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まったく嫌になりました

「――ですよ? ほんとうに、私、あの人とは相性が悪いんです。まったく嫌になりました」

 水曜日――この厭味ったらしい看護婦に、最も長く休憩時間を与えてしまう、呪われた曜日だ。おかげで、斯くも悲しく我が病室内で愚痴が垂れ流されている。

「向こうもきっと同じ事を考えているのではないかね?」私は是非も無く相槌を打った。

「そうだといいんですけどね。早いところ辞めてほしいです」

 躊躇もなく悪口を放つ看護婦へ諦念を持ちつつ、私はそれとは気付かれないように意識を彼――『シャンク』へと向ける。

「…………」

 彼は、眠っていた。

 人間らしく。

 アンドロイドっぽくなく。

「リリィ先生もどうかと思いますよ。あんなに細かい人、もう面倒くさくて……」

「キミ、今すぐその汚い口を閉じないと――精神疾患だとされている私だ――どんな酷い目に遭うか、わからんぞ」

 きっ、と睨むように言ったものの、忌々しい看護婦は怯みもせず対応してくる。「そうですね。きっとレイプされますね」

 私は滾りを覚えていた感情を静かに鎮火させて、反って酷く嫌悪感を含んで答えた。「……それはない」

 少しでも想像を働かせてしまった自分が恨めしい。私は右手で口元を覆った。

 せめてお尻だけの存在になってくれたら……、と思いこそすれ、それではただの単なる異常性癖、精神病患者ではないのかと、はっ、と気付かされた。

 あるいは、こんな病院に長いこと滞在していたら、誰もが愚鈍な患者へと成り果ててしまうのかもしれない。

「私は構いませんけどね」看護婦は何でもないように言う。「あなたに襲われても」

「なに?」私は驚きの声をあげた。「それは本当かね?」

「ええ。本当ですとも」

 このいけ好かない看護婦は、どうしてこうも毎日のように我が病室を訪れては愚痴を零していくのか、その理由が、いまやっとわかった。

 つまり、彼女は私に好意を持っていたのだ。

「あなたなら、返り討ちに出来る自信がありますからね」

 違うようだった。

 肩を竦めつつ呟く。「女は恐ろしい……皆が皆、悪魔に見えてならない」

 きっとドクター・リリィも悪魔なのだ。いわゆるサキュバスなのだろう。我が恋情、ないし性欲がそそり立てられてしまうのは、リリィが悪魔だからに他ならない。

「男だって、揃ってケダモノじゃないですか」

「そうかね? 私は自分の事を、哀れでならない子羊のようだと思っているがね」

「やめて下さい。寝る前にあなたのことなんか思い出したくありません」

 寝る前に羊を数える人類が、まさか実存するなどとは思いもしなかった。

 彼女に対し感謝と畏怖を込めて、身体の前で十字架を作った。

「何ですか? 祈り?」

「知らないのかね? これはかつての最大宗教――キリスト教と言ったかな――に於いて、神へ捧げる祈りなのだとか……いや、私も深くは知らないがね」

 浅学だとはいえ、最低限の知識は蓄えているつもりだ――たとえキリスト教でなくとも、過去には全世界において、これは神聖なる行いとして、または自らを清める仕草としても認知されていたらしい。

 ただし、今ではオカルト的な意味合いが強く、例えば思春期の少年など、影響を受けやすい子供らが遊びや格好付けに使う程度のものでしかなくなってしまっている。まさか心の支えに宗教を選ぶ人など、存在する筈もない時代になっているのだから。

「神への祈りですか。古臭いですね」

「本を読むのが好きでね」

 他に好む娯楽が無いというのが本音ではあるのだが……。

 けれど、こんな意地汚い看護婦なんぞに、私の弱音を見せてはいけないだろう。もし見せてしまったら最後、この女は一両日中に私を自殺へと追いやるに違いないのだから。《真っ黒な青田刈り》や《愚痴る死神》などという名称が存在するのならば、それは正しく彼女を指す俗称だ。

 時折こちらへ微笑み掛ける悪魔ないし死神もとい看護婦から目を逸らしつつ、話だけはどうにか紡いでいく。「死神も含めて、神というものは偉大なる力を持っていたそうだよ」そして、私は呆れ半分に続けた。「まあ、精神的強迫性を持った妄想、盲信の類には違いないがね」

「本当ですね。神様なんて……」どこか嘲笑するように、看護婦は言う。「そんなものの存在を盲信する人なんて、精神疾患以外には信じられませんね」

「信仰者にとっては、心の支えだったそうだがね」

「心の支えですって? 妄想で支えられるような心なら、元から支えなくてもよろしいのではなくて?」

 適当に頷いてみせるが、得意気に話す看護婦の意見を飲み込みはしても決して同調などはする気になれない――こんな女と同じ意見を言ってみろ、一週間と持たず身の破滅だ――とはいえ。私も宗教や神様への信仰などは馬鹿馬鹿しく思っていたタチだ。本来ならば手を叩きつつ、「その通りだ」と、賛同の声の一つや二つは上げていただろう。

 だが、私はこれまでに『神』や『宗教』を取り扱った本というものを幾度となく目にし、読み込んできた。それらが意味する事は娯楽や勉学以外には有りはしなかったが――私にも心はあるのだ。脆弱なる心が脅かされること、それから逃げるように宗教へ縋ってしまう行為が、どれだけ必死で、また苦渋の決断であるのか。あるいは心の在り処とは? 生きる意味とは? ……『ハート・オート』と呼ばれる精神治癒装置が存在しない時代においては、必要悪とも言うべき、仕方のない話だったのだと思う。

 そう思えばこそ、私は彼女の言うように――現代となっては愚劣な行いも、当時としては慰めの上級行為だったのだから――冷酷にも否定の言葉を述べる事など、出来ようもない事だ。少なくとも、それは私に心があるからに違いない。

 狐のような、化かすような笑みを作って、看護婦は言う。「『シャンク』さんは、神様なんてモノを、理解できているんですかね。というか、教えてあげたりしました?」

「さあ。どうだったかな」

 この一週間、他愛無い話の連続だっただけに、その内容なんてものはほとんど覚えていない――彼のウォシュレットないしシャワートイレに対してのリアクションとか、好きな動物を訊かれて「僕はFoxy(妖艶)ではないです」と答えた事とか、ベッドから派手に転げ落ちた時には子供並みに泣きじゃくるだとか、そういうセンセーショナルな話しか記憶に無い――だから、こちらとしても暈した言い方しか取り様がないのだ。

「あまり変な事は教えないで下さいよ。リリィ先生から怒られるのは私かもしれないんですから」

 僅かな可能性の為だけに忠告を受けるとは……私も落ちぶれてしまったものだ。または彼女は落ちこぼれだ。

 私はボビンヘッドのように首を縦に振り、「重々承知ですとも」と、なるだけ波風立てないよう答えた。

「そうだといいですけどね」

 彼女はそう言って、悪態を付いたままで我が病室を出て行き、――午後四時半を迎えた今日という日の災厄は、これでようやくの終わりと相成った。

 半時ほど経って、長いこと昼寝を決めていた『シャンク』が、ゆうらりと目を覚ました。

「……グッドモーニングです」

「バッドアフタヌーンだったがね」

「知っています。だから眠っていました」

「…………、……意外とあくどいね、君は」

 愚痴から逃れるための確信的犯行に、私はまた肩を竦めるのだった。


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