エピソード1~桃森家・家族構成~
2020年、4月。東北の田舎町に住む、36歳の私。家族構成は、母(83歳)・姉・兄が二人。姉と、長兄に関しては、年齢不明。次兄は46歳。父親は、私がこの世に生まれてくる前に、病気で亡くなったとの事。母曰く、「仕事はするけど、酒ばっかり飲む人だった。」との事。父との話は、なかなか自虐的で面白いと感じる。母は、一度結婚に失敗している。再婚をし、父が亡くなってからは誰かと一緒になることも無く、次兄と私を育ててくれた。10年ほど前に、脳梗塞を患いそこからは介護が必要になった。年々、体は弱っていくが、まだ自宅で介護できる範囲である。
母は、喫茶店を営んでいた。お客さんはまずまず入る方のお店だったのを記憶している。しかし、私が小学校に入ったあたりから、知り合いの子ども預かる事をきっかけに、保育所的なものを始めた。世間では珍しい、夜間専門の保育所。あの頃は今ほど行政も厳しいものではなかったので、素人がやっていてもそこまで言われるものではなったし、本当に生活に困らない程度の少人数で預かっていたのを記憶している。私が小学校から帰ってくると、知らない子が家にいて一緒に遊んだりすることも良くあった。
いつしか、保育所の方がメインとなっていったが、母親が20年ほど前に軽い脳出血を起こし、入院したころから次兄が受け継いだ。そこからは、数年かけて規模が大きくなっていった。
私は母親の脳出血に際に、家の事をするため・母親の仕事を手伝うために高校を辞めた。高校に入学し、1カ月で脳出血で入院。一応は1年間在籍は置いたが、出席日数や単位が足りずに退学を進められた。本当は、一年間休学し、改めて高校に通おうかと自分の中でいろいろ考えていた矢先に、担任でもない家庭科の教師に「あなたはこの高校にはあっていない。辞めた方が良いわよ」と、冷たく言われてしまい、私の中で何かが壊れてしまった。泣きながら家庭科室を出てきた私に、当時の友だちが私以上に怒ってくれ、担任に直訴。「あんな言い方ない!」と、職員室で先生に怒ってくれたとの事。担任の先生が、直接家に謝りに来てくれたことを今でも覚えている。
次兄は、当時母親が入院していることを周りに内緒にしようと言った。周りに伝われば、保育所に預けている子が来なくなることを心配してだ。収入がなくなれば、私たちは生活できなくなる。次兄は、成人もしていたし保育所の仕事を母の代わりに行うにも、成人した人間がいれば、少しは不安を軽減できる。今となっては、少しは納得できる。が、振り返ると次兄は26歳だったにも関わらず仕事をしていなかった時期であったことに正直疑問を抱いている。25歳くらいまでは仕事をしていたのは確かに記憶している。知り合いが経営しているとかで、スナックに勤めていたと思う。ただ、もしかしたら母が入院することになったから、仕事を辞めたのかもしれない。ここの記憶は、はっきり言って曖昧である。
そして15歳だった私は、料理はもちろんのこと家事全般は全くと言って出来なかった。次兄曰く、私は甘やかされて育ったという。今振り返ると本当にその通りだと思う自分がいる。
しかし、人間はやらざる得ない環境に立たされると、やれるようになるものだ。掃除は未だに嫌いではあるが、必要最低限なことは出来るようになった。料理に関しても、自分では美味しいとはあまり思わないが、そこそこの味であるらしい。
私の人生の記録であるこの小説の大部分は、私・母・次兄が中心となる。そして、次兄が28歳の時に勤めた会社で知り合った、当時20歳のAさんが大きく関わってくる。
長女・長兄とは仲が悪く、全く連絡を取り合うことはない。長女とは、20年近く会っていない。長兄とも5年ほど前から連絡を取り合うことがなくなった。これについては、いずれ違うエピソードで書いていきたい。
家族構成として、説明できることはこんなものである。