫ですよ。あなたは優しい人ですね。全部、何もかも一人で背負わなくていいんです。泣いていいんですよ。怒っていいんですよ。
あなたには、家族がいる。一人じゃありません」
男は笑ってステッキをとんと鳴らした。
ぱっと明かりがつく。照らし出されたのは、サーカスのステージ。色とりどりの照明がステージを照らす。観客の歓声と、玉乗りをする小熊。華やかな衣装の空中ブランコに、火の輪を見て興奮するライオン。象の曲芸。幸せだったときに見た、サーカスの舞台だった。
律子はきらきらした目でステージを見てから、男をまっすぐに見た。
「私が思いとどまれたのは、ふうちゃんのおかげです。ふうちゃんを、ありがとう。あなたはきっとみいちゃんにじゃなくて、私にふうちゃんを渡してくれたんでしょう?」
律子の問いかけに、男は微笑んだ。
「さあ、お行きなさい」
ぱっと電気が消える。
「これは、サーカスが見せる一夜の夢のようなものですから」
次に目を覚ましたときは、ソファの上だった。みいちゃんを抱きかかえたまま、眠ってしまっていたらしい。
目を覚ましたみいちゃんは、目を閉じている律子を確かめるようにしてから、ソファを降りた。そして、しばらくしてからず、ず、と何かを引きずりながらソファの前に戻ってきた。律子が寝ていると思って、んしょ、と小さく掛け声をかけながら律子にブランケットをかけた。
「ママ、ねんねんね」
いつもみいちゃんが寝るときにかけている言葉だった。みいちゃんが眠るときにするように、とんとんと肩を叩いてから、みいちゃんはソファを降りる。
「ママねんねだから、みいちゃんしぃーよ」
きっと、みいちゃんは人差し指を口に当てながら、静かに遊んでいるのだろう。
みいちゃんは、優しい子に育っている。
ありがとう、ふう君――。
律子はブランケットの暖かさに、微睡んだ。
「あら、ふう戻ってきたの?」
男に抱っこされているふう君を見て、派手な衣装のブランコ乗りが笑う。
「今度こそ、見つかると思っていたのにね」
ブランコ乗りの言葉に、男は「おやめなさい」と窘める。ブランコ乗りの少女はふふふと笑うと、ステージの袖に隠れてしまった。
「ふう君、あなたの幸せはどこにあるんでしょうかね」
男は小熊のふう君を床に降ろして、呟いた。ふう君は笑う。
「きっとね、どこかにあるの」
ふう君はタタっと走り出すと、いつもの玉乗りの玉に乗る。
「見つかるといいですね」
男はそんなふう君を見て、優しく笑う。
ほら懐かしい――君の街にパレードが来るよ。
――みんな見においで。サーカスを。パレードを。
君の大切なものを見つけたら、どうぞ家にお帰りなさい。でもね、もし見つけられなかったら――
僕らと一緒に行こう。次の街へ、次の街へ――