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病室を抜け出して

 彼との面会を果たしたのは、私が病室を抜け出して、美しいドクターに会いに行こうとしていた、その道中での事である。

 全ての患者と同じく、青緑色の患者服――僅かな緑色で精神が安定し、そして助長された青色で鬱状態へと移行するという、この世で最も画期的で残虐な衣服だ――を着て、廊下の右端を歩いている彼は、人間のそれと変わらない作り笑顔をして、「やあ」などと、私に声を掛けてきた。

 私は怪訝っぽく彼を見遣る。「……若いね。病名は?」

「さあ?」彼は変にお道化るでもなく、ただ平然と、首を傾げた。

 まさか自分と同じように症状を聴かされないままに入院させられている人間が居るとは……いや、それはそれ、想定の範囲内だ。私だけを特別扱いするような卓見した病院でもあるまい。症状を伝えない事で、あるいは回復の進行度が大きく変わるのかもしれないのだから。

「ふむ……」

 とはいえ。記憶力というものが欠損してしまうという病気も存在しては蔓延っているのだから、一概に言えたものではないのだが……。新発見の病気、なんて可能性も無いわけではないのだ。あまり穿った見識をするものではない。

 いきなり殴りかかってくるような病を想定して、軽く身構えていたのだが、よく考えてみれば、そんな危険極まりない病状の男が付き添いもなく一人で廊下を歩いていることなど、この腐り切った病院でも流石に有り得ない話というものだ。――私は橙色の警戒を解き、彼に対しての態度を黄色、つまり注意レベルまで改めた。

「まあ、この病院は悪くないところだ。その内に退院できる」

「そうですか」

 俗悪な嘘を吐きつつ、私は廊下を真っ直ぐ進み、彼もまた、反対側へと真っ直ぐ進んで行った。

 この場に置いての邂逅は、しかし、私にとっては大した意味はなかった。また、彼にとっても、あまり意味を成した対面だったとは言えないだろう。あくまで“互いに互いの面識を持った”程度の出会いでしかなかった。

 その日は、だからすれ違いのみで、他に目立った事は起こらず(強いてあげるのならばドクター・リリィに邪険にされた事くらいだ)、――退屈凌ぎに読書をしていたところ、いつの間にか、日付が変わってしまっていた。

 歳を取るにつれ時間の感覚が鈍くなっていることに焦りを覚えつつも読書を止めることなく徒然を慰めて――デジタル時計が午前四時を映し出している頃、恐るべきことに、我が病室の戸が叩かれた。

 そろそろ眠りに就こうかと思っていた矢先のこと、私は俄かに緊張を走らせた。

「誰だ?」

「僕です」

 聞き覚えのない声だった。

「知らないね。わからない。名前は?」

「さあ?」男の声は、いつかどこか、お道化るでもなく、ただ平然と、首を傾げていた彼のような返答をした。

 まさか、同一の反応を示す二人と同日に出会うなどという奇跡的な出来事が、いや起こるわけもない。ならばと思い、私は扉の向こう側に存在しているのだろう声の主を、昼間の青年だと断定した。

「君か。何だね?」幾らか落ち着きを取り戻して言う。「こんな時間に、どんな用件だね?」

「さあ?」

 けれども、彼は、また、同じように、疑問符を疑問符で返した。

 こちらとしては困惑するほかない。「意味もなく来たのかね?」

「そうかもしれません」

「そういう病気なのかね?」

「そうかもしれません」

「……重病のようだね」

「そうですね」

 ここで私は一つの真実に行き当たる。

 患者に患者の相手は出来ようもない。

 知りたくもない真理だった。

 嘆息気味に言う。「もう夜更けだ。私は眠る。君も自らの病室へ戻りたまえ」

「そうですか?」

 革新的な断り方に肩を竦める。「……そうだよ」

「そうですか」

 彼はそう言うと、扉の向こうで遠ざかっていく足音を響かせ始めた。どうやら自分の病室へ帰っていくつもりのようだ。私の言う事に従ったらしい。あまり面倒な羽目にならず良かったと安心を覚えて、私も自らの宣言通り眠るため、栞の無い本を閉じて、手元を照らしていた懐中電灯から光を奪った。

 目をゆっくりと閉じていく。

 脳が緩やかにシャットダウンされていく感覚。

 頭の中から言語というものが消え去り、認識さえ曖昧になっていく。ついには意識までもが霧散していく――

 ――コンコン、と、ノック音が鳴った。

「…………」

 青年が去ってから五分も経っていない――血が頭に上るのを感じつつ、身体を起こして、「何だね、まったく」と、不機嫌さが十分伝わるように言い放った。

 すると、我が病室の戸が開かれ、廊下から人が入ってきた。眼球がまだ暗順応をしきっていない為に姿が見えないので、つい先程まで使っていたライトに明かりを灯らせ、部屋全体が薄らと明るくなるようにつまみを動かし反射板を調整した。

 てっきり先程の青年かと思っていた来訪者は――しかし嬉しいことに、私にとっての尋ね人、ドクター・リリィだった。

「夜分遅くに申し訳ないです」酷く抑揚なくリリィは言う。

「もう朝方だと思うがね」私は紳士然と優しげに、且つユーモラスに言う。「でも構わない。君が来てくれるのなら、何時だってね」

「そうですか」けれども美しいリリィは、先の青年と同じ言葉を返すだけだった。

 肩を竦めて、私は言う。「まあいい……それで、用件はなんだね? まさか夜這い?」

 あはは、と乾いた笑い声が響く。「最高のジョークですね」

「ジョークではないと、証明してくれないか?」

 今度は笑い声もない。「最低のジョークですね」

 胸の内に小さな涙が零れるのを、うっすらと感じ取る。「……まあいい。いいともさ。構わない……では、本当の用件を訊こうかね」

 ドクター・リリィは、焦らすこともなく淡々と言ってのける。

「『シャンク』と相部屋になってほしいのです」

「なに?」

 思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。――私は先日の、あの性悪な看護婦との会話を思い出す。たしか『シャンク』とは、現時点では宇宙唯一の特異なアンドロイドだったはず……それがどうして私と相部屋に?

 至って真面目に質問を投げる。「なぜ私の部屋なのだね?」

「彼と貴方なら、何か良い兆候が見られそうだと、そう思ったからです」

 なるほど実に明快な理由だな、と、私は捻くれた子供のように頷いてみせる。

「では、なぜ彼が……」リリィは冷静な態度を崩すことなく答えてくれる。「こんな夜中……夜更けに、貴方の部屋を訊ねたのだと思いますか?」

「さあ? 自分の病室と間違えでもしたのだろう?」言って、五秒だけ過ごしてから、はっ、と気付く。「いや、待て。なんだ? その言い方じゃ、さっきの彼が、そのアンドロイドみたいじゃないか」

「ええ。知りませんでしたか? 彼が『シャンク』です」

 隠す事も出来ずに絶句する。

 まさか新発見生物とまで言われる『シャンク』が、さも当然のように廊下を歩き、且つ私とすれ違うどころか挨拶まで交わしていたなど……信じられない。これが奇跡というものなのだろうか? あるいは必然か。

 この世の神秘性を、この美しいドクター・リリィと論うことが出来ないものかと、俄かに考えてはみたものの、自分の眠気とリリィの無愛想な態度から鑑みて、それは不可能そうだと結論に至ったところで、――またもや我が病室の戸が叩かれた。

「はい、どうぞ」などと、リリィは勝手に了承の合図を送る。

「どうも」

 そう言って入ってきたのは、件のアンドロイド、『シャンク』と呼ばれている、先程の青年だった。

「どうしたのですか? 眠れませんか?」リリィは業務的な口調で『シャンク』に話し掛ける。

「そうでもないです」

「そうですか」

「そうです、はい」

「そうですね」

 まったく益体の無い会話に、私の眠気が強くなっていく。

 呆れ気味の私を余所に、ドクター・リリィは話を進めていく。

「やはり、フォスターさんに興味があるのですね?」

「そうかもしれません」

「そうですね。では、この部屋にもう一つ、ベッドを用意します。これからは、ここで過ごして下さい」

「おい。ちょっと待ちたまえ」私は堪らず声をあげた。「本当に、正気で言っているのかい、リリィ?」

「呼び捨てにしないで下さい。セクハラで訴える事だって出来るのですよ」

 鼻息一つで一蹴してから、青年を指差す。「彼は、特異なアンドロイドという話じゃないか。それに、人類にとっては新発見の生命体かもしれないとも」指先を自分へと戻しながら、のべつ幕無しに言う。「彼は人類にとって貴重な進化への可能性であり立派な研究対象だ。そんな大事な生命体を、まさか私の部屋に住まわせるというのかね?」

「この病室に貴方の所有権があるわけではありません」

 リリィの戯言を無視して続ける。「彼の研究が既に終わったなどというわけでもないのだろう? 彼の危険性を、私は何一つとして知らない。いきなり殴りかかって来られたりしたら……病院側が、その責任を取れると言うのかね?」

「『シャンク』に危険性はありません」

「断言できると言うのだね?」

「はい」

「それは嘘偽りの無い言葉だね?」

「はい」

「神に誓って?」

「神などいません」

「なら……両親には誓えるかい?」

「…………、……今のところは、危険性はありません」

 はっ! と悪態を声として発する。「やっぱりじゃないか。まだ確定されたわけじゃない。だとすると、そうだね、彼は私を最高の獲物として捉えたのかもしれないね。ただ挨拶をしただけで興味を持たれるというのは、本来ならば考えられない理由付けだ。本当のところは、単に私を美味しそうだと思って、近付いて来ただけなのかもしれない。そうだとは思わないかね、精神科医どの?」

 侮蔑とも取れる言葉に、しかしリリィは冷静に、むしろ諦観したような目を向けて、これまた淡々と言う。「そうですね。そうかもしれません。ですけれど、そうではない可能性に、私達は賭けています」

「私達は賭けている?」リリィの言葉を反復する。「私達というのは、この病院の連中か? それとも医師協会?」

「政府です」リリィは甚だしく冷めたように言うだけだった。

 対して、燃え盛るように熱くなっている私は、何だか滑稽味の利いた政治家のようだ。

「政府か……政府ね」ははは、と乾いた笑い声が響く。「こんな腐ったような病院に、政府のパトロンが? 有り得ない。それこそ最高のジョークだよ。笑えて仕方ない……」

「嘘だとお思いですか?」

「ああ。それが嘘でなく何だと言うのだね?」

「では、なぜ――『シャンク』が、この病院に居ると思っているのですが?」

 ドクター・リリィの問いに、それまで爆発しそうな勢いで熱を帯びていた脳が、大いなる高波に攫われたかのように冷えていく。それは正しく、動揺であり、失態であり、そして――納得だった。

 マジックのトリックを教えられた子供のような、純粋な得心。その感情だけが、今の私を包み込むようにしてある。

 現人類にとっての飛躍的な進化の可能性を秘めている――いわゆる人間原理的な言い方をすれば――唯一の存在、『シャンク』。この世で最も優れたアンドロイドだと評される彼が、なぜ、こんな辺鄙な星に居て、あまつさえ、腐朽しては汚濁に塗れ、崩壊寸前の態を成しているクソッタレの病院で息をしているのか。それに対する明確な答えが――つまり、人類のトップが決めた機密的決定事項なのだ。理由の詳細も、細部の理解も、残念ながら私の内では成し遂げられていない事項だが――それでも、納得するには十分な言葉だった。たとえそれが法螺だったとしても、一時的な了承に、もはや妨げなどある筈もない。

 諦観ないし冷淡の態度を崩さないドクター・リリィから目を逸らし、瞼を閉じた。気持ちの整理をつけてから視界を取り戻し、――『シャンク』と呼ばれる青年を見据える。

「……何故、私に興味を持った?」

 これは純粋にして純朴な質問だ。

 彼に対して――未だ知り得ない生命に対しての、けれども畏怖の無い、純真無垢の問いかけ。

 彼は、同じように私を見つめ、感情の読めない作り笑顔から、解答を事もなげに発した。

「好きだからです」

「…………」

「……良かったですね」

 初めてドクター・リリィに対して憎しみを持った瞬間だった。


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