キラキラヒカル 9
「キラキラヒカル9」
〇もくじ
第 1話 荒川家の生い立ち(1)
第 2話 荒川家の生い立ち(2)
第 3話 今野家
第 4話 教訓
第 5話 キッチン物語(1)
第 6話 キッチン物語(2)
第 7話 キッチン物語(3)
第 8話 栄華物語
第 9話 ヤジとしのぶ
第10話 2つの警備会社
〇配役
次のようにご自分で配役を決められますとさらに面白くなります。
荒川景子・・・ 戸田恵子
荒川明子・・・ 高橋由美子
松尾晴海・・・ 樹木希林
松尾しのぶ・・・大竹しのぶ
今野のぶえ・・・ 浅野あつこ
今野ふみえ・・・ 浅野ゆうこ
ヤジ・・・ 左とん平
課長・・・ 和久平八郎
主任・・・ 柳葉敏郎
西岡・・・ 織田裕二
武田範正・・・ 武田真治
原作: 大野竹輪
本編では荒川家を中心にその生い立ちを書いてあります。
第1話 荒川家の生い立ち(1)
荒川家はもともと関東を仕切る暴力団組織の中では3本の指に入る程の大きな一家だった。
この荒川組を10年間引っ張っていた当時の組長が病気で亡くなってから、関東の組織図が大きく変わってしまった。
荒川組の力は年毎に衰えていき、もはや組長の存在も無く、第11代目からは組頭として形式だけの集団になってしまった。
そんな荒川家11代目と結婚した工藤エミは、2人の子供(景子と明子)を産んでから5年後、組の解散に合わせて離婚することにした。
しかし、姓は荒川のままにして、少しでも自分の立場が悪くならないようにしていたのであった。
荒川組が解散する2、3年前から交流のあった松尾一家(松尾組)は、荒川一家とはお互い助け合ってきた間柄で、松尾一家も荒川一家の解散と同じくして、その翌年に解散したのであった。
ただそれぞれの組織が昔から経営していたテナントビルは今も残っており、ビルの中にはスナックが10数軒、今も営業を続けていた。
その店の中でも荒川景子の「RISA」、荒川明子の「Siori」、松尾しのぶの「しのぶ」の3軒は馴染みの客が多かった。
客の殆どはチンピラで、それぞれがいろいろな分野の職業に就いていた。
景子が24才になった頃のことである。
4月ようやく春らしくなった晴れの日。
ここは景子の店「RISA」。
景子「いらっしゃい。あらどうしたの?」
しのぶ「うん、ちょっとね。」
だいたい悩みの相談に乗ってくれるのは景子だった。
しのぶはカウンターに座って、
しのぶ「元カレが戻ってきちゃったのよ。」
景子「ああ、ヤジさんのことね。」
しのぶ「そう、もう会いたくないんだけどね。」
景子「けっこう長く付き合ってたじゃんね。」
しのぶ「通しで8年かな・・・」
景子「長いよ、それ。」
しのぶ「仕方ないじゃん。私の弱みに付け込んでばっかりでさァ・・・」
景子「でも、しのぶも甘やかすからじゃないの。で、いつ戻ってきたの?」
しのぶ「3日前。今はうちで居候の身分よ。」
景子「仕事してないの?」
しのぶ「言ったんだけどね。」
景子「まさか、あんたが面倒みる訳じゃないよね。」
しのぶ「まっぴら御免よ。」
景子「で、どうすんの?」
しのぶ「だから、今ここにさ・・・」
景子「そういう事ね。」
景子は困り果てていた。
景子「要は仕事ね・・・。でヤジさんはいくつになった?」
しのぶ「今年で40よ。」
景子「それだと、なかなかないよね。」
しのぶ「だよね。」
景子はちょっと考え込んでから、
景子「わかったわ。私さ、何件か聞いてみるよ。」
しのぶ「ありがとう。」
しのぶは少し疲れた様子で店を出て行った。
景子はその後知り合いに何件か電話してしのぶの為にヤジの仕事を探したのである。
翌日。ここは東中野商店街の喫茶「309」で、ヤジと景子が会うことになっていた。
ヤジ「やあ。」
ヤジはグレーのヨレヨレの作業服姿で店に入って来た。
景子「何よ。相変わらず無愛想ねえ。」
彼を待っていた景子が席を立った。
景子はいつもになくオシャレした他所行きの格好である。
ヤジ「地だからさ。姉御は変わらないねえ。」
ヤジは景子のテーブルに近づいた。
景子「もう・・・その姉御はやめてよ。貴方のほうが年上なんだからさ。」
ヤジ「そうか、そうだったねぇ。」
景子「でさ。仕事探してんの?」
ヤジ「ダメなんだよ。やっぱこの辺は仕事はないよなァ・・・」
ヤジが席に着いた。
景子「あまり綺麗な仕事じゃないけど、いいかな?」
ヤジ「何でもやるよ。」
景子「廃品回収の仕事。」
ヤジ「どこで?」
景子はポケットから1枚のメモを取り出して、
景子「ここに担当の人のメモがあるから、尋ねてみなよ。」
ヤジ「わかった。ありがとう。」
BGMのモーツアルトを聴きながら2人は頼んでいたホットコーヒーを飲んだ。
その夜。スナック「RISA」
景子「いらっしゃい。」
しのぶ「今日はありがとう。」
景子「でも、本人がやる気があるかどうか・・・けっこう仕事キツイらしいよ。」
不安そうな景子。
しのぶ「何か、話まとまったみたいだわ。」
景子「そうか、それは良かったじゃない。」
ちょっと安心した様子の景子。
しのぶ「これであと、家から出て行ってくれればね。」
景子「そういう事か・・・」
景子はグラスに焼酎を入れ、グッと一気に飲んだ。
景子「で、美咲ちゃんの事は知ってんの?」
しのぶ「いえ、話してないし、話したくない。」
景子「そうか、うちと一緒だね。」
景子は思いっきり落胆した。しのぶはビールのグラスを持って一気に飲み干した。
しのぶ「そう言えば、さおりちゃん。うちと年が一緒だったっけ?」
景子「いや、確か1つ上だったと思う。」
しのぶ「近所だから、さおりちゃんと仲良くしてくれればいいんだけどね。」
景子「いいじゃない。保育園も一緒だったんだし、このあと小学校も同じところに行かせればいいのよ。」
しのぶ「そうするわ。その時はよろしくね。」
景子「勿論よ。明子の子もいるしさ。」
しのぶ「ああ、透君だったね。」
景子「けっこう3人で遊んでるって、園長先生が言ってたわよ。」
しのぶ「そうっかあ・・・でも透君は体が小さいから・・・」
景子「園長先生が特別に看てくれてるのよ。小学校に入ったんだけど、まだ抜けて無くてね。しのぶもたまには保育園に見に行ったらどうなの?」
しのぶ「そうね。昼のパート今月で辞めるし。」
景子「あれ?どうしたのさ。」
しのぶ「けっこううるさいババアが先月から入ってさあ・・・」
しのぶはビールをグラスに注いで、一気に飲んだ。景子は鏡月のボトルを出した。
しのぶはそのボトルを持ち、自分のグラスに注いだ。
そして飲みながら、
しのぶ「私を厄介者にするのよ。上から目線でさあ、新人のくせに。」
景子「負けてちゃダメじゃん。」
しのぶ「私、そういうタイプはダメなのよ。」
景子「そうだね、あんたは気が弱いから。」
やがてお客が4人入ってきたので、しのぶは店から出て行った。
ヤジが働き始めた廃品回収の仕事は、荒川ビルに隣接する今野ビルの所有者、今野産業がやっていた。
今野家は代々廃品回収と廃物処理業を主に行っており、得た収益でテナントビルを建て、その中に数軒のスナックも入っていた。
第2話 荒川家の生い立ち(2)
東中野地区にある中野神社の西側には、西中野地区との境界に沿って南北に走るバス通りの道路まで続く狭い東西の路地が2つあった。
その1つは昔からスナック街として発展してきた場所で、そこには目だって大きいビルが2つ建っていた。1つは荒川ビルで、もう1つが今野ビルだった。
荒川ビルには景子の「RISA」、明子の「Siori」、しのぶの「しのぶ」の他4軒のスナックが営業を続けていた。
一方今野ビルには今野圭子の「セクシー・バイオレット」、圭子の子供で長女ふみえの「ホワイト・ココナッツ」、次女のぶえの「青い城」の3軒が営業を続けていた。
4月中旬。
ここはスナック「セクシー・バイオレット」。BGMはいつもポール・モーリアかレイモン・ルフェーブルだった。
圭子「いらっしゃいませ。」
入ってきたのはふみえだった。
圭子「なんだ、ふみちゃんか。」
ふみえ「なんだはないでしょ、ママ。」
ややムッとした様子のふみえ。
圭子「どうしたの?」
ふみえはカウンターにどっかと腰を下ろしてすぐに煙草を吸い始めた。
圭子「まだ未成年なのに・・・」
ふみえ「わかってるけど。」
圭子は仕方なさそうにしていた。
ふみえ「うちの店で飼ってる六衛門が死んじゃってさぁ・・・」
圭子「なに・・・その爺臭い名前?」
ふみえ「うちの子はみんなそんな名前だよ。又作、安兵衛、権左衛門・・・」
圭子「も、もういいよ。でいったい何よそれ?」
ふみえ「熱帯魚。」
圭子が少し驚いた様子で、
圭子「熱帯魚にしては・・・すごい名前を付けるんだねぇ・・・」
ふみえ「しょーがないわよ、お客が勝手に付けたんだからさ。」
圭子「そのお客さん正気なの?」
ふみえ「違うわよ、酔っ払って訳わからん事を言い出して、あげくそんな名前を付けて、呼んでたからさ。」
圭子「まあそれはしょーがないかな。」
ふみえ「で、1匹死んじゃったから、代わりを見つけてこないといけないんだ。」
圭子「じゃあ、ペットショップへ行けば・・・」
ふみえ「私、魚駄目なんだって・・・」
圭子「それでよく店に置いてるわね。」
ふみえ「だってオープンの日、お得意様が買ってくれたんだもん。」
圭子「じゃあ、その殿方に話して、買ってもらえばいいんじゃないの。」
ふみえ「その親爺先月亡くなったんだ。」
圭子「あー、それは残念ねぇ。じゃ飼うのも諦めたら。」
ふみえ「なにその冷たいの・・・」
ふみえは2本目の煙草を吸い始めた。
圭子「私だって魚は嫌いよ。」
ふみえ「なにそれ。せっかく頼もうかと思って来たのに。」
圭子「残念でした。のぶえはどうなのかな、聞いてみたら。」
ふみえ「先にママに聞いてみただけよ。そうするかなぁ・・・」
圭子「じゃあ、いってらっしゃい。」
ふみえ「もう・・・」
ふみえは煙草を消して、店を出て行った。
すると入れ違いに、
ヤジ「はーるばる来たでー、函館えーと・・・」
ヤジがかなりやかましい声で歌いながら入ってきた。
圭子「はい、いらっしゃい。」
ヤジはいきなり壁の絵を見て、
ヤジ「姉ちゃん、この絵は函館と違うか?」
圭子「函館です。よく知ってるんですね。」
ヤジ「そりゃそうだろう、まだ行ったことないけど・・・」
ヤジはフラフラだった。
圭子「はいはい、座って座って。」
圭子は胡散臭い客が来たと思った。
ヤジを奥の2人掛けソファーの席に座らせた。
そして普段と同様におつまみの枝豆を出していた。
ヤジはほとんど眠った状態で、1時間ほど過ぎてようやく目が覚めた。
ヤジ「あれ?ここはどこ?」
ヤジがなんとか酔いからさめた様子だった。
圭子「あら、やっと起きたのね。おはよう。」
圭子の優しい声でヤジの目が大きく開いた。
ヤジは周りを見回して、
ヤジ「あれ、あれ・・・」
ヤジはようやく自分が違う店に来た事を知った。
ヤジ「姉ちゃん帰るわ。」
声だけは元気なヤジ。
圭子「はい、じゃあ300円ね。」
ヤジはポケットから裸の札を出して、
ヤジ「はいよ。」
ヤジは1000円札を置いた。
圭子「お客さん、おつり・・・」
ヤジ「いらん。」
あっけらかんのヤジは店を出て行った。
ここは荒川ビル1階の「RISA」。
BGMはいつも景子の好きなシルヴィー・バルタンがかかっていた。
景子「いらっしゃいませ。」
中年の男が5人、そして20代と思える男が5人入って来た。
課長「やあママ。」
景子「あらあ、なんとまあ・・・」
景子はかなり驚いた。
中学の同級生だったからである。
課長「昔の仲間に聞いたらさ、ここだと教えてくれたんだよ。」
景子「でも、ほんとひさしぶりねえ。元気にしてたの?」
課長「ははは、このとおりさ。」
景子「まあ、大丈夫そうね。」
課長「ああ、で10人なんだけど。」
景子「そこのテーブル全部使って。」
課長「皆適当に座ってくれ。」
社員が適当にテーブルに座った。
景子はおしぼりを用意しながら、
景子「でも偉くなったのねえ。」
課長「まあ、いろいろあったけどね。」
景子「はい、おしぼり。」
課長「オレだけカウンターにするよ。」
景子はおつまみを各テーブルに配った。
課長「なかなかいい雰囲気のお店だね。」
景子「ありがとう。」
景子はニッコリして答えた。
課長「笑顔はあの時のままだな。」
景子「あの時?」
課長「神社の・・・」
景子「コラ、余計な事は言わない。」
課長「そ、そうだったな・・・」
景子「奥さんいるんでしょ。」
課長「ん、まあ大変だけどね。」
景子「え、何か困ってるの?」
課長「そこそこ余裕があるからって、衝動買いが多くってね。」
景子「そりゃあ女ですもの、それくらいいいじゃない。」
課長「最近なんかオレに生命保険かけてさ、自分はいいんだってさ。」
景子「けっこうしっかりしてらっしゃるのね。」
課長「し過ぎだよ。」
景子「でも好きなんでしょ。」
課長「それを言われるとなあ・・・」
景子「で、何飲むの?」
課長「みんな好きなもの頼んでくれ。」
主任「はーい。」
そのあと社員たちがいろいろ話し始め、注文をまとめて小さなメモに書いて、景子に渡した。
景子はそれを見て準備をしながら、
景子「はい、ビール。」
課長「ああ、ありがとう。ママはどう1杯?」
景子「私はまだ早いわよ。」
課長「そうか。」
景子「で、子供は?」
課長「2人いるよ。」
景子「そう、じゃあもう逃げられないわね。」
景子は笑っていた。
課長「そういうことだな。」
景子「まあいいじゃない。家庭だけでも普通なら。」
課長「最近はちょっとストレスがたまり気味かな?」
景子「どっちが?」
課長「オレだよ。」
景子「我慢できないの?」
課長「ああ、でまあここに来た訳さ。」
景子「じゃあしばらく通いね。」
課長「いいかい?」
景子「大丈夫よ。来る前に電話してね。」
課長「わかった。」
景子と課長は携帯で番号の交換をした。
景子「で誰にここを教えてもらったの?」
課長「寛治。」
景子「やっぱり・・・」
その2日後。
景子の店に課長が社員5人連れてやって来た。
課長「やあ。」
景子「まあ、まだ2日しか経ってないわよ。」
課長「毎日じゃないだけいいかと思ってるよ。」
景子「あんまり変わらないけどね。」
景子はそう言いながらおしぼりとおつまみを出した。
課長は先に来る事を携帯で景子に連絡していたので、他の社員たちはテーブルのおしぼりのある席に座った。
景子「で今仕事は?」
課長「一応大手の有名な会社で、来年は部長に昇格が決まったんだ。」
景子「それはおめでとう。じゃ、今日は私、1本おごるわ。」
課長「いいよいいよ。それよりは、このあとどっか居酒屋に行かないか?オレがおごるから。」
景子「いいのかな?」
課長「今日は大丈夫なんだよ。」
景子「そう、じゃわかった。」
こうして飲み潰れた社員たち5人は店を出て行った。
景子「ちょっと待っててね。片付けるから。」
課長「手伝うよ。」
景子「何言ってんのよ。勘弁して、私の性格知ってるくせに。」
課長「だから手伝うんだよ。」
景子「お馬鹿さんね。もうそんな手では落ちないわよ。」
課長「じゃあ、どんな手がいいのかな?」
景子「もう、口だけは上手いんだから。」
課長「いや、他にも上手いところがあるけど。」
景子「ばか・・・」
こうして2人は店を出て、近くの居酒屋に入った。
景子「ここの焼き鳥美味しいのよ。」
課長「そうか、じゃそれもらうよ。」
景子「じゃ、乾杯!」
2人はビールで乾杯をした。
景子「でも何年ぶりかしら・・・」
課長「そうだね、高校の時だから・・・」
景子「だめだわ。思い出さない方がいいかも。」
課長「何でだ、いいじゃないか。」
景子「だめだめ、そんな事じゃ。」
景子は自分の腰に触れた課長の手を軽く払った。
課長「固いんだね。」
景子「そうじゃないけど。」
課長「明日も店に行くから。」
景子「わかった。」
翌日、「RISA」の店には明子が来ていた。
明子「姉さん忙しそうね。」
景子「そうよ。今度団体が来たら手伝ってくれる?」
明子「いいわよ。でも時給高いわよ。」
景子は洗い物をしながら笑っていた。
明子が帰った後で課長が入って来た。
景子「あら、今日は早くない?」
課長「こういう日もあるんだよ。」
景子「そうなの?何か下心ありそうな・・・」
課長「ないないない・・・」
景子「その言い方が怪しいのよ。」
課長「だって店に2人っきりだよ。」
景子「だから?」
課長「だからって・・・その・・・」
景子「じゃ友だち今から呼ぶわ。」
課長「いらないよ。」
景子「どうしてさ。多い方がいいでしょ。」
課長「いや、このままでいいよ。」
景子「変な人。」
課長「そうかあ・・・」
景子はビールを出してきて、
景子「はい。じゃあ乾杯!」
2人は乾杯をして、景子がわざわざ課長の横に座った。
景子「これでいいでしょ。」
課長「うん。」
景子が課長の好きなBGMをかけた。
そして2人はしばらく高校時代の昔話に花が咲いていた。
この日は、疲れてしまったのか課長は2時間ほどで帰って行った。
しかし翌日、「RISA」の店。
景子「いらっしゃい。」
課長「やあ。」
景子「元気ね。」
課長「もちろんさ。」
課長は元気いっぱいの笑顔で答えた。
景子「今日は残念ね、もうすぐ2人お客さんが来るのよ。」
景子は申し訳なさそうに話した。
課長「そうっかあ・・・残念だな。」
ややつまらなそうな表情になった課長はビールを1本飲んでやがて帰って行った。
第3話 今野家
さてこちらはスナック「青い城」。
BGMはいつも店の雰囲気に合わせてユーロビートの曲だった。
のぶえ「全然客が来ないわ。」
のぶえの店はけっこうマニアックで、店の装飾にモアイ像やトーテムポールや象の牙や土人のお面など、かなり普通の店では飾らない物があちこちにあった。
そのせいか、来る客も変わり者が多かった。
どうも今日は入りが無さそうに思ったのか、のぶえは仕方なく早めに店を閉めて、下の階のふみえの店に入って行った。
ふみえ「あれ?どうしちゃったの?」
のぶえ「全然なんだもん。」
ふみえ「そうね、そう言えば最近うちも少ないわ。」
ふみえはそう言いながら、のぶえの個人のボトル鏡月をカウンターに置いた。
のぶえ「ここも。」
ふみえ「そう。・・・あ、この間ビルの裏道で荒川のママとすれ違ったのよ。」
のぶえ「え、隣のビルの?」
ふみえ「そうよ。その時さ、お連れさんがいて。けっこう貫禄があったから、どっかのえらいさんのような・・・」
のぶえ「ふう・・・ん。」
のぶえはグラスに鏡月を入れて飲み始めた。
ふみえ「私も今日は早く閉めようかな。」
のぶえ「一緒に居酒屋行って焼き鳥食べない?」
ふみえ「そうね、そうしようか。」
こうして2人は店を早く閉め、近くの居酒屋に入って行った。
のぶえとふみえは隅の座敷に座ったのだが、カウンターに1人中年の男がビールと焼き鳥でくつろいでいた。
ふみえ「ほら、あの男よ。この間のすれ違い・・・」
ふみえは男の方を見ながら、小声でのぶえに話した。
のぶえ「へえー、確かに貫禄はありそうだわ。」
のぶえはしっかりと顔を覚えたようだった。
その後のぶえはどこからかはわからないが荒川ビルに大手企業の社員がよく通っているという噂を聞きつけ、なんとか客を取れないかといろいろ考えていた。
ある日のスナック街。
ここは今野ビルの近くの路地。
課長が主任を連れていつものルンルン気分で景子の店に向かっていた。
主任「課長、ちょっと先に行ってて下さい。忘れ物しちゃいました。」
課長「わかった。」
こうして課長と主任が別れた。
主任は今来た道を急いで戻りだした。
主任が路地を回った時、
のぶえ「あいたたた・・・」
路地の隅でのぶえが倒れかかり、お腹を押さえながら這いつくばっていた。
主任「ど、どうしました?」
半端じゃないそののぶえの姿に主任は気になって声をかけた。
のぶえ「ちょっとお腹が・・・」
主任「だ、大丈夫ですか?」
主任は肩を貸して、のぶえをゆっくりと歩かせた。
のぶえ「あ、ありがとう。ちょっとそこの店で休んでいくわ。」
のぶえはそう言うと、今野ビルにある「ホワイト・ココナッツ」に入って行った。
主任もとりあえずその店に入り、
主任「どうも。」
ふみえ「あら、のぶちゃん。大丈夫?」
のぶえはカウンター奥のシートに横になった。
ふみえ「どうもありがとう。送ってもらったみたいで・・・」
主任「い、いえ。いいんですよ。」
ふみえ「よかったら1杯どうぞ。いえ、お金はけっこうですから。」
主任「では、ちょっとだけ。」
だが、このちょっとが悲劇の始まりになった。
主任はふみえからいろいろ苦労話を聞き、この翌日から、この店に通うようになったのであった。
一方こちらは主任を待つ課長。
課長「おかしいなあ?」
時間が経つにつれ、やや落ち着かない様子の課長。
景子「連絡ないの?」
思い出したかのように携帯を出して、
課長「あ、メールが来ていた。」
景子「やっぱり。」
景子はうなずいてニッコリした。
課長は顔色を暗くしながら、
課長「都合が悪くなったみたいだ。」
景子「でもほんとは2人っきりが良かったりして・・・」
課長「ははは、ビールもう1本。」
急に元気が出た課長はお調子者だった。
BGMで課長の好きなタイガースの「花の首飾り」がかかっていた。
話が続く限り飲み続けてこの日はビール3本飲んで、結局店を出て行った。
さて翌日、今野ビルの「ホワイト・ココナッツ」には主任が仲間を2人、西岡と武田を連れて飲みに来ていた。
ふみえ「いらっしゃい。」
主任「どうも。」
ふみえはおしぼりをわざわざ広げてにっこりしながら1人ずつ渡した。
西岡「いい店ですね。」
西岡は周りを気にしながら言った。
ふみえ「ありがとう。」
ふみえはBGMを「二人になれなくて」に変えた。
武田は水槽が気になったようだ。
武田「グッピーじゃないかな?」
ふみえ「そうです、当たり。当たったからおつまみサービスね。」
店の中に笑いが響いた。
主任が水槽を覗きながら、
主任「コンピューターを使ったCGかな?」
水槽には確かに実物の魚はいるように思えない。
ふみえ「なんかよくわからないけど、そんな事言っていたような・・・」
ふみえはまったくわかっていなかった。
先日実物の魚を全部「ペットショップ」に引き取ってもらったのだが、そこの店主が「これなら飼うのが楽だ」と話して何やら装置を設置してくれたらしい。
主任「でもいい雰囲気でてますよ。」
こうして楽しんだ社員たちは2時間程で帰って行った。
その後、入れ違いでのぶえが入って来た。
ふみえ「のぶえ、ありがとう。」
のぶえ「いいのよ、どうせ私の食材使ってもらってるから。」
ふみえ「当分来る様子みたいだわ。」
のぶえ「そう、じゃ時々はここに手伝いに来るわ。」
ふみえ「そうして。」
ふみえはこの日ご機嫌であった。
主任たち3人は結構頻繁に「ホワイト・ココナッツ」に出入りしていた。
こうして課長の仲間は荒川ビル、主任の仲間は今野ビルに分かれる構図ができてしまった。
ある日の「青い城」。
ふみえが飲みに来ていた。
ふみえ「せっかくだからもっと客を取りたいね。」
のぶえが考え込むようにしながら、
のぶえ「そうね。なんとか残りの客もこちらに欲しいわ。」
ふみえ「何か作戦でもある?」
のぶえは軽くうなずきながら、
のぶえ「ええ、やってみる。」
その次の日。ここは「ホワイト・ココナッツ」。
主任がやはりいつもの2人を連れてやってきた。
ふみえ「いらっしゃい。」
のぶえ「いらっしゃいどうぞ。」
主任「あれ、今日は2人?」
ふみえ「ええ、手伝ってもらってるのよ。」
主任たち3人はカウンター奥のテーブル席に座った。
のぶえがおしぼりをそこへ持って行った。
のぶえ「いらっしゃいませ、どうぞ。」
のぶえはしっかりと笑顔絶やさず、主任に愛想を振舞っていた。
主任たちは2時間ほど飲み明かし、やがて店を出て行った。
その時、のぶえも一緒に店を出た。
西岡「のぶえさんもこちらですか?」
のぶえ「ええそうなんです。」
途中で主任が、
主任「じゃ、ここで。おやすみ。」
西岡「おやすみなさい。」
武田「おやすみなさい。」
のぶえ「おやすみなさい。」
主任が1人別の方角に帰って行った。
3人はそれぞれの思惑があったのか、あまり会話がすすまなかった。
そして、その後途中で、西岡と武田も別れた。
のぶえと西岡の2人が商店街の方に歩いて行った。
西岡「のぶえさん、綺麗ですね。」
のぶえ「え、ほんと。・・・ありがとう。そんな事言われたことがないから。」
西岡「ほんとかなあ、信じられない。」
のぶえが自然と西岡の腰に手を置いた。
そして商店街に着いた頃には、2人はまるで恋人同士のようにくっ付いていた。
この翌日。ここは「青い城」。
BGMがいつものユーロビートからB‘zに変わっていた。
のぶえは昨日西岡に自分の店を教えておいた。
そのとおりになった。西岡が1人で店にやって来た。
のぶえ「あ、いらっしゃい。」
のぶえは最高の笑顔で西岡を迎えていた。
すぐにカバンを受け取り、おしぼりを2つ渡した。
西岡「ありがとう。B‘zだね。」
のぶえはしっかりと昨日の会話から西岡がB‘zが好きであることを覚えていた。
西岡は周りに並んでいる木彫りのモアイ像や象の牙を眺めて、
西岡「のぶえさんは、こんな遺跡とか、アフリカのような場所が好きなんですか?」
のぶえ「いいえ、そうじゃないんですよ。私はちょっと気持ち悪いかな・・・」
西岡「じゃあ、どうして・・・」
西岡は不思議がっていた。
のぶえ「これにはいろいろあってね・・・」
のぶえは昔話を語り始めた。
高校を卒業して、ある会社に就職し、そこで付き合った相手が遺跡とかが好きで、そこへ行くたびに小物を集めていたらしい。
そして、その後別れたのだが、店をやってから、ひょっこりその彼氏が店に来て、それからは店に来るたびに飾る物をいろいろ置いて行ったということだった。
西岡「そうかあ、昔のなごりか・・・」
のぶえ「でももう昔の話だし、どうでもいいんだけど、でも変えようがなくって・・・」
西岡はビールを飲みながら、木彫りのトーテムポールを人差し指で触っていた。
のぶえ「西岡さんはどんな趣味があるんですか?」
西岡「オレは、ヨーロッパの古代ギリシャやローマの神殿とかコロセウムのようなところが好きだなあ。」
のぶえ「へえー、なんだかよくわからないけど。」
のぶえは考え込んだ様子だった。
ところが、次に西岡が「青い城」に入った時は、店の中がすっかり替わっていた。
のぶえ「いらっしゃい。」
西岡「ど、どうしたんですか?」
西岡はレイアウトの極端な違いに驚きが隠せなかった。
のぶえ「あ、これ?」
のぶえは西岡におしぼりを渡しながら、
のぶえ「お友だちに頼んで集めてもらったの。」
店のディスプレイは以前とまったく違っていて、中央にはコロセウムの大きなパネル、カウンター隅と、入り口すぐ右の壁は神殿のポスター。
さらについでなのか、ダビデ像やモナリザのやや小さなパネルも飾ってあった。
西岡「でも、いいなあ・・・これだと毎日ここに来たくなるなあ・・・」
のぶえはニコっとしながら、
のぶえ「そう思って・・・」
西岡「え?」
のぶえ「いえ、西岡さんに合わせたんです。」
西岡「いいのか、そんな簡単に装飾を変えてさ?」
のぶえ「うん、だって西岡さん、カッコイイもん。」
のぶえの喋り方が、やや甘えるような言い方に変わっていた。
この日西岡は、店を閉めるまでいた。
のぶえ「そろそろ閉めるね。」
西岡「そうか、もうそんな時間か・・・」
だが、このあと2人は店を出て、自然とホテル街に入っていった。
この日以降西岡は毎日のぶえの店に来るようになった。
こうしてのぶえと西岡は付き合うようになり、のぶえのために、さらに社員を店に呼んだのであった。
のぶえの店は毎日繁盛し始めた。
その事はふみえにも聞こえており、いつしかしっかりと荒川ビルの客を奪ったのであった。
5月中旬。穏やかな気候になった。
こちらは荒川ビル。「RISA」。
景子がストラップのぬいぐるみをコロコロ転がしながら、
景子「変ねえ、最近まったく客が来ないわ。」
明子「うちもよ。」
2人はカウンターに並んで鏡月を飲んでいた。
景子「このままだと、店やばいよね。」
明子「うちを閉めて、ここだけにする?私手伝うから。」
景子「うーん・・・それも考えとくわ。」
さらに客足が途絶えた荒川ビルでは、仕方なく明子が当分「Siori」を閉めたのであった。
そして彼女は景子の店「RISA」を手伝うことにした。
景子と明子は姉妹だったので、こうして不況の時など、助け合って店を切り盛りしていたのである。
そしてある日のこと、ここは「RISA」。
景子「いらっしゃい。」
課長「やあ。」
景子「あーら、とてもご無沙汰じゃないの。」
課長はいつものカウンターの席に座った。
景子「どうしてたのかな?」
課長「しばらく出張だったんだよ。」
景子「へえーどこまで?」
課長「カナダ。」
景子「カナダ・・・」
課長「ああ、そうそうこれ。」
課長はそう言って、カバンから小さな袋を出した。
景子「何々?」
課長「お土産だよ。」
景子は袋を開けた。
景子「あらあ、可愛いのね。」
そこにはメープルリーフでできた洒落た置物が入っていた。
課長「気に入ってくれたかい。」
景子「ええ、ありがとう。」
課長「この袋も変わってるだろう。」
景子「そうね、何OK?」
課長「OKショップって言ってね。大橋巨泉の店なんだよ。」
景子「巨泉って、懐かしいわね。あのメガネの・・・」
課長「そうそう。」
景子「ここに飾るわ。」
課長「いいねえ。」
景子はビールを出しながら、
景子「最近ね、まったくの閑古鳥なのよ。」
課長「え、主任たちは来ないのか?」
景子「ええ、全然。」
課長「そうなのか、また誘ってくるよ。」
景子「ありがとう。」
しかし、次に課長が来た時も、彼1人だった。
課長「やあ。」
景子「いらっしゃい。」
課長「ママ、変なこと聞くけどさ。」
景子「何?」
課長「ママの知り合いにさ、ヤジとかいう人を知らない?」
景子「知ってるけど・・・何か?」
課長「そのヤジとかいう男が犯罪者で、刑務所に入っているという噂がうちの社員に広まっていてさ。」
景子「ちょ、ちょっと待って。確かにヤジさんは知り合いだけど、そんな悪い事をする人じゃないけどね。」
課長「最近は彼は来るの?」
景子「いえ、全然来ないけど。昔はよく来ていたわ。」
課長「それが原因だからさ、オレも何とも言えなくって・・・」
景子「そうだったの、でも彼はほんとうに悪い事をする人じゃないから。」
課長「まあ、ただのデマである事を祈ってるよ。」
景子「ありがとう。課長だけでも来てもらえたら、私は嬉しい・・・」
課長「ほら、泣かないでさ・・・」
景子が涙ぐんだ。
この日店を閉めた後、2人はホテル街に入って行ったのであった。
翌日の「RISA」。
明子「そうだったの。世の中犯罪者が傍に在ると人は離れていくのね。」
景子「そうね。教訓だわ。」
第4話 教訓
7月。やや蒸し暑くなった頃。
ここは荒川ビル。西日が眩しい夕方。
しかしその後、まったく客が来なくなってしまった。
景子は悩んだ。
このまま店を続けるのか、それとも閉めてしまって別の店をやるのか。
何を思い立ったのか景子は旅に出る事にした。
と言っても日帰りの1人旅で、ある有名なお寺に行ったのである。店の方は明子に任せておいた。
そしてここはそのお寺。
坊さんがゆっくり景子の傍に来て、
坊さん「人のうわさはやがて消えてゆくもの。時代は流れてゆくもの。そして人もその流れに乗って変化してゆくもの。」
店に戻った景子は、一大決心をした。
店をイメージチェンジして、1階はキッチン、2階は居酒屋、3階にスナックを3件置くことに決めた。
3階には元々「しのぶ」の店があったので、1階の「RISA」と、2階のしのぶの母、晴海が経営する「学」が3階に移る格好になった。
1階のキッチンは「Mr.ステーキ」という名前のステーキ専門の店で、立地が狭い路地にあって変わっていたのかけっこう客が入った。
しかしスナックの方はまったく客が入らず、1、2階の収益で何とか持ちこたえていた。
こうして2ヶ月が過ぎて行った。
世の中の景気はまったく良くならなかった。
そのためか店を閉めるところも多くなった。
ここのスナック街でも全盛期の1/5にまでなったのである。
10月。
景子はここは何とか乗り切るしかない。
そう考えていた。
そして再び以前お世話になったお寺に向かったのである。
坊さんはすぐに本堂に案内し、そこで座禅を組むように言った。
景子は数時間座禅を組んでいた。
坊さん「一度ゆっくりと時間をかけて温泉に行ってみてはどうですか?」
景子「温泉?」
坊さん「ええ、そこで露天風呂に1日ゆっくりと入ってみてください。」
景子「わ、わかりました。」
こうして景子は店を明子に頼んで3日間の温泉旅行に出かけたのであった。
そしてここはその温泉。
けっこう雑誌では秘湯と紹介されて噂になってはいたが、まだまださほど有名ではなかったのか旅館に客はまばらだった。
景子はその旅館で偶然1組のカップルと一緒になった。
景子「こんにちは。」
女「こんにちは。」
景子「こちらは初めてですか?」
女「はい、友達に聞いて来たんです。」
景子「そう、じゃあ後でよかったら一緒に露天風呂に入りませんか?」
女「はい、私も1人じゃ心細かったところなんです。」
景子「よかった。それでは。」
こうして3人は別れた。
やがて夕食後、景子は露天風呂に入っていた。
しばらくすると、昼に出会った女が入って来た。
景子「ここですよ。」
景子が湯気で見にくかった自分の場所を教えるために女の方に近づき誘った。
女「こんばんは。」
女はやや微笑んだようだったが、景子にはどことなくその素振りがぎこちないように思えた。
景子「彼、イケメンですね。」
女「そうですか・・・」
景子「とっても、うらやましい。私も若い頃を思い出しましたよ。」
女「彼、あれでも全然私のことを考えてはくれていないんですよ。」
景子「そうかしら、そんな風には見えないけどねえ。」
女「1人で来られているんですか?」
景子「ええ。いろいろ大変でね。店をやってるんだけど、全然駄目で、どうしていいのやら悩んで、この際止めようか、どうしようかと・・・それでゆっくりと1人旅に出たんです。」
女「そうなんですか・・・」
景子「何か貴女もいろいろありそうな・・・」
女「はい、・・・」
女はしばらく目の前に広がる崖の横から数箇所流れ出る小さな滝を眺めていた。そして、
女「実は・・・」
こうして過去を話し始めたのであった。
「彼と結婚してから、しばらくは彼がサラリーマンをして普通の生活が2、3年続いたのですが、だんだんと上司とうまくいかず、結局辞めて彼が自分の店を持つ事にしたのです。
費用の節約から広告も出さずに始めた店です。
その店もさほど客も来ない日々、半年は我慢もしたのですが、結局その店も閉めてしまい借金だけが残ったのです。
その後転々と仕事をしたのですが、毎月生活が苦しくなるばかりで、だんだん借金も増え、返せなくなってしまったんです。
それでこの旅行を最後にしようと決めて、こうしてやって来ました。」
景子「最後の旅行って?まさか・・・」
女「ええ、もう生きてゆくつもりはありません。」
景子「死ぬ気でいるの?」
女「彼と決めたんです。」
景子「2人で死ぬと何か良くなる事でもあるの?」
女「誰にも迷惑をかけたくなくって・・・」
景子「貴女の両親は?」
女「います。でももう話す勇気もありません。親に迷惑もかけれません。」
景子「貴女たちが死ぬ事でかえって親に迷惑をかけることになるんじゃないの。」
女「親に担保や保証人にはなってもらってないから・・・」
景子「そういう問題じゃないと思うなあ・・・」
女は再びしばらく流れる滝の方を見ていた。
それを見て景子も滝の方を眺めた。
何故か流れる清水の音がとてつもなく大きく聞こえる2人だった。
女「私って間違っていますか?」
景子「ええ。実は私も店を持っているんですよ。でも客がまったく来ないので閉めようかどうしようか悩んでいたんです。」
女「似たようなお話なんですね。」
2人はじっと顔を向き合っていた。
景子「でも私は死ぬ事は考えないわ。死んで何が解決するのかなあ、それを考えると死ぬよりは何か方法を考えることをした方が気持ちもまだ治まるように思うのよ。」
女「でも、もう私たちは戻る所がありません。住むところも整理して出てきたのです。」
女は左手で自分の髪を触りながら悲しそうな表情で話した。
そして再び2人はしばらく流れる滝の方を見ていた。
景子「で、借金っていくらなんですか?」
女「3000万円です。」
景子「3000万・・・月3万返しても84年、で2人で計5万返すと50年。それって不可能だろうか?」
女「50年。自信がないわ。」
景子「でも不可能ではないでしょ。」
女「え、ええ・・・」
景子「じゃ、やれば。」
いとも簡単に話す景子だった。
女「やればって、当てもないのに・・・」
不安だらけの女。
景子「うちの店はいろいろ業種が分かれてるんだけど、1軒キッチンハウスをやってるの。ステーキ専門の。」
女「・・・」
景子「それで、今は人がいなくて男1人雇っていて、その1人で回しているの。でもそれは無理な事だとわかっているのよ。そこで良かったら、そのキッチンで働いてもらえると助かる。」
女「い、いいんですか?」
景子「ええ。彼の方はまあ自分でどこか仕事を探してもらわないといけないけどね。」
女「彼に聞いてみます。」
やや落ち着いてきたのか女はゆっくりと答えた。
こうして景子の言葉を信じて、どん底のカップルは中野にやって来ることになったのであった。
カップルの男は藤田真一、女は知子という名前だった。
荒川ビル1階の「Mr.ステーキ」は彼女が入ってからすっかりイメージが変わった。
店内が明るくなり、客層も変わっていった。
年齢層も幅が広がり収益は2倍になっていった。
それに伴い店内も少しずつ改装したのであった。
翌年3月。中野神社の境内とその周辺に咲く桜がいつものように満開になった。
知子はよく働き、とても頑張りやさんだった。
景子は思った。
辛くてもまったく顔に出さず笑顔でいる彼女を見て、自分がもっとしっかりせねばと考えたのであった。
こうして景子は荒川ビルのテナント全てを見直し、スナック「学」の松尾晴海に相談し、晴海も高齢だったので、まったく性格の異なる若い女の子エミを喫茶店で見つけ、店で働かせるように話した。
晴海もさすがに店を切り盛りするのがえらくなったようですぐにOKしたのだった。
エミは晴海とはまったく性格が正反対で、最初からうまく波長が合わず、晴海はその愚痴を景子の店へ毎日行ってぼやいていた。
景子は毎日毎日それに耐えながら晴海をなだめ、時には自分も晴海の店に客として入り、エミの様子を観ていた。
確かにエミは店の雰囲気にはまったく合っていなかった。
晴海「ほら、だから言ってるじゃない。もう辞めさせてくれないかなあ。」
景子「少し考えるわ。でも顔つきが晴海によく似てるわね。」
晴海「ふん、性格はまったくの大違いよ。」
景子は思った。
スナックの店はどこも入るとやはりスナックの場の雰囲気がある。
そしてそれぞれの店では、わずかにどこか違うという色彩のニュアンスが、それぞれの店の特徴となって客が来ている。
扉を開けた瞬間、店の内壁は似通ったところも多い。
それがまた新しい客でもすぐ馴染めるという利点になっている。
このまま晴海の店をやっていっても何が良くなるというのだろうか?
景子はキッチンのリメイクした店内の成功例を無駄にしたくは無かった。
きっと何か良い方法があるのではないかと考えた。
景子は生まれ変わったキッチン「Mr.ステーキ」に入ってみた。
違う、全然違う。
以前のキッチンとはまったく別の店に見えた。
景子はかつてのキッチンを思い浮かべていた。
第5話 キッチン物語(1)
昨年に遡る。ここはキッチン「Mr.ステーキ」。
扉を開けて中へ入ると、店内はやや薄暗く灯りもローソクの炎を大きくしたような、やや松明に似た色だった。
そしてそれぞれのテーブルにはただメニューが1つ隅に置かれているだけだった。
さらに椅子も古臭いイメージがあった。一つ一つ話せば話すほど古臭さが眼中に残った。
景子「こりゃ客も来ないや。」
確かに昼夜の食事時ですら満席になった日は1日もなかった。
と言うか、半分埋まった日さえも記憶にはないのである。
景子「何がいけないんだろう?何をどうすればいいんだろう?」
景子は毎日毎日悩み続けていた。
そこでキッチンで働いていたコック本田を3ヶ月、東京都内にある店で修行させる事にした。
そしてその間自分は店内のレイアウトを試行錯誤していた。
ここは都内の某キッチン。
コック「こんちは。」
主任「ああ、君だね。時間通りだ。さ、どうぞ中へ。」
コックはホール主任に案内されて中へ入った。
やや迷路みたいだったが、奥の方にキッチンがあった。
主任「こちらがコック長。こちらが研修する本田君です。」
コック長「わかった。さっそく着替えてくれ。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3ヵ月後、本田は戻って来た。
そして景子に修行してきた一部始終を話した。
本田「大変だった。とにかく何もかもがまったく別の店だった。同業者とは思えなかった。コック長は頑固で、とにかく当たり前の事については一切注意されなかった。しかし彼の顔を見た瞬間、間違いなく怒っているのがわかり、その日は閉店後店に残り、若い先輩コックの人と一緒に反省会をした。そしてその中で、自分に無いものを先輩たちが皆何か一つは持っている事を確信した。しかし、自分には何もない。何もなかった。」
本田は煙草を吸い始めた。
本田「毎日毎日失敗の連続だった。2ヶ月経っても、まったく先輩たちにさえ届かない・・・オレはもう駄目だ。もう辞めようかと思った。その時、オレの顔色を見てとった先輩コックの1人が、料理部門からオレを外し、オレは洗い場の係りになった。きっとオレはこのまま辞めさせられるんだと思った。
毎日毎日山積みされる皿とカップ。何度洗っても洗っても減らない。毎日汗だくで洗い場をやっていた。
そして洗い場に入ってから1週間経った時、オレはふと思った。オレは一体何をしにここに来たんだろうか?
皿を洗いに来たわけじゃない。しかし、皿を洗ってる。このまま洗い続けて、果たして料理の何がわかると言うのだろうか?
繰り返される自己嫌悪と自己矛盾。
そんな毎日が続く。
オレは先輩のコックに聞いてみた。
過去にオレのように調理場から洗い場に回されたやつがいるのかと・・・」
先輩「いるよ、いっぱいね。しかし1ヶ月もしないうちに調理場に戻ってくる。」
本田「オレはそれを聞いてビックリし、そしてショックから立ち直れるかもしれないと考えた。
まず、洗う皿1枚1枚を見ながら、洗うことにした。
そしてふと今頃というか、何故気づかなかったんだろうと思う事が出てきた。
キッチン『Mr.ステーキ』で仕事をしていた頃、客が帰っていって、テーブルの皿を片付けようとすると、たいてい多くの客は食べ残しがあり、自分で洗い場に入って、その度生ゴミを捨てて流す。
本田「くそー、何で残すんだ。バカヤロー・・・」
毎日ぼやいていたのだ。
しかしこの店は違っていた。
返却されてくる皿ほとんどが綺麗に食べてあり、残りカスは全く無かった。
本田「こ、これは一体どういう事なんだ。」
しばらくオレは考えた。
残すとは・・・美味しくないから・・・
残さないとは・・・とても美味しいから・・・
本田「そうか!それだ!ここの店は料理が美味しいから、残す客はまずいないんだ。」
じゃ、どんな料理を出しているんだろうか?
オレはそんな疑問を持ち始めた。
その日の夜、コック長がオレの所にやってきて、
コック長「明日から調理場に戻ってくれ。」
と言われた。
オレは嬉しかった。しかし情けなかった。
一体何をしにここに来たんだろうか。
そしてその料理の1つ1つの大切さを勉強する時間は、あまりにも少なかった。
調理場に戻されたオレにとって残りの修行日数は1週間しかなかった。
とてもじゃないが、料理の1つ1つを学ぶ日数が足りない。
そこで、自分の店に戻ってからそこに必要となるメニューを自分で創作し、その為に必要な料理の技というか、見えない何かを1つに絞って勉強することにした。
どうしても覚えなきゃいけないのは、ステーキの焼き加減と調味料の配合、火の温度とその時間。
当然調理中なんかメモなど出来やしない。
目で覚えるしかなかった。オレはコック長がステーキを焼いている姿をじっと見続けた。
そして修行は終わった。
その最後の日だった。
コック長「まあ何とかなるだろう。頑張れ。」
コック長はそう言って、最終日にはコーンスープを作っているコックのところに連れて行き、
コック長「今日1日、こいつに手伝わせてやってくれ。」
と言った。
オレは最終日1日中コーンスープを作る係りとなった。
しかし驚いたが、ここのコーンスープはとても時間をかけて作っていた。
自分の店ではスープの素を使い、ただ湯で溶かして、缶コーンを加え、決められた調味料をただぶちこんで混ぜ、5~7分煮るだけだった。
この店は違っていた。
大きな寸胴につぶコーンを入れ、少しずつ煮詰めながらつぶしていき、さらに調味料はほとんど入れていない。
生乳と思われるミルクを加えてまろやかに仕上げるのだが、何と3時間はかかっていた。
オレはこれだけで汗をかきながら、それでも必死で作っていた。
修行を終え最後に店を出る時、コック長は一言言った。
コック長「ステーキよりスープの方が時間がかかるんだよ。」
かすかな笑みをふくんだ言葉だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やがて修行を終えたコック本田がキッチン「Mr.ステーキ」に戻り、1から料理をやり直すことにした。
ステーキの種類はこれまでと違い6種類から1種類だけにして、スープもコーンスープだけにした。
つまりこの店で食べる事の出来るステーキは1品だけになったのだ。
しかし彼は毎日毎日悪戦苦闘で焼いた。
そしてどういうことか・・・客が少しずつではあったが増えていったのである。
時々店に立ち寄っていた景子も客の増えていることを実感したのだ。
景子「よし、次は内装を変えよう。」
店内の壁には何一つ装飾もなかった。
そこで30センチ四方のルネサンス時代の絵を各テーブルの席から見える位置の壁に貼り付けた。
さらに天井には、シャンデリア風の可愛いアンティックな灯りに換えた。
そして各テーブルのサイドについ立を置き、目の高さでは隣のテーブルが見えない高さに設定した。
テーブルには呼び出し用ベルとして、神戸から取り寄せた風見鶏の金色のベルを、客が座るとそこへ置くようにした。
BGMも景子の好きなシルヴィー・バルタンの曲にした。
こうして数日が過ぎていったある日のこと。
夕方景子が店に行くと、外に客が数人立っていた。
気になった景子は、
景子「どうされたんですか?」
客「満席で待ちなんだよ。あー早く食べたいよ。」
景子は急いで中に入り、1人でバタバタしていた知子を手伝うことにした。
景子「大変そうね。」
知子「ええ、急に増えたんですよ。」
そう言いながら、2人は大切な客をさばいていた。
景子「駄目だわ、追いつかない。よし・・・」
景子は携帯ですぐに明子を呼んだ。
そして明子が来ると、ホールを彼女に任せて自分はキッチンを手伝ったのであった。
こうしてその日が何とか終わっていったのであった。
景子「よし、じゃ店に2人募集して入れよう。」
明子「いいよ景子姉。私ここに入る。だって私の店ないし、『RISA』は姉さんだけでもよさそうだし・・・」
景子「いいの?」
明子「ええもちろん。でもお給料は頂戴ね。」
景子「もちろんよ。」
景子はしばらく募集せず自分を含めコックの本田、知子、明子の4人で店を回す事にしたのであった。
第6話 キッチン物語(2)
さて、スナックの話に戻るが、
景子「よし、スナックの店もイメージを変えてみよう。」
景子はまず自分の店を変える事にした。
カップルが中野に引越ししてから、ほぼ2年が過ぎた。
彼氏の方の会社は倒産してしまい、彼氏が中野に戻ってきてしまった。
景子「そうかぁ、大変だね。仕事また探さないといけないし・・・」
藤田「景子さん、よかったらオレ、スナックで働けないかな?」
景子「え?スナックって、女がやるもんよ。」
藤田「でも都心のある店ではメンズバーで、男がスナックをやっていたよ。」
景子「へえー、男がぁ・・・」
景子はしばらく考え込んでいた。
景子「よし、やってみよう。」
こうしてスナック「RISA」の店内はまったく改装し、カウンターを広げて、椅子のすぐ後ろの通路には横長のボトル棚を設置し、別のソファーは1ヶ所だけにしたのである。
灯りもやや淡いブルー系に統一し、壁は白に統一。
カウンターと椅子も白にした。
店も彼をマスターに起用して、景子はサブで動く事にした。
オープン初日、景子の身内たちが店を始める前と、店を閉めた後で店内に入って来た。
明子「へえー、変わったね・・・」
景子「まあやってみて駄目だったらまた考えるわ。」
明子「その精神が凄いわ。さすが姉御。」
しのぶ「あーなんだか毎日来ようかな・・・」
景子「おいおい・・・」
呆れる景子だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
景子「まあどうなるかわかんないけど、やってみるかァ・・・」
景子は不安な気持ちを抱えたまま、毎日を過ごしていた。
ところが大きな変化が1ヵ月後起こったのである。
以前店に来てくれていた会社の課長が社員を2人連れてやって来たのだった。
景子「課長、久しぶりですね。」
課長「やあ、元気してるか?」
景子「何とか頑張っています。」
課長「なかなかいいねえこのお店。」
景子「本当ですか?有難うございます。」
景子はお辞儀をした。
藤田マスターが課長たちにおしぼりを配った。
そして課長はマスターといろいろ話をしていた。
景子はそれを横で聞きながら、これだと思った。
景子「そうだ。これなんだ。きっとうまくいく。」
景子はこの店が必ず成功すると確信したのであった。
やがて半年が過ぎていった。
荒川ビルはどの店も客が戻っていた。
3階では、「RISA」はメンズ・バーに変身し、新しい客が出入りした。
「学」は若いエミが晴海に代わって切り盛りしてけっこう20代の男性に人気になっていた。
「しのぶ」はかなり大人の雰囲気を漂わせる常連客の店になった。
2階の居酒屋は、スナックを離れた晴海が店を任され和食を中心にちょっとしたおかずを提供していた。
第7話 キッチン物語(3)
「Mr.ステーキ」が開店してから丁度10年が経った。
知子「いらっしゃいませ。」
高校生らしい2人のカップルが入って来た。
知子は気にせず、
知子「どうぞこちらへ・・・」
知子が2人を窓際に案内した。
2人は花園学園大附属高校の西浦とあかりだった。
西浦「どうですか?」
あかり「わ、私こんなアンテックな洋食屋さんは初めてだ。」
西浦「この店のハンバーグはかなり美味しいんですよ。」
あかり「西浦君はよくここに来るんですか?」
西浦「そうだね、月3、4回は来てるよ。」
あかり「へえー、ハンバーグが好きなの?」
西浦「いやいろんなもの食べるけど・・・」
やがて2人は注文し、料理が出るまで少し時間があるので、BGMの「あなたのとりこ」を聴きながら学校での昔話に弾んでいた。
料理が出ると話が終って2人は急に食べ始めた。
そして店を出てから、2人はさらに怪しいホテル街の前を通って行った。
西浦「あかりさん。いやじゃないんですか?」
あかり「え?何が?」
あかりは西浦の言う事がよくわからなかった。
西浦「ここ、ホテル街ですよ。」
あかり「知ってるけど。」
西浦「入った事ないでしょ。」
あかり「ええ勿論。」
西浦「もし僕が誘ったら、入りますか?」
あかり「いいですよ。」
西浦は躊躇せずホテルに入って行った。
あかりもその後を付いて行った。
ここは201号室。
あかり「わあー、いっぱい飾ってあるんだ!」
あかりはあちこち見回していた。
そしてベッドに座って、
あかり「きゃー、フワフワだぁ・・・」
調子に乗っているあかりを西浦はずーと見ていたのであった。
さらに月日が流れ5年後。
「Mr.ステーキ」で働いていた本田は店を辞めて自分の店を持つことになった。
本田といとこ同士の西浦は、自分の子供昇が料理が得意である事を知り、彼を本田の店で働かせることになるのであった。
第8話 栄華物語
話はかなり遡る。
ここは東京の下町のとある平日。
人も寄り付かないような古い若草色の作業服を着た男ゲンがゆっくりと狭い路地を歩いていた。
仕事がないゲンはやがて公園にたどり着いた。
小さな公園だったが中央には洒落た噴水があった。
彼はその噴水のところまでゆっくりと歩いて行った。
しかし水はまったく出ていなかった。
しかたなく傍にあった横2メートル50ほどのベンチに腰を下ろした。
気候はほどよい季節だったのかまだ近くに桜の木がわずかに数枚の最後の花びらを付けていた。
少し時間が経ったが誰も通りかかることはなかった。
ゲンは今度はベンチを離れ桜の木の木陰にあるグレーのブロックに腰を下ろした。
また少し時間が経った。
彼はボーとしてただ水の出ない噴水を見ていた。
そこに通りかかりのじいさんが声をかけてきた。
じい「あのう・・・」
ゲン「は、はい。私ですか?」
ゲンは不思議そうにじいさんを見た。
じい「ええ。」
じいさんははっきりとした口調で答えた。
そしてゲンの横に座って自分の足元を見ていた。
ゲン「どうかしたんですか?」
じい「ええ。とても困った事なんですよ。」
じいさんはうつむき加減に話した。
ゲン「よかったら話してください。」
じい「実は昨年の年末ジャンボ宝くじを買って、1億円が当たったんです。」
ゲン「オオ!!それはすごい。あなたはラッキーな人ですね。」
じい「それがそうでもないのです。」
ゲン「何かあったんですか?」
じい「買ってすぐ家のどこに置いておこうか悩んでいたんですが、私は外出が多いので目立つ所に置くのが心配になり、自分でそのくじを隠したんです。」
ゲンはじいさんの顔を見ながら真剣に聞いていた。
じい「そして隠す前に番号をメモしておき、交換日までくじを保管することにしたんです。」
ゲン「それはよくやる話ですな。私の連れもそうでしたよ。メモ紙を見て外れるとその紙を丸めて捨ててましたよ。そしてそう言えばどこにしまったのかすら忘れてしまって・・・」
じい「実は私もそうなんですよ。隠し場所にいろいろ悩んで、隠したのは良かったんですが、いざ交換日になってくじを探し回ってもどこに隠したのかわからなくなってしまい、そしてもう半年が過ぎてしまったんです。」
ゲン「え!半年探しても出てこないんですか?」
じい「そうなんです。日が経つにつれ焦ってきてしまって・・・」
ゲン「そうですね。それは絶対見つけないと・・・何せ1億・・・」
じい「そうなんです。それで一緒に探してもらえないかと・・・」
ゲン「え!私なんかでいいのですか?」
じい「あなただからいいんですよ。」
ゲン「私?はて??」
じい「若い人や、そこそこの人だときっと見つけても私に教えないかもしれない。そんな不安が・・・」
ゲン「なるほど。まあ私なんかその日暮しの人生なので・・・」
じい「ええ。あなたの服装でわかりました。」
ゲン「やっぱり・・・」
ゲンは嬉しいような悲しいような変な気分になった。
じい「お願いできますか?」
ゲン「ええ、いいですよ。」
じい「よかった。これは極秘でお願いします。近所に知れるとまずいので。」
ゲン「わかりました。」
こうしてゲンとじいさんはじいさんの住む家に向かったのである。
ここはじいさんの家。
建物は昔の屋敷のような平屋になっており、入り口も両扉で閂が付いていた。
じい「どうぞ。」
じいさんは中を案内した。
間取りはけっこう部屋数が多いし、離れもあり、蔵まであった。
ゲン「本当ですね。これだと、なかなか探すのも大変そうですね。」
じい「ええ、部屋は14に離れが2つ、蔵が1つあります。」
ゲン「こりゃ1日では無理だな。」
じい「まだおよそ半年あるので。」
ゲン「そうでしたね。」
じい「それと、もし見つけていただいたら2000万お渡しします。」
ゲン「げ!2、2、2000万・・・」
じい「はい。2000万です。」
ゲン「それはちょっとあつかまし過ぎるような・・・」
じい「いえいえ、いいんです。見つからないよりは。」
ゲン「確かにそうですが・・・」
じい「それと私もいい年です。8000万でさえ死ぬまでに使いきれるかどうか・・・」
ゲン「なるほど、そうでしたか。じゃ頑張って必ず見つけてみせます。」
ゲンは目の色が変わった。
とにかく見つけて大金をゲットしたい。その一心で他の事は何一つ考える事をしなかった。
じいさんとゲンが一緒に探し始めてから1ヶ月が過ぎた。
ゲン「ないですな。」
じい「やはり、諦めた方がいいのでしょうか?」
ゲン「いや、絶対に見つけてみせます。」
ゲンの目つきは日毎に輝きを増し、1部屋1部屋細かく丁寧に探し回った。
さらに2ヶ月が過ぎた。
ゲン「もう3ヶ月かあ・・・」
ゲンはため息をつきながら、庭の方に行った。縁側にはじいさんが座っていた。
じい「疲れますなあ。」
ゲン「確かに疲れてきたなあ。」
2人ともかなり疲れが増してきた様子だった。
ゲン「これは初心に戻って考え方を変えた方がいいのかもしれない。」
ゲンはこれまで探し回った場所を再確認する事にした。
額の中、仏壇、畳の裏、床の間の飾り付けの裏や台の下、さらに本棚では全ての本を1枚ずつページをめくって調べていた。
約2000冊程あったので、本だけでも1ヶ月かかったのであった。
ゲン「うーん。困ったぞ。考えられないような所に隠したんだろうか?」
ゲンは場所そのものを考え直すことにした。
一方じいさんは引き出しという引き出しの全てを細かく調べていた。
そしてさらに3日過ぎたときだった。
ゲンは何か飲みたくなって冷蔵庫を開けた。
ゲン「ん・・・、これといってないのか・・・」
じい「お茶が冷えてますよ。よかったらどうぞ。」
じいさんが昨日に作っておいたお茶を隣の部屋から出してきた。
ゲン「はい、ありがとう。」
ゲンはそう言うとコップにお茶を入れた。そしてそのお茶のペットボトルを冷蔵庫に入れた。また後で飲むつもりだったからである。
ゲン「まさか冷凍室なんてことは・・・」
ゲンはそう言いながら何気に冷凍室を開けた。
そこには冷凍食品が綺麗に並べて入れてあった。
じいさん「私が先週新しいのを入れておきましたよ。何せ夜食には便利ですから。」
ゲン「そうですよね。」
ゲンは冷凍食品をいろいろ引き出して自分が何か食べれそうな物はないかと探してみた。
じい「よかったら勝手に食べてください。」
ゲン「ありがとう。」
ゲンはけっこう好みに五月蝿い性格で同じコロッケでも好き嫌いがあったりした。
それで冷凍食品でも丁寧に1袋ずつ見ながら選んでいた。
ゲン「あれれ?」
じい「どうかしましたか?」
ゲン「賞味期限が切れているのが1つありますよ。」
じい「あ、それはもう捨ててください。」
ゲン「もったいない・・・」
ゲンはそう言いながら期限切れの冷凍ハンバーグを開けた。
するとそこから出てきたのはハンバーグの入った袋と、それとは別の小さな茶封筒だったのである。
ゲン「何でこんなところに封筒が・・・」
じい「封筒?」
じいさんも冷蔵庫の傍に急いでやってきた。
ゲンはカチカチになっていた封筒を近くにあったドライヤーを使って温めた。
じいさんはしばらく固まっていた。
そしてゲンが封筒の中から出した物は紛れも無く宝くじだったのである。
じい「よかった・・・」
じいさんはその場に座り込んで安堵の表情を浮かべた。
ゲン「しかし考えられないなぁ・・・」
じい「すいません。でもよかった。」
ゲン「本当ですね。」
こうして見つかった宝くじは翌日じいさんが換金してきたのである。
そして2000万は小切手にしてもらい、それをゲンに渡したのであった。
ゲンはあまりにも嬉しくて、帰宅後それをすぐに交換に行かず、数ヶ月の疲れを癒すために温泉に行く事にした。
そして1週間後ゲンは現金を受け取りに銀行に行った。
ゲンの手元には現金100万とその銀行の通帳に1900万が預けられていた。
ゲン「ようし、これで俺は自由だ!」
この日からゲンの生活はまるっきり変わってしまった。
毎晩スナック通いをするようになった。
そして1ヶ月が過ぎた頃。たまたま観たTVで、蔵の中から死体が発見されたというニュースが流れた。
ゲンは最初何の気にも留めなかったのだが、スナックのママが、
ママ「あの死んだじいさん殺されたみたいだよ。」
ゲン「そう、どうでもいいけどね。」
ゲンは日本酒を飲みながら言った。
ママ「あのじいさんの息子がね、私の友達の知り合いなのよ。」
ゲン「へえーそうだったのか。」
ママ「でさ、その息子がじいさんの持っていた宝くじが見つからないって言うのよ。」
ゲン「宝くじ?」
ママ「まあ当たってないんでしょうけどね。息子がじいさんから宝くじを買った話を聞いたのに、家にその宝くじを探しても見つからなかったんだってさ。」
ゲン「でもそれと殺人とどう関係あるんだい?」
ママ「何かさ、くじの番号をメモしてあったらしく、そのメモが出てきてね。」
ママはカウンターにあった煙草を1本吸い始めた。
ママ「そのメモが正しければ1億円当たってたってさ。」
ゲン「1億円!!」
ゲンはびっくりした。
少し酔いが醒めてしまったのかその日は早く帰宅し、翌日ママが話していた殺人事件の載っている新聞をコンビニで買ったのであった。
そこにはあのじいさんの家の写真がしっかりと載っていた。
ゲン「いったいどういう事なんだ。じゃああのじいさんは誰だったんだ?」
ゲンは益々わからなくなってしまった。
しかし自分が2000万持っている事が、結局その事件を知らなかった事にさせる要因になったのである。
このあとゲンは自分の名前も怪しまれないように周りからヤジと呼ばせていた。そしてスナックに通うようになってからしのぶと付き合い始めた。
そしてその後問題の殺人事件は迷宮入りになってしまい、誰もその話題を口にする者はなかったのである。
それからあぶく銭を手にしたゲンは金遣いも日毎に荒くなってしまい、1年も経たないうちに2000万という大金は消えていったのであった。
第9話 ヤジとしのぶ
今日はヤジとしのぶにとって初めてのデートの日。
2人は成田空港に到着した。
ヤジはほとんど手ぶらで、しのぶはまるで2人分の荷物を持つかの様子で大きなトランク1つとやや小さめのボストンバッグを持ってきた。
ヤジ「なんだか遠いなあ。」
しのぶ「まだ出発もしていないわよ。」
ヤジ「え?着いたんじゃないのか?」
しのぶ「飛行機に乗るのよ。」
ヤジは周りの人々を見ながら、
ヤジ「恐いよ。」
しのぶ「何言ってんのよ、大の男が・・・」
呆れたしのぶだった。
ヤジ「いったいどこまで行くんだい?」
しのぶ「言ってもいいけど、きっとわかんないわよ。」
ヤジ「どんなところかぐらい教えてくれよ。」
しのぶ「食べ物のおいしいところよ。」
ヤジ「そうか、それなら良い所だ。」
しのぶはヤジの性格を見抜いていた。
やがて飛行機が飛び立った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ヤジ「ここはどこだ?」
しのぶ「函館よ。」
ヤジ「ほう・・・」
ヤジは軽くうなずいた。
しのぶ「わかってんの?」
ヤジ「全然判らん。」
呆れるしのぶ。
そして2人はゆっくりと漁港を歩きながら、
しのぶ「ほら、ここがレンガ倉庫よ。」
ヤジ「ふうん・・・」
しのぶ「まったく無関心なんだから。」
ヤジ「お、何かいい匂いがしてきたぞ。」
しのぶ「そろそろ夕食時だから・・・」
ヤジはやたら食べ物屋に目がいった。
しのぶ「しょうがないわねぇ・・・」
しのぶはまったく景観に無関心なヤジに呆れていた。
そして2人は海沿いにあった『ブルームーン』という店で食事をした。
ヤジ「ははは、いっぱい食べてやる。」
しのぶ「いいわよバイキングなんだから。」
食事が終わった2人は元町の方に歩いてゆき、さらに二十間坂を上ってロープウェイの山麓駅に着いた。
当然ながら最初から最後まで、しのぶが先導しヤジが付いて行くという、周りからすれば何だか奇妙な光景であった。
いつしか辺りはかなり薄暗くなっていた。
ヤジ「おいおい、こんな時間から山に登るのか?」
しのぶ「こんな時間だから登るのよ。」
ヤジ「真っ暗だぜ、し、しかし人が多いなあ。」
周りの人の多さにヤジはびっくりしていた。
しのぶ「だってここの夜景はとても有名なんだから。」
ヤジ「ヤ・ケ・イ?」
しのぶ「もうう・・・わからずや・・・黙って付いて来なさい。」
苛立ったしのぶはヤジの手をひきながら言った。
ヤジ「はい。」
2人はロープウェイに乗って函館山山頂に到着した。
ヤジ「おお、す、すごい景色だな。」
しのぶ「ほら、だから言ったでしょ。」
ヤジ「何を?」
まったく理解していないヤジだった。
しのぶは完全に呆れてしまった。
しのぶ「もういいから、景色を見てて。」
しのぶはデジカメをバッグから取り出し、近くの旅行客にツーショットをお願いした。
ヤジ「もう、そんなもん、何の役に立つんじゃい。」
しのぶ「いいのよ、あんたに無くても私にはあるんだから。」
函館山から見る夜景は確かに素晴らしかった。
しのぶはこの夜景が見たくて楽しみにしていたのであった。
2人は言葉が無くなっていた。
それぞれの思いに夜景がインプットされたのであった。
翌日は電車で札幌に向かった。
着くまでの窓の外の景色に2人は圧倒されていた。
ヤジ「すげえ、海が一望だぜ。」
しのぶ「そうね、とても綺麗だわ。」
しのぶのこの時ほど幸せの笑顔はなかった。
しかしそんなことも気にかけないヤジは、ただぼんやりと何も考えず海を見てるだけであった。
電車はかなりの時間をかけてやっと札幌に到着した。
ヤジは周りをキョロキョロしながら、
ヤジ「すげえ!都会だな。」
しのぶ「そうね。東京ほどじゃないけど、なかなかのもんよ。」
ヤジ「なんだかここの町の事に関しては詳しそうだな。」
しのぶ「だって来る前にしっかり調べてきてあるんだからね。」
ヤジ「へえー、それはすごいな・・・」
ヤジはすっかりしのぶの教養に感心した様子だった。
そしてさらに周りをキョロキョロしながら歩いていた。
しのぶ「ほら、チャーシューメンのおいしい店に行くからね。」
ヤジ「チャーシューは俺も大好物だ。」
しのぶ「知ってるわよ。だから行くのよ。」
しのぶがややブーイングの表情になった。
ヤジ「そ、そうか・・・」
ここでもヤジはただしのぶの後を付いてゆくばかりであった。
少し歩くとその店はあった。
こじんまりしていたが、店の数メートル手前ですでにラーメンの匂いが2人を誘っていた。
店員「いらっしゃいませ。」
2人はカウンターに並んで座った。
そしてしのぶはメニューを見ながら、
しのぶ「ほら、これ見てよ。」
ヤジがメニューを覗き込んだ。
そこには何種類かのラーメンだけの項目がやや明朝体できれいに書いてあった。
考え込むヤジを見て、しのぶがそのメニューを覗き込み、
しのぶ「このチャーシューメンどう?」
ヤジ「いろいろ種類があるんだな。」
しのぶ「私これにするわ。」
しのぶはメニューをヤジに渡した。
ヤジ「俺も同じでいいよ。」
しのぶ「すいません、この並チャーシュー2つください。」
店員「はい、少々お待ちください。」
店員は水の入ったグラスを2つカウンターに置いた。
やがて登場したチャーシューメンは確かに凄かった。
チャーシューが8枚はみ出して大きな丼を囲んでいた。
ヤジ「うわ!全部食べれるかな?」
しのぶ「うふふ・・・」
2人は食べている間まったく喋る事は無かった。
やがて、
ヤジ「駄目だよ、少し残した。」
しのぶ「いいわ、私が食べるから。」
しのぶはヤジが残したチャーシューメンを全部たいらげた。
店を出た2人はすすきのの街を散歩していた。
しのぶ「ぼちぼちホテルに戻らなきゃね。」
ヤジ「もうそんな時間なのか?」
しのぶ「そうよ。」
しのぶはヤジの方を向いてうなずいた。
ヤジがもっとダンディだったならもっと夜遅くまで散歩したに違いなかったのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
翌日2人はホテルを後にした。
しのぶ「あーあ、もうさよならだね。」
残念がるしのぶ。
ヤジ「何だよ、お金ならまだあるからもう少しここに居ようよ。」
いつもの事ながら、しのぶに合わせるヤジ。
しのぶ「何言ってんのよ。そんな事してたら帰りたくなくなっちゃうじゃない。」
ヤジ「いっそ帰らなくても・・・」
いつものごとく冗談の多いヤジ。
しのぶ「もう・・・お馬鹿。」
しのぶはそう言って2つのカバンを持って歩き出した。
ヤジが慌ててしのぶの後を追いかける。
ヤジ「おい、待ってよ!」
そして2人は新千歳空港行きのバスに乗った。
こうして2人の北海道旅行は無事に終わったのであった。
しかし残念な事にヤジとしのぶの2日以上の旅行はこれが最初で最後であった。
ここはスナック「RISA」。
しのぶ「こんばんは。」
景子「あらお帰り。」
しのぶ「ただいま。」
景子「どうだったの新婚旅行は?」
しのぶ「ち、違うわよ・・・」
しのぶは左手で口を隠しながら照れていた。そして手提げ袋を出して、
しのぶ「これお土産。」
景子「ありがとう。」
そこへお客が入って来た。
景子は急いでお土産袋を片付けた。
景子「あら、いらっしゃい。」
男「ここなんだ・・・」
男は周りをキョロキョロしながら話した。
景子「そうよここなの。」
しのぶ「景子誰なの?」
景子「中学の同級生。」
男「寛治と言います。」
景子「いつも寛ちゃんと呼んでるんだけどね。」
しのぶ「へえー、じゃあ私帰るわ。」
景子「はい、またね。」
しのぶは店を出て行った。
景子はBGMでアリスの曲をかけた。
第10話 2つの警備会社
けっこう古くから警備を主な仕事とする会社「森林警備」が、中野地区を手広く請け負っていた。
この会社は森林家の個人経営で代々社長が親から息子へと引き継がれていた。
一方廃品回収を主な仕事にしていた今野産業は、手を広げるべく子会社として警備会社「ALLセキュリティ」を新たに作った。
その会社の中心人物だったミスターXが設立3年後に急に退職し、それもライバルの森林警備に入社した。
そのことを知った今野グループは、なんとか取り返すべく森林警備の中心人物の1人をヘッドハンティングして仕返しをした。
そのため森林警備はかなりの混乱状態になり、しばらくは会社の運営がうまくいかなかった。
そしてついに社長も森林家ではなく荒川家から就任することになり、荒川家の数人が力を合わせて森林警備を下支えすることでなんとか持ち直した。
看板こそ「森林」だが、実質は荒川家が運営することになったのであった。
X「もうしわけない。私の努力が・・・」
荒川「いえ、いいんですよ。しかし何も辞めることは・・・」
X「いや責任は重いので。」
荒川「意志が固いようですね。ミスターX」
X「はい。」
荒川「ではこれ以上は引き止めませんから。」
X「これまで色々お世話になりました。」
こうして会社の全てを任されていたミスターXが森林警備を退社することになったのである。
その後のミスターXは都心でスカウトマンとして活躍することになり、巷ではマネージャーMと呼ばれるようになっていったのであった。
さてその後はこの2つの警備会社が明星商事のテナントやビルの警備請負を取り合いすることになり、日々争奪戦が繰り広げられたのである。
森林警備の従業員には、荒川透、森林克己などがいた。この2人はスーパー「ゲキヤス」に配属され、店内や駐車場の巡回を負かされていた。
2月13日。ここはスーパー「ゲキヤス」。
多くの女性が新設のコーナーを占拠していた。
勿論目当てはチョコ。とくに女子高校生の集まりは多く、押し合いもみ合いながらまるでそこは戦場になっていた。その人数は特売日か年末の人手のようになっていたのだ。
透「まったく、うぜえ・・・」
克己「ほんと、やってらんない。」
透「なんとかならんのか・・・」
とにかく押すな押すなの混みようで、2人の警備員は呆れていた。
2人で何とかなるどころの騒ぎではなかったからだ。
克己「とてもじゃないけど、中に入って行けないよ。」
透「いいよ。もうこうなったら、物が無くなるのを待つしかない。」
2人の会話も周りの騒ぎでほとんど聞こえなかった。
さらに人ごみは一向に収まる気配がなかった。やがて急に人の数が減って一瞬静かになった。
透「お、物が無くなった。」
すると2人の店員が奥の従業員出入り口からコンテナを運んできて、チョコの箱を追加し始めた。
群衆が再び集まり騒ぎ始めた。
克己「駄目だ、終わってる・・・」
2人はただただ呆然とするばかりであった。
なおこの光景は毎年続くのであった。
そのためか2人は仕事帰りによく居酒屋へ行ったりしていた。
今日は居酒屋に行ったあと、さらにスナック「しのぶ」に入った。
透「まったく・・・今日もいろいろやらされたよな。」
克己「ほんと、やってられないよ。こんなんじゃ警備じゃなくただの雑用係だよ。」
透「まあ雇う側も余計なバイトを新たに使わずに済むからなぁ・・・」
克己「人件費の節約をしてるんだぜ、きっと・・・」
透「こっちは迷惑千万だよな。」
しのぶ「どうしたの?文句ばっかり言い合ってる・・・」
しのぶはライターに火をつけながら言った。克己が煙草を吸い始めた。
透「そりゃそうだよ。ただの小間使いなんだから・・・どこが警備なんだよ?」
しのぶ「仕事ってみなそうみたいよ。」
克己「ママも何か別の仕事をやってんのかぁ?」
しのぶ「いえ、そうじゃなく・・・この店に来るお客さんのお話を聞いてると、本業より雑用が多いって皆さんここで溜め口たたいてるよ。」
克己「なんだ、それじゃ俺たちと同じじゃないか・・・」
しのぶ「そういう事ですね。」
しのぶは軽く2度うなずいた。
透はため息をつきながら、
透「あーあー、ママもう1本!」
克己「おいおい・・・大丈夫か?」
もともと透は酒飲みなのだが、今日ははしごをしているので克己が心配をしていた。
透「まだまだ、これくらい・・・」
しのぶは追加のビールを出した。
その後も透はビールを飲み続けた。そして、
透「あっ、俺トイレ・・・」
透はそう言って予想通りトイレに入った。
克己は透の後姿を確認しながら、
克己「ママ、明日の予定は?」
しのぶ「急にどうしたの?」
克己「明日暇だからさ。」
しのぶ「いいけど、そのうちバレるわよ。」
克己「大丈夫さ。」
しのぶ「変なとこ自信あるのね。」
克己「これがトリエだよ。」
しのぶはいつもと同じように笑っていた。
透のトイレは長かった。
30分以上は出てこなかったようだ。
この後2時間ほど3人のはずむ会話が続いた。
やがてしのぶが片付け始めると、克己は酔いつぶれた透を家まで送って行った。
すでに辺りは薄暗くなって、遠くから太陽が出る準備をしている時間になっていたのである。
翌日克己はしのぶと湘南海岸へドライブに行ったのであった。
2人は車から降りると浜辺を散歩することにした。
潮風が心地よく吹いていて素晴らしいデート・コンディションだった。
克己はしのぶの手をしっかりと握ってリードしていた。
しのぶ「よく覚えてるのね。」
しのぶの髪が大きく潮風に揺れた。
克己「勿論さ、忘れるもんか。」
そこには波打ちブロックがいくつか重なっていて、時々砕け散る波の音が季節外れのビーチに爽やかなメロディを奏でていたのである。
しのぶ「あの時は強引だったもんね。」
克己「そうかな?」
やや沖の方で海鳥が数羽飛び交っていた。
しのぶ「よく言うよ。まったくその知らんぷりはあの頃と変わらないのね。」
克己「しかし、まさかあんな所で再会するとは思わなかったよ。」
しのぶ「あなたが警備してる事の方がびっくりしたわよ。」
波が大きくぶつかり合って、激しい音を響かせた。
克己「そうかぁ?・・・似合ってないかい?」
しのぶ「う・・・・・ん。まだもっとやりたい事あるんじゃなかったの?」
克己「それを言われるとなぁ・・・」
遠くで船の汽笛のような音が聞こえた。
しのぶ「覚えてるよ。確か鎌倉に行った時、俺は小さな店を出すんだって張り切ってたじゃない。」
克己「あ・・・遠い過去の事だな・・・」
しのぶ「何言ってんのよ。ちょっと前ですよ。」
しのぶは克己を横目で見ながら笑っていた。
克己「まったくしのぶには負けるよ。」
しのぶ「やっと名前で呼んでくれたのね。」
克己「あはは、そうだったか・・・」
克己は頭を右手で撫でていた。
しのぶ「ほーんとに鈍いのねぇ・・・」
しのぶは右腕で克己に軽く肘鉄を入れた。
克己「鎌倉の帰りが一番良かったよ。」
しのぶ「ちょっとぉ・・・あなたはそっちばかりなんだから・・・」
2人の会話がしばらく続いて、昔ここでデートした頃の気持ちに戻った様子であった。
やがて2人は車に戻った。
克己「鎌倉に行く?」
しのぶ「バカ・・・」
この後車は鎌倉に向かって行った。
2人の会話が途切れたからなのか、克己はカーステでローリングストーンズをかけた。
曲が As tears go by になった時は車はしばらくサービスエリアに入り、そこで2人が抱き合っていた。
3日後、克己が仕事帰りにスナック「しのぶ」に寄った。
しのぶ「あら・・・」
店はまだ OPEN 前でしのぶが開店準備をしていたのだ。
克己はそれに気づいて、カウンターからしのぶのすぐ横に移動した。
しのぶ「ちょっと、うちにはローリング・ストーンズはないからね。」
克己は強引にしのぶにキスをして、
克己「じゃ俺が家から持って来ようか?」
しのぶ「何言ってんの。ここは私の店なの、あなたの店ではありません。」
しのぶは苦笑いしていた。
克己「そ、そうだったな・・・」
克己は先程座っていたカウンターの椅子に戻った。
克己「そうだ。これこれ。」
克己はそう言うと持ってきた白い箱を出してしのぶに渡した。
しのぶ「何?」
克己「開けてみなよ。」
しのぶが箱を開けると、
しのぶ「モンブランね。」
箱の中身は香りが程良いショートケーキが2つ入っていた。
しのぶ「コーヒー入れるわ。」
しのぶはカップを2つ出してきて、コーヒーを入れた。克己はコーヒーを飲みながら、
克己「よく覚えているね。ブラックコーヒー・・・」
しのぶ「当たり前でしょ。30年以上待たされた女ですから・・・」
克己「そう言うなよ・・・」
しのぶ「でも、この店にいるってどうしてわかったのかしら?」
克己「運命かな・・・」
しのぶ「よく言うわ・・・口だけは達者なんだから。」
2人のはずむ会話が続いた。
ケーキの後は克己はチューハイを2杯飲んで店を後にしたのである。
克己は自宅へ戻るとすぐにローリングストーンズのCDをかけた。
小さな1人の部屋には、僅かな音量で As tears go by が流れていた。
そして先程のしのぶの店での会話の続きを思い出していた。
克己「うちの会社の社長がね、俺とママの2人が会話しているのを偶然見かけてさ。」
しのぶ「もしかしてあのスーパー?」
克己「そうバレンタインデーの前の日。その翌日会社で、俺が仕事が終わって帰ろうとした時・・・」
・・・・・・・・・・
社長「克己君、昨日スーパーで話していた女性知ってんのか?」
克己「えっ、あっ、あの人ですか?」
社長「ああ。」
克己「昔の友だちです。」
社長「そうか。彼女今はスナックやってるんだよ。2、3度行ったことがある。」
克己「へえー、そうでしたか。で、どこのスナックなんですか?」
こうして克己は社長からスナックの住所を教えてもらったのであった。
・・・・・・・・・・
しのぶ「へえー、そうだったのね。社長さんはめったとここへは来ないけどね。」
少し寂しそうな表情になったしのぶはそう言ってグラスのビールを一気に飲み干した。
<<<ここで社長としのぶの思い出のシーンが数カット幻想のようにスライドショーされる。
<<<さらに克己としのぶの思い出のシーンが数カット幻想のようにスライドショーされる。
<<<エンドスクロール(ドラマの出演者、協力などの案内表示)しながら、少しずつズームアップしてゆく。
克己の部屋は1DKでさほど広くは無かった。
窓が1つあるだけのやや暗い部屋は昔ながらの40Wのカサ付き蛍光灯が2つ天井にかかっていた。
そして小さな木製の机の横の壁に1枚の手紙がピンで留めてあった。
『かっちゃん!
今日はありがとう。
As tears go by
いい曲だね。私好きになっちゃった。
by しのぶ』
― 完 ―
この小説は「キラキラヒカル」全集の第9巻です。
キラキラヒカルは新しいカテゴリ、「4次元小説」の1冊で、これまでにはない新しい読み手の世界を考えて描いてあります。
なお、「もくじ」は配布している冊誌の表紙裏を入れました。
このシリーズでは、「登場人物一覧」は「ハンドブック」に記載しています。そちらをご覧ください。
<公開履歴>
2017. 8. 5 配布
2018. 5 「小説家になろう」にて公開