何も意味は無い
季節など風化してしまった時代だ――全てが人工的に作り出せるのだ、わざわざ季節の移り変わりなどという面倒なシステムを作り出そうなんて考える輩はこの世には居ない――カレンダーから本日の日付を言ったところで、何も意味は無いだろう。
「今日は七月七日です」
ところが、今日においての彼は、そんな思考などは全く働いていないようで、どこかいつもより楽しそうに業務的微笑みを浮かべて、私へ語りかけてくる。
「ラッキーセブンが二つです。とても良い日です」
「7は三つ揃わなくては意味を成さないと思うがね」私はいつか行ったカジノを思い出しながら言う。「二つじゃあアンラッキーのままだ」
スロットマシンだろうとブラックジャックだろうと、それはまったく同じ、低レベルの意味合いでしかない。レッドドッグでもテキサス・ホールデムでも九分通り同義だろう。たった二つばかりを揃えても、それは偶然、ないし不遇の範疇を越えはしない。三つ以上を揃えてこそ、ラッキーセブンに相応しいというものだ。
「一年の内で一番のハッピーデーではないのです?」
「それはだね、年齢に依って変わるのだよ。成人まではバースデー、それ以降はサンデー」
「日曜日は毎週やってきますよ?」
私は少し呆れたように両手を広げ、「ジョークだよ」と教えた。
すると、彼は「ああ。また嘘……」などと落ち込むようにする。
どうやら『シャンク』は、ジョークを苦手分野として捉えてしまったようで、私が「ジョークだよ」と言う度に、似たような態度を取っては「分かりません……」と、小さな嘆きを行うのだった。
彼の微かな哀しみが忘却を迎えたころ、ドクター・リリィが夕食を運んでくるという椿事が発生した。
「あの看護婦はどうしたのかね? 辞めた?」私は嬉々として踊り回りたい感情を抑えつつ、なるだけ冷静を装って訊ねた。
しかしリリィの言葉は敢え無くも「いえ」という否定語から開始されてしまう。「今日はもう診察がありませんから、報告の序で来ただけです」
「ふむ……」僅かに気色ばむ私だったが――相手取っているのは他でもないリリィだ、すぐさま態度を柔和なものへと変えた。「……その、報告というのは何だね?」
「『シャンク』の処遇についてです」
その言葉に、私の首は自然と横へ向く。――ドクター・リリィへ目線を向けながら、彼は業務的微笑みを絶やさず顔へ貼り付けている。――彼にだって『自覚』というものははっきりと存在している。それはこれまでの二週間で判っている事だ。ならば、リリィの言葉に、彼だって反応を示すだろうと、そう思っていたのだが……どうやら彼は、自らに危険ないし環境の変化が起きようとも、何ら問題は無いようだ。
私は肩を竦めた。
「……まあ、まずは食事を摂ろうか」
「そうですね」リリィは慣れない手付きで二人分の食事を配膳していく。「今日はパスタのようですね」
「金曜日は決まってパスタだよ」
「そうですか」
相変わらず無愛想なリリィは、こちらへは一度たりとも目線を遣らず、ついには配膳を済ませてしまった。
トレイの上で喧嘩を起こしかねないまでに不器用然と置かれた食器を見つめながら、私は肩を竦める。「患者と同じものは食べないのだね」
悪口や不満を言ったつもりではなかったのだが、リリィは朴訥とも言うべき無表情を崩して、むすっとした顔色になり、ようやくこちらを見て――睨みつけてくる。
「……たまらないな」
パスタを咀嚼しつつ呟いた。
食事を半分ほど済ませたところで、《亜光子椅子》に座っているドクター・リリィへ話を振りに掛かる。「エネルギーはある程度補給したよ」
「いいですよ。全て食べ終わってからで」
「そうかい」
返答には明らかな敵意が混じっていたが、それは私の情欲を掻きたてる以外の何物でもない――本人の前では言えない内容だという事を、リリィは暗示している。それも相まって、私は以降の食事を無言で過ごした。
無言というものは時として苦しいものだ。是非も無し。私はリリィと性交を行う様を考えながら夕食を食べ進めていく。――妄想力逞しい私は、だから食事があまり速いほうではない――隣のベッドでは既に食べ終わっている『シャンク』が、空になった食器類、トレイをリリィに返却していた。
「美味しいですね。素敵です」
「そうですか」
彼の愛想に溢れた言葉を、けれどもリリィは酷く冷めたように、抑揚のない言葉で返すのみだった。
「――彼は気にしないと思うがね。自分にはあまり関心が無さそうだよ」
この阿漕な病院に於いて唯一の、四方が桃色の壁で覆われた部屋――ドクター・リリィの診察室にて、だから私とリリィとは向かい合う形で座っている――リリィの目線は、しかしこちらへは向いていない。カルテと思しき紙ばかりを眺め、この慈愛に満ちた我が瞳を一向に覗こうとはしてくれないのだ。私はお手上げだと言わんばかりに、口角を少し下げた。
「私もそう思います。ですけど、そうですね、念の為です」
「念の為ね……」
私はリリィの言葉を繰り返すように呟いた。
病室から診察室へ――部屋の移動の意味するところは、誰でも察しが付くだろう、会話内容が他へ漏れない為だ。機密事項と言う程のものでもないだろうが……何より、本人の前で重要な話をするわけにはいかないだろう。何せ、彼の次なる行動は、誰にも読む事などは出来ないのだから。
彼――『シャンク』の間抜けな笑顔を思い浮かべていると、一つの小さな疑問が湧いて出た。それを躊躇なくリリィへとぶつけてみる。「彼には暴走というものがあるのかね?」
「さあ。どうでしょうね。実験をすればわかると思いますけど……」
はは、と乾いた声が、私の喉から漏れ出た。「彼を鼠か何かだと思っているようだね……うん?」
「そうかもしれませんね」美しい豊齢線を携えて、リリィは言う。「でも、貴方も同じように思っているのではないですか?」
毒気の混じった言葉だったが、私は怯まず答えてみせる。「鼠だとは思っていないよ。せいぜい犬と言ったところだね」
「犬ですか……」ようやくこちらへ視線を遣って、さらには微笑むようにリリィは言う。「躾けのし甲斐がありますね」
「……君は立派な医者だな」
肩を竦め、あまつさえ溜息を吐いた事など、もはや自意識の内では確認できないまでに、私は呆れ返っていた。
だが、それと同じくして、私はリリィの魅力が深まっていくのを感じ取っている。
彼女ほど我が物にしたいと思った女性は、この長くもない人生に於いては初めてだろう。
「では」と、ドクター・リリィは話を本題へと移していく。「『シャンク』の処遇についてですけど……」
どことなく言いよどむリリィに対し、私は当然ながら違和感を覚える。「ん? どうしたのかね?」
「いえ……貴方でも、恐らくショックを受けると思いまして……」
私の声は上ずった。「なに? まさか、私を心配してくれているのかね?」
「もし逆上して、掴み掛られたら嫌ですからね……」
今にも逆上してしまいそうな思いだった。
「私がそこまで単細胞に見えるかね?」
「いいえ。見えません」リリィは何だか侮蔑気味に言う。「単細胞生物は、貴方ほど劣悪ではありません」
私の地位は見る見るうちに下がっていく。これは一体誰の所為なのだろうか? 決まっている。今頃は我が病室で鼾を掻いては愉快な夢を見ているのだろう、あの稚拙な生命体以外に諸悪の根源があるわけもない。
微かに表れた貧乏揺すりを、しかし理性で押さえ込み、最低限の体裁を保とうとする。
だがリリィはそんなことに構いはしない。「知っていますか? 単細胞生物が、どれだけ人類にとって有用で……」
「それより!」堪らず私は声を上げた。「彼の話をするのではなかったのかね?」
すると、リリィは「ああ」などと、冷淡に答えた。「そうでしたね」
この時に於いて、私は彼女の気が自分に向く事などは生涯を掛けたところでも有り得ないのだと、幾らかの察しを付けた。けれども恋心はその程度では朽ちはしない。ただ、この気持ちが恋心である証拠など、どこにもないというのが気掛かりではあるが……。
二年ばかり前に立ち寄った大マゼラン雲のハロー、そこにある一つの星で見た、《あなたの気持ちは何色でしょう? 色によって真実を確認できる! 大好評発売中のハート・アンサーは、現在キャンペーン中にて一割引き!》という、宣伝文句が鬱陶しいまでに大きく記された看板を思い出しながら、——私は、ようやく話を始めようとしているリリィへ意識を遣って、内容に集中するようにした。
リリィは言う。
「『シャンク』の処分についてですが――殺処分となりました」
「なに?」脊髄反射で驚嘆が漏れ出る。「殺すのかね? 彼を?」
「はい。上役方は、そのように、と」
「…………」言葉に詰まる。「……たしかに、ショックだな……」
リリィも人間なのだろう——溜息を吐いてから、「勝手な取り決めだとは思います」と言う。
「人間が勝手な生き物だということは重々承知の上だ。問題は……」何も知らずに眠りこけているのだろう、彼を思い出しながら、私は言った。「——我が病室から死人が出る事だ。夢で襲い掛かられでもしたらたまったものじゃない」
至極真面目に言ったつもりだったが、――いや、案の定か――あきれた様子で、リリィはこちらをまじまじと見つめてくる。「……呆れますね、つくづく」
「君に呆れられては、……悲しい限りだよ、私は」
呆れられてしまう理由も、自らの落ち度も、私は自覚的に理解している――だが、あんな人間の出来損ないのような青年に、情を昂らせるというほうが、異常ではないのだろうか。辛うじて会話が出来る程度の生物に、もはや愛くるしさも可愛げも、ましてや情愛や慈愛の感情など、生まれるはずもない。私はただ、理路整然と、ありのままの理屈を並べ立てているつもりだ。
たとえそれが、非情と呼ばれる類の理屈であっても。
私は、自らに嘘を吐くような真似はしたくない。
人生は、虚飾でどうにかできるほど、甘いものではないと、浅学ながらも知覚しているのだ。日々を汚濁に塗れて過ごしていたところで、その信念に偽りや過ちなどはない。むしろ誇りを持って、私は数多の紳士淑女に向けてジョークを吐き続ける。
それでもリリィの冷ややかな瞳は、私の胸を抉り取るように向けられたままでいる。
「……では、処分内容に反対はしないということでよろしいですね」
「まあ……。――元から、私がどうこう出来る話でもないのだろう?」
「そうですね」相変わらず、リリィの言葉には感情というものが込められていない。「これも、念の為ですね」
「何に備えているのだかな……」
そうして。
私は大した反論もせず(なんせ、ようやく我が病室が静寂を取り戻そうというのだ、不満などありはしない)、『シャンク』と呼ばれる彼に対する処分、――殺処分を看過し、そして――彼が殺処分される日取りを聴いたのち、ドクター・リリィの診察室を後にした。
既に消灯時間を過ぎているので、廊下においての足元を照らす薄い明かり以外は、全くと言っていいほど光源が見当たらない。それでも視界が利くのは、点々と配置された窓から覗く満天の星空のおかげだと言えるだろう。
程なくして、私は我が病室に辿り着き、扉を開く。
彼は、想定外ながら、起きていた。
「元気ですか?」
「私が元気でない瞬間が、まさかあると思うのかね?」
わざとらしく指を額に当て――彼はそれでも真剣なのだろう、何たってジョークの言えない人格者なのだから――幾らか考える様を見せつけてから、彼はこう答えた。
「ありませんね!」
残虐的なまでに酷い返答である。
あるいはジョークを言ったのかもしれない。
目を細めて彼を非難しつつ、窓側のベッドに腰を下ろし、私は、溜息混じりに言う。
「……確かに、元気は無い。退屈で仕方ないよ」
「では、何かしますか? カード?」
「切り札なんてしても、お金持ちにはなれない。心は晴れないままだ」
「ではでは、ええと、どうしましょう?」
右手を口元ないし顎へ宛がいながら、彼はまたもや思考を回転させることに努めた。
それを慣れた様子で、つまり感慨なく私は見遣り、――たった一つの戯れを言うのだった。
「ここから逃げ出さないかね?」
ドクター・リリィの言葉に無反応だった彼の瞳は、――まぁるくなっては艶めかしく光を放っていた。