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決断

 一週間ほど前の金曜の夜、雨でプロ野球が中止になり勇気と栞那はアニメを観ながら大笑いしている。


「今、勇気むっちゃ機嫌ええやんか。野球始めてみいひんか? って言うてみようかな」


 勇介は、台所で洗い物をしている博美の方へ近寄り、小声でそう言った。


「駄目だと思うよ。あんなに野球のこと、嫌ってるんだからさ。自業自得だね」


 少し皮肉っぽい妻の言葉が返ってきた。


「せやなあ」


 と、溜息。


 この家族、勇介は関西弁が抜けず小さな頃から慣れ親しんできたその言葉で話すが、他の三人は勇介の影響を受けることなく標準語なのだ。子供達がたまにおどけて父の言葉を真似する程度である。


 駄目元で勇介が動く。


「ゴ……ゴホン」


 勇介は、少し大袈裟にひとつ咳払いをし勇気に切り出した。


「あんな、勇気」


「なあに?」


 テレビでアニメを観ている為、勇介の方を向かずに勇気は返事をした。


「あんな、勇気。三年生になったことやし、そろそろ野球チームに入ったりとかあ……せえへんのかなあ……なんてね」


 相変わらず勇介の方を見ないまま返事が返ってきた。


「別に、いいよー」


 勇介と博美は目を大きく見開いてお互いの視線を合わせた。


「ほんまに?」


「ほんまやでえ」


 勇気がおどけて返事をする。


 勇介は勇気の気が変わらないうちにと思い、近所の少年野球チームの監督に電話を掛けた。


「監督さんが来週の日曜に来て下さいって言うてはったから、とうちゃんと一緒に行こな。その日に体験練習もできるんやて」


「わかったでまんがな」


 勇気から変な関西弁が返ってきた。


 ちょうどその時、アニメの「来週の予告」が終わり、勇気がやっと勇介に顔を向けて話しだす。


「野球始めたらさあ、ロッククライミングやキャンプは行けなくなっちゃうの?」


 勇介は高校を卒業して野球を辞めた。プロや社会人野球で活躍できる程の力はないと分かっていたからだ。大学ではアウトドアのサークルに入り四年間を過ごした。


 その影響で勇気も栞那も小さな頃から長期休暇にはアウトドアを楽しんでいた。今では家族共通の趣味になっている。


「大丈夫。それはやめへんから。みんなも行きたいやろ?」


「行きたいでんねん」


 今度は栞那から変な関西弁が返ってきた。


 翌週の土曜、勇介は勇気を連れてスポーツ店へ行きグローブを買ってやった。勇介は自分がずっと愛用してきたミズキ社製のグローブを選んだ。少年用グローブの中で一番高価なものである。


 思いの他、勇気は喜んでくれた。勇気の笑顔が嬉しかったのだ。その他に監督さんから指定された白い練習用ユニフォーム、紺色のアンダーシャツ、野球用のベルトなど、一式揃えた。一度レジで支払いを済ませた後、勇介は勇気を再び野球用品コーナーへ連れて行く。そこでグローブの手入れをする為の油とブラシを手に取りレジへ向かった。道具を大切にすることを勇気に教えたかったのだ。勇介自身、高一の時に買ってもらった硬式用グローブを手入れしながら三十七歳になった今でも持っている。


 その夜、真新しいグローブを手に取り、勇気は嬉しそうにしていた。


「お兄ちゃん、栞那にも貸してよ」


「嫌だねっ」


「ちょっとくらい貸してくれてもいいじゃん」


 どこにでもありそうな兄妹の会話に勇介が口を挟む。


「おっ、栞那も野球やろか」


「いやや」


 まともな関西弁が返ってきた。


「せやせや、勇気。グローブまだ新しくて硬いやろ? 油を塗って柔らかくせんとあかんから、ちょっと貸してみ」


 勇介は勇気に手入れの仕方を教えながら油を塗り始めた。

勇気は少し不満そうな顔をした。まだ一度も使っていない新しいグローブのポケットの部分が油で色が変わってしまったからのようだ。


「新しくグローブを買った時は、みんなこうするもんなんやで」


 勇介の言葉で少しは納得したようだ。翌日の入団に備え、いつもより少し早い時間に寝る事にした。勇気がベッドに入ると勇介は枕の隣に真新しいグローブを置いた。


「僕、グローブと一緒に寝るの?」


 少し不思議そうな表情を浮かべる勇気。


「そやで。父ちゃんもな、試合の前の日はしっかりグローブを磨いて一緒に寝てたんや。道具は大切にしてやらなアカンねんで」


「うん。わかった」


 勇気が眠りにつくまで、勇介はベッドの脇で我が子の寝顔を眺めていた。




 夜中の二時頃、勇介は眠れず寝返りを繰り返していた。隣で寝ていた博美は勇介の寝返りで目を覚ます。


「どうしたの? 眠れないの?」


「うん。明日が楽しみで……寝られへん」


「アホ。遠足前の小学生か!」


 滅多に関西弁を真似しない博美が呆れて言った「アホ」


 勇気の野球デビューをこんなに楽しみにしている勇介のことを少し可愛いと思い、笑みをこぼし眠りについた。


 翌朝八時、勇介は勇気と玄関を出る。朝の弱い勇気は、目を擦りながら勇介に手を引かれグランドへ向かおうとするが、勇気は行くのを嫌がりだす。


「約束したやろ。今日からチームに入るって」


「やっぱり嫌だー」


 栞那が一週間前、二階から見たシーンである。


 しぶしぶ勇気は勇介とグランドへ向かう。


「お兄ちゃん、頑張れー」


 これが栞那が初めて言った「お兄ちゃん、頑張れー」であった。


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