第1話
「あ、じゃあここにサインもらえますか? ……はい、確かに」
「今回も助かったよ。時森さんの配達は相変わらず早いねえ」
「これがうちの売りですからね。じゃあこれで。今後とも時森配送をごひいきに!」
「ああ、また急ぎの時は頼むよ」
どこかの大学にある研究室だろう。部屋の中には盛大な音を立てて冷却ファンを回すコンピュータや、机の上に所狭しと並べられた書類、それとは対照的に緻密なまでの整然さで棚へ並べられたビーカーやフラスコなどが見える。
部屋の中にいるのは人数にすればわずかと言える程度。いずれも自分の作業に集中しているため、不自然なほどの静寂が室内を支配していた。
作業着に身を包み、帽子をかぶった細身の男は、相手の中年男性に小包を手渡すと、頭を下げてそそくさと部屋を出る。どうも部屋の雰囲気に居心地の悪さを感じたらしい。
妙な緊張感が漂う部屋から解放されたからか、それともひと仕事終えた達成感からか、『時森さん』と呼ばれていた男は安堵の息をつくと、廊下を歩きながら手帳を取り出して次の予定を確認する。
「えっと、今日はあと二件か。東京からニューヨークへが一件と、カーソン村からスクリア村へが一件か。ニューヨークはともかくとしてスクリア村は面倒だな……。晩ご飯までに終わればいいけど」
誰に言うでもなくつぶやきながら建物を出ると、中庭では各々ファッションセンスの赴くままに身を彩った若い男女達が日陰でくつろいでいる。
それらと比べて見ると、『時森さん』と呼ばれた男はいささか若い印象を与えた。それは決して錯覚ではない。事実、彼の年齢は周囲の男女よりも下である。
若いと言うよりむしろ若すぎると言う方が正しいだろう。ツバ付きの帽子で隠れたその顔は、まだ成長の余地を残した少年と言っても良いくらいだった。
浮き世離れした感のある中庭を抜け、入口の警備員へ退出のあいさつをすませると、少年は敷地の外へと歩いて出て行く。
車に乗るでもなく、バイクにまたがるでもなく、宅配業者のドライバーとは思えないほど身軽な『手ぶら』で歩いていく少年。
その少年の持つ端末が唐突に着信音を奏でる。メールの着信を知らせる音だった。
少年は立ち止まってウエストポーチから端末を取り出すと、届いたメールに目を通す。
送信者:魅惑の美女亜美っち♪
宛先:隆也
件名:こんばんの、お・か・ず♪
本文:豚ロースが特売でいつもより三割引きだったから、今晩のメニューは隆也の好きな豚の生姜焼きだよー。
豚の顔文字混じりで送られてきた本文の最後は、ウインクする顔文字で締めくくられていた。
内容を確認して端末をポーチにしまおうとした少年――メールの宛先からして隆也と呼ばれているらしい男――は、再びの着信音に手を止めて端末へ目を向ける。
送信者:魅惑の美女亜美っち♪
宛先:隆也
件名:追伸
本文:あ、そうそう。休み明けには試験があるんだし、あんまりぶらぶらしないで早く帰りなさいよ。うかうかしていたらあっという間に置いてかれるんだからね! わかんないところは教えてあげるから、少しは試験勉強しておきなさいよ。
今度は悩ましげな猫の顔文字が並んだメールだった。
それを見た少年は、無表情に端末を操作して返信を打ち込む。
送信者:隆也
宛先:魅惑の美女亜美っち♪
件名:無題
本文:わかった
メールを送信して再び歩き始めた少年だったが、ものの数秒も経たずに足を止めることになる。三度鳴り始めた今度の着信音は、メールではなく通話を知らせるものだ。
「もしも――」
「ちょっと隆也! 何よあの返信は! 四文字ってひどくない!? 四文字って!」
応対した少年の第一声をさえぎるように、甲高い女の子の声が耳を貫いた。
「せっかく隆也の好きな豚の生姜焼きにしたんだから、もうちょっと喜びの声とかないわけ!? 『ヒャッホー! ナイス亜美! さすが大人の女はひと味違うぜぃ!』くらい言ってくれても良いんじゃないの!?」
まくし立てる電話の声にも動じることなく、隆也と呼ばれた少年はすまし顔で応対する。
「俺がメール嫌いなの知っているだろ? 返事しただけでも俺にしては上出来じゃないか。っていうか電話してくるくらいなら最初から電話して来いよ。二度手間だろうが」
「もしかしたら電車の中とかお店の中かもしれないと思って、隆也を思いやった私の気配りを踏みにじるその発言はギルティ!」
「あと亜美。お前また勝手に俺の端末いじっただろ? なんだよこのアドレス帳に登録された名前?」
「えー? だって名前だけだと味気ないじゃない。ちなみに私の端末に登録してある隆也の名前、教えてあげよっか?」
「べつに」
「うわっ、一文字減った! 幼なじみに対してちょっとあんた冷たくない!? 今日の生姜焼き、隆也のだけ生姜抜きにするわよ!」
それじゃ生姜焼きじゃなくて照り焼きだっての、と心の中で突っ込みを入れながらも、隆也は言葉を飲み込む。自棄になって実行されてはたまらないからだ。
補給線を握られた者の立場はいつの時代も弱い。
「仕事の途中だからもう切るぞ」
「え、バイト中だったの? ごめん!」
「まあ、今は周りに誰も居ないから別に良いけど、このあと二件配達があるからあんまり時間ねえんだよ」
「うん、わかった。帰りの時間どれくらいになりそう?」
「うーん……」
隆也は唸りながら頭の中でシミュレートをする。
ニューヨークは良いんだが、もう一件がなあ、と心中でつぶやきながら。
「八時……、くらいには終わると思う」
「わかった、じゃあ八時半くらいにあわせて準備しとくね」
「悪いな」
「じゃあまた後で」
「ああ、後で」
電話を切って、ティスプレイに映し出されたデジタル時計を見る。現在時刻を確認すると、隆也は眉をしかめて先ほど自分が口にした言葉を悔やんだ。
「八時までに終わるかなあ……?」
ジリジリと焼け付く日差しを受け、こめかみから流れた汗が頬を伝って地面に小さな染みを作る。早回し再生のようにみるみる乾いていくその様子は、この国に夏本番がやってきたことを告げていた。
三十分後。隆也の姿はオフィス街にあった。
一部上場の大企業。テレビCMでもおなじみの社名を掲げたビルから手荷物を持って出てきた隆也は、乗り物に乗るでもなく、徒歩で街中を歩いて行く。やがて人通りの途切れた場所へたどり着くと、裏路地を歩き、時代から取り残されている古びた神社へと足を踏み入れた。
ボロボロで手入れもろくにされていないお社の横を通りすぎ、裏手へとまっすぐ進む。
そこにはあるのは一本の大樹。大人三人が手をつないでようやく一回りできるような太さの幹が、古木の積み重ねた年月を物語る。
隆也は迷いもなく大樹の側まで歩み寄ると、そこにある何かを確認するように視線を落とす。そしてかすかにうなずくと荷物を持ったまましゃがみ込み、片手を地面に差し出した。
次の瞬間、隆也の姿が蜃気楼のようにゆがみはじめる。
湯気が立ち上るように周囲の空間にひずみが生じ、隆也の立つ位置にテレビ画面のノイズを思わせる線が無数に走った。
ひさしから水滴が地に落ちるほどの短い時間を経て、何事もなかったかのように異変が収束する。
そこに数秒前までいたはずの隆也の姿は無くなっていた。