その名は×。
お待たせして申し訳ありません。
感想返しもできずすみません。いつも拝見させていただいております。ありがとうございます。
弟子たちにとって、イーズィーという男は命を助けてくれた恩人であり。
戦うすべを伝授してくれた師であり。
愛情を注いでくれた父であり。
いつしか恋い慕うようになる、背の君であった。
暖炉の火がちろちろと燃え、部屋の外では兵士達が歩哨として周囲に警戒の目を光らせている。
窓の外からちらりと遠方を見やれば、はるか遠くには暗黒の瘴気渦巻く空と、不気味な雷鳴が鳴り響いている。
ここは人類の勢力圏の中で、魔王の本拠地に最も近い最前線の地だ。イーズィーたち、神剣の勇者一行はその最前線の砦の、士官用の部屋を間借りさせてもらっていた。
最前線だけあって、ベッドの柔らかさも食事の質も、お世辞にも良いとは言えないが、野宿がよくある勇者一行としては、夜の警戒をせずに朝まで熟睡できるだけでも値千金の価値がある。
借り受けた会議室の中で、イーズィーは弟子たちを見回しながら言う。
長かった。
その感慨は一言では言い表せない。
十年前に、生贄も同然に戦場へと送り出され、泣いている子らを見つけて助け。そして手塩に掛けて育てた。
今や四人は歴戦の古強者としての風格を持つに至っている。
それになにより――神剣の賢者は、ここに至ってようやく後継者を得る事ができた。
「……四人とも、良くここまで頑張ったな」
「「「「はいっ!」」」」
イーズィーの言葉に、四人の弟子たちは背を正して答える。
その真面目な反応に、彼は苦笑する。
「ルシアス」
「は、はい……」
「これを、渡す」
イーズィーは勇者時代を含めれば、もう20年近く腰に下げていた神剣をルシアスに手渡した。
ルシアスはそれを受け取り、大きく目を見開いて、視線を神剣と師の間を往復させた。自分の手に――神が人に授けたといわれる救世の神威がある。
「ルシアス、おめでとう」
「おめでとうございます」
「おめでとー!!」
アレクサンドラ、ノイエ、セリカの三人が拍手して祝福してくれる。
「あ、ありがとう、みんな。でも……先生、これは先生がずっと……先生?!」
かつて勇者だった師が己に手渡した神剣。救世主としての誇らしさ、栄誉と共に我が身に圧し掛かる重責を思い、身を硬くするルシアスだったが……師が、ぐらりと姿勢を崩して片膝を付いたことに心配の声をあげる。
イーズィーは、心配するなよ、と手をひらひらさせながら……次代に、救世の神剣を預ける弟子を育てきった事への安堵の溜息を吐いた。
「……心配しなくていい。肩の荷が下りたと思うと、つい、な」
四人は心配げに師を見つめるが、イーズィーはそのまま椅子に腰かけて言葉を続ける。
「さて。……これが魔王の本拠地に乗り込む前に取れる、最後のまとまった休息になる。
万全の体調を心がけるように。長かったが……これが、旅の終わりだ。四人とも――戦いが終わった後の事を考えるといい」
四人の、顔が曇る。
だがイーズィーはそれに気づきもせずに言葉を続けた。弟子たちの長年の苦労が、魔王討伐という形ではっきりと認められれば栄耀栄華は思いのままだ――きっと弟子たちも喜ぶだろうと考え、皆の不安に気づいていない。
「何せ魔王討伐が成されれば地位も名誉も思いのままだ。おおよそ大抵の望みは叶うぞ。どんな贅沢でもどんな我侭でも可能だろうよ。
戦いが終わって……その後に、何をしたいのか、夢があるなら力もわいてくるだろう――あ? おい? なんだその時化た顔は?!」
イーズィーは弟子たちを奮起させようと思い、戦後の報酬を意識させようとしたが……それは見事なまでの逆効果だった。
旅が終わる。
それは、命の恩人であり、師であり、父であり……恋い慕う人との旅路の終わりを告げていた。
師は、フランシア姫という美しい姫君と家庭を持ち、引退をするのだという。
魔王との決着が付くことは人々の暮らしの安泰には必要不可欠だけど、それは師との別離の時でもある。
四名の弟子たちは、恋の破れる無残な気持ちを師に隠し通さねばならなかった。
僕こと、ルシアスはまどろみの中で、過去を思い返すように夢を見ていた。
一番最初に思い浮かぶのは母のこと。美しかったけど、子である僕に微笑みかけることは、とうとうただの一回さえなかった。
僕の母は王の眼に止まるほどの美貌と、低い地位と、強力な権勢欲を併せ持つ人だった。
王の子がどのような人生を送るのか、母はまず戯れに高名な占い師に将来を視させてみたという。
『これは素晴らしい! このお子は世界を救う救世の勇者となりましょう』
占い師の言葉を母は信じた。
いや、信じたというよりも、自分が権勢を得るために打つ布石の一つとして――僕を歪めて育てた。
僕は……本当は×だ。
その言葉を舌に乗せることはできない。言葉に発することもできない。例え裸になろうとも、僕が×であると認識できない。それほどに強力な呪いだ。
そういう力が、物心付いた頃からずっと架せられている。
もし本当に僕が神剣の勇者となり、魔王を打ち倒し、帰還した時に――×だと、王位を継ぐことができないから。
そして――母はそういう権勢を欲して宮廷で暗躍を行い……死んだ。
母が生きているのが目障りと見た誰かの陰謀によるものだったのだろう。
術者でもあった母の死により、僕が×であるという事を隠す呪いを解除できるものはいなくなり。
僕がいずれ神剣の勇者になるという預言を知った誰かは、その事を目障りに思い……アレキサンドラ、ノイエ、セリカたちと一緒に、死を望まれた。
先生。
イーズィー先生。
夢の中、先生は僕に神剣を差し出す。夢の中の僕はそれをしっかりと受け止めた。神々が地上に降ろした神威の影。救世の化身。
イーズィー先生は僕に神剣を渡すと、ふ、と微笑んで背を向ける。僕を見ぬまま歩き始めた。
先生、先生、どこに行くの?
僕は先生を追いかけて走り始める。けど、少しずつゆっくりとその距離は開いていくばかり。
『もうお前達に教えることはないからな。フランシア姫を娶って田舎に引っ込むさ』
先生の隣にきれいな女の人の姿が浮かぶ。仲睦ましげに腕を絡ませ微笑みあいながら進んでいく。
僕を置いて。
待ってください! 僕はまだ先生に教えて欲しいことがあるんです!
『馬鹿を言え。お前は……十分に立派だろう。神剣も受け継いだ。お前を倒せるのはもうどこにもいない』
いらない!!
神剣なんかいらない!!
先生から離れなきゃいけないんだったら、こんなもの不要なんです!!
けど、神剣はいきなり巨大になって、僕の背中から圧し掛かり、押しつぶす。
神剣の下敷きになったのに、僕が大変な目にあったのに――先生は、僕を助けてくれない。
見捨てられた……? 僕の事など、もうどうでもいいの?!
目蓋が熱い。瞳が潤む。悲しくて悲しくて、手を伸ばして泣き叫ぶ。
けど、先生は困ったような顔で振り向いた。ひらひらと手を振る。ばいばい、と別れを告げる。
『……雛鳥はいずれ巣から飛び立つ。弟子はいずれ師を越えていく。有り触れた別れが訪れるだけの話さ。ほんの少し悲しいだけだ』
嫌だ!!!!!
こんなのほんの少しの悲しさじゃない、今まで生きてきて一番辛いんだ!!
『じゃあな、ルシアス。……元気でな』
手を伸ばし、追いすがろうとする。
叫び声を上げ、先生を押し止めようとする僕の目の前で、先生と女の人は白無垢に身を包む。
僕のほうへ振り向いた先生の隣の女性は、僕と同じ顔をしていた。
「嫌だ! 捨てないでよ、先生ぇぇ!!」
ルシアスは自分の悲鳴じみた叫び声で目を覚ました。
天井とうっすらとした明かり。窓の外は既に夜の帳が訪れ、空には月が輝いている。
ここはどこで、今はいつだったのか――考えをめぐらせ、ルシアスはここが王国の居城で、明後日にイーズィー先生とフランシア姫の婚約発表を兼ねた祝賀会を控えている事を思い出した。
「……なんて夢だ」
鉛のような嘆息を漏らして、もう一度ベッドに倒れこむ。
魔王討伐を成し遂げ、そして王国に帰還を果たした。
体の芯に染み付いた疲れを取るため、先生を初めとする僕ら全員は、それこそ三日三晩寝台で眠り呆けてばかり。僕は乾いた喉を潤そうと水さしに手を伸ばし……こん、こん、とノックの音に気づいた。
『ルシアス様、お目覚めですか?』
「あ、はい」
扉の外から呼びかけてくる声に僕は反射的に答える。
さっきのうなされた叫び声に侍女の方が気づいたのだろう。
『申し訳ありません、失礼してよろしいでしょうか』
「ええ。どうぞ」
そう許可を出すと、声に反応して扉の錠が開いた。
中に入ってくるその人に、僕は思わずぎょっとする。
フランシア様。この国の王女である彼女は中へと入ってくると、静かに一礼した。
僕は……この時即座に彼女を部屋から穏やかに退出させるべきだったろう。
彼女は高貴な身分の女性で、未婚の人が他の男……の部屋に出入りする事は許されない。実際、僕は×なので実害はないのだけども。
だけども寝起きでぼうっとした頭は上手く働かない。
僕はフランシア様から視線を背けた。
イーズィー先生の婚約者。嫉妬で胸が燃えるように妬けてきて、僕は彼女をしっかりと見つめる事ができない。
「……実は、イーズィー様の事で、ご相談をと思いまして」
「相談ですか?」
何の目的かわからず鸚鵡返しする僕に、フランシア様は――最初はゆっくりと、そして少しずつ苛立ちと不満を僕にぶちまけ始めた。
曰く、あの人は借金がある。王女の降嫁には相応しくない。
曰く、悪漢無頼とも付き合いがある。
曰く、曰く、曰く……。
僕は――それを……黙って聞き続けていた。
胸の中が熱く燃える。けどそれは妬けるからじゃない、怒りで心が焼けている。
僕は……先生と一緒にいる事ができない。
先生の弟子だから、神剣の勇者である僕は、一人前の弟子として、先生から独り立ちしなければいけない。
なのに……先生と一緒にいるという、僕が欲しくて欲しくてたまらなくて、夢にまで見る権利を持ったフランシア姫は、その権利をまるでゴミ屑のように罵倒し続けていた。
フランシア姫に対する諦めに似た嫉妬は、怒りを伴う嫉妬へと捻り曲がっていく。
僕が泣く泣く諦めた大切な人は、彼女にまるで大切にされていない。
「……お話は分かりました。なるほど、それは我が師とは言え、許されざることですね」
「ああ、分かってくださいましたか、ルシアス様!!」
潤んだ瞳で僕を見つめるフランシア様は、すがりつくような目で見つめて手を絡める。
毒婦め、僕は手を払いのけたい気持ちをぐっと堪えて彼女の手を握り返す。
僕は――もう×という事を一生涯表に出すことができない。
先生に伝える事さえできない。
どうせ、一番欲しいものは、もう絶対に手に入ることはないのだ。
それならば。
「では……明日の婚約発表を兼ねた祝宴の席で、わたくしがイーズィーの非を告げます。それに神剣の勇者であるルシアス様のお言葉が重なれば、きっと王も信じてくださるでしょう」
そんな訳はないと僕には分かっていた。
如何に王が娘に甘いとしても、かつての神剣の勇者だった人との婚姻の重みは相当なものだ。
もし――他国の貴族も交えた婚約発表の席で、先生の顔に泥を塗るような真似をすればどうなるか。
フランシア姫は、自分が破滅しかねない大変な事をしようとしている。
けど、それは僕にとっては好都合だった。
×である事を明かせない僕は、絶対に先生の傍にいる事はできない。
そして僕のフランシア姫に対する好悪の感情は、最悪と言って良いほどに振り切れていた。
先生が僕たちを助けるためにどれほどの苦難を続けていたか。あの人がどれほど僕らのために心を砕いて生きていたか、それを知らない温室育ちのお姫様が好き勝手罵倒する事に、僕の腸は煮えくり返っていたのだ。
もちろん、そんな姫の愚考を押し止めもせず、積極的に加担すれば僕への処罰だって免れないだろう。
だけど、もうそれで構わない。
フランシア様の思惑通りに行動すれば、もうどうやったって先生の結婚式はお流れになる。
僕は牢屋に入れられるだろう。人生の展望に大きな傷がつくだろうけど――それだって構わない。
僕の先生が、他の誰かと幸せになる姿を見るぐらいなら。
先生が相応しくない女と共になるぐらいなら。
「神剣の賢者イーズィー! あなたとの婚約は解消させていただきます!」
「そう、お前に相応しいのは彼女ではない!!」
何もかも巻き込んで、諸共に破滅してしまえばいいのだ。