第28話
先ほどまでの激闘が嘘のように、あたりは静まりかえっていた。
響いているのは隆也とエルシィの呼吸音だけだ。
「はあ、はあ、はあ……。リュウヤ、無事か?」
「ああ、何とか……」
ふらつく足で近寄る隆也を、息を切らしながらエルシィが気遣った。決して無事とは言えないまでも、隆也は無理につくった笑顔を返す。
見ればエルシィもすでにボロボロだった。もともと春苺色だったレザーメイルは本来の色が分からない位に汚れ、傷つき、いたるところにほころびが見える。
立っているのもやっとだったのだろう。隆也の笑顔を見てようやく安堵の表情を見せると、その場に座り込む。隆也もすぐ側に腰を下ろして一息ついた。
何とか勝った。少なくともこれで王国の民を救うことが出来るのだろう。このグローブを返すべき相手、雑貨屋の店主もきっと救うことができたはずだ。
勝ったからといって得るものはさほど無い戦いだった。だが負けて失うモノの大きさを考えれば、やはり勝たねばならない戦いだったのだ。
隆也達はしばらく口を閉じたまま座り込んでいた。
どれくらいの時間が経過しただろうか。短いようで長いような休息の時間は、エルシィの一言で終わりを告げる。
「儀式を、しなければな……」
そう、まだ終わったわけではない。継石に込められた人々の命をつながなければ、ここまでやってきた意味も、化け物に勝利した意味もなくなってしまうのだから。
「リュウヤ、ルナを連れて、一緒に来てくれるか?」
「……ルナは?」
答えのわかりきった問いを隆也は投げかける。エルシィはただ首を横にふるだけであった。
「そう、か……」
隆也にもわかっていたのだ。ミーレイが手遅れだと断言した時に。加えてエルシィがこの瞬間にもルナのもとへ駆け出さないことが何よりの証拠だった。
重い体をゆっくりと動かして、隆也たちはあたりに散らばった継石を手分けして拾い集めだした。
くすんだ色の物、まだら模様の物、形のいびつな物、宝石として価値が低いであろうそれらは、いずれもルナが大事に護り続けていた継石だ。どれひとつとして粗雑に扱って良いものではない。そんなことは言われるまでもなく理解している。
長い時間をかけ、隅々まで目をこらして全ての継石を回収していった。ミーレイの助力により、隆也達だけでは見落としていたであろう継石も含めて全てを集めると、エルシィは全ての継石を自分が持っていた革袋へと入れた。
隆也は地に横たわったルナの体を優しく抱え上げる。すっかり血の固まった傷口は黒く変色しつつあった。
左腕はほとんど力が入らないが、魔力による強化でかろうじて人ひとりを抱えるくらいはできるだろう。
もちろん痛みは感じる。一歩進むごとに荷重のかかる左肩が悲鳴をあげた。それでも隆也はかまわずエルシィの後をついて歩き続ける。ルナが受けた痛みに比べれば、それは取るに足らないものだから。
エルシィに連れられてたどり着いた場所は、意外なほどこぢんまりとした空間だった。だが広さうんぬんは別にしても、その様子は祭壇と表現するのがふさわしい静謐さが感じられる。
綺麗に磨かれた壁や床、天井には魔力で灯りを照らす仕掛けが埋め込まれ、部屋の奥には段差によって高くなったスペースがあった。その上には岩をくりぬいて作られたらしい台座が設置され、さらに台座の上でふくさに座するがごとく、手のひら大の丸い石が強い存在感を放っている。
丸い石はときおり鈍く白い輝きを見せて、久しぶりの来訪者を歓迎しているようにも見えた。
「ここが?」
「そうだ。ここが壮途の地、その中心。我が国、我が民はここから生まれ、そしてここに還る」
「ルナも?」
「ああ、世界に溶け込み、そしていつか壮途の地に還ってくる」
「もう会えないわけじゃないんだよな?」
「そうだ。何年先か、何百年先かはわからない。だが必ず会える」
「例え姿形が変わっても?」
「姿形は関係ない」
「ルナがエルシィを覚えてなくても?」
「わかる。私はルナを見つけられるし、ルナも私を感じられる」
いつ会えるかはわからない、姿形は変わり、記憶も消える。それは果たして生まれ変わりと言えるのだろうか? 隆也の価値観ではどうにも納得しがたい異世界の摂理だった。
しかし今はそれを口にすることもできず、エルシィが儀式の準備をしている側でただ立ち尽くすのみだ。
《飾りっ気が全然ないね。王国のひとって意外に地味志向ー? それともお金がないだけ?》
ときおりミーレイが口を開いては軽口をたたくが、今の隆也はそれに対して反応する気分にならなかった。隆也はルナを台座から離れた場所へ下ろすと、黙ってエルシィを後ろから見守ることにした。
儀式自体はそれほど時間のかかるものではなかった。エルシィは台座の上へオレンジ色の継石を並べ終えると、その目前に跪き、目を閉じて何やら唱えはじめる。言っている内容はわからないが、隆也にはそれが神社で耳にする祝詞のようなものに感じられた。
隆也が見守る中、エルシィの祝詞が終わると、ふくさの上にある丸い石へ継石から色とりどりの光が吸い込まれていく。やがて全ての光が吸い込まれると、継石はその役目を終え、粉々に崩れていった。
「それで終わったのか?」
祝詞を終え、立ち上がったエルシィに隆也が声をかける。
その言葉には、あまりにあっけなく儀式が終わったことの拍子抜けした感情も込められていた。一国の命運をかけたにしては、意外なほど短く、淡泊で簡素な儀式だったからである。
「ああ。これで皆、還ることが出来る。汚らわしい帝国の侵略者どもに取り込まれた者達も、壮途の地へ捧げた魔力に引き寄せられて解放されることだろう」
一方のエルシィは見事使命を果たした達成感に、穏やかな表情を見せていた。失ったものを思えば喜んでばかりはいられないが、それでも多くのものを護れたことは確かなのだ。
しばらく瞑目して感慨にふけていたエルシィが、ゆっくりとまぶたを上げる。すると彼女は隆也の正面に立ち、何かを決意したようにその瞳をまっすぐ向けて口を開いた。
「最後にひとつ頼みがあるんだ、リュウヤ」
隆也はその言葉を訝しむ。『最後』とはどういうことか、と。だがそんな隆也の思いもお構いなしにエルシィは話し続ける。
「ここは帝国の者に知られてしまった」
確かにエルシィの言うことは隆也にもわかる。取り逃した帝国人レノアは、王国にとって聖地とも言うべきこの場所を知っているのだ。それは王国とその民にとって、命と未来を握られかねない大問題である。
「だが、壮途の地は他へ移すことが出来る。壮途の地というのは別に場所を指し示しているわけではないのだ」
「場所ではない?」
どういうことだ、と隆也は説明を求める。
「ああ、この宝珠――」
エルシィは台座の上に置かれた丸い石を手に取った。
「この宝珠こそが壮途の地。これがある場所がすなわち壮途の地なのだ」
エルシィ曰く、大事なのは場所ではなく宝珠の存在だという。
「リュウヤ。ここまで旅をしている間、私はずっとリュウヤを見ていた」
それはまるで告白のような口ぶりだった。
「正直に言えば、最初は疑いの念もあった。この男は我々を騙したりしないだろうか? 帝国とのつながりがあったりしないだろうか? 信用するに足りる人間だろうか? そう考えたことがないと言えば、それは嘘になる」
それを隆也は責めるつもりがない。むしろそれで当然だろうと思う。ただの荷物運びですら信用を得るのは大変なのに、事は一国の未来を左右する旅なのだから。
「だがリュウヤと旅をして言葉を交わし、共に過ごせばすぐに分かった。リュウヤが心の温かい、信頼の出来る男だということがな。無理な依頼をしたにもかかわらず、最大限の助力をしてくれた。そのひたむきな姿勢と誠実さは不安と共に王都を出発したルナに、そして私にも少なからぬ安らぎを与えてくれた。決して長いとは言えない旅路だったが、それでも私はリュウヤが居てくれて良かったと、本当に思う。きっと……ルナもそうだったに違いない」
言葉の最後にエルシィがルナの体へ視線を送る。つられて振り返った隆也へ、再びエルシィが話しかける。
「だからリュウヤ。これをあなたに託したい。我が王国と、そして我が民の未来が寄る辺とするこの宝珠を」
そう言ってエルシィはふくさで宝珠を包むと、隆也へ向けて差し出した。帝国に知られていない安全な場所へ宝珠を運んで欲しい、最後にそう付け加えて。
「すまない……。約束の依頼には本来含まれていないことだからな。こんな事を頼むのは心苦しいのだが……、他に頼れる人間はひとりもいない……」
ひとりも、という言葉を口にするエルシィの声は震えていた。
「報酬は……。そうだな、私が使っていた剣を譲ろう。王都でも指折りの鍛冶師が鍛えた業物だ。どこぞ大きな街の商会へ持ち込めばそれなりの金額にはなるだろう」
隆也はその言い方に違和感を覚える。まるでこの先旅はしないとでも言いたげな表現だった。だからつい、隆也は疑問を口にしてしまう。
「エルシィは……、どうするんだ?」
「…………私は、……もう良いんだ」
そう言ってエルシィが寂しく笑う。
「もう良いって、何がだよ?」
「父上も、母上も、もう居ない……。ルナも……。おそらく王国の民も全て……。リュウヤのおかげでみんな再び還って来ることはできる。……でもそれはずっと、ずっと先の話だ。国は……、滅んだ。民も眠りについた。残ったのは帝国に飲み込まれた街や村だけだ。そこに私の居場所はない」
それは隆也が初めて聞くエルシィの泣き言だった。
「ここに来るまで、本当は辛かった。本心では最後の瞬間まで父上や母上の側に居たかった。民と共に居たかった。だが私には王族としての責務がある。父上と母上が王都に残って王族としての責任を果たすのなら、私の使命は壮途の地へと継石を運び、民の未来をつなぐことだ。だからそう自分に言い聞かせてきた。それでも先のことを考えると不安になった。だから考えないようにした。でもどうしても頭から離れなくて、夜眠れない日もあった。王女でなくなった自分に何の価値があるのか問う自分がそこに居た。重圧に押しつぶされそうになって、逃げ出したくなる自分が居た。それでも、ひとりではなかったから立っていられた。例え王族でなくなっても、例え国がなくなっても、ルナやアルフと一緒に旅を続けて、帝国の手が届かない場所でただの人間として暮らす。そんな未来も想像することが出来た」
話すうちに感極まったのだろうか、エルシィの目に光る粒が浮かびはじめる。王族として誇り高くあろうと、何者にも動じぬ毅然とした態度を崩すまいと、アルフ以上に実直なエルシィは自分の感情をひた隠しにしてきたのだろう。そうやって押し込めていた感情が一気にあふれかえった。
「……でも! 私はひとりだ! 父上も居ない! 母上も居ない! ルナも居ない! アルフも……! 私は……ひとりになってしまった。ただひとり……、ひとりきりで生きていくくらいなら……。みんなと一緒に世界へ溶けてしまった方が……。もう……、楽になりたい……」
今、彼女の世界は脆くも崩れ去った。支えを失い、希望を失い、故郷を失い、家族を失い、王国なき今となっては、王女としての誇りでさえ益もないただの飾りだ。
心折れた彼女が選んだのは、ひとり生きていく道ではなく、全てを忘れて消える道だった。悲しみと無力感を抱いて孤独と共に生きるくらいなら、ルナたちと一緒に世界へ溶けてしまいたい、と。
隆也にはエルシィの悲しさは理解できる。辛い気持ちだってそうだ。
だがそれはしょせん頭で理解しているだけのこと。地球に帰れば隆也には帰る家があり、家族がいて、学校へ行けば友人も幼なじみもいる。
若いながらもビジネスを成功させ、自分を必要としてくれる顧客も抱えている。
未来は希望ばかりではないが、それでも多くの可能性を秘めていた。まして国がなくなるなんて考えてみたこともない。
隆也には彼女の心を察することが出来ても、理解することが出来ても、決して本当の意味でわかることはない。人は言葉を交わし、語り合い、ふれあうことで互いを理解することが出来る。だが理解は出来ても身代わりには絶対なれない。理解することと、それを我が身で実感することの間には大きな隔たりがある。
だから隆也の言葉は軽い。本当の意味で絶望を味わった人間に、平凡な暮らしを送る人間の言葉は響かない。
「エルシィの辛い気持ちは……俺にもわかる、とかそんな無責任なことは言えない。言わない。多分言っちゃいけないんだと思う。だけどエルシィ、王様や王都の人たちは、きっとそんなことを君に望んじゃないだろ? ルナだって……、きっとそうだと思う」
「リュウヤに何がわかる! 国を失った王女など……、いったい何の価値があるというのだ!?」
エルシィの頬に筋をつくって涙がこぼれ落ちた。感情が堰をきってあふれだしたエルシィは、隆也へ叩きつけるように言葉を放つ。
それに反発するように隆也の声も自然と強くなってしまう。
「王女じゃなくなってもエルシィが変わるわけじゃない! 国がなくても、立場が消えても、それでもエルシィはエルシィだ!」
「うるさい! そんなごたくは聞きたくない! 帰るべき故郷もなく、自身を知る者も消え果て、そんな世界に何の意味がある!?」
「帰る場所は自分でこれからつくれば良い! 友人だって、家族だって、この先一生できないってわけじゃない!」
「そんなのは詭弁だ! そんなに簡単な話じゃない!」
「簡単じゃなくても! それでも何もかも投げ出すのは間違っている! 確かにエルシィの辛い気持ちはエルシィにしかわからないだろう。でも、どうして自分がひとりだって決めつけるんだよ。そりゃ、俺はエルシィにとって単なる旅の道案内人かもしれないけど、でもだからって仕事が終わったらハイサヨナラなんて薄情な人間に見えるとでもいうのかよ?」
声のトーンを落とした隆也の問いかけに、エルシィは落ち着きを取りもどす。
「しかしリュウヤは他国の人間だ」
「それがどうした」
「依頼に基づく仕事とはいえ、我が国の事情でこのような事態に巻き込んでしまった。その上、身勝手にも宝珠を託すという迷惑までかけようとしている。これ以上の迷惑はかけられぬ」
「誰が迷惑だと決めつけたんだ」
不機嫌と表現しても言い顔で、隆也がぶっきらぼうに言い放った。
「私はリュウヤの重荷になりたくは無い。足枷になるつもりも無い。リュウヤにはリュウヤの生活があるのだろう。私はきっとその邪魔になる」
「やってみなきゃわからんだろ」
隆也の言葉を聞いて、エルシィは寂しそうな、それでいて安心したような笑顔を浮かべる。
「ふふ……。やはり優しいな、リュウヤは。短い期間だったが、共に旅が出来て良かった。もう良いだろう? 私はここで世界へ消えゆく。本当にすまないが、宝珠のこと、どうか頼む」
あくまでも宝珠を隆也に託して、生きることを諦めようとするエルシィだった。
「ダメだ……」
「この剣は……、報酬としてリュウヤに持って行ってもらうのだから、私の血で汚すのは申し訳ないな。リュウヤが今持っている短剣を、この剣の代わりにもらえないだろうか? リュウヤの短剣と共に私は旅立ちたい」
心穏やかな表情で目を伏せるエルシィ。反対に、それを正面から見つめる隆也の目には強い感情が浮かびつつあった。
すでに使命を達成し、義務からも解放され、生きる意味と意欲を失ったエルシィが求める最後の望みを隆也は頑として拒否し続ける。
「ふざけるな……」
隆也は苦い顔をさらにゆがませて、にらみつけるような視線をエルシィへ向けていた。
その心に浮かぶのは絶望する者へのいたわりではなく、苦しむ者を救いたいと願う慈愛でもない。
明らかな怒りだった。
「リュウヤ、私はもう良いんだ。心残りは無い。それに世界に溶けても死ぬわけでは無い。いずれまたどこかで再び――」
「うるせえ!」
途端に声を荒げた隆也が、エルシィの言葉をさえぎって叫んだ。




