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後編

 いつの間にか、八月と夏休みが終わろうとしている。

 始業式まであと二日に迫った今日、私は重い腰を上げて旭くんの駄菓子屋さんへ向かった。

 それまではずっと、足を運ぶ気になれなかった。


 今日だってぐずぐずと決心がつかなくて、気づけばもう夕方だ。

 夕映えが広がる空の下、アーケードが斜めに傾く影を作って、物寂しい商店街をすっぽり包み込んでいる。

 その影の中に旭くんもいた。閉店時刻なのか、店先に並べていた駄菓子入りのざるを重ねて、片づけているところだ。それでも私に気づくと手を止めて、こちらを向いた。

「くりこ二号?」

 猫みたいな目を瞬かせて私を呼んだその後で、寂しそうに微笑む。

「今度こそ、もう来ないかと思ったよ」

 以前にも彼はそう言っていた。

 その理由も今ならわかる。

「ごめんね、ずっと迷ってて……聞きたいこと、あるの」

 ここまで来たらためらう意味もない。私は自分のスカートをぎゅっと握り締め、恐る恐る切り出す。

「旭くんは、一年生? それとも二年生かな」

 尋ねられて、旭くんは細い目を見開いた。

 だけど思っていたよりは驚かなかったみたいだ。すぐに後ろめたそうな顔になり、大きく溜息をつく。

「そうだよな、ばれるよな。時間の問題だと思ってた」

「やっぱり……そうなんだ」

 初めて会った日、彼から名前を聞いた時。

 私が彼のことを知らないと答えるまで、ずっと心配そうに私を見ていた。

 あの時、旭くんは『知らない』でいて欲しかったんだろう。

「嘘ついてごめん」

 旭くんは済まなそうにしていたけど、厳密には、彼は嘘はついていない。


 ただ私が彼を同い年だと勘違いしていて、彼も訂正しなかったというだけだ。

 この間、彼が言おうとしていたこともつまり、それだったんだろう。

 わからないのは、どうして旭くんはずっと訂正しなかったのか。三年生だと偽ることに意味があったとは思えないし、悪意やからかいの意図も窺えない。彼自身だって言ってた、『時間の問題だと思ってた』って。

 一体、どうしてなんだろう。


「怒ってるわけじゃないよ」

 私は彼に、そう応じた。

「ただ、旭くんが本当のことを言いたがらなかった理由がどうしてもわからなくて。知りたくて、だから来たの」

 少しもショックじゃないと言えば嘘になる。

 今日だって聞いてみなくちゃと思いつつ、なかなか来る気になれなかった。ここ数日はずっとそうだった。

 だけど旭くんは親切で、優しくて、あんな私の作文を認めてくれた唯一かもしれない人だ。そんな彼なら、事実を打ち明けられなかった理由もちゃんとあるはずだと思った。私には思いつかなかったけど、きっと何かあるんだろう。

 そう思って、ここへ来た。

「三年生のふりをしたのも、何か訳があったんだよね?」

 尋ねてみたら、旭くんは曖昧に頷いた。

「ある、けど……」

 言いにくいんだろうか。唇を結んでもごもごさせた後、ざるを手にしていることを思い出したのか、こう言った。

「ちゃんと話すから、上がってって。もう店じまいなんだ」

 外と比べると薄暗いお店の奥を指差し、旭くんは駄目押しみたいに続ける。

「くりこもいるしな。寝てるから、起きないかもしれないけど」

 そういえば今日は店先に、猫のくりこの姿がなかった。お昼寝の時間だろうか。

 ともあれ断る理由はない。私は本当のことが知りたくて――そして旭くんを信じたくて、ここまで来たんだから。


 旭くんのお部屋は、駄菓子屋さんの二階にあった。

 古めかしい商店街の佇まいによく似合う、漆喰の壁と板張りの床の小さな部屋だ。それでも壁の高い位置には真新しいエアコンがあって、室内は程よく涼しかった。


 猫のくりこは部屋の隅で、座布団の上で眠っていた。

 お腹を上に晒して、手足をだらんと伸ばしてすっかり無防備な寝姿だ。きっと安心しきっているんだろう。

「隙だらけ。まさに平和の象徴だね」

 私が感想を呟くと、旭くんも少し笑った。

「腹出して寝る生き物なんて人間だけかと思ったよ」

 それから旭くんは別の座布団を持ってきて、私の為に敷いてくれた。私はその上に座り、旭くんは私と向き合うように、猫のくりこの傍に座った。


 座ってから見渡せば、旭くんの部屋はごく一般的な高校生の部屋という印象だった。

 学校指定の通学鞄が置かれた勉強机があり、漫画から雑誌まで揃った本棚があり、ガラス戸つきの棚にしまわれたプラモデルがある。始業式が近いからか、クローゼットの戸にはハンガーにかけられた制服が吊るされている。上はワイシャツ、下はチェック柄のスラックス――うちの学校の制服だ。

 シャツには学年章がついていて、記されているクラスは『Ⅰ‐F』だった。


「……一年生、なんだね」

 気づいた私の問いかけに、彼はきまり悪そうな顔をする。

「先輩って呼ばなきゃ駄目かな」

「今更かしこまらなくてもいいよ」

「じゃあ今まで通り、くりこって呼ぶ」

 旭くんがその名前を呼んでも、猫のくりこは返事をしない。

 代わりに私が頷いて、その後尋ねた。

「聞かせて。どうして一年生だってこと黙ってたの?」

 すると旭くんは言いにくいのか、柔らかそうな自分の髪に手を差し込んでぐしゃぐしゃ掻き混ぜた。

 しばらくしてから呻くように答える。

「前に言った通りだよ。俺、日南久里子と話してみたかったんだ」

 それは聞いていたけど、黙っていた理由としては納得がいかない。

「一年生だろうと三年生だろうと、話くらいできるじゃない」

 私の言葉に旭くんは強く首を振る。

「一年坊主からしたら、三年生なんて話しかけられる相手じゃなかったよ」

 そうかな。私は尚も反論しようとしたけど、自分が一年生の時はどうだったかを思い出して――確かに、そうかもしれないと思い直した。三年生なんて、気軽に話しかけられるような相手じゃなかった。

「あの作文を聴いた時から、話したいって思ってた」

 旭くんはぽつぽつと、語り始めた。

「猫で戦争と平和を語る日南久里子って、どんな子なんだろうって。自分でイメージもしてみたし、実際に教室近くまで顔を見に行ったりもしてた」

「……気づかなかった」

 私が驚くと、彼はますます気まずそうに首を竦める。

「友達連れて、いかにも通りすがりですって装ってたから。まあ、友達にはバレてからかわれたけど」

 それから私の顔色を窺うようにして、尚も続けた。

「自分でもちょっと変だとは思ったよ。一度作文を聴いただけの、面識もない先輩のことが気になるなんてさ」

「確かにそうだね」

「だろ? でもそのうち、校内で見かける度に目で追うようになって、家にいる時も『日南久里子ってどんな子なんだろう』って考えるようになって、猫を飼うようになって、その猫に『くりこ』って名づけたりして――」

 あんな作文がそこまで彼の印象に残っちゃうなんて、私の方が驚きだ。

 それだけ気に入ってもらえたってことなんだろうけど、今更ながら戸惑ってしまう。

「でも夏休みに入って、きっとこのまま何にも起きないんだろうと思ってた」

 そこで旭くんの目が私を見る。

 猫によく似た吊り上がった瞳は、暮れていく部屋の中で静かに光っている。

「けど遂に、くりこ二号と出会えた」

「うん」

 気圧されるように頷けば、彼はまた思い出し笑いみたいに口元を緩めた。

「ずっと考えてたんだ。あの作文を書いた子がどんな子か――めちゃくちゃ頭いいけど皮肉屋で、性格きついのかもしれないとか、こんな見た目で実は笑いを取るのが大好きなお調子者じゃないかとか。でも、実物はそうじゃなかった」

 旭くんの目に、実物の私はどんな子として映ったんだろう。

「くりこは、あんな作文書くとは思えないくらい普通の女の子だった」

 彼は言う。

「いい子だし、見た目通りに可愛かった」

 その言葉で私はひとたまりもなくどぎまぎして、恥ずかしさに慌てた。

「そ、そうかな……」

「そうだよ。だから俺、初めて話をした時に思った」

 旭くんは、そんな私に言う。

「俺はきっと、くりこ二号と恋をするんだな、って」


 ――その、瞬間まで。

 私は、旭くんが言わんとしていることを掴めていなかった。

 作文で言うところの『論旨』に、たった今、この時にようやく気づいた。


「わ……私と?」

 危うく大声を上げそうになり、慌ててボリュームを絞る。

 この部屋には猫のくりこが寝ているから大きな声は出せない。

 でも逆に言えば、猫以外には私と、旭くんの二人きりということで――今更みたいにその事実を意識する。ここは男の子の部屋だ。

 そして部屋の主は、真剣な光を湛えた目で私を見ている。

「あの時に気づいた。俺は日南久里子を好きになってたんだって」

「でも私、あんな作文書く人間だよ?」

「あの作文がいいんだ。俺は好きだ」

 そうだった。

 旭くんはあの作文の、唯一とも言える理解者だ。

 それはもしかしたら私にとっても、かもしれない。あんな作文を提出するしかなかった私という人間の魅力を、唯一わかってくれる人かもしれない。

「だから同い年のふりをした。普通に話がしたかったし、名前を呼んでみたかったんだ。一年生じゃ手が届かない先輩に、夏休みの間だけでも近づきたいって思った」

 そう言って、旭くんは目を伏せる。

「嘘をついたこと、本当にごめん」

「う、ううん。別にいいよ」

 ああまで言われて、とてもじゃないけど彼を責められない。

 私だって、皆に笑われたり注意されたりした作文を、誉められて嬉しかったのも事実だ。

「それで……聞きたいんだけど」

 旭くんはおずおずと、だけど眼差しは強く私を見る。

「くりこは、年下って駄目?」

 駄目とか、そういうふうに考えたことなかった。

「三年から見たら、一年なんて頼りないかもしれないけど」

 そんなことはない。むしろ私なんかより旭くんはよっぽど頼れるし、しっかりしている。

 でも、さっきの言葉については、どう返事をしていいものか。

「俺は、くりこが好きだ。俺を好きになって欲しい」

 言葉を重ねる旭くんに、私は慌てふためきながら、必死に答えを考える。


 今日、ここに足を運んだことが何よりの答えのはずだ。

 私は旭くんを信じたかった。彼が悪意で嘘をついたんじゃないって思いたかった。それを確かめるのが怖かったのも事実だけど、勇気を振り絞ってここに来た。

 それは、単に作文を誉められて嬉しかったから、だけじゃない。


 あの作文について考えた時より、よっぽど簡単に答えが出た。

「わ……私もね、旭くんと一緒にいるの楽しいし、頼りないなんて思ったことないよ」

 たどたどしく告げたら、旭くんは落ち着かない様子で顎を引く。

「そっか、よかった」

「だからね。これからも一緒にいたら、私、絶対に旭くんを好きになる」

 自分でもわかる。

 きっと私は、旭くんと恋をする。

「俺と一緒にいてくれる?」

 旭くんがそう尋ねてきて、私は即答した。

「うん。旭くんと、もっと仲良くなりたいから……」

 それだけ答えるのがものすごく恥ずかしかった。

 弁論大会で壇上に登った時の方が気楽なくらいだった。

「ありがとう、くりこ」

 旭くんは目を細めた。ちょうど猫のくりこが嬉しい時、そうするみたいに。

 そして床に手をついてこちらに身を乗り出して、

「じゃあ今日はもう少し、俺を好きになってから帰ってよ」

 片方の手を、すっかり熱っぽい私の頬に添える。

 私はさっきよりも近くにある、旭くんの猫みたいな瞳を見つめ返した。暮れていく部屋の中は次第に薄暗くなっていたけど、その瞳には小さな光がちらついていた。すごくきれいで、ひたむきで、素敵な目だと思う。

 やっぱりだ。私、旭くんのことをだんだん好きになってる。

 お互いに言葉もない時間が過ぎて、このまま時計が止まっちゃえばいいとさえ思ったけど――。

「あ、くりこ」

 不意に旭くんが名前を呼んだ。

 私のことかと思いきや、彼の目は座布団の上に向けられている。見れば眠っていた猫のくりこが伸びをしているところだった。そして小さな口を精一杯開けて、くあ、と大きくあくびをする。

「猫もあくびをするんだね」

 私が思わずその姿に見入れば、

「……隙だらけだ」

 猫を見ていた私の視界が旭くんに遮られて、唇に柔らかい何かが触れた。


 本当のことを言えば、猫がどのくらい世界平和に役立つかはわからない。

 私は猫が好きだし、可愛いって思うけど、そうじゃない人もいるだろう。動物の可愛さだけではどうにもならない争いごとだってあるだろう。

 でも猫が駄目なら、動物が駄目なら、もっと心がときめくものを自分で見つけてしまえばいい。

 私には好きな人ができた。

 多分、私の魅力をわかってくれる唯一の人だ。

 旭くんと一緒にいれば、その時間は小さいけど確かに平和だと思うし、そこにくりこもいてくれれば一層平和だった。

 だからやっぱり私にとって、猫は平和と、幸せの象徴だ。


 とうとう夏休みが終わり、始業式の日がやってきた。

 学校が始まってしまえば私は三年、旭くんは一年で、一緒にいるどころか校内ですれ違うこともあまりない。お互いの教室は階すら違っているから、むしろここまで見に来てくれてたんだな、なんておかしく思う。

 だけど約束はできたから、放課後は生徒玄関で待ち合わせをした。

「旭くん、帰ろ」

 先に来ていた彼に声をかける。

 白いシャツに一年F組の学年章をつけた旭くんが、振り向いて猫みたいに目を細める。

「待ってたよ、くりこ」

 私たちは家の方向も違うけど、途中まででも一緒に帰ろうと決めていた。連絡先も交換したし、特に心配はない。

「くりこ、今日って予定ある?」

 並んで歩きながら、旭くんが尋ねてきた。

「よかったら、うちのくりこに会いにおいでよ」

 彼の誘いは屈託がなかったけど、私はちょっと答えに迷った。

 なぜかと言えばこの間、隙を突かれたからだけど――。

 でも結局は頷いてしまう。

「……うん。お邪魔しようかな」

 なぜなら私は猫が好きで、そして旭くんが好きだからだ。

「やった。すげー歓迎するから、楽しみにしといて!」

 旭くんは猫のくりことそっくりの、とろける笑顔でそう言った。

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