第2話
深く澄み切った青い空。
清々しい草原の香り。
そして頭上に輝く八つの太陽。
「やっぱこっちも暑いなあ……」
胸元のボタンをふたつ外し、小包を手に持って隆也が歩く。
足もとの道は舗装もされていない、ただ踏み固められただけの道。むしろ道と呼ぶのもはばかられるような存在だ。
信号機もなければ車も走っていない。標識は当然のごとく皆無である。道行く人はひとりもおらず。隆也はただひとり、見渡す限りの大草原を孤独に歩いていた。
道なりに進む隆也の目に、青々と茂る木々が映る。木々はいずれも太く、力強さ感じさせながら道に沿って立ち並ぶ。否、正確には道の方が森林に沿って続いている。
隆也の生まれた地球とは異なり、ここでは未だ多くの自然が手付かずで残されていた。というよりも、手を付けられずにいると言った方が正しい。
もちろん地球でも森林には野生の獣という危険が潜んでいるが、ここの森林に潜んでいる危険は地球のそれとは比べものにならない。ここでは人間の方が自然の隙間をぬってひっそりと暮らしているのだ。
「お? 珍しいな。ヨーの群れか。しかも子連れだな」
道から五十メートルほど離れた位置で毛むくじゃらの動物が群れをなしてくつろいでいた。ヨーと呼ばれる草食動物だ。
四つ足で大きさはポニーほどであるが、その最大の特徴は全身を包むヒツジのような巻き毛だ。性格は大人しく、家畜としてもよく飼われている。
非常に臆病であるため、人が通る道の側まで近寄ってくることはほとんど無い。隆也自身も訪れた村で飼育されるヨーしか見たことはなく、野生のヨーを見たのは初めてだった。
「和むねえ。こういうのを牧歌的と言うんだろうか」
多少暑さは気にかかるものの、さえぎる物の少ないこの場所では心地よい風が吹く。流れた汗が蒸発する際、適度に体温を奪っていき、隆也はまるでハイキングでもしているような気持ちで歩いて行く。
そんなときだった。突然ヨー達が立ち上がり、しきりに耳を動かし始めたのは。
「ん?」
不穏な気配を感じ取った隆也がヨーの群れへと視線を向ける。ヨー達は立ち上がったままピクリともせず、全頭が隆也の後方を見つめていた。
「なんだ?」
嫌な予感に包まれつつ、隆也は後ろをふり向く。
草原を構成する一面の草、草、草。隆也の腰辺りまで伸びた草が辺り一面に生い茂っている。そんな緑一色の中に違和感を生じさせる色がちらりと見えた。青い色だ。
緑を表す青々しいという意味の青ではなく、海や空のような澄み切った青である。本来ならば草原で目にすることのない色だった。
「おい……、おいおいおい……」
信じられないといった風に隆也がつぶやく。
『草原で青い色を見たら一目散に逃げるんだ。それはコルと言う肉食獣の色でな。なりは小さいが、ヤツらは集団で獲物を狩る有能なハンターだ。五体のコルに囲まれたら武装した人間が三人。十体のコルに囲まれたら五人はいないと撃退するのが難しい』
同時に、いつぞや酒場で意気投合した狩人が言っていた話が思い出される。
見回せばヨーの群れを挟んで向こう側にも青い色が見えた。ヨーが見ている方向を合わせると、ざっと四体。おそらくそれ以外にも隠れているコルがいる可能性が高い。
隆也は音を立てないように、それでいてコル達を刺激しないようゆっくりと、かつ出来るだけ早足で道を歩き始める。
おそらくコルはヨーの群れを狙っているのだろうが、何かの拍子に狙いが隆也に向く可能性もある。そうなったらおしまいだ。なんせ隆也はひとり旅。おまけに武器となるような物は持っていない。加えて護身術の心得などこれっぽっちもないのだから。
「落ち着け、落ち着いてゆっくりと急いで歩くんだ。走るな。走るなよ」
自分自身へ暗示をかけるように小声で言いながら早足でその場を立ち去ろうとする隆也だったが、そんな彼の努力も結局実ることはなかった。
突然、ヨー達が一斉に走って逃げ始める。
当然、コル達も一斉に駆けだして狩りを開始する。
「ちょおー! マジですかー!」
もはや隆也に周囲の状況を確認する余裕は残されていなかった。
後ろをふり向くことなく、ただ全力で走る。いや全力で逃げ出した。
五分後、息を切らせてほぼ酸欠状態の隆也が向かう先に、人工物が見え始める。丸太を地面に打ちつけ、それを並べて囲んだ土地の内側に簡素な小屋がいくつも建っていた。人の住む村だ。
隆也はほうほうのていで村の入口へと駆け込む。既にその足は走っていると言うより、よろよろとふらついているようにしか見えない。
「お、おい。大丈夫か?」
入口に立っていた男が心配そうに隆也へ声をかける。
男は肩幅の広い大きな体に革製の防具をまとい、手には槍らしき武器を持っていた。屈強そうな体とは対照的に、隆也の心配をするその目には優しさがにじみ出ている。頭の上には短毛につつまれた茶虎模様の大きな耳が乗り、男の動揺を示すようにピクピクとせわしなく動いていた。
なかなか珍しい風体と言えるだろう。
確かに地球でも一部のお店で見かけることができる格好かもしれない。だがそこで見ることが出来るのは可愛い女の子のコスプレ姿だ。少なくともこんなガタイのいいおっさんが猫耳コスプレした姿を目にすることは出来ないはずだ。というか誰もそんなものを望んだりしない。まさに誰得である。
ではこの男はかなり特殊な嗜好を持った人間なのであろうか? 否。彼は単に生まれつき猫耳を持っているだけである。付け耳ではなく、生身の猫耳を。
空高く輝く八つの太陽。
白い巻き毛に覆われたヒツジもどきのヨーと、青い毛皮の肉食獣コル。
そして猫耳標準装備の人間。
ここが地球ではないことを否が応にも物語る。
「お前、以前も見たことがあるな。確か……リュ、……リュー?」
「隆也です」
村にたどり着いてようやく一息ついた隆也は、後ろを見回してコルが追ってきていないことを確認したあと、猫耳門番の疑問を解消する。
「ああ、そうそう。リュウヤだったな。しかしどうしたんだ? そんなに息を切らせて?」
「さっき草原でヨーの群れに遭遇しまして」
「おう、そりゃ珍しい物が見られたな」
「そしたらそこへコルの群れが襲いかかってきまして」
「お、おう……。そりゃあ……、災難だったな……」
そう言って猫耳門番は哀れむような目で隆也を見た。
「生きた心地がしませんでしたよ」
「まあ、でも運が良かったじゃねえか。コルが追ってこなかったってことはヨーの群れでやつらが満足したってことだろうし」
確かにそれは一理あるが、そもそもヨーの群れがいなければコル達が襲ってくることもなかったのではないだろうか?
もっとも、それを口にして男と互いの主張をぶつけたところで何の益もない。
「ええ、まあ……」
隆也は適当に言葉をにごした。
「身を守る武器くらい持っておいたらどうなんだ?」
猫耳門番の言うことももっともである。だがこちらの世界ならともかく、地球へ戻る時に剣やら斧やら刃物を持ち込むわけにはいかない。そんなことをすれば、あっという間に警察のご厄介になるだろう。かと言って移動の度に武器を買ったり捨てたりするのは無駄が多すぎる。
第一武器を持っていたところで、隆也はひとりだ。
「どのみちひとりですから、群れに襲われたら持っていても大して意味ないですよ」
「まあ、そりゃそうだが……」
猫耳門番もそれは分かっているようだった。
「まあそれはいいか。で、今日も仕事か?」
「はい、村長さんから依頼の連絡をもらっているので」
「ああ、そういえばスクリアに納品がどうとか言っていたな」
「多分それです」
「ん、わかった。入って良いぞ。カーソン村へようこそ! 村長ならこの時間は家にいるだろうさ」
「ありがとうございます」
隆也は礼を言うと、地面へ置きっぱなしにしていた小包を抱えて村の中へ進んでいった。
「あれ? いつもよりずいぶん多くないですか?」
カーソンの村長は現役の薬師である。薬草などを原料として、傷や病に効能がある薬を煎じては、スクリア村へ送っている。
スクリア村はこの周辺一帯では最も大きな村だ。交通の要所でもあり、スクリアの村長はかつて行商人でもあったことから、この辺りの交易をとりまとめている。
村長が作る薬はカーソン村にとって大きな現金収入源であり、薬を売って得たお金は村長個人の財産ではなく村の財産として扱われる。もちろん原料収集に村人全員が全面的な協力をしているからこそである。言わばこの村における公共事業的な位置づけといえよう。
「どうも最近は帝都からもスクリアへ買いに来る者がおるらしいんじゃ」
「へえ、帝都からわざわざ?」
村長は齢七十に届こうかという老爺である。穏やかそうな外見通り人が良く、村人からの人望も厚いらしい。
「それでスクリアの村長からも、納品数をもっと増やして欲しいと言われておったんじゃよ」
「そりゃすごい。村長さんの薬がそれだけ人気ってことじゃないですか」
「ほっほっほ。嬉しいことを言ってくれるのう」
照れながら村長がつるつるの頭部を片手でさする。
「でもこれだけの量になると、配達料の方もちょっと多めにもらいますよ?」
「ああ、それはもちろんじゃよ。いつもの倍でどうじゃ?」
「それだけもらえれば文句はありません。で、これで全部ですか?」
意外なほど気前が良い村長の言葉に、隆也は笑顔で荷物の確認へ移る。
「ああ、それとこれじゃ」
背負い袋に入れられた薬とは別に、村長が手のひらよりも少し大きいくらいの包みを差し出してきた。
「これは?」
「病用の薬じゃよ」
「え? ってことはこの中にあるのは?」
目を丸くして隆也が背負い袋に視線を向ける。
「全部傷薬じゃ」
「全部ですか?」
「ああ、全部じゃ。スクリアの村長が言うには、病に効く薬の方は前とほとんど変わらんのに、傷薬ばかりが売れるそうなんじゃ」
「そうですか……、しかしまたずいぶん極端な」
「まあのう。しかしたくさん売れてくれればそれだけ村も潤う。ここのところは皆、傷薬用の薬草集めで連日野山をかけずり回っておってな。疲労で倒れる者や腰を痛める者まで出る始末じゃて」
「それはまた何というか……。本末転倒ですね」
「ほんにのう。ほっほっほ」
背負い袋に一杯の傷薬と手持ちの小包二つを持った隆也はカーソン村を後にする。
「まいったな……、こんな大荷物になるんだったら先にニューヨークへ配達に行くべきだったか」
移動ルートを考えて効率を良くしようという考えが完全に裏目に出ていた。
「ニューヨークのポイントは……。ああ、あそこか」
ポケットから取り出した手帳を開いて隆也はルートを確認する。ポイントというのは地球とこの異世界をつなぐ出入口のことだ。東京の古ぼけた神社にあった大樹もそのひとつである。
隆也には生まれつき人に見えないものが見えていた。
街のところどころに存在するモヤモヤした光。七色に光るそれを、幼い頃は誰もが見えているものだと思っていた。だが物心がつくにつれ、それが自分にしか見えないものだと気付いてからは、自分の異常性を隠すために他言しなくなった。
それから数年。中学生になったある日。たまたま強い光を見つけた時に、興味を抑えきれなくなって触れてみたところ、一瞬にして見知らぬ世界――当初は地球のどこかだと思っていた――へと移動してしまったのだ。
当時の隆也にとって、それは完全に想定外かつ許容範囲を超えた事象だった。パニックを起こしかけた隆也だったが、再びその場で輝きを放つ光に手を触れたところ、いとも簡単に元の場所へ戻ることができた。それはきっと彼にとって何よりの幸運だっただろう。
それから隆也はおそるおそる実験を重ねていった。異世界への移動は何度でも可能で、往復することにも何ら支障はない。また、強い光は街中のいたるところにあり、そのいずれもが異世界へとつながるポイントとなっていた。
実験を進めるうちに面白いことがわかった。
東京にあるポイントから異世界に渡り、異世界のポイントから歩いて数十メートルのところにたまたまあったポイントへ入ってみると、出てきたのはやはり地球だった。だが驚いたのはそこが東京ではなく、フランスのマルセイユだったことだ。
他のポイントでも実験してみた結果、地球上におけるポイント間の距離が異世界におけるポイント間の距離と合致しないことが判明した。
つまり、これを利用すれば異常に短い時間で長距離を移動できるのだ。
東京から異世界に移動し、数十メートル歩いて別のポイントから地球に戻る。そうすると、飛行機で何時間もかかるマルセイユまでの距離をわずか数分で移動可能となる。
「やべえ、俺の未来に諭吉君のマーチングバンドが見える」
地球上のどこに東京とマルセイユを数分で移動できる人間がいるだろう。アメリカ大統領だって伝説のスパイだって出来やしない。
このアドバンテージを利用して商売ができるんじゃないか?
そうして頭をひねらせた結果出てきたのが『異世界経由の宅配業』というわけである。もちろん移動できるのが隆也ひとりである以上、運べる荷物の大きさも手荷物程度の小さな物だけだ。だが、もともと大量に運ぶ必要などどこにもない。言わば完全独占市場なのである。
地球の裏側まで数時間、場所によっては数十分で荷物を届ける。という誰にもまねできない宅配便を、高額報酬と引き替えに請け負えば良いのだ。
当然顧客は一般の民間人ではない。多国間に展開するグローバル企業、国際的な医療機関、あるいは研究機関などだ。
「これは……、いける!」
当時、隆也十三歳。中学二年生であった。
それから半年間、隆也は街をかけずり回る。見つけたポイントに片っ端からアクセスしては、着々と移動ルートを開拓していった。アメリカ、イギリス、ロシア、インド、中国、オーストラリア、ブラジル、フランス……。もちろん全ての国に行けるわけではないし、同じ国でも国土が広ければ複数のポイントを開拓する必要があった。
だが隆也はこれまで十三年の人生において、一度たりと見せることのなかった行動力をここぞとばかりに発揮し、ルート開拓と同時に様々な準備を進めていく。
同級生達が部活動に汗を流している間、顧客開拓のために数々の企業へ飛び込み営業をかけて汗を流した。クラスメート達が試験勉強に頭を悩ませている間、料金体系をどうするかに頭を悩ませた。友人達が学年一の美少女へ熱をあげている間、収支予測を見て嫌らしい笑みを浮かべつつ、別の意味で熱をあげていた。
そうして中学三年の春にようやく準備を終えて、めでたく異世界宅配便を開業したのだ。
当初は『地球発→異世界経由→地球お届け』の宅配便であったが、少しずつ異世界へ慣れるにしたがって、異世界でも仕事を請け負うようになる。『異世界発→地球経由→異世界お届け』の宅配便だ。
さすがに『地球発→異世界お届け』や『異世界発→地球お届け』の便はない。両者の存在を知っているのが隆也だけである以上、荷物を届けようという発想すら浮かぶはずがないからだ。
「さあて、急がないと八時までに終わらないな。やっぱり放課後に三件配達は詰め込みすぎたか……」
手帳をポケットにしまうと、薬を一杯に詰め込んだ背負い袋を揺らしながら、隆也は見渡す限りの草原を歩き始める。
頭上には八つの太陽がさんさんと大地を照らし続けていた。




