悪辣王の愛息子
目の前で首が飛んだ。
比喩なんかじゃない。文字通りだ。
嘘みたいな血しぶきがあがり、今はもう遺体となった男の真後ろにいた俺をドロリと血で汚した。
血で濡れた剣を掲げて、呆然とする俺の前に佇むのは、瞳に冷たい光をたたえた美丈夫。
アーデルベルト・ツヴェイン───、悪辣王の異名を持つこの国の王。
彼は俺、ライナルト・ツヴェインの父である。
俺は一連の衝撃で突如思い出した。
日本という平和な国で暮らしていた前世のことを。
前世の妹から聞かされた、『悪辣王の愛娘』という小説のことを。
そして、思った。
───俺はこれ、詰んだっていうか、死んだ。
***
俺は前世、平々凡々な会社員だった。
「先輩、クマすごいですけど、少しは寝ました…?」
「おう、そこのネットカフェで二時間ほどな」
心配そうな顔をした後輩の質問に栄養ドリンクをあおって答えると、俺はパソコンに向かいキーボードを叩き始めた。今日の十時から始まる会議の資料が出来上がっていない。死ねる。
いや、平々凡々は嘘だった。
超のつくブラック企業で馬車馬のごとく働いてた。
サービス残業、休日出勤は当たり前。もちろん、代休などは与えられない。
労働基準法?何それ、おいしいの?
有休?あっはっは、何をたわけたことを。
積み上がる書類、鳴りやまない電話。注文が増えていくのに、締め切りは短くなるという不思議現象と戦う毎日。
基本給が高くなかったら、こんな会社、とっくにやめている。
え、二十四時間も戦えませんけど、なにか。
終電を逃すとお世話になる、会社の近くにあるネットカフェの店員とは顔馴染みになり、今朝などは悲痛な顔で「サービスです」と栄養ドリンクを差し出される始末。ネットカフェにそんなサービスがあるはずもない。つまり、あの一見チャラそうな青年の自腹。人の優しさが身に染みる。本当にありがとう。
そんなこんなで後輩の尻を叩きつつ仕上げた資料で会議を乗りきり、デスクで昼食を取りながら課長の愚痴を聞き、同僚のやらかしをリカバリーするべくクレーム対応をして、先輩を手伝って明日締め切りの資料を仕上げ、取引先の接待に行く部長に同行して…。
いや、死ぬから。俺にも俺の仕事があるんだわ。みんな、何かあったら俺を呼ぶの、いい加減にして。
接待の後、酔い潰れた部長を送るという名目でくすねたタクシーチケットで自宅まで帰ってやった。これくらい許して。
「お兄ちゃん、久しぶりー」
家に帰ると妹のマリが不思議な出迎えをしてくる。いや、事実だけどさ。
家に帰るのは十日ぶりだっけ?ネットカフェの住人となってたからな。
実家を出てはいないのだが、ほとんど帰っていないから実質は自立か?いや、違うな。なんか涙出てきた。
三十路を過ぎた身としては、こんな生活、辛すぎる。
「ねぇ、マッサージしたげるから話聞いてー!」
「あいよ」
マリはいつも俺に自分がハマっているゲームやら漫画やらの話をしてくる。オタクであることを友達に隠しているから、話す相手が俺しかいないらしい。
「それでね、『悪辣王の愛娘』って小説がね、超いいのよ!って、お兄ちゃんの肩、かったぁ!!」
俺の肩を揉みながら、マリが熱いプレゼンをかましてくる。
「乙女ゲームのハーレムルートを辿るみたいな話なんだけど、キャラが本当に良くて!挿し絵も超かっこいいのー!!」
「ほー…」
しかし、そのプレゼンは俺の心にはまったくもって響かない。お兄ちゃん、ハーレムとかイケメンとか興味ないわ。
「この感動を味わってほしいから、ぜひ読んで!!」
「お兄ちゃん、超忙しいんだが、いつ読めと?」
「電車での移動中とか!何かあるでしょー?」
マリが俺の貴重な睡眠時間を削ろうとしてくるのだが。
虚ろな目をした俺に、マリが話した小説の導入部分をまとめるとこうだ。
悪辣王たるアーデルベルトは、残虐な性格をした人物であったが、同時に素晴らしい才覚の持ち主でもあったらしい。国の統治は見事なもので、彼が即位して以来、国は瞬く間に豊かになっていった。
ただ、問題はその好戦家っぷりだ。彼は自ら軍を率いて他国に攻めこむほどの戦狂いで有名であった。
そんなアーデルベルトを諌めたのが、小説の題名になっている、彼の娘だ。彼女は果敢にも悪辣王アーデルベルトの魔の手から罪なき人を守るために立ち上がるのだった。
「主人公の王女様がまず始めに出会うのは、エルヴィン・シンバトールっていう元王子なの!でも、私の最推しはねぇ…」
目を輝かせたマリが言う。
そうか、そうかー。お兄ちゃん、もう眠いなー。
「もー!ちゃんと聞いてないでしょ!いいから一回読んでみて!!」
半分寝ている俺にマリは小説を押しつけてきた。仕方なく受け取ったその本をビジネスバックにしまい、俺は風呂に入って眠った。明日は十日ぶりの休みだしな。
『先輩、助けて下さい…』
翌朝、泥のように眠っていたところを後輩の死にそうな声で起こされた俺は、トボトボと駅に向かっていた。
十日ぶりの休みがどこかに消えた。死ねる。
「あー、仕事やめて田舎暮らしとかしてーなぁ…」
そう呟いた瞬間、背後から大きなクラクションの音が聞こえた。驚いて振り向いたところで強い衝撃を感じて、俺の意識は途切れた。
***
ふと気がついたら真っ白い世界の中にいた。
「なんだ、ここ…?」
キョロキョロと周りを見渡してみるが、何も見当たらない。
すると、目の前に突然、光の渦が現れた。
「やっほー!はじめましてぇ、神様でーす!」
光の中から登場した女性は、ふわふわと宙に浮かびながら明るい笑顔でそう告げた。
この人が神様?ノリが超軽いな?
ん?神様って…まさか…。
「俺…死んだんですか?」
「そうなのよー、交通事故ね。即死なのがまだ救いかしらん」
「えー…?」
マジか。え、軽くない?俺の死に対する扱い、軽くない?
確かに、後遺症が残って寝たきりとかだと、家族に迷惑かけるから、痛みも感じずに死んだと思えばまだ不幸中の幸いと言えるのか…?え、言える?
毎日、死ねると思うほど頑張ってたのに、俺、こんなに呆気なく生涯を終えたの?
「貴方、ずいぶん忙しい毎日を送ってたみたいねぇ」
「まぁ、そうですね…」
なんだか投げやりになって適当に答えるが、なんだか神様はニコニコと上機嫌だ。
「ずっと人のために尽くして頑張ってたみたいだし、そんな貴方にご褒美として、異世界転生の権利をあげちゃいます!」
「異世界転生…?いや、いいです…」
なんだか、マリが泣いて喜びそうな響きだ。俺はいらないけど。
「忙しい中でも大事に持ち歩いてた小説の世界にご招待するわね~!」
「えぇ?!ちょっと待ってくれません…?!」
この神様、一方的でマイペースだな!俺の話はまったく聞く気ねぇの?!
どうせ希望を聞いてもらえるなら、まったりと田舎暮らしとかをしたいんですけど!小説の世界とか、全然求めてない。
「大丈夫よぉ、安心してー!」
「何がです?!」
安心できる要素がなさそうな神様に聞き返すと、満面の笑みで親指を立てられた。
「来世はイケメンにしといてあげるわよー」
「余計なお世話!そうじゃなくて!!」
平凡顔で悪かったな?!なんて失礼な神様だ!!
「はーい!じゃあ、来世は長生きできるように頑張ってねー!」
「いやいやいや、ちょっと待て!おい、神様ー!?」
持ち歩いてた小説ってあれだろ?!マリから押しつけられた、『悪辣王の愛娘』!!マジで勘弁して!!
***
そんなやりとりがあったな、と思う今。
え、この状況でそれ思い出す?
もっといいタイミングあるだろ???
血にまみれて呆然とする俺を、アーデルベルトが剣を鞘に納めながら冷たく見据えた。
俺は父王を見上げながら、前世の妹の言葉を思い出す。
『私の最推しはねぇ、悪辣王アーデルベルト!』
マリよ、お前の男の趣味、悪くないか???
お兄ちゃん、お前のその後が心配。
いや、それどころじゃないな。心配すべきは自分の今後だ。
あの小説の主人公が俺の姉なのか妹なのかは知らないけれど、お願いだから今すぐ出てきてほしい。そして、できればついでに俺のことも助けてほしい。兄弟なのにどうして彼女の存在も知らないのかと聞かれそうだが、知らないものは知らないのだ。
父王アーデルベルトには、侵略を恐れた他国からご機嫌取りに差し出された美姫が、側妃として幾人か輿入れしている。そして彼女たちの間にもうけた子どもが俺を含めて数名いるのだが、具体的な人数が分からない。
何を隠そう、冒頭で首を刎ねられたのは俺の兄だったりする。アーデルベルトは自分の身内にも情け容赦がない。そして、殺伐としたこの城の中では心暖まる兄弟の触れ合いなどは皆無。よって、俺には、現在存命の兄弟の数や内訳すら分からないのである。
確かにあの兄は性格が悪く、弱者を虐げ喜ぶようなクズだったが、まさか俺の目の前でその首が飛ぶとは思わなかった。ぼんやりながらも前世の平和な日本を思い出した今、軟弱な俺のハートは崩壊寸前だ。
まぁ、愚兄に関しては、彼の悪行の数々を知っているだけに、まったく同情はしていないのだが。
しかし、アーデルベルトがどこまでの事情を把握して兄の首を刎ねたのかは分からない。こうなると、王の子でありながら特に何の才覚も実績もない俺も、いつ兄の後を追うことになるか分からない。マリが話した小説の内容には、主人公の兄弟のことは出てこなかった気がする。マリから聞き齧っただけだから、よく知らないけど。
血だまりの中、俺はこのまま気を失ってしまえればどれほど楽かと胃を痛めていた。アーデルベルトはそんな俺の様子を気にも止めずに玉座に戻った。
「エルヴィン・シンバトールの処遇に話を戻そう」
アーデルベルトは長い足を組むと、端的にそう述べた。
そうだった。前世の記憶が戻った衝撃ですっかり忘れていたが、今は敗戦国の王子の処遇をどうするかという話の途中だった。そこで愚兄が「俺の奴隷に」とか戯けたことを口にして、首を刎ねられたのだった。
「彼自身に咎はないが、生かしておくと今後の火種になりかねない。ここは慣例通り…」
「お待ち下さい!」
思わず声を上げてしまった俺を、アーデルベルトが冷ややかな眼差しで射抜く。俺は緊張のあまり生唾を飲み込んだ。
「何だ、異論か」
威圧感がすごい。俺は早くも勢いで声を上げたことを後悔してしまっている。
うぅ、どうして俺という奴は前世からこういう時に黙っていられないんだ。何度貧乏クジを引いても懲りない。
でも、俺が止めなければきっと彼は殺されてしまうのだろう。それだけは許容できない。
アーデルベルトが先ほど口にした通り、彼は敗戦国の王の子であっただけで、何の罪もないのだ。むしろ、話を聞いた限り、父王の悪政を終わらせるために奔走していた様子だ。
前世が平和な日本育ちだった俺としては、自分の目の前で罪もない人が死ぬのは見たくないのだ。
っていうか、マリよ、主人公の愛娘とやらはいつ出てくるんだ。お前、小説の始めに出てくるのがこの王子とか言ってなかったか?今にも処刑されそうなんだが?
「彼を私の護衛としてはいただけませんか」
勢いだけで口にした俺の発言に周囲の人間が息を飲んだのが分かった。俺自身も、無茶なことを言っている自覚はある。
「護衛だと?」
「はい」
アーデルベルトの声色の冷たさに泣いて逃げ出したい気持ちだが、今さら撤回もできない。真っ向から彼の鋭い視線を受ける。
何という眼力だろうか。ひぃぃ、自室に帰りたい。
でも、ここで目を反らしたら負けな気がする。
「彼の身柄は私が預ります。何か問題が起きましたら、私の責として諸とも切り捨てて下さって構いません」
「ほぉ?」
アーデルベルトはその瞳に興味深そうな光を灯して玉座から立ち上がると、俺の前まで歩み寄り、再び血に濡れた剣を抜いた。
あっ、俺、死んだかな???
アーデルベルトは剣を俺の喉元に突きつけると、俺に問いかけた。
「その言葉に嘘偽りはないか」
「はい」
言葉を発したことで喉が動き、剣の切っ先が俺の首にチクリと刺さった。
死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。
「面白い。その言葉、忘れるなよ」
「はっ」
そう言って剣を納めたアーデルベルトに向かって、俺は冷や汗をかきながら頭を下げた。
アーデルベルトから自室に下がるように命じられ、俺はエルヴィンの手を引いて、大急ぎで王の間を後にした。
***
静まり返った王城の中、自分の足音がやたらと響く。俺は何かに追われるように自室に戻った。
そして、部屋の中に入り扉を閉めた瞬間、緊張の糸が切れた。
「お前、どういうつもりだ…?」
「どわぁぁぁ!!死ぬかと思ったぁぁぁぁぁ!!!」
エルヴィンが何か口にしたようだが、俺はそれどころではなかった。
「怖かった!すっげぇ怖かったぁ!!」
俺が床に崩れ落ち、鼻水を垂らす勢いで泣き叫ぶ様子に、険しい顔をしていたエルヴィンは呆気に取られた様子だ。
軟弱な日本育ちを舐めんなよ?!人が死ぬところとか、初めて見たわ!!!
「お前、殺されなくて良かったなぁ!でも、いつ気が変わるかも分からないからお互い言動には気をつけようなぁ!!」
「あ…?…あぁ…」
俺がエルヴィンの服の裾を掴んで捲し立てると、彼は毒気を抜かれたように返事をした。
「なんとか逃がしてやりたいんだけど、とっさに護衛とか言っちゃったからなぁ…。王族だったあんたにとっては苦痛かもしれないけど、ほとぼりが冷めるまで、人前だけでもそんな感じでよろしく頼む」
ぎこちなくも頷いてくれたエルヴィンにほっとして、俺は彼に笑いかけた。エルヴィンの頬は、怒りのためか紅潮していた。
「それで、部屋に連れてきて早々で放置して申し訳ないけど、血みどろで気持ち悪いから湯浴みしてきていいかな?」
今さら過ぎるけど、頭から血をかぶった身としては、今すぐ全身を洗い流して清潔な服に着替えたい。
日本育ち舐めんなよ。血とか初めて浴びたわ。
「俺も行く」
「はぇ?」
エルヴィンの言葉の意味が理解できず、俺は間抜けな声を漏らした。
「あっ、エルヴィンも湯浴みしたいならお先にどうぞ」
「そうではなく、一緒に」
先に風呂に入るように薦めてみると何故か『一緒に』を強調される。やはり意味が分からず疑問符を並び立てる俺の服を、エルヴィンが脱がせ始めた。
「へ?え?は?」
「俺は護衛なのだろう?お前の身を守る必要がある」
「うん?守ってくれるのはありがたいけど、何故に一緒に湯浴みを?」
「刺客が浴場に現れるかもしれないだろ」
そうなの?え、めっちゃ怖い。超丸腰じゃん。死ぬ。
いや、俺は剣持っててもさっくり殺されそうだけど。
「え…でも…」
「いいから」
いや、俺はまったくもって良くない。さすがに今日が初対面のエルヴィンと湯浴みを共にするのは抵抗がある。
入口を見張ってくれてたらいいじゃん?え、駄目???
疑問符だらけの俺の動きが鈍いのをいいことに、エルヴィンは器用に俺の服を脱がせると自分も服を脱いだ。
うわぁ、すごい筋肉!!
思わず自分の薄い体を見下ろして気落ちした俺を、エルヴィンは部屋に備えつけられた浴場へと引きずっていく。
「あっ、体は自分で洗うから!」
「いいから」
「あーーーッ!!?」
いや、ちっとも良くないけどな!!?
俺の抵抗は虚しく、体の隅から隅まで磨きあげられた。
***
あれから三年。何故かは分からないが、愛娘とやらは一向に現れない。
俺はどうしてるかと言うと…。
うん、はっきり言って、俺は迷走している。
「陛下!恐れながら、お願いがございます」
「なんだ」
「その者、処分するなら私にいただけませんか」
王の間で何度繰り返したかも数えきれなくなってきた、お馴染みのこのやり取りだが、相変わらずアーデルベルトの眼差しは冷たい。
父子の会話とは思えない、この余所余所しさ。どうにかなりませんかね?
「ほぅ、どうするのだ?」
「最近、私の愛しいペットの食欲がないのです…」
「お前のペットのワニか」
「…?!はっ」
ワニ?ワニってこの世界にもいるのか?
俺、前世ですら生で見たことすらないんだけどな?!
この間は獅子って言われた気がするんだけど…ワニ?!!
内心の動揺を抑えつつ、恭しく頭を下げる。
「そうだな、王族の血肉とあらば、お前のペットも満足するであろう」
「ひっ…!」
表情のないアーデルベルトから生き餌とする宣告を下された哀れな少年が息を呑む。
ごめんなぁ、怖いよな?!そいつの無表情、めちゃくちゃ心臓に悪いよな?!!
「いいだろう、それを連れて下がれ」
「ありがたき幸せ」
傍に仕える元シンバトール王国の王子にして、現在は俺の護衛騎士であるエルヴィンに目配せする。エルヴィンは黙って頷くと、恐怖に震える少年を抱えるように自室に向かう俺の後に続く。
「なんであの言い訳で通じたんだろうねぇ?!」
「俺が知る訳がないだろう」
「あと、俺ってワニを飼ってるんだっけぇ?!!」
「そんなもの、飼っていないに決まっている」
自室の扉を閉めた途端に崩れ落ちた俺と、冷静に相槌を打つエルヴィンの姿を、少年が呆けて眺めている。
ごめんね、でもね、もうネタがないんだよ!護衛も従者もいるし、侍女に執事にコックに庭師に、何か『それ必要?!』みたいな役職の人間が他にもいっぱいいるんだよ!!
雇用の飽和状態!俺、前世でもマネジメントはやってなかったんだよね?!
「怖がらせて悪かったね。ワニの餌なんかにはしないから大丈夫だよ」
申し訳なくなって、安心させようと少年に微笑みかけると、エルヴィンが俺の頭を鷲掴みにした。
「お前は何度言っても学習しないな。そうやって片端からたらしこむのはやめろ」
「痛たたた!た…たらしこむぅ?!」
なんて人聞きの悪いことを言うんだ。
エルヴィンには、他者の目がない時は好きに振る舞うようには言ってある。それにしても、容赦がない。
彼は元はと言えば武に長けたシンバトール王国の出身だ。力で押さえ込まれたら、軟弱な俺などは一溜まりもない。
というか、最近エルヴィンの動向が不穏だ。暗殺の恐れがあるとか何とか言って、浴場にまでついてきて俺の体を隅々まで洗い尽くすのは前からだが、このところは当たり前のように寝台にまで潜り込んでくる。
護衛…護衛って、こんなものだったっけ?
俺は何よりお前が怖い。
「エルヴィン、護衛の立場をわきまえなさい」
涼やかな声がして、開いた扉から長髪の美男子が現れた。片手に書類を抱えた彼は、ディートリヒ・ヴィンフォルト。
エルヴィンと同じく、彼もかつて王族だった。何かと言うとすぐに処刑に走るアーデルベルトから俺が引き取って、今は俺の従者として仕えてもらっている。
ディートリヒは、様々な分野で活躍する研究者を多く排出していたヴィンフォルト王国の第二王子だったらしい。非常に有能で、申し訳程度の仕事しか与えられていない俺なんかの従者をしてもらってるのがもったいないくらいだ。
「君は?」
俺の執務机に書類を置くと、ディートリヒは呆けた様子で立ち尽くす少年に声をかけた。
「はっ、クラウス・ファントワールと申します!」
弾かれたように元気よく少年が声を上げた。エルヴィンもディートリヒも、年下のくせに俺より背が高くて可愛いげがないから、小柄で可愛らしい少年の姿に癒される。
「クラウス、よろしくね」
俺が暢気にクラウスに握手を求めていると、エルヴィンとディートリヒがこそこそと何事かを話し合い始めた。何故か俺はいつも仲間外れだ。泣ける。
一応、表面上は俺が主なんだけど、まったく頼りにされていない。本当に泣ける。
まぁ、俺はとりあえず平和に暮らせればいいから問題ないけどさ。
小説の主人公の愛娘ちゃんが出てきたら、さっさとこの国とはおさらばして、どこか平和な場所ででひっそりと暮らしたい。今のうちにお金貯めとこ。
そんな夢想をしていた俺は、二人の不穏な会話など知るよしもなかった。
「どう思う、ディートリヒ」
「貴方に私、それから魔法大国であった元ファントワール王国の彼。この布陣なら確実でしょう。この国の後継は十中八九、ライナルトです」
「やっぱりか」
「ライナルトは気づいていないようですが、最近彼に任されている仕事はかなり国政に食い込んでいます」
「知らぬは本人ばかりか」
そう、小説の詳しい内容を知らない俺は知る由もなかった。
アーデルベルトが、前王の時代に腐敗しきった自国の膿を出しきるために、宰相たちと示し合わせて暴君を演じていること。
彼の起こした戦はどれも侵略のためなどではなく、周辺国の横暴な王族を粛清し、その民を救うためであること。
敵対国の王族の中でも罪なき者の処遇を決する場に自分の子を同席させるのは、その子の資質を見極めるためであること。
前世の社畜っぷりで麻痺した感覚のまま、バリバリと仕事をこなしてアーデルベルトに気に入られてしまっていること。
前世に読んだ小説の主人公であり、この国の後継となるはずだった俺の妹は、他国に嫁に出されて、とうにこの国にいないこと。
そして、俺の下手な演技はとっくにアーデルベルトに見破られていて完全に面白がられていることを───。
***
「クックックッ」
人気のない王の間で、アーデルベルトは笑いを漏らした。
「陛下、人が悪いですよ。可哀想に、貴方の愛息子は怯えるあまり、暴君の真似事まで始めてしまいました」
「あいつ、どこを目指してるんだろうな」
「貴方がからかうからございましょう?あの様子では、きっとご本人が一番そのことに疑問をお持ちでしょうが」
傍にいた宰相が嗜めると、アーデルベルトはその冷たい美貌に悪戯めいた笑みを浮かべた。宰相はそれを見て呆れたようにため息をつく。
「ライナルトはあれでなかなか頭がきれる。少し話を振ればどんどん意見を出してくる」
「確かに、彼から提出される企画書はどれも精度が高いです。従者の助けがあるにしてもご立派なものです」
「ただ、あの分かりやすい性格だけどうにかさせないと、私の跡は継がせられんがな」
「恐らくご本人は貴方の跡を継ぐ気など露ほどもございませんがね。彼の性格の甘さは、彼に付き従う者が補うことでしょう」
「エルヴィン・シンバトールに、ディートリヒ・ヴィンフォルトか。そうだな、あれらを取り込んだ時点で私の後継者は決まったようなものだ」
口の片端を上げて、アーデルベルトは笑みを深めた。
「類い稀な美貌に、才覚。加えて、あの真っ直ぐで優しい性根は、腐敗した国で疲弊していた彼らにとっては一溜まりもないでしょうね」
「顔だけは私によく似たのだが、あの性格はどうしたことだ」
「知りませんよ、そんなこと」
宰相は大きく息を吐いて、指を折る。
「護衛に武のシンバトール、従者に知のヴィンフォルト。そして、今回は魔のファントワールですか」
「どうせファントワールも取り込むことだろう。あいつは男たらしの才能がある」
「彼が聞いたら嘆きそうな才能の見込み方ですね…」
宰相が額を押さえると、アーデルベルトは笑い声を上げた。
「ハッハッハッ、ライナルトの後継のために、ファントワールには男の体でも妊娠できる魔法を研究させておくか?」
「やめておいた方が賢明でしょう。それこそ、彼の取り合いで血を見ることになりかねません」
二人以外に人影のない王の間に、アーデルベルトの笑い声と宰相のため息が響いた。
『悪辣王の愛息子』となった俺に安寧など許されないということを、俺はまだ知らない。
拙作を最後までお読みいただき、ありがとうございました。