彼を好きな私を愛する彼
「お前は大丈夫だよ、俺を好きになった女だから」
一緒に過ごしたこの街を離れる日、彼が言った。
見慣れた高校の制服じゃくて普段着、私服姿。名前だけ有名な私の知らない大学で、彼は毎日こんな格好で学校に行くのだろう。
私の知らないところで。
そう思うとツーっと、頬を涙が伝った。
「俺が好きになったじゃなくて、俺を好きになった女だから?」
睨み付けるように見上げると、彼は不意を突かれたような顔をして、次に優しく微笑んだ。
「うん、俺をここまで愛してくれた女だから」
自分本意な言葉に、閉口を通り越して失笑してしまった。
だって嬉しそうに、大切なものを守るように囁くから、私は納得出来ないまま彼を見送った。
だからこんな、わがままを言ってしまう。
大学に進学して三ヶ月、電子機械越しに繋がっているけれど、やはり不安は大きかった。
「本当に好きなら会いに来て。そうじゃないと信じられない、会いたい」
衝動で電話を切った。その後何度も着信音が流れたけれど、電源を切って枕の下に突っ込んだ。
しばらくして落ち着いて、彼に電話をかけてみた。何回かけても繋がらなくて、躍起になって着信残しまくって最後には泣き叫んで、絶望を抱いて眠りについた。
折り返しがあったのは、次の日の朝。
『急いだほうがいいと思って電話かけれなかった。気づいた時は深夜二時だったから、どうしようかって悩んで。よく考えたらラインすればよかったな』
たらたらと、長きに渡って言い訳を述べる彼。
私は疲れていて、「ごめん」とだけ謝って黙り込んだ。
長い沈黙のあと、彼が囁くように言った。
『だから言っただろ。おまえは俺を好きになった女だから、大丈夫って』
「違うよ、好きだからたくさんわがまま言っちゃう」
『あー、うん。だから大丈夫なんだけど……意味伝わってなかったな、やっぱ』
「なに言ってるの?」
重い目蓋を擦ると、カーテンの光が漏れていることに気がついた。
外は快晴、今日の天気は雲ひとつない晴れでしょう。
『なぁ、今日って雨降るかな?』
同じことを考えていたことが、そんな小さな奇跡がとても嬉しい。
というか、彼の住んでいる街は曇り空なのかな?
「そっちは雨降りそうなの?」
『さぁ?』
「さぁって……こっちは晴れてるみたいだけど」
『……窓の外見た?』
「見てないけど、カーテンから光が漏れて……」
そこでふと、自分たちがおかしな会話をしていることに気がついた。
どうして急に、天気の……窓の外の話なんて。
ベッドから飛び降り、カーテンを避けて窓を開ける。
私の居住しているアパートは一階で、道路に面している。無用心だから二階にしろ、せめて庭がついてるような、窓を開けたら目の前に人がいるなんて状況にならない部屋に引越せと何度も忠告された。
その彼が今、目の前に、アパートの前の道路に立っていた。
「やっぱり引越せ、無用心過ぎる」
苦笑いの彼が、スマホを耳から外した。反対の手で、私のおでこを突く。
「おはよう」
機械越しじゃない、肉声が鼓膜に届く。
画面越しじゃない、肉眼で見える彼の私服姿。
足が勝手に動いていた。玄関のドアを開けると、道路からアパートの敷地内に入り込んでくる彼の姿が見えた。
「なに、何してるの!?」
新幹線を使って約四時間の距離、午前八時に辿り着くなんて有り得ない。
夜行バス? 昨日の今日で?
「なんで!?」
怒声に似た私の言葉。
困ったように微笑む彼が玄関に入り込むと同時、私の腕を引き寄せた。
玄関のドアが閉まるのが先だったか、抱きしめられるのが先だったか。靴を履いたままの彼は、素足の私をぎゅっと抱きしめた。
「会いに来た」
愛おしいもののように、本当に大切に扱うように、包み込んでくる彼の腕。
会いたかった……会いたかった会いたかった!
叫ぶ以上に気持ちが伝わって来た。
「会いに来たって……学校は?」
「大学なんて、一日休んだくらいで退学にならない」
「そうだけど……でも、なんで?」
「お前が会いたいって、正直にそう言ったから」
背中に絡んだ腕が解け、顔を突き合わせる形になった。
コツンとおでこをぶつけて来る彼の顔は怒っている風ではなく、優しく微笑んでいた。
「言っただろ。お前は俺を好きになった女だから大丈夫って。本気で愛してくれたから」
照れたような、困ったような表情の彼。
私の頬に手をあてて、大丈夫だよと言い聞かせる。
「我慢できなくなったら、わがまま言ってくれると思ったんだ、お前なら。無理だ、つらい、会いに来てくれって、素直に言ってくれる。だから俺はこうして行動を起こすことが出来る。お前が泣いたら会いにいかなきゃって、足を動かすことが出来る。一人にさせないで済む」
だから大丈夫と、再び私を胸に抱きしめながら言った。
ワンテンポ遅れて彼の言葉の意味を理解した私は、思わず、彼に抱きついた。
彼の腕が再度、私の身体を包み込む。
「何でも素直に言ってくれる、そんなとこが好きだよ」
耳元で囁く声が本物の彼の物で、私はまた安心して、明日を生きていける。
大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
私は大丈夫、だってこの人を好きになったから。
こんな優しい人を、好きになれたから。
「わがまま言って、ごめんなさい」
謝罪の言葉を述べると、彼は耳元でくすくすと笑った。
「毎回じゃないからな? 毎晩はさすがに退学になる」
「大丈夫、あなたは私を好きになった男だから」
「ん?」
身体を離すと、彼が首を傾げて微笑んだ。
その笑顔が、あなたの全てが愛おしい。
「我慢出来なくなったらそっちも、ちゃんと『もう無理だ!』って言ってくれるでしょ? 相手できない、自分でなんとかしろって正直に言ってくれる。だから大丈夫、私たちは大丈夫。私はあなたを一人にさせてあげれるし、一人にさせない」
「贅沢だな、いろんな時間があって」
あははっと笑った彼が再び、私を抱きしめた。
彼の体温、胸の鼓動。
明日になればこの温もりはなくなるけど、心音は遠い場所に帰ってしまうけど大丈夫。
今のこの気持ちだけで、私は生きていける。
話をしよう、声に出して言おう。
感情全てを、わがままを、嬉しいを、楽しい悲しい。
喜怒哀楽全ての感情を、あなたと共有する。
「愛し、」
「愛してる」
私より先にその言葉を口にする彼。
自分本意すぎて、失笑してしまった。
負けず嫌いな彼はきっと、自分のほうが私のことを好きだと思っているのだろう。
うん、そうだと嬉しいな。
彼を好きになった私を愛してくれる彼。
大丈夫じゃないわけがない。