10:★もうひとつの抗(あらが)う力
「――こっちに来る!」
アークリートは双眼鏡を外し、ヒュリケスの町がある方向に目を凝らした。
鳶色の瞳に映るのは、乾いた土色の大地と目に痛いほどの青い空。二色に塗り分けられた風景の中を、一頭の馬が駆けてくるのが見えた。
黒い馬の背には、小さな人影が二つ見えた。
細く小さな少年と少女が乗っている。
いや――。
馬に乗っているというよりは、振り落とされまいと必死でしがみ付いている、と言ったほうが正確だろうか。
――なんだ……ありゃ?
アークリートは思わず唖然として思わず小さな声を上げた。
黒髪の少年が手綱を握り、赤毛の少女を後ろから抱きかかえているのだが、その様子は馬に乗り慣れていないか、あるいは――考えられないことだが――馬に乗ったことが無いかのような実に危なっかしい有様だ。
交通の要衝であったこの地方では、移動手段といえば馬が一般的で、男ならば小さい頃から乗れて当たり前であるはずだ。
けれど黒髪の少年は半ばパニックのような状態で目を白黒させて、ひたすら馬を暴走させている。あのままではいずれ落馬するか、馬の脚が岩場で折れてしまうかもしれない。
問題はそれだけではない。
見慣れない異人の少年と少女を追うかのように、二匹の「狼人間」が、左右から全力疾走で挟み込むように追っていた。
全身肌色で首から上だけがオオカミという、目を背けたくなるような悪夢の化け物は、美しいとさえ思える華麗なランニングフォームで猛然と走っていた。
その速さは尋常ではなく暴走する馬に追いつかんとする勢いだ。明らかに二匹の半獣人は、目の前の獲物を狩ろうというのだ。
「ちっ……!」
助けなくては! と、アークリートは背中に背負った巨大な弓――攻城弩砲――に手をかけたところで、躊躇う。
自分には敵のアジトを見つけ出して仲間を助け、あるいはダメならば「一矢酬いる」という目的がある。
ここで無駄に戦えば、仲間が死を賭して見出した連中に対抗しうる唯一の手段、PDB――毒化ドロップス弾頭――を失うだけでなく、下手をすれば命を危険に晒すことになる。
そもそも、あんな見ず知らずの弱弱しい少年と少女を助けたところで、この先、過酷なこの世界で生きていくことなど出来るのか……と、そんな考えが脳裏をかすめたからだ。
『……狙いが……つけられな……!』
『……キラ……!』
蹄の音とともに、少年と少女の悲鳴が風に乗って聞こえてきた。
馬は暴走しているが、意外にも冷静にこちらの森を目指しているようだ。となれば、自分が今潜んでいる「森の入り口」ともいえる枯れ沢を目指すのは間違いない。
遠目には丁度、森が口をあけている切れ目のように見えるからだ。。
アークリートと馬の距離は既に200メートルを切っている。迷っている暇は、もう無かった。
「ええい……ッ!」
アークリートは計算や打算よりも、己の直感を信じて動く事でここまで生き抜いてきたと言っていい。
茂みから飛び出した傭兵の少女は、背中から全長1メートルを越える巨大な石弓を取り外すと、二本の脚を引っ張り出して地面に置いた。そして金属製の取っ手を引き出して、ガリガリと猛烈に回転させて「弦」を引き絞った。
ギリギリ……ギギギ、と軋み音を立てて、巨大な弓である「攻城弩砲」に運動エネルギーが蓄積されてゆく。
相手との距離、速度を考えると、最大パワーで矢を放っては身体を突き抜けてしまう。
いかな「偉大なる種族」と言えども、身体の強度自体はさほど変わらない。
対抗手段たりえるPDBを装着した矢尻は、あの化け物の心臓か頭の付近に矢を突き刺しPDBを留めなくては、充分な効果は期待できないのだ。
「パワー7割……、ここか!」
アークリートは青い髪を振り払うと、地面に片ひざをつき、ガシャリと攻城弩砲を水平に構えた。
冴えた月光のような輝きを放つ張り詰めた弦に、背中の矢筒から取り出した金属製の矢を静かにセットする。
先端の鋭く尖った矢尻の中央には、赤い宝石が輝いていた。
偉大なる種族の生み出した元凶ともいえる「ドロップス」を、ある方法で変質させ造り出した対「偉大なる種族」用の物質、それがPDBだ。
――狙いは……左翼の狼人間。
方目をつぶり、呼吸を落ち着かせ、照準を慎重に合わせる。
幸い、馬はまっすぐこちらを目指している。
距離は120メートル。
疾駆する馬の真横といっていい位置、左右10メートルほどの距離を置いて二匹の狼人間が併走している。
風が、凪いだ。
「――射ッ!」
カシュッ……! 拍子抜けするほどに軽い音と共に、矢が放たれた。
ヒュゥウウッ! と風を切る音を残して、矢は吸い込まれるように狼人間の胸に深々と突き刺さった。
『ガアッ!?』
衝撃で後方に吹き飛ぶのが見えた。貫通は……していない。
だが。全身筋肉質の全裸男--オオカミの頭を被っているとでも言うべき狼人間--は、矢の威力で吹き飛ばされながらも、両足で地面を踏ん張って猛烈な砂埃を巻き上げつつも、体勢を立て直すと再び走り始めた。
「効かない……の!?」
胸には1メートルはあろうかという長い矢が刺さったまま、華麗なフォームで再び走る速度を上げる。
『グェハハハ! こんなもの……効か――――』
オオカミ人間が、耳まで裂けた真赤な口を開け、あざ笑った瞬間。
身体の中央分、矢が突き刺さった部分が静かに色をなくし始めた。身体が白くなり、ひび割れ砂のように崩れてゆく。
「効いた!?」
『お、ゴァアおおグァアアア!?』
上半身は悲鳴を残しながら砂と化して消滅したが、下半身はそれでも走り続けてる。だがそれもせいぜい2秒。下半身は斜め方向に向きを変えると、すっ転んで転倒、盛大な白い砂の爆発が起こった。
「っしゃぁ!」
アークリートが思わずガッツボーズをとる。
馬は既に、背中の二人が驚く顔さえも見える距離まで近づいていた。黒髪の少年と赤毛の少女は、やはり村から逃げ来た奴隷のようだった。
アークリートは手を振って叫ぶ。
「森の奥へ逃げ込め!」
「は、はい!」
素直に嬉しそうな声。そんな少年と少女の姿に、思わず故郷の弟と妹を思い出すが、今はそんな感慨に耽っている暇はなかった。
『逃がさんッガゥウァアア!』
仲間を失ったもう一匹が怒り狂い馬に飛び掛った。ヒヒィン! と馬は嘶き後ろ足で蹴り倒すと何とか逃げおおせた。
アークリートはその様子を確認し、安堵しつつも攻城弩砲の次弾装填の手を休めていなかった。
ガリガリとレバーを猛烈に回し、弓を引き絞る。
だが、狼人間が今度はアークリートに狙いを変えたらしく、前傾姿勢で走りこんできた。
「やばっ!?」
――間に合わない!
アークリートは、攻城弩砲を放り投げると、腰に下げていた短剣を抜き払った。
『ンーッ! そっちのほうから……美味そうなメスの匂いがスルゥウウウウッ!』
接近戦では勝ち目がないのは嫌と言うほど目にしてきた。
屈強な傭兵の男達が、一瞬で胴体を切り裂かれ、真っ二つにされた光景が自分と重なる。
けれど自分を奮い立たせるがごとく、叫ぶ。
「っ来おおい! この……化け物がぁああッ!」
『いったらきマァアアアシ!』
狼人間が、欲望剥き出しの全裸で飛び掛った。
陽光が丸出しの下半身に黒い影を落とした、その時。
「避けて! おねえさんッ!」
「はッ!?」
背後からの叫び声は、森に逃げ込んだはずの少年のものだった。
なぜ!? と思う間もなくアークリートは髪をなびかせながら真横に跳ねた。
だが、ということはつまり――。
背後の少年が危険に晒される……ということ!
「――くっそぉおおおお!?」
何故戻って気やがった!? と叫びそうになるが、アークリートが見たもの――。それは、ボッ……! と、狼人間の身体が空中でまるで風船のよう膨らんだかと思うと爆裂し、肉片と血を撒き散らす光景だった。
「な、なななな、なあっ!?」
ザァ! と森の中に血の雨が降る。
緑の葉に赤いしぶきがぶつかって音を立てる。
アークリートはその場にへたり込んだ。
「大丈夫……ですか? お姉……さん」
赤い血で辺りが染まる中、あまりにも普通すぎる声に、アークリートの背筋にゾクリと怖気がはしった。
アークリートは慌てて立ち上がると、警戒心も露に険しい表情で短剣を少年へと差し向けた。
「お前は……何者だ、一体……何をした!?」
<つづく>




