第16話
隆也の警告を耳にするまでもなく、ルナは大型獣が自分を狙っていることを理解していた。
獣は本能的に群れの中でもっとも弱い個体を狙う。旅立ち直後ならばきっと隆也が狙われていたはずだ。だがこの短い期間に魔力を使いこなし、驚異的なペースで力をつけていった隆也もすでに弱者ではない。大型獣の目には、わずかながらルナの方が狩りやすい相手と映ったのだろう。
ルナは回避行動に移ろうとする。だがすぐには動かない。ギリギリまで引きつけてから避けなければ、相手に軌道修正の余地を与えてしまうからだ。
突撃してくる大型獣とルナの距離がわずかな時間で詰まっていく。その距離が縮まり、もう軌道を変更できないであろうところまで近付いたタイミングを見計らってルナが動く。一時的に両足へと魔力を集中させたルナは、力強く地面を蹴って横方向へと飛びすさろうとした。
だがここでルナはミスをした。ルナの足もとに広がる地面が、彼女自身の強化された脚力によってえぐられ、力の方向に歪みが生じてしまったのだ。
人間の手によって踏み固められた街道と異なり、自然の大地はやわらかい。それは長い年月をかけて雨が染み、風にさらされ、太陽の熱で水分を飛ばし、ときおり通りかかる野生の獣によって踏み固められる。
だが通常ならルナの力に耐えられる地面も、この時ばかりは事情が違った。大型獣が襲いかかるまでの間、多数の獣があたりを三本足で縦横無尽に走り抜けていたのだ。獣たちが駆け抜けるたびにその強い脚力は自然に固まった大地を削り取り、えぐり、固い地表の上へやわらかい砂の層を作ってしまった。
それは普段なら些細な影響しか与えない変化だ。だが魔力で大幅な強化をされ、普段の数倍となる力がかかる跳躍の踏切足が、力のベクトルを狂わされるには十分な違いだった。 想定通りの勢いを得られず、地を蹴った力が拡散した結果、ルナは大型獣の進路から逃げることに失敗する。
「ルナ!」
エルシィが悲鳴にも似た声をあげる。
普段のルナであれば、きっと地面の状況にも気がついていただろう。そして普段のルナであれば、必要以上の魔力強化など行わず、最低限の強化で攻撃を避けようとしただろう。そうであったならこのような事態は招かなかったはずだ。だが村での一件以来、気もそぞろなルナである。足もとの確認がおろそかになっていたのは否定しようのない事実であった。
倒れこんだルナに向かって大型獣が突進してくる。その横幅は人が手を広げて三人ならんだよりも大きい。少々位置がずれた程度では、避けられないことがルナ自身にも理解できた。
正面から尖った角に貫かれる心配はなくても、このままではその巨体がルナの体をはじき飛ばすのは確実だった。大きさと勢いを考えれば、軽くかすっただけでもルナにとって致命的な一撃となるだろう。
だが既に立ち上がって再び跳躍をする余裕はない。ルナは覚悟を決めて目を閉じ、来るべき衝撃にそなえた、その時である。
「引き寄せろ!」
ルナの耳に、聞き慣れた声が聞こえた。
その瞬間、ルナの体をやわらかく温かい何かが包む。それが何かを考える間もなく、ルナは自分の体がどこかへと引っぱられる感覚を覚える。
それは決して不快なモノではなかった。自分が帰るべき場所、安心できる場所へと誘ってくれる、そんな気がした。引かれるままに体をゆだねてみたい、この温もりに包まれて眠りたいと本能的に感じる安心感があった。
時間にすればほんのわずかな間、気がつけばルナは自分の体に寄り添う温かい存在があることを知る。
「リューヤ……、さん?」
まぶたを開いたルナが目にしたのは、間近にある隆也の顔だった。壊れ物を扱うようにグローブをはめた左手でそっとルナの体を抱き寄せ、その無事を確認した隆也がホッとした表情を見せる。
「間に合って良かった」
「リューヤさんが、私を……?」
「立てる?」
「あ……、はい」
無事を確かめると、隆也はそっと手を緩めてルナを立たせる。
ルナの体を包んでいた温かい気配が離れていく。とっさにルナはその温かさに追いすがりそうになったが、理性がそれを押しとどめた。
「ありがとうございます。助かりました」
「前は俺が危ないところを助けてもらったからな。これでおあいこだ」
そう言ってはにかむ隆也から、ルナはすぐさま視線を外して言葉を返す。
「そ、そうですね。おあいこですね……」
答えながらも、ルナは自分が動揺していることに気づき、それを隠すため大型獣へと険しい視線を向けるのであった。
「グアアァァァァー!」
大型獣がまたも雄叫びをあげる。獲物を仕留めきれなかったうっぷんがそうさせるのか、それとも惜しいところを邪魔した隆也に怒っているのか、大型獣の言葉を理解しない人間には分かるわけもない。
「でも、声が出るってことはどっかに発声器官があるんだよな?」
誰にともなく隆也がつぶやいた。
この異世界でも音は空気を介して伝わっている。であれば、声をあげるためには外気に接する場所へ発声器官がついているだろう。
そして普通に考えれば発声器官というのは顔や頭など、体の前面にあるはずだ。だが一見してそれらしいものは見当たらない。はっきりと見えるのはドリルのような尖った角だけだが、それも先端や下方部に穴や割れ目があるわけでもなく、また大型獣が声をあげるときにも動きは見られなかった。そもそも目すらどこにあるのかがわからない。
「薄く絡みつく網のように……」
隆也はこちらへ突進してくる大型獣の進路上に、無数の小さな魔力を薄く張り巡らせた。
三たび突進してくる大型獣が魔力の網にかかる。その勢いに抵抗するわけでもなく、布のようにふわりと覆い被さった魔力は大型獣に触れて消失する。だが小さな魔力で分割して構成されたそれは、一瞬で消えることはない。あるものは弾かれ、あるものは消え去り、その過程で数多くの情報を隆也へもたらしてくれる。
それは魔力探知の応用だった。広範囲を探知するのではなく、ごく狭い範囲に集中させることで形状を正確に読み取る立体スキャンのような効果を狙ったのだ。
「ああ、なるほど。目はあそこにあるのか……。え? もしかしてあれ口なのか……? 発声器官は……、たぶんこっちだな?」
狙いは成功だった。隆也の魔力探知――便宜上アナライザーと呼ぶ――は、大型獣の隠された生体器官を浮き彫りにした。
針金のような黒い毛皮の下には四つの目があった。それは黒い毛皮で巧妙に隠され、外部からはうかがい知ることが出来ない構造である。その中心部分に見つけたのが発声器官らしき穴だ。おそらく呼吸器官も兼ねているのだろう。規則的にその穴が開いたり閉じたりしていた。
「それで雄叫びがあんなにくぐもった感じになっていたのか」
太くて針金のような固いものとはいえ、無数の毛がその上を覆っているのである。必然的に音は大部分がこもり、拡散してまっすぐ届かない。
「グオォォォーン!」
くぐもった声をあげ、方向転換を終えた大型獣が突進してきた。
「狙うなら、目じゃなくて……」
隆也は向かってくる大型獣の正面に立ち、意識を集中する。
自分の体にある魔力と周囲にある魔力を操作して、小さな弾丸を作り出す。さらにそこへ新たな魔力を覆い被せ、再び圧縮。魔力を加えて圧縮。加えて圧縮――。
高密度の魔力で圧縮された弾丸をあっという間に作り出すと、隆也は片手を前に差し出し、解析して見つけた発声器官に向けて打ち出す。
米粒ほどに圧縮された魔力の塊は、多少の空気抵抗を受けつつも弾かれたように飛んでいった。発声器官をカモフラージュする固い毛の間をぬって、寸分の狂いもなく着弾すると、その穴から体の奥深くへと侵入する。
「爆ぜろ!」
大型獣の体内に侵入した弾丸が、隆也の声と共に爆発した。
「グアァ――――!」
断末魔の叫びもその巨体が爆散する音にかき消され、最後まで響くことはなかった。体内で強力な爆発を起こされた大型獣は、内部をズタズタに破壊されはじけ飛ぶ。バラバラになった血まみれの肉片が周囲に降り注いだ。
「うわ……、グロい……」
その光景を産みだした当の隆也が顔をしかめる。想定していたよりも強い威力に自分でドン引きしていた。いくらしかるべき手順をふまなければ再現しないとは言え、これでは軽々しく『リア充、爆発しろ!』などと言うのも怖い。
「すごいではないか、リュウヤ!」
隆也の元にエルシィが駆け寄ってくる。
だが喜ぶのはまだ早かった。大型獣を倒して一息ついたのも束の間、隆也たちの周囲は大型獣と戦闘に突入する前の四倍に匹敵する獣で囲まれていた。しかもその数は時間とともに増えているようだった。どうやら大型獣に援軍がやってくるまでの時間を稼がれてしまったらしい。
「きりが無い……」
なまじ広範囲の魔力探知ができるだけに、隆也は状況の悪化を肌で感じてしまう。
「エルシィ様、迎え撃つにしても場所を変えた方が良いかと」
エルシィに続いて駆けつけたアルフが言う。
大型獣によって周囲の木々は倒されてしまい、視界をさえぎるものがほとんど無くなっている。確かに獣たちは障害物となる木々を苦にすることもなく襲いかかって来たが、それでも全く意に介さないわけではないだろう。加えて倒木は隆也たちにとっても動きを阻害する障害となってしまう。この場で戦うのはデメリットの方が大きい。
「よし、再び獣が襲いかかってくる前に、少しでもこちらが動きやすい場所へ移動しよう」
エルシィを先頭にした隆也たちは、警戒を続けながら移動を開始した。当然その動きは相手にも筒抜けである。隆也たちの動きを妨害するかのように、獣たちの波状攻撃がくりだされた。
大型獣と戦う前に対処法は確立していたため、迎撃自体はそれほど困難ではない。隆也の魔力で足を絡め取り、動きの鈍った獣をエルシィとアルフが切り捨てていく。
だがいくら撃退を続けても、襲いかかる獣が減ることはなかった。いったいどこから現れるのかと思うほど、獣はいつまでも襲いかかってくる。五体倒せば六体が、十体倒せば十二体が、隆也の魔力探査範囲外から現れてくる。
「このままではじり貧だ……」
終わりのない戦いで、エルシィの声にも疲れがにじみ出ていた。
一体どれくらい戦い続けているのだろうか。既に日は傾きかけ、空も色づき始めていた。
アルフやルナの顔にも焦りが浮かんでいる。このまま日が暮れても襲撃は続くのだろうか、そして一体あとどれくらい戦えばこの場を切り抜けられるのだろうかと。
人並み以上の体力や魔力があったとしても、永遠に戦い続けられるわけではない。物量で絶え間なく押し切られれば、いつか不覚をとることになるだろう。そしてその結果がもたらすものは――。
誰もが口をつぐみ、そんな空気が流れる中で隆也が意外なことを言った。
「いや、ツイてるかもしれない」
「この状況のどこをどう見たら、そんなセリフが出てくる!」
反射的にアルフが怒鳴る。
「あそこを見て」
アルフの反応にも顔色を変えず、隆也がある一点を指し示す。
そして全員が『そこにあるもの』に気づいた。それは形のある物体ではない。傾き始めた太陽の光を傍目に、キラキラと輝く虹色のモヤ、隆也が異世界に来るきっかけとなった魔力の澱み。そう、地球へとつながるポイントである。
それを見てエルシィたち三人の目にも生気が戻る。ポイントで向こうへ行ってしまいさえすれば、追っ手はやってこないだろう。
隆也と接触せず、エルシィたちだけでポイントに触れても移動できないことは既に検証済みである。百パーセント安全とは言えないが、おそらく振り切ることは可能だ。
「よし! 合図をしたら各々牽制の一撃を入れて、ポイントまで走るぞ」
指示を出すエルシィの声も心なしか力が入る。
「今だ!」
隆也たちはエルシィの合図と共に、それぞれの方法で獣を牽制する。
エルシィとアルフはこれ見よがしに剣を振り、ルナは魔力で衝撃波を飛ばす。隆也は足に絡まる魔力を最も数の多い集団へと放った。
攻撃の波が収まったところで、隆也たちは一斉にポイントへ向けて走り出した。アルフが立ちはだかる獣をいなし、隆也やルナが横から来る獣を足止めして振り切る。
ポイントまであと少し。既に前方から向かってくる獣はもう居ない。
「エルシィ様、前へ!」
アルフがエルシィの後ろへ回り、殿をつとめる。
「リュウヤ! すぐに向こうへ移動できるか!?」
「触れていればすぐにでも!」
最初にポイントへ到着したのはエルシィ。間を置かずしてルナが、そして隆也が追いつく。すぐさま隆也は魔力の澱みへ手をそえて、いつでも触れられるようにする。その横ではエルシィとルナが片手を隆也の体にそえた。
「アルフさんは……!」
隆也が振り向くと、十体以上の獣に追いかけられながらアルフが走り寄ってくる。おそらくエルシィたちの安全を確保するために、走る速度を落とし、追いすがる獣に牽制を入れながら食い止めていたのだろう。
「アルフ! 急げ!」
エルシィの声を聞き、アルフは全力でこちらへと向かってくる。追いすがる獣は今にもアルフを捕らえそうだ。
エルシィとルナが獣たちに魔力の衝撃波を放ち、アルフを援護する。衝撃を弾いてわずかに獣が身じろぎするが、勢いは止まらない。
「進路上の地面を狙え!」
隆也の指示に従って、ふたりは獣を直接狙うのではなく、その進路にあたる地面を衝撃波でえぐる。何体かの獣が突然くぼんだ足場にバランスを崩し、後続を巻き込んで転倒した。
「あと少し!」
隆也が手を伸ばす。アルフさえたどり着けばあとは地球へ転移するだけだ。
アルフも走りながら手を伸ばすが、まだ届く距離ではない。獣たちは今にもアルフに飛びかかりそうだ。
「もう少しだ! もう少し、あとちょっと…………そこだ、跳べっ!」
隆也の合図でアルフが地を蹴って体を前方へ投げ出す。伸ばされた手が隆也の手へと触れた瞬間、隆也はしっかりとその手を握り、反対の手をすぐさま魔力の澱みへと突っ込んだ。
次の瞬間、隆也の視界が霧に包まれたように霞み始める。薄れる視界の中、獣たちがその鋭い角を隆也たちに突き刺そうと群がってくるのが見えたが、その光景も白く塗りつぶされるように消えていった。
2021/04/04 誤字修正 自体は招かなかった → 事態は招かなかった
※誤字報告ありがとうございます。




