1.神託
太古の昔、神代の黎明、男神曦と女神朔のニ柱の神在り。
二柱の神、契り結び、因って土、水、火、金、木の五行を司る精霊を生み給ふ。
五精霊は神命に由り天降り、森羅万象を創り給ふ
。地に在りては、五精霊 神獣の化身にて現れたり。五精霊、五聖子を生し、聖なる力を宿す神宝を授け給いて、天に還り給ふ。
五聖子は神宝を祀り、五国を興し給ふ。
此れ寄り神代終わり、五国の王朝の始まりなり。五国並び栄えて万有保たれり。
此れ即ち天地の理為り―。
「五国創世神話 序文」
天に神国あり、地に五国あり。
五国の中央に土の精霊の国 壤やん
南に火の精霊の国 瑩よう
北に水の精霊の国 瀏るう
東に木の精霊の国 琳りん
西に金の精霊の国 鏘そう
神と精霊は天より、五国を見守り給う。
死すれば魂は天に昇り、天涯の河を流れて
神国に達する。神国は楽園なり。
神々の庇護のもと永遠の幸福を約束される。
砂漠に煌く蒼龍の国、琳王国。
砂漠に四方を囲まれた琳国は、その僅かな国土の殆どが不毛な砂漠だが、王都瑞興は清らかな水が豊富に湧き出で、緑豊かで花々咲き乱れる、砂漠の宝石と謳われる美しい都である。
王都の中心、白い岩肌の切り立った丘のうえに聳える王宮は、その美麗な佇まいを瑞興のどこからでも望むことができた。
瑞興は約五百年前に琳王朝の王都に定められた。遷都以前は辺境の小さな集落だった、と琳国史書に記されている。
静謐に包まれた木の精霊を祀る神殿の奥、祭壇の前には一人の少女が端座し、静かに祈りを捧げていた。
最奥の祭壇上には『蒼龍の眼』と異名を持つ琳国の神宝がご神体として祀られていた。
少女の名は瓏白遙といい神姫を務める王女である。
神姫とは天啓により王族の娘からたったひとり選ばれる最高位の巫女の尊称である。
神姫が神殿に奉仕し、神と精霊を祭祀する慣わしは、神代に遡るほど大昔、建国とほぼ同時に始まり、今日まで連綿と続いている。神姫は神と精霊の御力を、その身に降ろす憑代となる神聖な存在として、国王の次に臣民から尊崇される立場にあった。
主な務めは、国家安寧と五穀豊穣を祈願すること、神降ろして神託を受けることであった。
今、白遙は神託を受けるため、祭壇の中央にある『蒼龍の眼』の正面に坐っていた。
心身を落ち着かせているため瞑想し、深く呼吸しながら、己の内側に意識を注ぐと、やがて体の核に熱が生じてくる。更に集中すると、血潮が沸き立つような感覚が起り、閉じていた眸をゆっくりと開くと、神宝の球面が、白遙の霊力の高まりに呼応して神秘的な蒼い輝きを放っていた。
眩しさに眼を細めながらも、神玉を両手で包み込んだ。普段はひんやりと冷たい神玉は、この時ばかりは、掌に熱さを感じる。白遙は神玉と一体になるために、全身全霊を込めて祈った。
白遙は額から流れ落ちる汗を拭いもせず、ひたすら蒼い光を放つ聖なる玉に目を凝らした。
ややあって聖なる玉の中央が水面のように揺らぎだすと、それを掲げて額に触れた。その刹那、神玉から閃光が放たれ、体を包み込んだ。白遙の意識は強い引力に引かれてゆく。
眠りに落ちるようにゆっくりと意識を手放した。白遙は肉体を現に残し、魂だけが浮遊するような感覚で、『蒼龍の眼』が見せる神託の世界へ引き込まれてゆく。
魂の浮遊が止まったことを知覚した白遙は、ゆっくりと瞼を上げ、目の前に繰り広げられる光景に息を飲み、思わず悲鳴を上げた。
禍々しい赤に染まった世界に立っていた。
赤々と燃え上がった紅蓮の炎が、白遙の周辺を円形に囲み、火の粉が雨のように降ってくる。
炎は勢いを増しながら、じりじりと近づいていた。白遙は炎から逃げるように一歩、また一歩と後退りした。
神託は夢を見ることと似ている。だから目の前の炎に焼かれて死ぬことはないと、意識で分かっていても、恐怖に打ち勝つことは難しい。
炎が身近に迫り、前にも後にも逃げ場所がなくなり、衣を焦がし始めた時、突然、白遙の頬に滴が落ちてきた。
白遙は上を仰ぎ見て、二度目の悲鳴を上げた。
真っ黒な空から降ってくるのは、赤い血の雨だった。炎の勢いは弱まったものの、たちまち全身を染めた真っ赤な雨に、全身の震えが止まらず、もうこれ以上耐えられないと思った瞬間、すうっと意識が消えた。
白遙は呻き声を上げ、恐る恐る瞼を開けた。
そこは先ほどと同じ神殿の祭壇前だった。
飛び起きて全身を見て確めたが、一滴の血の染みさえ見当たらなかった。
ようやく安堵の溜息をついたが、全身の震えはまだ収まらない。額に珠のように浮かぶ汗がこめかみを伝い、首筋に流れ落ちた。
神託を受ける巫術は、霊力を最大限まで費やすため、疲労困憊が激しい。
しかも今回は肉体的な疲れよりも、精神的な打撃のほうが大きかった。
(炎と血)
神託が見せた光景は、緋色に燃える火焔と、朱色に染まる血の雨だった。
炎は消滅を意味し大凶、血は生命を象徴し、死と生の相反する性質を合わせ持っているがゆえに、吉凶の判断が難しく、神託が示したことをすべては理解できなかった。
神託は、鮮明な夢のように見える時もあれば、抽象的な場合もある。
今回のように曖昧に示された神託の真意を読み取ることも、神姫の役割であるが、国家の大事に関する神託であれば、弥が上にも慎重になってしまう。しかし、どう読み取って良い結果ではない。
白遙は、父である琳王にどう結果を告げればよいのか分からず、重い溜息をついた。
時を同じくして、王宮内の朝議の間、玉座にある琳国の王、瓏彰全は、こめかみを指で押さえるようにして、重い溜息をついていた。
国王の目前には重臣たちが議席に座り、悄然とした様子で項垂れている。
ことの発端は、南方の大国、瑩国から戻ってきた使者が齎した報告だった。
「瑩が攻めてくるというのか?」
唸るような低い声で使者の報に応じたのは琳国の筆頭宰相、紀惺翔だ。
「・・・はい。瑩国の王太后の実兄、兵部尚書に謁見し、親書を渡しましたが、受け取りを拒否され、我が国の神宝『蒼龍の眼』を渡さぬのであれば、武力行使すると強弁を申されました。すでに禁軍の将軍 燕功叡率いる軍が瑞興に向かって進軍中です!」
居並んだ重臣たちが一斉に驚愕のどよめきを上げた。
南方を治める瑩国は軍事力に優れる強国だった。
対して琳国は軍隊も持たず平和を愛する弱小国である。結果は戦う前から歴然だった。
今では瑞興周辺の僅かな国土を統治する国家に成り果てた琳国も、以前は東方全体を治める大国であった。
約五百年前に瑩国と北の瀏国の間に大戦が起こった時、両国に挟まれるように国境を接していた琳国は、不運にも戦乱に巻き込まれて、国土の大半を両国に奪われ、滅亡の危機に陥った悲惨な歴史を辿ってきた。
元来が平和を愛する国民である琳は、戦に不得手であり、攻防虚しく、戦場と化した旧都を追われ、生き残った王族と民が命からがら落ち延びた地が、現在の瑞興だった。
先人の辛苦の末、琳王朝は辛うじて存続して今日に至る。皮肉にも、嘗ては五国一の肥沃な地として謳われ、常春の穏やかな気候であった琳の国土は、瑩と劉に奪わて後、旱魃が続き、雨が全く降らずに乾燥が急速に進み、五百年経った今では、不毛な砂漠と成り果ててしまった。
瑞興への遷都以降、琳国はゆっくりと復興を遂げて、今では交易の要所として街は活気に溢れ、庶民の生活は豊かで、文化水準も他国に引けを取らなかった。
灌漑農業が発達し、穀物、農作物も潤沢に実るようになった。神々が創生した五国のうち、土の精霊を守護とする琳国はこのような歴史を辿り、ようやく安定した国情を保っていたにもかかわらず、唐突に瑩軍が攻めてくるという。平和を愛し、戦う術を持たない琳は、瑩の大軍に攻められればひとたまりもない。
衝撃的な神託の内容に茫然自失していた白遙は、ようやく気を取り直して周囲を見渡した。
薄暗い神殿の中に、赤い夕日が入り口から差し込んでいた。
宵の風がすでに涼しい。
神殿を出て、神苑へ続く道を歩き始める。
神苑は白遙が最も好む場所であり、心落ちつく場所だった。
神苑には、常春だった頃には国中どこにでも生息していた、絶滅を逃れた琳の固有種の植物が栽培され、色とりどりの花が咲き乱れている。
砂漠化が徐々に進行する中、先祖たちが集めて残した琳の固有の植物は、種を絶やさないように厳重に管理され今は神苑でひっそりと生息していた。
砂漠化は神々が定めた国土を、他国が強奪したため神罰を下されたのだと、琳の民は固く信じている。
王都瑞興は、地下水が豊富に溢れ、王都中に張り巡らされた上水道を流れて、民の生活を満遍なく潤していた。
砂漠の中で青々と繁る緑豊かな環境を保てるのは、木の精霊の加護と信じられ、人々は一日の始まりと終わりに必ず感謝の祈りを奉げた。
神苑には樹齢を重ねた木々が鬱蒼と生え、木々の日陰が、砂漠から流れる灼熱の空気を和らげていた。
神苑の中央には清らかな水を満面と湛えた大きな池があり、泉から湧いた水が、さらさらと心地よい水音を立てながら曲水を流れて、池に絶えず水を注いでいる。
波立った心を落ち着かせるため神苑をしばらく漫ろ歩いた後、四阿に入り、腰を落ち着けた。切り立った断崖に近い場所にあるそこからは、城下が一望でき、遥か遠くには地平線も望めた。
赤い光を放ちながら沈んでゆく日輪は、神託で見た緋色の炎を思い出させた。
ぶるりと白遙の背筋が震えたのは、崖から吹きつける宵の冷たい風での所為だけではない。
地平線に沈んでゆこうとす太陽の残光が禍々しい血の色に映った。
「白遙」
優しさを帯びた声で呼ばれて、振り返えると父王が紀宰相を従えていつの間にか後ろに立っていた。
「お父様!」
父の姿を見て、僅かに緊張が解けたのも束の間、父の顔を見た途端、僅かな安堵感さえ消え失せた。
いつもは泰然としている紀宰相もまた常に似合わず沈鬱な表情をしていた。
「…瑩から戻った使者はなんと?」
声が震えぬよう気を使ったが声が震えた。
「瑩の軍が攻めて来る」
白遙は双眸を見開き口元を両手で押さえた。
「御神託はどうであった?」
瑩国との関係がどうなるのかを神託で占ってほしい、と父王から依頼されていた。
しかし、結果を告げることに戸惑いがあった。
神託に現れたのは凶兆である炎と、生死を象徴する血。
炎に巻かれそうになった瞬間、血の雨を全身に浴びて救われた。
けして禍々しいだけの結果ではないが…。
神託をひとりで解釈するのは難しいと判断し、白遙は仕方がなく、ありのままの結果を父王と宰相に告げた。
父王も、紀宰相も結果を知ると瞑目して、それ以上は何も訊かれなかった。
「この世に起こる全ての事象は、神と精霊の采配であり、人には運命を変えられない。本来ならば神宝を守り、森羅万象の均衡を保つために、五国の王家は存在しなくてはならない。
しかし瑩国の王家はその真理を忘れてしまったようだ。全ては御神意なのだから我々は粛々として受け入れるしかないのだ」
「神と精霊は瑩国の理不尽な行いをご覧になっているのですね?」
父王は少しだけ困ったように頷いた。
日夜、神姫として神と精霊に奉仕する立場であれば、神意が確かに存在することに疑いはない。
しかし今日の琳王朝の零落や、再び瑩が攻めてくることを鑑みると、どうしても理不尽に思えてしかたがなかった。父王は白遙の隣の椅子に座った。白遙は瞑目する。
―炎と血―
琳王家に伝わる神託を読みとるための古文書には、炎が現れる神託は消滅の前兆と記されている。
そして、血は死の凶兆とも、死して再び生まれる、つまり甦生の吉兆とも云われる。
白遙の微かに震える体を、父王は引き寄せて抱きしめた。
「平和的に解決できるよう、瑩国朝廷に交渉するつもりだ。今は、ただできる限りのことをしよう」
いつもと変わらない、慈愛に満ちたやかな声音が、心に染みて、不安の淵から引き上げてくれる。
ふいに涙腺が緩み、涙が零れ落ちそうになる目頭を袖口で押さえた。
(泣いてはダメ。お父様を助けなくては)
「夜風が冷たくなってきた。宮殿へ戻ろう」
いつの間にか、夕日は完全に姿を消し、西の空にわずかに紫色に棚引く雲だけが残っていた。
女官たちが回廊に吊るされた灯籠にひとつひとつに火を点けて始めていた。
昼間の熱風が嘘のように、砂漠から吹いてくる夜の風は冷たい。
親子は寄り添って、城下を見渡すと、そこかしこから家の明かりが散らばり、煮炊きの煙が幾筋も昇り始めていた。白遙は、いずれは父の後を継ぎ、この国の女王となり、民の生活を守って行かなければならない。
父に肩を抱かれながら、街に灯されるひとつひとつの灯りを眺めていた。